深更―――。 月の明かりばかりが、夜を青く輝かせている。 街灯の届かない薄闇は、静謐さを漂わせて、身じろぎもしない。 「話とは、なんだ」 大樹の陰、一際大きな影が、目の前の者に問う。 「お許しを、いただきたく思いまして」 固い声が答える。 「ふむ」 柔らかな、相槌。 影慶は覚悟を決めて、前に佇む邪鬼を見上げた。 「覚えておいでですか。昔俺が、ここで貴方に誓ったことを」 あれは八年ばかりも前の、やはり丁度この季節、晩秋だった。 『貴方の望むもののために、私の命を使わせてください』 それが影慶の願いだった。 そして、困った顔をした邪鬼が、それでも頷いてくれたから、誓いになった。 それから今まで、邪鬼の望みを実現させるために、影慶は尽力してきた。 もし己の命が必要ならば、躊躇いなく使い果たす覚悟だった。
「無論、覚えている」 邪鬼が頷く。 影慶は、泰然たる、そして穏やかで暖かな眼差しを見上げ、躊躇った。 だが、もう決めたことなのだ。 そのためにこんな時間に、失礼を承知で呼び出したのだ。 「邪鬼様」 言わねばならない。 「あの誓いは、今日で終わりにさせてください」
見つめる眼差しは少しも変わらず、邪鬼は微笑んだ。 「何故?」 咎める調子は微塵もなく、尋ねる。 「俺は今まで、それが自分にとって、何よりも正しいことだと信じていました。それで、もし貴方のために死ぬことになったとしても、むしろ喜ばしいのだと。それが、貴方にとっては負担かもしれないことは、承知でしたが……それでも俺は、それが自分の、偽らざる真実だと思ったからこそ、貫いてきました」 「ああ。分かっている」 真実を殺して都合よく振る舞うよりは、無茶でも失礼でも迷惑でも、真実を貫き通したほうが誠実だ。それで拒絶されるなら、やむをえない。 影慶のそんな性分のことならば、邪鬼はよく分かっている。 そして、そうだからこそ、まるで己の手足のごとくに使い、愛で、その死すら引き受けてやると決めた。 そんな男だからこそ。
「ですが……」 邪鬼の目を見つめたまま、影慶が口篭もる。 言いがたいのではなく、言葉を探して。 思いを伝えるのに、言葉はあまりにも曖昧で不自由だ。 真実を語りたい時、誤解を恐れると何も言えなくなる。 何をどう言えば、どんな言葉で伝えれば、間違わずに言えるか、探して惑う。 「ですが」 ともう一度繰り返して、影慶は顔を逸らす。 胸の内に息苦しいほど渦巻く思いを、どう言葉にすればいいのか。 悩む影慶を前に、邪鬼は促そうともせず、傍らの桜と同じくらい淡々と、静かに、待っていた。 やがて影慶が、顔を上げる。 真実しか語らない男は、いつの時も、大事な話は目を見てしか話さない。 ゆえにその眼差しは、鋼のごとく揺るぎない。 「ですが、今の俺には、貴方よりあいつらのほうが重い。だから、俺はもう、貴方のためには死にません」 きっぱりと、影慶は言った。
「俺はこれからも貴方のために戦い、貴方のために尽力します。それは変わりませんが、貴方のためには、死にません。俺には、率いていくもの、守らなければならないものが、……いいえ。守りたいものが、できたので」 影慶の視線を真っ向から受けて、邪鬼は満足そうに笑い、頷いた。 「それでいい、影慶」 「邪鬼様」 「影慶よ。人は、誰かと生きて共にあるために、強くなれる。共に歩んでいきたいと思えばこそ、どれほどでも強くなれるのだ。生かすために、そして、生きるために」 生きるために。 眼差しの奥にある心に刻みつけるように、邪鬼の深く強い視線が、影慶の目を奪う。 「俺は、そう思っている。影慶。死ぬ時には死ぬ。それは仕方がない。いずれその時が来てしまうのは、仕方がないことだ。だが、力を尽くし、生きて共にあろうぞ。……皆と共にな」 この上もなく優しく、相好を崩して邪鬼が笑う。 「―――はい。必ず」 影慶は躊躇いなく、迷いなく、答えた。
「なればまた今、ここで誓おう。自らの力及ぶかぎり、互いに守り、互いに生きることを」 「自らの、力及ぶかぎり……互いに守り、互いに、生きることを」 「天挑五輪、必ずやこの手に」 「はっ」 潤んだ夜気に、力強い声が響く。 桜はただはらはらと、二人の男を包んでものも言わず、去り行くその背に、約束の花弁ひとひら、授けたばかり―――。
(了)
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