「くっ……ククク……」 頭の上から声が聞こえた。 やがてそれは明らかな笑い声になる。 伊達だった。 どうやらあの一瞬で、桜の樹上に飛び上がっていたものらしい。 「伊達……!」 太い枝に、大型の獣のように腹ばいに寝そべっている。 「どうしたよ、赤石。なんて声出してやがんだ。傑作じゃねえか」 なんとか堪えていたが、もう我慢できない、というように伊達が声を立てて笑っている。 面白そうに。 いかにも赤石の必死の声が、馬鹿馬鹿しいというように。 頭に血が昇った。 赤石が目を剥き、瞬間、背の剣を抜き打っていた。 「な……!?」 抜くままの動作で振り上げた刃に、重い手応えがあった。 そして落ちてくる枝、散っていく花。 「て……めえ……!」 落ちてくる、伊達の体。 頭から落ちたが、宙でくるりと身を返し、着地する。 ざっくりと裂けた伊達の胸元が、見る間に赤く染まっていく。 肩口から、立ち上るのが見えるかと思う、殺気。 「笑われたくらいで殺そうなんざ、ずいぶんと小せぇことだな?」 溢れた自分の血に触れてその手を舐め、伊達が笑う。 その目を、赤石は真っ向から睨み返した。 「俺の本気がそんなに可笑しいか」 「ああ?」 「俺の本気が、そんなに可笑しいのか」 失敗や無様を笑われることを構う赤石ではない。 だが、抜き差しならない真実を笑われるのは、我慢ならなかった。 迷うことはない。 もう分かった。 伊達が消えたと思った瞬間に感じた、とてつもない空白と、寒気。 心の形は曖昧で、長い間それを辿ったことすらなかったが、それが消えて残ったものに、くっきりと輪郭が刻まれていた。 本気で嫌だと思った。 そして、最初に声が聞こえた時、本気で安堵した。 なのにそれを笑うから、いっそ殺してやろうと思った。 赤石は己の中に渦巻く激烈な感情を、そのまま伊達の目にぶつける。
「本気か」 問うような、確かめるような、伊達の声。 赤石は頷く。 伊達が目を薄めて口の端に笑みを浮かべた。 元の、陶然とした微笑。 「示せるか」 再び、赤石は頷く。 「それなら、証して見せろ」 「どうしろと」 「ここで俺を抱け。この場所でな」 誰がいつ現れて、何処から見ているとも知れないこの屋外で。 だがそれがなんだと。 「いいだろう」 ぐいと歩み寄って、赤石は伊達の唇を噛んだ。 噛み破り、血を絡めて、挿し入れる。
「なに、笑ってやがるよ……、赤石?」 「おまえといちゃ、俺の行き着く先も地獄だろうと思ってな」 赤石は膝の上で気侭に跳ねる伊達の目を見上げる。 貪欲に快楽を貪りながら、忘我の果ての狂気こそが俺の領分だと言わんばかりに、己を失わない伊達。 「それが、どうしたよ? 俺と別れて、浄土に行く気か?」 答えを知っている顔をする。 「まさか」 「それでいい」 降りかかる花弁を見上げ、荒れた息の合間に笑う。 「こんな花が咲くのも、この世でなけりゃ、地獄だけだ」 「……かもな」 「かも、じゃねえよ。そうなんだよ」 根拠のない伊達の断言だが、言われればそんな気がした。 確かに、浄土に桜は似合わない。 地獄の閉ざされた闇の底で、狂い咲く桜はさぞかし美麗なことだろう。 「だいたい……、赤石、よ。お釈迦様の傍じゃ、こんなこと、できねえぜ?」 「たしかにな。……どうせ、生きている内だけのことだ。もっと、踊れ。命が、ある内にな」 強く突き上げて伊達を鳴かせ、赤石の舌が胸の傷に触れる。 血止めもしないまま、流れ落ちた色は赤石の体まで染めている。 青白い肌に、熱に浮かされた朱が混じり、朦朧としかかった目は、何処を見ているのか。 「逝きたきゃ、逝けばいい。今は、ちゃんと連れ戻してやる」 「あ、あ……」 弛緩しはじめた唇が、微かに笑った。
緩慢に流れ続けた大量の血で、桜の根元は真っ赤に染まっていた。 赤石は学ランを脱いでそれに伊達の身を包み、自分の身繕いは簡単に済ませると、意識のない体を抱き上げた。 地獄を棲家にする男だ。これくらいでくたばりはしない。 妙な確信がある。 去りかけて、ふと桜を振り返った。 「地獄で花見の約束、するハメになるとはな」 呟いて笑う。 「おまえはそこに咲いてるか?」 赤石の問いに桜は黙して語らず、ただそれまでと同じように、はらはらと花弁を降らせた。
(終) |