二時間目が終わって、三時間目の授業が始まった。 「おい。出ないのか?」 問うが、答えはない。 話がある、と呼び出されて来たはいいが、赤石は困りきっていた。
『二時間目の終わった後の休み時間に、校舎裏の桜のところで』 今朝、登校時のグラウンドで、すれ違いざまに伊達が自分のポケットに放り込んでいったメモだ。 理由はよく分からないが、伊達はことあるごとに自分を呼び出し、あるいは自分のところにやってきて、他愛ない時間を過ごす。 赤石にとって伊達は、悪くない友人だった。 なにせこの塾に、対等な人間というのが他にいない。 二号生たちは赤石を恐れ敬い、「赤石さん」と呼ぶくらいだし、一号生は「先輩、先輩」とよく懐いて慕ってくれるが、やはり何かと、自分に一歩譲ろうとする。三号生のことについては、言及するまでもない。赤石自身が、素晴らしい先輩だと認めているのだから、対等もクソもない。
そんな中で、この人を食ったような、傍若無人で我が儘でへそ曲がりで、傲慢で尊大で不遜で身勝手な男だけが違う。 平然と「赤石」と呼び捨てにして、時には命令口調で「あれをしろ」「これをしろ」と言ってくることもある。かと思うと妙に気を回して楽しみを用意してくれたり、優先順位を変えたり……、と上下関係を完全に忘れて付き合うことができる。 だから、もちろん赤石としても、伊達といるのは気に入っているのだ。 二人でくだらない文句の応酬をしたり、延々と語り合ったり、特に会話もなく酒を酌み交わしたり。 クソ生意気だが可愛い後輩であり、大切な友人にしておきたくもある。 だから、呼び出されても特に何も考えず、こうして出向いてきたのだ。 休み時間ということは、また何か、ちょっとした意見を聞きたいことでもできたのだろう。それくらいの軽い気持ちで。
それが……。 影の位置を見て、もう十分はたったか、と赤石はひそかに溜め息をつく。 伊達は大樹の幹に寄りかかって俯いたまま、顔をあわせた時に 「本当に来たのか」 と言っただけで、 「今日はなんなんだ」 と赤石が問い掛けたのに沈黙して以来、ずっとそのままだ。 授業開始のチャイムにも、顔も上げない。 何かを言おうとしている様子はあるから、赤石はひたすら粘り強く我慢強く、待っている。 待ちながら、伊達の言いたいことを察してやろうと努力する。 「本当に来たのか」と言ったということは。 呼び出して赤石が来なかったことはないのに、来ないかもしれない、と今日に限って思っていたということだ。 もちろん、都合が悪ければ断ることもあったが、その時にはちゃんと遣いを出してやったり、そう返事をしてきた。 一度「分かった」と言った以上、赤石がその約束を破ることはない。 伊達もその程度、承知している。 なのに何故、来ないと思ったのか。
二十分が過ぎたが、考えることに没頭していた赤石は、やはり一言も声をかけていないし、伊達も黙ったままだ。 こうなったら、どうして黙っているのか、尋ねてしまおうか。 赤石がそう考えた時。 「赤石さん。本気で行くんスか?」 と、出掛けに江戸川に言われたことを思い出した。 (分からねえことを、と思ったが……あいつ、なんか妙だったな) 苦笑するような、感慨深いような、何故かあらたまったようでも、あった。 (たしか江戸川に、一号ンとこの万年桜で待ち合わせてるって話をして……) 留守中に何かあった時のため、赤石は常に所在を明らかにしている。 いちいち「今何処にいる」というのは、さすがに江戸川たちを信用していないようで可哀相だから、最初に何処に行くかだけを、いつも告げておくのだ。そうすれば、そこから足取りを辿ることができる。 本気。 万年桜。 沈黙の伊達。 すごく困ったような、少し忌々しそうな、ほんの少しだけ泣きそうにも見える顔をして、延々と黙っている伊達。
(あ……!)
分かった。 「伝説」だ。 とるに足りない伝説。 枯れるその時までずっと、灼熱の太陽の下であれ、吹雪にさらされてでさえ、花をつけ続けるこの花は、いついかなる時でも、どんな苦境にあっても、変わらない何かの象徴。 絶対に違えることはない誓いを示す時、この桜のもとで宣誓するという。 そこから転じて、この花の下で交わされた約束は、桜の力を得て、絶対に破られることがない、と言われている。 男塾三百年に渡る歴史の中で、時に永遠の忠誠が誓われ、時に不変の友情が誓われ、時に―――。
三十分が過ぎたが、赤石はもう困惑してはいなかった。 自分が問い掛ければ、問い掛けられたから仕方なく、伊達は言うだろう。 だが、そんな「仕方のない」言葉ではなくて、言わずにはいられなかった、「どうしようもない」言葉を聞きたい。 そのためなら、この炎天下、たとえ明日いきなりブリザードが吹き荒れようとも、川が氾濫しようとも、一日でも二日でも待っていられる。 誓われるのが友情ならば大歓迎だし、もし、少し焦点が狂っていても、構いはしない。 いやいや。 友情程度なら、こんなところに呼び出してまで、わざわざ確認しようとはしないだろう。 たぶん、だから、そうなのだ。 (こんな俺に……) 四十分が経過する。 影の位置はもう完全に変わってしまっていて、日陰にいたはずの伊達が、今や半分は日に当たっている。 いつ言ってくれるのだろう。 それとも、結局言わないまま「もういい」とか言い出してしまうのかもしれない。 そうなったら、どうしてやろう。 そうなったら……そのままなかったことにだけは、絶対にさせない。
とうとう、一時間が過ぎた。 授業時間の終わりを告げるチャイムがなって、校舎の中から微かに、明るい声が聞こえてくる。 「……やっぱり、なんでもねえよ。呼び出して悪かった」 人に見られることを懸念したのもあるだろう。 伊達は俯いたままそう言って、幹から背を離した。 去ろうとする手を、後ろから捕まえる。 「俺に、言いたいことがあったんだろう?」 振り返りもせず、そしてまた、沈黙。 冗談も、嫌味も皮肉も言えなくなっている伊達の、向けられたままの背が可愛くてたまらなかった。 いつもいつも真っ向から人を見て、どんな悪意にも敵意にも顔を逸らさずにいた男が、それでも背けてしまった顔。 全てに耐えられる強い奴が、耐えかねるほどの、重さの証。
「しょうがねえな。その貝みたいな口、開かせてやんなきゃならねえのか」 赤石は強引に伊達の手を引っ張って振り向かせ、桜の幹に、伊達を押し付けた。 顔の両脇についた手で逃げ場を奪い、やっと自分を見た目に向けて、笑ってやる。 「馬鹿が」 そして、口付ける。 逃げようとしたのを許さずに、思いのほか柔らかくて温かい唇と、綺麗に並んだ歯を開かせる。 「……ほら。言えよ」 まだ唇の触れる距離で、告げる。 「……あんた、が………………だ……」 ほとんど聞き取れなかった、花の散る音より微かな告白。 もう一度言わせるような、意地悪はしたくない。 「ああ。俺もだ」 そうして抱き締めてやると、伊達は小さな笑いをこぼして、赤石の背に腕を回し、肩に頬を預けてきた。 桜の大樹が、そんな二人の姿を優しくその身に隠していた。
(仕舞いだ)
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