医者と湯治の方程式

 チャイムが鳴った。
 その音で目を開けた伊達は、梢にかかる日の傾きで、それが三限目開始のものだと知った。
 出るか、やめるか。
 相変わらず退屈でくだらない能書きばかりの授業には、一限目で愛想が尽きている。出てやるとすれば、教官の顔を立ててやる、などというくだらない理由になる。それでも、一瞬は「出てやろうか」という思いがよぎった。
(俺もつくづく人が好い)
 自嘲して、伊達は頭上を見上げた。

 初夏の風が心地好い。
 気の狂った万年桜も、今は花の香より葉の香が強い。
 空が霞むばかりの花を広げ花弁を風に躍らせているが、梢には眩しい緑も目立った。
 授業には、やはり出る気にはなれなかった。
 目を閉じて大きく息を吸うと、手足の先にまで涼やかな風が行き渡るようだ。
 眠気とは違う、静かな気配が全てを鎮めていく。

 ゆっくりとして不規則な足音を聞いたのは、それから十分ほどしてのことだった。
 ザク、ザク……ザク……ザク、ザクザク―――という具合に、酔っているような砂の音である。命知らずの酔っ払いでも迷い込んだのかと思ったが、まだ昼前だ。
 なにかと訝って伊達が薄目を開けて音のほうを見ると、そこには、今しも大欠伸をした一号生筆頭・剣桃太郎の姿があった。
 酔っているのではなくて、半分寝ているらしい。

 欠伸の途中で伊達を見た桃は、欠伸が終わらぬ内に、どうやら「よう」と言ったらしかった。
 これにはさすがの伊達も呆れた。
 真っ当な登校時間からは、もう二時間が過ぎている。遅刻すれば鬼ヒゲにどやされる、と大慌てで飛び出していった者たちとはえらい違いだ。いわゆる、重役出勤だろうか。そんなものの通用する男塾ではないはずだが。

「今頃ご出勤とは、いいご身分だな」
 伊達が言うと、桃はなんでもないことのように笑って、
「サボってる奴に言われたくないな」
 と隣に腰を下ろした。遅刻してきて、更にはサボる気らしい。
「おまえもサボりじゃねぇか」
「おまえがここにいなけりゃ、真っ直ぐ教室に行ったさ。おまえのせいだ、伊達」
「なんてぇ理屈だ。俺がいなけりゃ、昼寝にちょうどいいと寝転んだろうよ」
「いや。教室へ行った」
「いや。でなけりゃ、なんで裏庭に来やがる」
 これで言いぬける道は塞いだはずが、桃は笑って
「おまえがいそうな気がした」
 しゃあしゃあと言い放った。

「分からねぇ奴だ」
「お互い様さ」
 桃は両手を頭の後ろで組み、太い幹に寄りかかった。
 相手をすると面倒そうだ、と伊達は無視することを決めた。
 桃はそれ以上、伊達にからまなかった。

 そうして、ほんの数分後。

 伊達の隣からは深い寝息が聞こえてきた。
(まだ寝やがるか)
 呆れ果てて、伊達は大きな溜め息をついた。

 

 平和とは、戦争と戦争の合間のことだと、どこかの皮肉屋が言ったという。
 八連制覇が終わった。そして、江田島が「天挑五輪」と言った以上、間もなく戦いが始まる。
 ならば今は、まさにその「平和」だろう。
 安らぐと同時に、伊達は、早く終わってしまえとも思っていた。

 思考が少しずつ憂鬱に巻き込まれかけた、ちょうどその折、とん、と肩を叩かれた。
 なにか用かと思ったが、問う前に、それは叩かれたのではなく、自分の肩に頭が乗ったのだと分かった。
 そしてそのままずるずると、桃の頭は滑り落ちて腿の上に来る。
(……起きやがらねぇのか、寝たふりしてるだけか)
 太平楽な寝顔を睨むが、反応はなかった。

 伊達のすることは、一つしかない。
「起きろ、この馬鹿野郎」
 膝など貸す理由もない。乱暴に頭を掴んで引っ張り起こし、草の上へと放り出す。
 目を開けた桃は恨めしそうに伊達を見上げた。
「膝枕くらいしてくれてもいいだろう」
「寝言は寝て言え」
「ケチだな」
「ケチでいい」
「ケチ」
「ふん」
 そっぽを向いた。
 ブランク。
 どすっ、と伊達の脚の上に桃が乗った。

「てめえ」
「膝枕」
 腹ばいに脚の上に乗り、柔道の押さえ込みの要領で、巧みに体重をかけている。
 それは、伊達が引き剥がそうとしてもなかなかに手強かった。
「膝枕。な。膝枕。一時間……、三十分だけでいい」
「ふざけるな」
「な、伊達」
「枕がほしいなら制服でも丸めて突っ込めばいいだろうが」
「膝枕がいいんだ」
「その辺でネエちゃん引っ掛けて来い」
「おまえの膝の膝枕。が、いいんだ」
 からかうような、悪戯げな、そのくせ半分よりやや多めくらいは本気の顔だった。

「医者へ行け」
「医者や温泉で治るたぐいのヤツじゃない」
「は?」
「膝枕」
 伊達の疑問を無視して、桃はもう既に、伊達に巻きついただんご虫状態だった。
 これが一号生筆頭、いや、一人前の男かと思うと、頭痛がするだけでなく目頭まで熱くなりそうな伊達だった。

 ゴキン、と鈍い音がした。
 伊達は立ち上がり、桃は頭を押さえて蹲った。
「医者も湯治も効かねぇなら、好きなだけ寝てやがれ」
 妙なところでものを知らない伊達は、桃の言葉の意味がまったく分かっていなかった。
 取り残された桃は不満顔で舌打ちをしたが、間もなく不適な笑顔に変わる。
「待てよ。待てって、伊達」
 立ち上がって制服の土を払うと、軽く走って追いかけ、追いついた。

 伊達はまだ、桃の企みを知らない。この万年桜の伝説など、聞いたこともない。医者と温泉の意味も、よく分からない。
 前途多難。
 だが、そのことを伊達自身は少しも分かっていなかった。

 

(おしまい)