「油断するでないぞ。この郷におまえを厭う者はあれど、慈しむ者などない。ましてやこたびの一件で、おまえは更なる危地に落ちたと知れ」 慈愛ゆえの厳しさではない、ただの無関心。 見抜けぬほどに鈍ければともかく、彼は見抜けるほどに聡かった。
戮家。 元の名を六家という。 長きに渡る中国拳法の歴史において、闇の中へと隠されてきたもののうち、六つの流派が結託し生み出した拳である。 今に到っても六つの宗家が存在し、それぞれに長を立て、その中より更に一人、「六家」を支配する大主を定める。 六人の長は世襲制。 そして、必ずしも宗家の者が最も秀でているとは限らぬのが世の常。 外から郷に預けられた身でありながら、群を抜いた才能を持つというのは、それだけで危険であった。 彼は常に、千条宗家の者の悪意に曝されていた。 血に因って代を重ねるほどに地位を失ってきた千条派にあって、秀でた才を持ちながら一切の血縁を持たぬ彼は、あまりにも微妙なバランスの上にいたのだ。 世襲制をここで廃して彼を長として立てれば、一派の威信にとっての大きな改革になるやもしれず、しかし伝統を覆すことで更なる失墜をもたらすかもしれず。 改革が一度起こってしまえば、他派宗家の者も安穏とはしておれなくなる。
千条派の者の思惑。 他派の者の思惑。 さらにそれぞれの中の、分家の者の思惑、宗家の者の思惑。 彼が実際にどうなるか、よりむしろ、何かを引き起こしかねない、という可能性ゆえに、彼は郷にとって危険な存在であったのだ。 渦を巻く濁流のごとき悪意と計略が、彼に人の顔の裏に潜む、心に触れる特異能力を授けた。 賢明さと理知を授けた。 己が得た奇妙な力について知られれば、更なる危機が己に降りかかること悟り、彼はただ襲い掛かろうとする悪意をかわすために、ひっそりとそれを使い、生き延びていた。
大主が急逝したその年。 彼の立場は更に微妙になったと言える。 千条派の長が暫定的な大主として据えられたのだ。 極めて危ういものを秘めた千条派の長が大主として据えられたところにも、様々な策謀と意図があった。 水面下で繰り広げられた抗争により、六宗家全てが疲弊しきっていたが、その冷戦の結果、更に大きな火種を抱えることになったのだ。 千条派の動向は郷全体に影響を及ぼす。そしてその千条派には、郷の存亡そのものにまで関わりかねない「異端児」がいる。 郷を揺るがしかねない火種を消そうと思う者が増えるのは、自明であった。 そして、彼をなにがしかに利用するために守ろうとする者の数など、圧倒的に上回っていることも、また明らかな事実であった。
深夜のことだ。 張り巡らされた糸を揺らす気配があった。 彼が気付いた時には、それはもう部屋の外にまで辿り着いていた。 一際細く、彼自身にも見えないほどに細い糸を一本、その夜にかぎり、仕掛けておいた。 昼に感じた粘るような殺意が、今夜何か起こることを告げたためだった。 全ての糸をかいくぐってきた侵入者も、その見えざる糸、あるはずのない糸だけは、見抜けなかったらしい。 糸に触れ感じた痛み、それに反応したほんの僅かな変化が、彼の超感覚に響いたのだ。 仕掛けてくることが分かっていれば、あとは相手を読めばいい。 「敵」の心に遠慮することはない。 彼は封印している感覚を解放し、部屋の外へとのばした。
雪崩れ込んでくる、凄まじい悪意。 それは一つではなく、一人のものではなかった。 感覚を閉ざすこともできないほど圧倒的に、襲い掛かるありとあらゆる腐敗。 歪んだ欲望。 憤怒にまぎれた殺意。 裂けたような哄笑。 憎悪、呪詛、怨嗟。 視界を黒く塗りつぶすほどの悪意に窒息寸前になったその時。 澱んだ沼底に落ちてきたのは、小さな痛みだった。
タスケテ
一雫の痛みは、腐臭を放つ悪意を塗り替えていった。 透明な、己の色に。 開けた視界、彼の目の前にいるのは、子供だった。 自分より更にまだ五つくらいは幼いと思える、ほんの子供。 十になったかどうかという子供。 獣のように低く身構えた肩に、見えざる糸につけられたとおぼしき傷があった。 抉れて、腕まで赤く濡れている。 「……おいで」 彼は思わずそう言い、腕を差し出していた。 その少年が誰かに雇われた刺客であることは分かっていたし、ここまで忍び込んだ技量が人間離れしていることも事実。 だが、それを感じただけで死ねるかと思うほどの悪意は、この少年のものではない。 それはこの郷の者の、そして、この幼い子をこれほど完璧な暗殺者に育て上げるこの世界そのものの、歪みが秘めたものだ。 たった一つ。 身に塗り込められた悪意の中、少年自身にも気付けないほど微かで小さな悲鳴だけが、彼のもの。 どうせ誰にも求められぬ身なら、殺されてやってもいいと思えた。 生きていることを喜ぶ者はなく、死んだことに安堵する者ばかり。 それならば、この少年の手柄になってやるのも悪くはない。 せめてその肩の手当てが終わるまで待ってくれるなら、小さな悲鳴を聞き取った証になるだろうか。 そう、思えたのだった。
伊達の体には無数の傷がある。 遠目に目立つものはそうないが、間近に寄れば膨大な数だ。 そんな細かな古傷の中の、さして変わった形をしているとも思えない、一つの傷。右肩についたそれは小さくはないが、あまりに古過ぎてもう消えかけていた。 だが、そんな傷について、いったいいつついたものか、などとセンクウが興味を持った。 それまで続いていた柔らかな愛撫すら止められて、乗り気にこそなれないが隠すほどのこともないと、伊達は正直に、端的に語った。
孤戮闘から出されていくらかの時が過ぎ、与えられた初めての「仕事」。 その当時の自分には人の「命令」を聞き分ける程度の頭しかなく、見たもの聞いたものの記憶も曖昧だが、たしか中国だった。 山奥に連れて行かれて、屋敷の見取り図を見せられ、そこにいる者を殺して来いと命じられた。 見取り図は他にもあった。 様々な角度から描かれたその部屋の周囲。無数の線が書き込まれていた。 今にして思えば、古びた屋敷ながら、赤外線センサーでも張ってあったんだろう。 ただ、俺の記憶違いかもしれないが、そのセンサー網は見えたような気がする。スコープをつけていた覚えはないが、ともすると、つけていたのかもしれない。 部屋の手前まで行って、いきなり肩が切れた。 理由は分からない。 ともかく、気付かれていようがどうしようが、実行しないわけにはいけない。 そう思って部屋に入った。 そこにいた相手は、自分よりはいくらか年上の少年で、起きていて、自分が侵入していることに驚きもしなかった。 いきなり「おいで」と言われた、その声だけは、今でも鮮明だ。 微笑まれて、わけが分からなくなって、逃げ出した。 その後で、仕事をしくじった罰としてえらい目に遭わされた……。
語りたいことでもないが、もう昔の話だ。 それに、相手がセンクウならばどんな話でもできる。 そう思って、今更そんなことに傷ついたりはしない、と分かってもらえるように淡々と話した。 だからまさか、その途端にセンクウが泣き出すなどとは思っていなかった。 「お、おい、なんだよ」 狼狽して処遇に困る。 「すまん……。気にしないでくれ」 「気にするなったってな……」 無理な話だ。 「そうだな」 困惑顔の伊達を、センクウが抱き締める。 そのいつになく慎重で、恐れてさえいるような抱擁に伊達は戸惑ったが、黙って身を預けた。 その腕の中で、ふと思う。 自分がこんな話を人にできるようになったように、いつか、この涙の理由も聞けるのだろうか、と。 (……そう言や、俺はいつも聞いてもらうばっかりだな。あんただって、つらいことの一つや二つ、あるんだろうに。いつか……俺があんたの話、聞けるようにも、なれんのかな……) 今はただ、理由の知らない涙を、伊達はそっと拭ってやるだけだった。
(了)
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