暑い、と口の中で小さく呟いて、センクウが空を見上げる。 もともと彼は、陽光が得意ではない。照りつける日差しだけでも肌が痛むというのに、マントを羽織って陽光を遮れば、今度は内部が蒸し風呂も同然だ。 天動宮の中に入ると、思わずほっと息が洩れた。
迷路のような建造物の中を、迷わず最短コースを選んで奥の筆頭室に辿り着く。 「邪鬼様」 戸の前から声をかけると、低く「入れ」と聞こえた。 「失礼いたします。お言いつけの品を」 「すまぬな。よりにもよっておまえに行かせねばならぬとは」 「いえ。もうよろしいでしょうか」 「手間をかけたな」 「失礼いたします」
センクウが軽く頭を下げ、扉に手をかけた時だった。 外がにわかに騒がしくなり、争う声が聞こえてきた。 「何事だ」 「見てまいりましょう」 ドアを開けると、聞こえる声は大きく、明瞭なものになる。 「用があるから会わせろと言ってる」 「邪鬼様になんのご用だ」 「なんでテメェらに言わなきゃならねえ」 殺気を含みながらも淡々とした声は、伊達のものだった。
どうやら勝手に入り込んできて、門番の三号生たちとぶつかったに違いない。 忍び込む気になれば容易にできる技能がありながら、おおかた、こんなことでそんな手間のかかる真似をするのも面倒だとでも思っているのだろう。 「仕方のない男だ。わしに用というなら、聞いてやろうか。通すように言ってやれ」 「は」 邪鬼の言葉を受けて、センクウは廊下に出る。 おおよそ予想はしていたが、強引に進もうとする伊達を止めようにも止められず、三号生たちは次第に退く形で、伊達の侵入を許してしまっていた。 「邪鬼様から、通して良いとのお言葉だ。下がれ」 「は、はっ」 センクウの声に、三号生たちは不服そうな顔を見せはしたものの、おとなくしく引き下がった。
伊達はセンクウの姿を見、軽く肩をすくめる。 「……来るなら来ると言え。話くらい通してやるものを」 「馬鹿言え。あんたに伝言するまでにいったい何人通して何時間待てってんだ?」 すれ違いざま、それだけかわした。 伊達は筆頭室に消え、重厚な扉が閉まる。 「持ち場へ戻れ」 不愉快な面持ちで筆頭室を見やっている同輩に、センクウは短く言いつけた。
彼等がしぶしぶと引き返していくのを見送って、彼は自室へと戻った。 しんと静まり返った部屋の中、投げ出したマントがベッドに落ちる。 伊達が邪鬼に用とは、いったい何なのか。 ふと考えたが、すぐに頭の中から追い出した。 詮索したところで、正解になど永遠に出会えるものではない。 ベッドの上、それはとりもなおさず今しがた投げたマントの上でもあるが、センクウは仰向けに倒れこんだ。 こういうわけだ、と聞かされたところで、それが真実か否かなど、分かることではないのだ。 答えが知りたいことほど、考えないほうがいい。 答えを求めなければ、不安も苛立ちもない。
そもそもセンクウは、人といるのが嫌いだった。 苦手というのではなく、嫌いだった。 人の言葉と行動に惑わされ、揺り動かされ、疲れ果てる。 気付かずに傷つけ、勘違いに踊らされる。 だから、友人というものを作りたがらず、もの言わぬ花を愛でる。 これは何かがあってそうなったというのではなく、昔からずっとそうだったという、センクウという男の性分だった。 細かいことを気にしすぎるんだ、と卍丸は呆れ、羅刹は、少しくらい我が儘になったところで誰もおまえを責めたりはしないと真剣に言った。 だがそう言われて、自分でもなんとかしようとしたこともあるが、それでも結局どうにもならなかった。
大抵の者からは、付き合いにくいと思われていることを、彼は自覚していた。 「なにが嫌とかどこが嫌いというのではないのに、どうにも一緒にいると息が詰まる」という言葉は、思いがけず自分の耳で聞いてしまったものだ。 そんな言葉にされずとも、誰かと話していたおり、話題が途切れて沈黙が生まれ、うまく破り損ねてあまりにも長く続くようなこともあった。そんな時、相手が困惑しきって、苛立つことはよく分かった。 だがそんな雰囲気になってから、とってつけたように適当な話題を持ち出すのはいかにもわざとらしかったし、かえって不自然だ。 相手もさぞこの居心地の悪さには辟易しているだろうと思うと、余計に気のきいた言葉は出てこなくなる。
毎度のことだ。 だから、そんなことになる前に、話すことそのものをやめた。 必要最低限の会話だけをして別れればいい。 そうすれば、相手がなんのつもりでそう言うのか、自分の言葉を相手がどう解釈したのか、なにも考えなくて済む。 なにも後悔しなくて済むし、なにを懸念することもなくなる。 ただ、「付き合いにくい」と思われている、ただそれだけになる。 好かれようと思わなければ、最初から敬遠されていれば、期待もせずに済む。 そういった考えは時折、そんな自分を理解してくれる死天王の仲間たちを苛立たせることもあったが、そういう時こそ、「だからなにも言いたくないし人といたくないんだ」と思わずにはいられなかった。
「おい」 いつの間に眠り込んでいたのか。 間近で声がして、センクウはゆっくりと目を開けた。古びた蛍光管の光に遮られて、黒い人影がある。 目に映るのは、頬傷の顔。 「おまえか。勝手に部屋の中にまで入るな」 「入られたくねえなら、鍵くらいかけたらどうだ」 人を人とも思わない、傍若無人の権化である伊達には、まっとうな抗議などするだけ無駄だ。 センクウは溜め息一つで諦めて、背を起こす。そしてふと、 「邪鬼様に……」 なんの用だったのだ、と言いかけて、やめた。 きっと自分には関わりのないことだ。それに、伊達は人一倍、詮索されることを嫌う。 そう思ったからこそ、言いかけてやめたのに、 「あんたには関係ねえ話だ」 なんでもないことのように、伊達は答えを口にする。
突き放す言葉が過敏な神経をどれほど傷つけるのか、慮りもしない傲慢な男。 「それより、少し付き合え」 人の思惑など微塵にも気にかけず、この絶対的な上下関係を持つ男塾の中にあって、平然と先輩相手に命令口調で話す。 それは圧倒的な実力に裏打ちされた我が儘で、たしなめれば首が飛ぶ。 「………」 センクウは、外を見ようと首をめぐらせる。 が、それより早く、 「雨が降り出してる」 伊達が、センクウの知りたかったことを言った。 「行くぜ」 あとは、当然のごとく先に立って促す。 センクウは黙ってそれに従った。
この男といるのは楽だ。 時々、そう思うことがある。 伊達はたしかに傍若無人極まりないが、姑息な、あるいは優しい嘘をつくことがない。 嫌なことは嫌、いいことはいい、駄目なことは駄目、全てはっきりしている。腹が立てばそうと分かるように動く。隠して誤魔化そうとはしない。 そして、あれをしろ、これをしろと遠慮なく命じてくる。相手に意思のあることなど思いもしないかのように。 だが、それがセンクウには楽なのだ。 自分の意思を認め、人格を認め、あれこれと考えたあげく、巧みに操ろうとするわけではない。 いっそ潔くて、何も考えなくていい。
雨の中、傘もささずに何処に行くのかと思ったが、問う必要はない。ついていけば案内される。辿り着けば、なんのために連れ出したのかも分かるだろうし、伊達が肩にかけているザイルの束のわけも、分かるだろう。 伊達は振り返りもせず、自分のペースで塾の裏手にある山に入ると、その頂上付近にある、大きな沼を訪れた。 底なし沼と言われている。 正確には、この沼の底には大きな穴があり、地中の川にまで通じている。刺激を受けた水がひとたび揺らげば、中にあるもの諸共にそこへと吸い込まれていく仕掛けだ。 沼底の、タールのような粘性のある泥水にからめとられたなら、泳ぐこともままならず、水とともに穴から吸い出され、翌日には水死体が川に浮かぶ。 その前で、伊達は一言も断りなく、学ランを脱ぐと草地に放り出した。
何をする気だろうと訝りながらも、センクウはとりあえず、伊達の学ランを拾おうと背を屈める。 「そんなものはどうでもいい。そら」 伊達はそれを制して、肩から下ろしたザイルの一端をセンクウへと投げた。 もう一方の端は伊達の手にあり、彼はそれをしっかりと自分の左手首に巻きつける。 「伊達?」 「離すなよ」 「!?」 まさかと思っていたが、伊達はそう言うなり、頭から沼の中へと飛び込んだ。
「伊達!」 姿は泥の底に隠れ、ただザイルだけが、シュルシュルと蛇のような音を立ててほぐれていく。 はっとしてセンクウはザイルを掴み、それを手近な大木に結びつけた。 幾重にも巻いて決してほどけないように縛り、見やれば沼は不気味に渦を巻いている。 やがてザイルはぴんと張って軋みを上げ、幹はぎしぎしと嫌な音を立てた。 力のある者が泳ごうとしても無駄なほどの、沼の力なのだ。 センクウは木に結びつけたザイルに手をかける。 やがて、彼の悪い予想どおり、樹木の幹は悲鳴を上げた。
何を考えて沼に飛び込んだのかは分からないが、伊達は、命綱を持たせるために自分を連れてきたのだ。 センクウは倒れていく大木をかわし、掴んだザイルを腕に巻きつけると、渾身の力で踏みとどまった。 おりからの雨で足元が滑る。 とっさに鋼糸を投げ、背後に立つ何本もの木に巻きつけた。 ごぼごぼと音を立てながら、沼の水位は半分ほどに下がってきている。 鋼糸を巻きつけた左手がちぎれそうに痛んだが、それは少しずつ和らいできた。水量が減ったために、水の生み出す力も弱くなったのだ。
やがてその中から、ザイルを頼りに伊達が無事に姿を見せたときには、思わず安堵で力が抜けそうになった。 慌ててザイルをたぐり寄せ、伊達を引き上げる。あまり深くもぐることはなかったのか、泥の塊のようにこそなってはいなかったが、髪も顔も肩も腕も、薄茶色の泥に汚れている。 伊達は陸地に上がると大きく息をつき、その場に胡座をかいたまま、頭を左右に振った。 泥が飛び散る。 そんな、目の縁にまで沼の泥を乗せた伊達に、センクウは自分のマントを脱いでかぶせた。
傍らに膝をつき、泥だらけの体をぬぐってやりながら、 「何故こんなことを」 何も尋ねたくはない。 答えを聞きたくはない。 また「おまえには関係ない」と突き放されるのは、痛い。 そう思いながらも、言葉が勝手に口をつく。
「これ」 伊達は右手に持っていた小さな箱を、センクウの顔の前に持ち上げた。 「これ……?」 センクウが受け取るのを待つように、伊達はその箱を下ろさない。 いったいなんなのかと思って手にとると、やっと伊達は腕を下ろし、センクウのマントを使って顔や手を拭き始めた。 「これが?」 「あんたのだ。やるよ」 「……え?」 「あんたに似合うと思って買ってきた。今はとれちまってるが、金色のラベルが貼ってあってな。そのせいで、窓際に置いておいたらカラスのヤツにさらわれちまった」
「俺に、似合う、って……?」 なんなんだ、と目で問うが、伊達の顔は「気になるなら開ければいいだろう」と、当たり前のことも分からないセンクウに苛立った様子だ。 センクウは、開け口の分からなくなった箱を破って、中のものを取り出した。 紺色のビロードが張られた、洒落たケース。今は泥に汚れているが。 開けてみると、静かな緑色の光があった。 「これは……」 「ガラス製だけどな。あんたの目と同じ色をしてる。絶対に似合う」
緑色の、薔薇をかたどったブローチ。 絶対に、などと自信に溢れたことを言って、その自信そのままに不遜な笑い方をする。 センクウが、いったいどう反応すればいいものかと困惑していると、伊達はその手からブローチを取り上げて、センクウの顔の横に並べた。 「おんなじ色だ。受け取らねえとは言わねえだろうな。俺がここまでして拾ったんだ」 照れるわけでもないし、優しげな顔をするわけでもない。 ただ、呆れるほど尊大で堂々とした態度で、小さく笑ってブローチを押し付けた。
「あ……」 嬉しい。 そう思う横から。 これほど呆気なくくれるものなら、きっと他にも同じようにして、「似合うと思った」というだけの理由で、わけも分からず物を押し付けられた者たちがたくさんいるのだろう。 嬉しさが萎えていく。
「なんだ。気に入らねえってのか」 「いや」 嬉しいと思う理由、哀しいと思う理由。 それが自分で分かったことで、センクウは泣きたくなってきた。 気まぐれで我が儘なこの男の「特別」になりたいのだ。 特に因縁があったわけでもないのに、他愛のない話をするようになった。何が気に入ったのかは知らないが、付き合えと呼び出されるようになった。試してみないか、と体を重ねるようになった。 だがそれすら伊達には「雑事」でしかない。
「なんだよ。気に入らねえのか」 伊達の声が怒りを含む。 自分の見立てを否定する者に、我慢がならないのだろう。 「そんなことは、ない。だが俺には、これを受け取る理由がない」 「理由ならある。あんたに似合う。そう思ってこの俺が買ってきた」 「だが……」 「あのなあ」 苛立って乱暴に頭を掻いて、伊達はセンクウの顔を覗き込んだ。 そのまま、強引に顔をとらえて口付ける。 軽く。 そして、噛み付くように。
これも、伊達には些細なことだとセンクウは思っていた。 退屈な塾生活に、伊達は退屈しきっている。 死と隣合わせの少年時代を過ごし、生と死の境で生きてきた。 男塾に入ったのも戦いを求めてで、復学したのも、そのためだ。 戦いのない日常に、伊達は飽き飽きしているのだ。 やり場のない鬱憤を晴らすのに、人形のような己は丁度良かったのだろう。 あれこれと自己主張せず、言われたとおりにおとなしく従っているだけの、都合のいい道具。猫の手にもなれば厄介事の盾にもできるし、好奇心旺盛な女の代用にもできる。
それでいいし、そのほうが楽だとセンクウは思っていた。 だからこそ伊達の我が儘に付き合ってきた。 自分の気持ちに気付いてしまった今は、こういった行為は虚しく、つらいばかりだ。 何を思っても考えても、言ってはいけない。そのことだけが確かに分かる。 いつかそれができなかった時、意志を持った人形などいらないと捨てられるのだろうことだけは。 だが、それがどれほど恐ろしくても、人形には自分から別れを求めることもできないのだ。 飽きたら忘れられ、捨てられる。 それを待つだけの身。 せいぜい、捨てられる時を早めることができる程度。
もしできるならば、今のうちにこんな心は殺してしまおうかとセンクウは考えた。 人の輪から離れ、その声を聞きながら一人でいることが平気になったように、これもまた、できるようになるかもしれない。
伊達の溜め息が聞こえた。 人の気配には敏い男だ。 何を言われるのだろうかとセンクウは身構える。 「いい加減にしろよ」 呆れたような第一声。 「恋人に物を贈ろうってのに、他になんか理由がいるのか?」 悪戯げに伊達が言う。
センクウは、伊達が今なんと言ったのか、疑った。 「俺ァべつに女に不自由してるわけでもねえし、男がいいってわけでもねえんだぜ? あんたに興味があった。だから近づいた。あんたが好きだと思った。だから抱いた。言っておくがな、この俺はそう安かねえ。ただのオトモダチ相手に、こんなことしやしねえぜ」 「伊達……」 そしてもう一度、噛むような口付け。 本当に噛まれて、痛みと共に熱が小さな玉になり、口に落ちて血の味に変わる。
「いつまでンなツラしてんだよ。とっとと帰るぜ」 当たり前のことのように、伊達は立って促す。 センクウは、手の中のブローチを壊さないように握りしめて、汚れたマントを拾い上げた。 ふと。 いくら伊達が他人のことなどお構いなしに動くとしても、わけもなく無礼・失礼を押し通して人を怒らせるほど子供ではない。 当たり前のように自分のマントをタオルがわりにするのは、なんとも思っていないからではなく、そうしても許してもらえる間柄だと、認識しているためだからではないだろうか。
少しだけ、期待してみようか。 ともすると伊達は、そんな期待をすることを、自分に要求しているのかもしれない。 「伊達」 「ああ?」 「……ありがとう」 センクウの礼に、伊達はやっと、満足そうな笑みを見せた。
(終) |