食事の時間にセンクウの姿が見えないので、「またか」と卍丸たちは顔を見合わせた。 頻繁にあることだから「また」と思うのではない。 「俺が見てくる」 卍丸はそう言って食堂を出、センクウの部屋に向かった。 ノックしても返事がなく、鍵はかかっていないので覗いてみると、案の定、ベッドの上に端然と結跏趺座して、瞑想状態にある姿が見えた。 (またこんなことしてやがんのか) 卍丸は呆れて頭を掻く。 体調が悪くなると、いつもこれだ、と。
原因はおそらく、一昨日の台風。 夜中に関東へ上陸した台風は近年稀に見る大型だった。 その豪雨と暴風の最中、センクウはどうやら温室の補修に当たっていたらしいのである。 自分たちに声をかければいくらでも手伝ってやるというのに、夜中だからと遠慮したのか、結局朝までかかって、一人でやっていたと思われる。 昨日の時点で、食事の量がやけに少なかったようなので、もしや、と思ってみれば、今日は本格的に断食に入っている。
「おーい。飯」 一応呼んでみるが、反応すらない。 具合が悪い時には山盛り食ってたっぷり寝る、という卍丸からしてみれば、まるで分からない健康法である。 (だいたい、ホントにできるのか?) 自律神経に働きかけて、胃腸、心肺、全ての機能をある程度自分の意識下におくという。 それで、異常のある器官をコントロールし、疲れているなら休ませ、狂っているリズムなら整える。 そういう時、体の中に異物があると、その消化・吸収にエネルギーを浪費するから、何も食べないのだと本人は言う。 しかし、そもそも体を動かしているエネルギーは、その食物からとっていくものだ。ガス欠のエンジンを、いかにゆっくりではあれ無理やり回しているようなこの状態は、あまりいいものではないと、卍丸たちは思っている。
もう少し待ってみたが、やはり反応はない。 完全にトランス状態に入っているらしく、気配さえ途絶えている。 (駄目だな、こりゃ) 諦めて、卍丸は食堂に戻っていった。
そして、五日。 五日が過ぎて、とうとう影慶がキれた。 丸五日間も何も食わず水やお茶だけで過ごして、その上、授業にはしっかり加わっているのである。 それこそまるで平然と、なんでもないような顔をして。 食っていないことを知っているからこそ、影慶たちは「まだ治らんのか」と分かるが、他の同輩から見ればなんの異常も見当たらないことだろう。 センクウがつい零してしまった咳一つ。 それで影慶は、もう黙っていられなくなったらしい。 「来い」 ランニング中だったというのに、強引に引きずって列を離れ、あとの指揮は羅刹に任せて、グラウンドから出て行ってしまう。 「おい、なんなんだ」 「黙れ」 「影慶」 「いいから黙れ」 わけが分かっていないのか、抗おうとはしないセンクウを引き連れてそのまま、校舎ではなく宿舎に戻る。 「おい、影慶」 「今日からまずは三日、自室で謹慎してろ。授業には一切出るな。外出も禁止だ」 「おい」 「この馬鹿が」 建物の中に入って立ち止まり、振り返ると真正面から睨む。 「いいか? それがおまえの健康法だというなら、とりあえずは何も言わん。だがな、五日もやってて回復の兆しが見えんなら、それは今回、有効ではないということだ。どうせ」 言って、影慶はこれまでセンクウの手を掴んでいた右手ではなく、左手でその腕を掴んだ。 異様に高い体温が分かる。 「案の定だ。おまえがたった十キロやそこら走って、こうなるとは思えん」 「なに言ってるんだ。たしかに、未だに少し調子は悪いが、だからいつものようには体温の調整が効かないだけで……」 「黙れ。これは俺の命令だ。死天王支配として、センクウ、おまえに三日間の謹慎を命じる。理由は、死天王の一員としてはあるまじきことに、己の健康管理が不十分であること。このことが改善される様子が見られないかぎり、謹慎処分は随時、続行処置をとる」 「影慶。なにをそんなに」 情けない声を出すセンクウに、影慶は頑として譲らず、立ちはだかる。 その背後から、笑う声が聞こえた。
「邪鬼様」 「困らせられておるな、影慶よ」 「お戻りでしたか。塾長代行のお勤め、ご苦労様でした」 振り返り、姿勢を正し一礼する影慶に、邪鬼は頷いて答える。 「もしや、お休みのところをお邪魔でしたでしょうか。つい声を荒げてしまいましたが」 「ここから三階にまで聞こえるわけがなかろう。今戻ったところだ。寝る前に食事を済ませてしまおうと思って、そこにおった」 視線で、すぐそこに見える共同食堂を示す。 「センクウ。影慶の命令では納得がいかんというならば、この俺からも命じる」 「邪鬼様まで。何故そうも大事と思われますか。私は」 「この邪鬼の命に背くか?」 言いながら、邪鬼はただ苦笑する。 威圧されれば反感も生まれようが、これには叶わない。 「しかし……」 とだけ言って、センクウは黙った。 「今のおまえは慣性で動いているだけだ。いつもはそれで、また元のように自走しはじめようが、今回ばかりは、そうなる前に慣性のほうが失われる。予言しても良い。影慶。連れて行け」 「はっ。ほら、来るんだ」
そうして影慶に連行されて自室に押し込められたセンクウは、翌日、邪鬼の予言がものの見事に的中したことを知った。 目が覚めてみれば、体が動かないのである。 ベッドの中に沈んでいきそうで、息さえ苦しい。 目を閉じているにも関わらず世界が縦横無尽に回転していて、その浮遊感が心地好いような、気持ち悪いような。 (無理やりやめさせるから……) そうでなければ、今日も普通に過ごせただろうに。 そう思ってはみるが、ものを考えるのも億劫である。 誰かが部屋に入ってきていることにすらずいぶん気付かないままで、無論、鬼の首でもとったかのような影慶の小言など、聞こえていない。
「だから言っただろうが」 おとなしくしているかどうか、とセンクウの様子を見に来て、影慶の第一声目はそれだった。 部屋に入った途端、独特の熱気のようなものに包まれて、いきなりその一言である。 窓を開けて空気を入れ替えながら、苦しそうに息をしているセンクウを見やる。 「そうまでひどいのをおまえは無理やり誤魔化しているだけだ。これに懲りたら少しくらいは方法の改善に努めろ。だいたい、いったい何処でそんなわけの分からん療法を教えられたんだ。具合が悪い時には、普通は食欲がなくてもせめて粥だけでも、とか言うだろう。断食なんていうのは、体が健康な時に充分な準備をしてからやってこそ、初めてなんらかの益になるんであって……、おい、センクウ?」 まるで反応がないのを訝り、顔にまで引き上げてある毛布をめくる。 「え……? あ、影慶、か……」 どうやら、聞こえてすらいなかったらしい。 それほどまいっているとなれば、説教は後である。 左手を首筋に近づけると、汗ばんだ肌から、触れる前にすら体温が届いてくる。 触れてみれば、とんでもない熱だ。 「……さすがにこれで動くとは言わんだろうが、おとなしくしてろ。タオルは何処だ」 「えーと……」 「…………」 「棚の、一番下、かな……?」 「もういい」 日用品の在り処すらとっさに思い出せないのだから、重症だ。 影慶は適当にそれらしい場所をあさって、結局、洋服箪笥の下から二番目の引出しの中に、洗面用のタオルを見つけた。 適当に水で濡らして搾り、額の上に置いてやる。 「あ……、すまん」 「いいから寝てろ」 こんなタオルくらいでは間に合いそうもない。 影慶はいったんセンクウの部屋を出て、医務室に向かった。 「よう、影慶。どうした」 廊下で卍丸と行き会う。 あれこれ説明するのも面倒なくらい呆れて、ただ首を横に振り、センクウの部屋を見やった。 「なんだ、本気でくたばってるのか。よっしゃ。ここは俺も様子見に行ってやるか」 「見に行くのはいいが、枕もとであれこれ騒ぐなよ」 「信用ねえな」 ぼやきながら、卍丸が歩いていく。 (体温計と、氷枕か何かも必要だろうし、あとは栄養剤の一本でも打ってやらねばな。それから解熱剤か。飲み薬は……何か食わせてからだが、あの分ではな) 必要なものを頭の中で整理することに専念しすぎたせいか、 「あっ」 角を曲がった途端、人にぶつかった。 「すまん」 見れば、羅刹である。 お互い、普通ならばぶつかることなどない者同士。羅刹もまた何かに気をとられていたらしい。 「いや、俺も不注意だった。それにしても、どうした。そんな急ぎ足で」 「ああ。案の定センクウの奴が動けなくなってるんでな。そうだ、羅刹。おまえもついていてやってくれんか? 卍丸が行ってるんだが、どうも」 「あ、ああ」 (……ふむ) 影慶は羅刹の反応に妙な動揺を感じ取って、去っていく背中を見送る。 (やはり、何かあったようだが……) そもそも、自分がこんなふうに動くことは、まずないのである。
役割分担と言ってしまうと語弊はあるが、あれこれと節度だの常識だのについて口うるさく言うのは、羅刹の役どころである。 いつもなら真っ先に小言を言い始めていそうなところを、何故か今回は何も言わない。 今回と言わず、ここしばらくの間、やけに様子がおかしいのだ。 もちろんそれは影慶の目だからこそ見えることで、他に気付いている者があったとすれば、やはり死天王の内だけだろう。 センクウに対して一歩引いたようなところがあるのは、否めない。 何か言おうとして取りやめたり、話していても反応がよそよそしかったり、それでいて、必要以上に気にしている。 一方のセンクウは、そのことに気付いていないわけもないだろうに、いたって平然としているのだ。あれ? とも思っていないくらいの振る舞いようで、だからこそ、あえて平常通りに応じているようにも見える。 (何かあったんだろうが……、まあいい) あれこれ追及しても仕方がない。 目先のことから片付けていくのが、賢明というものだ。
必要と思われるものを一通り揃えて、センクウの部屋に戻るなり。 「少しは常識というものを考えたらどうだ!?」 ドアの前で、羅刹の怒鳴り声が聞こえた。 何かと思った影慶が慌てて飛び込むと、怒鳴られているのは卍丸で、その手には、使い捨てカメラ。 「ほんの冗談じゃねえか。何をそんなに」 「冗談でしていいことと悪いことの区別もつかんのか!」 「あのなあ! 俺だって本人が嫌がるならさっさと引っ込めるさ! センクウだってノッてきてるじゃねえか!」 どうやら、病気になった記念撮影を、などと卍丸がふざけたのだろう。 影慶は呆れて嘆息する。 たしかに褒められたことではないが、写される本人が嫌がるのをからかって遊ぶならばともかく、そう目くじらを立てることでもない。 注意くらいはしたほうがいいとしても、怒鳴るほどのことはない悪戯だ。 それなのに怒鳴りつけられて、卍丸もカッとなっているらしい。 しかし、ここは病人の部屋で、その病人本人はと言えば、二人の大声に頭痛でも覚えるのか、本当につらそうな顔をしている。 それでも影慶と目が合うと、困ったな、というように笑った。 「いい加減にしろ」 影慶は問答無用で二人の肩を掴み、力任せに左右へと引き離す。 血が昇っている羅刹と卍丸はそれぞれに影慶を睨んだが、感情を廃して睨み返してくる影慶に、さすがに頭が冷えたようだ。 「ここを何処だと思ってる。静かにしていられんのなら、出て行け」 ドアを指差す。 さすがに二人とも、萎れたように静かになった。
「まったく、いい年をして何が本当にまずいかも分からんのか」 用意してきた氷枕と、普通の枕を取り替えてやって、影慶はもうすっかりぬるくなったタオルで、センクウの顔や首筋に溜まる汗を拭ってやる。 それから、椅子をテーブルの下からベッドサイドに寄せ、腰掛けた。 怪我など日常茶飯事という場所であるから、三号生宿舎の医務室には、一通りの医療用具も揃っているし、心得のあるものは、簡単な外傷の手術くらいはできる。 影慶が持ってきた使い捨ての注射器と栄養剤も、そのいった応急処置用具の一つとして常備されているものだ。 「ほら」 薬液を吸い上げるだけ吸い上げて、影慶は羅刹を振り返る。 毒に染めた右手は、ほとんど感覚がない。日常生活には全く支障ないが、細かな加減を要する作業はできないのだ。 卍丸は性格からして細かなことが好きではないし、どうしても自分がする他ない、という事態にならないかぎり、手は出さない。 だからこの場合、羅刹に打たせるのだが。 受け取らないのだ。 「羅刹」 呼ぶと手にとるが、その手がどうもぎこちない。 (何があったというんだ) 別に険悪な雰囲気ではないが、羅刹はセンクウを意識しすぎだ。 そんな手に任せるのもどうだろうか、と卍丸を見ると、大袈裟にそっぽを向かれる。 センクウに自分で打たせることもできないでもないが、やはり不安だ。
「やはりこうなったか」 その時、ドアのほうから邪鬼の声が聞こえて、全員が一斉にそちらを見た。 持て余すほどの長身をかがめてドアをくぐり、邪鬼が入ってくる。 そう狭い部屋でもないが、さすがに四人もの男がフロアにいるとなると、ずいぶんと窮屈な光景になった。 「それにしても皆が皆揃って見舞いとは、果報だな?」 邪鬼がセンクウへと笑いかける。嫌味も皮肉もないが、それだけに気恥ずかしい思いをさせられる笑い方だ。 センクウが何か言おうとしたのを、邪鬼は手を上げて遮った。 「余計なことは考えず、ゆっくり休め。充分休養するまで、雑事は他の者に任せてしまえば良い」 「……申し訳ありません」 「律儀に返事などせずとも良い。それより、先刻はなにか騒いでいたようだが」 「くだらぬことです。それより邪鬼様。申し訳ないのですが、一つお願いしてよろしいでしょうか」 「うむ?」 影慶は羅刹の手から注射器を取り上げる。 「私の手はこの有り様ですし、羅刹も卍丸も、先刻のいさかいの余韻が抜けておりません。一度や二度失敗したところで、どうというものでもありはしないのですが……」 「あえて二度も三度もやり直すこともない、か。構わぬ」 「お願いいたします。……センクウ。邪鬼様に手間をかけていただけるなど、滅多にないことだぞ。ありがたく思えよ」 「分かってる」 影慶と入れ替わりに椅子に座り、結局は邪鬼が、栄養剤を一本、注射してやることになったのだった。
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