酔 夢

 角を曲がろうとして、いきなり何者かの突進を受けた。伊達にしてはらしくないことで、よろめいて、一歩後退する。少し考え事をしていたのがまずかったらしい。
 それにしても猛烈な激突だ。タックルを受け止める形になった腹部に、ずっしりとした重みと痛みがあった。誰かと思って見下ろせば、真っ白な髪。
「赤石」
「伊達か。すまんが、今は……」
 赤石は息を急ききらせ、ひどく慌てている様子だった。後ろを振り返って、また駆け出そうとする。
 と同時に、研ぎ澄まされた伊達の勘に、よく知った気配が触れた。
 どうやら、また桃に追われているらしい。

「待てよ。匿ってやる」
 行こうとする赤石を引き止めて、伊達はそのまま上を見上げた。
 校舎の三階、開きっぱなしになっている窓。あそこは確か、物置である。
「早くしろ」
 伊達は壁に背をつけて、両手を組み合わせる。
「すまん、恩に着る」
 赤石は少し助走をつけてその手を踏み、伊達の力を借りて三階の物置に飛び込んだ。
 伊達は槍を取り出してのばすと、そのまま後を追うように、棒高跳びの要領でひらりと宙に飛び上がり、物置に入った。

 電灯のついてない暗がりの中、物陰にひそんだ大きな影が、びくりと震える。桃が入ってきたと勘違いしたらしい。
「お、驚かすな」
 喉にからんだような声に、大きな溜め息が重なった。
 二号生筆頭の肩書きが泣きそうな有り様だが、あんなのに毎日のように迫られたら、こうもなろうというものだ。それほど、桃の追跡、いや、追撃は執拗で常軌を逸している。完璧、イカれている。
 巷では「ストーカー」なる名称が流行りはじめたが、まさに、それだ。

 気配を殺し、伊達が窓から外を見下ろすと、ちょうど桃が下を駆け抜けていくところだった。白いハチマキを後ろへなびかせて、土煙が上がる疾走。そのくせ足音一つ立てず、気配もほとんど動かない。目は獲物を探す猛禽のそれで(と思われる。よく見えないが)、口元にほんのり漂っている笑みが不気味極まりない。
 つむじ風のようにざっと駆け抜けて角を曲がり、その不吉な姿は伊達の視界から消えた。

「もう行っちまったぜ。で、今度はいったいなんなんだ」
 黴臭く埃っぽい物置の、がらくたの上に腰を下ろして、伊達は煙草に火をつけた。
 黙っている赤石に、箱を向ける。黙ったまま赤石はそこから一本抜き出した。ポケットを探るが、火がないらしい。赤石はやはり無言のまま、伊達の前に手を突き出した。
 素直にライターを乗せてやるのもいいが、伊達は伊達である。ふとした悪戯を思いついた。
「そら」
 と言って、自分がくわえた煙草、その先を焼く火を近づける。
 赤石は身震いと変わりない勢いで首を横に振った。
「ライターを貸せ」
 不機嫌を装うが、成功はしていない。伊達は案の定と言える結果に笑いを零した。それで赤石は、今度こそ本当に、不機嫌になれた。

 伊達の差し出したライターを奪い取る。だが、苛立ちのせいか、からかわれたことへの恥ずかしさのせいか、なかなか火がつかない。カチッ、カチッと小さな音が薄暗がりに繰り返される。ガスはまだある。おそらく、焦りすぎているのだろう。
 まったく大した様だが、毎日のように桃に追い回されているのだ。それを思えば、よく陥落せずにいられるものだと、いささか感心しないでもない。
「ったく」
 伊達は赤石の手からライターを奪い取り、灯した火を近づけてやった。

 狭い物置に、二人分の紫煙が立ち昇る。
 不機嫌な赤石の吐き出す煙は、飛行機雲のように細く長い。それもすぐに空気中へ溶け込んで消える。伊達は、「ご苦労さん」の意と、「分かってる」の意を込めて、赤石の肩を一つ叩いた。
 それでようやく、赤石の不機嫌も煙と共に吐き出されて消えた。
 まったく、桃の執拗さといったら、半端でも冗談でもないのである。
 しかも、隙有らばベルトを外しズボンを引き摺り下ろそうとする。無論、うかうかしていれば褌まで抜き取られるだろうことは言うまでもない。

 男に生まれ男らしく育ち、男として生きてきた赤石にとれば、己の尻を狙われるなど、理解の範疇外のことだ。何故そうなるのか、どうすればそんなふうに思えるのか、まるで分からない。
 世の中には、こういう閉鎖的で男性ばかりの社会にいると、そういうことも自然と生じてくる、などという説があるが、赤石にはまるで無縁である。そういった欲望など、日々の鍛錬と修行で解消すればいい、という不健康に健全な精神の持ち主なのだ。
 どうすれば男の尻に欲情できるのか、赤石には世界の三大不思議の一つと言ってよかった。

 赤石のくわえた煙草は、二分ともたずに灰になった。なんとなくまだ口が寂しい。と思うと、目の前にまた箱が出された。見れば伊達は、とればいい、という顔をしていた。
 妙な奴だ、と赤石は思った。傍若無人なようで、気がきく。
 からかうのは、赤石の趣味ではない。くれるというなら、遠慮なくもらおう。ただそれだけである。
「すまんな」
 短く詫びと礼を言って、また一本抜き取る。差し出された火を吸いつけて、赤石はようやく、リラックスして大きく息をついた。

「で、今日はなにがあったんだ」
 伊達も二本目の煙草を取り出した。赤石が桃に追いかけられるのは最早日常の光景と化したが、その理由は、伊達が聞いただけでも様々ある。一緒に帰りましょうから買い物に付き合ってください、銭湯に行きませんか、といったところから始まって、―――嘘か真か、尻拓なるものをとらせてくれとせがまれたことがあるとかないとか。そんなものをなんにするんだと、頭痛と眩暈を覚えた伊達だが、デマだろうと言い切れないことがなにより怖かった。
 日々エスカレートしていく桃の要求。
 しかし、
「……いや、まだ何も」
 と赤石は答えた。どうやら、校庭で桃と目が合って、近づいてきたから逃げ出したらしい。桃が猛烈な勢いで追いかけてくるので、赤石も必死に逃げただけのようだった。

 伊達が呆れ果てるのは、もうそこまで極まった、桃と赤石の関係についてだ。
 まだ何があったというわけでもないのに赤石が逃げるのを、情けないと笑う気にもなれない。それほどに、桃の盲愛ぶりは限度を超えている。いや、あれが愛なら、桃はたぶん人類ではないだろう。人類以外の生物の愛だと思わなければ、尻拓などという発想を認知することはできない。
(最初はそうでもなかったと思ったが)
 伊達は、桃が赤石の話をするようになった頃を思い返した。
 最初は他愛もなかった。ほんのちょっとしたことで、赤石の名前が出てくるようになっただけだ。
「そういえば先輩って、肉と魚、どっちが好きなんだろうな」
 とか、
「昨日、赤石先輩がさ」
 とか、とにかく話題にしたがった。伊達の向かいにいたのが桃でなく女子高校生ならば、微笑ましい光景である。
 だがいつからか、授業の合間の休み時間、桃は赤石捕獲のための計画を練り、トラップを開発するようになっていたのだった。

 桃に諦める気がない以上、この日常はこの先も続く。しかも、おそらく、信じ難いことだが、更にエスカレートしつつ続くと思われる。今に尻拓以上のモノが出てくるかもしれない。
 赤石はそこまで想像していなかった。とにかく目の前の現実から逃げるので精一杯である。しかも健全な頭。これ以上恐ろしいコトなど出てきもしない。
 赤石も災難だが、立場的に桃に一番近い伊達は、今後己にも降りかかってくるであろう、とばっちりの火の粉について考えた。今も既に、協力してくれるよな?とにっこり脅されている。幾多の修羅場をくぐり抜け生き伸びてきた伊達でも、あれは背筋がぞっと寒くなったものだ。

 赤石が己の不甲斐なさ(人よりはるかに豪胆なのだが)でどうなろうと、さして知ったことではない。気の毒だとは思うが、嫌なら死ぬ気で、あるいは殺す気でどうにかすればいいのだ。
 伊達にとっての問題は、巻き込まれかねない自分についてである。
「……赤石」
 しばらく考えて、伊達は赤石を呼んだ。
「うん?」
「三日だけでも、あれから離れたかねえか?」
「? なんなんだ」
「昨日、邪鬼から仕事を引き受けてな」
 三号生筆頭を呼び捨てにして、伊達は短くなった煙草を床に捨て、爪先で踏んだ。

「示談なんだが、場所が台湾だ。本当はあいつが行く予定だったのが、抜けられねえ用事ができて、代役のきくこっちを俺に回してきた」
 邪鬼が、何故配下の死天王ではなく、伊達にそんな仕事を回すのか。疑問に思った赤石だが、それはたぶん、尋ねたところで答えてはもらえないだろう。知っているのは、伊達があまり喜ばしくないところに妙な人脈やコネを持っていることと、邪鬼とも男塾以外での付き合いがあったらしい、ということくらいだ。それらしきことを邪鬼の口から聞いたことがある。その時の邪鬼は、あまり穏当な気配ではなかった。つまり、深入りすればどうなるか分からない、ということだ。
 今回のことも、追及しないに越したことはない。
 伊達が言いたいのは、桃から数日の間自由でいるために、仕事についてこないか、ということ。赤石に関係があるのは、たったそれだけのことなのだ。

「俺がついていってもいいのか?」
「悪くはねえだろう。話は俺がつけるが、ま、あんたは一応、万一の時のための用心ってことで、な」
 もちろん、赤石が断るわけがなかった。
 こうしてその日の夕刻、赤石は桃に見つからないようこっそりと、伊達と共に成田に向かった。

 


 それからの三日は、赤石にとっては久々の安寧だった。
 桃の行動力と非常識さ加減ならば、ここまで追ってきても不思議はないが、どうやら伊達が塾長やその他実力者たちに、桃をなんとか引きとめておいてくれと頼んだらしい。
 もちろん、仕事のほうは伊達一人で滞りなく済ませた。邪鬼の人選はまさしく適当だったと、赤石が感心せずにはいられないほどの圧倒的なやり方で。常識だのなんだのを考慮してしまう、死天王ではこうはいくまい。
 小さな常識を超えた、絶対的な無茶。有無を言わせずに納得させるものが、伊達にはある。
 何をどうしたかは、永遠に秘密にしておこうと赤石は決めている。

 話は一日でついたので、丸一日は自由だった。
 それは、なんの気兼ねもない本当の自由に思えた。
 赤石には、対等に腹を割ってなんでも言い合える相手がいなかった。そのことに赤石自身なんとなく気付いてはいたが、これほどはっきりと確信はしなかった。
 一号生たちは「先輩」として自分を立てて、何かあれば一歩譲る。同輩たちも、自分より一つ下がったところに畏まる。三号生たちは、邪鬼や死天王に対しては敬愛する先輩として赤石自身、一歩引かずにはいられないし、上級生だというだけで尊敬できるわけではない相手も、少なくとも無碍には扱うまいとしてしまう。桃は……桃のことは、考えまい。あれはたぶん、地球外生命体だ。

「なに馬鹿なことやってんだよ」
「おまえ、本当に一日に十回は人を『馬鹿』呼ばわりしてるだろう」
「馬鹿だから馬鹿ってんじゃねえか。いいから寄越せ」
 ものの見事に失敗して油でベタベタになったチャーハンを、伊達が赤石の手から、フライパンごと奪い取る。
 ホテルではなく、妖しげな民家の一室に滞在しているから、こんなことになっている。伊達の知人の家らしい。何故こういう場所の「裏通り」にまで知人がいるのかは、やはり問わないことにしている。
 なんにせよ、人を二言目には馬鹿呼ばわりして、好き放題言ってきて、好き放題言わせてくれる相手など、これまでいなかった。そんなことに、こうして共に時を過ごして気付いたのだ。
 手際よく油を飛ばしていく伊達を見ながら、赤石は本当に感謝していたし、解放的な気分だった。

 三日目の夜が来た。
 明日の朝には日本へと帰らなければならないかと思うと、赤石の気は重くなる。この三日間の不在分、桃から猛烈な攻撃を仕掛けられることは明白である。
 だが、だらだらと追われつづけるよりは、この天国を満喫した後で、地獄でも見てきたほうがいい。そうすれば桃も少しは息切れして、束の間のプレイクタイムが発生しないとは言えない。
 真面目な赤石は、男らしく潔く、逃亡生活に戻る覚悟を決めた。

 荷造りを終えて帰りのチケットを眺め、明日から始まる生活を思い、決意と不安(ともすると恐怖)の間を漂っていた時―――。
「赤石、起きてるか」
 部屋の入り口から伊達の声がした。ドアなどという高級なものはなく、振り返れば姿が見える。
「どうした」
 赤石が問うと、伊達は薄く笑って、大ぶりの瓶を一本、掲げて見せた。

「酒か」
「ちっと面白いモンを見つけてな。土産に持って帰るより、土産代わりに飲んで帰ったほうがいいだろう。持って帰りゃ、どうせ一人一舐めの回し飲みだ」
 薄青い瓶には、ラベルも何もなかった。非合法に作られているものらしい。
 こんなものを飲んで大丈夫なのか、と赤石は一瞬ひるんだが、伊達はさっさと部屋に入ってくると、粗末な封を口で切ってそのまま瓶の口を含んだ。
 喉が上下し、青い瓶の中に揺れ動く液体が、見る間に減っていく。さして強い酒ではないのだろうか。一瞬はそう思った赤石だが、伊達が桁外れに強いだけということもある。むしろそちらの可能性のほうが高そうだった。

「なかなかイケるな」
 そら、と伊達は、残り三分の二程度になった瓶を赤石へと突き出した。
 躊躇いのある赤石だが、この三日間の礼代わりに、覚悟を決めて付き合うことにした。体に悪いとしても、毒ではないのだ。
 少し味見してから、というのがどうにも見栄と意地とを刺激する。赤石は瓶を受け取ると、伊達と同じように喉に流し込んだ。
 やけに甘ったるく、喉にからむ。一息つくと、かっと胃の底が熱くなった。
「なんだ、これは」
「花の酒だとよ。精製のしようによっちゃ、麻薬にもなるらしいがな」
「麻薬だ?」
「酒だってその一種だろう。気にするな。俺はそんなことより、もう少し辛いほうがいいんだがな」
 伊達はそう言って瓶を取り返した。

 二人とも、酒の強さには自信以上の定評がある。だが赤石の頭の中は、三口目には回り始めていた。
 夜が紅紫に色づいて、歪んでいる。目は開けているはずで、なにかを見ているのは確かなのだが、なにを見ているのかは分からない。
 かなりヤバい代物なんじゃないか、と気付く前に、頭は奇妙な幻覚の夜に引きずり込まれていた。

 口を何かに塞がれて、息ができなくなった。息苦しさに顔を振るが、一度解放された口は、またしてもすぐに覆われる。生暖かいものが口の中にまで滑り込み、かってに動き回る。気持ち悪いとは思わなかったが、得体の知れない生き物が勝手に暴れているようで、思わず歯を立てた。
「痛ェじゃねえかよ」
 耳もとで響く伊達の声。
 薄く冷えた笑い声がする。
 なんだ、と思った耳朶を濡らされる。
 伊達、と声に出したはずが、自分の耳には聞こえない。聞こえたのは、大儀そうな溜め息だけだ。

「試してみろよ」
 伊達の声だけが、やけに大きく頭の中を支配する。試す、という言葉だけが繰り返し繰り返し、押し寄せては引いていく。少しずつ小さくなりながら、繰り返し、繰り返し。
 感覚は肉体の外にまで広がって、首から胸、腹へと伝っていくむず痒いような感触が、色づいた夜に漣を立て、揺らす。水の中に漂いながら、紫の夜空を見上げているようだ。
 生ぬるい水底で、発散される熱が陽炎となり、揺れる。体ごと揺れる。手足が重く沈んでいく。痺れるような眠気が頭の奥を疼かせて、気がつけば目を閉じていた。
 低音の耳鳴り。微かな頭痛。不快だが、逃れようがない。

 やがて、体中に渦巻く熱の中心に重みがかかって、下腹にボディブローでももらったような衝撃があった。

 自分が何をさせられているか気付いた時には、完全に飲まれた後だった。
 なにが起こっているのか、赤石には理解できなかった。
 分かるのは、強烈な快感である。
 獲物を貪る猛獣の猛々しさで、伊達は赤石を内に収めたまま体を弾ませる。そのことに気付くのにさえ、だいぶ時がかかった。
 止めようにも手足はまともに動かず、舌も麻痺したように動かなかった。閉じようもなくて開いたままの口の端から、唾液が零れていく。みっともない、と思うだけの頭は戻っても、やはり手は動かない。
 背を丸めた伊達の舌が、それを丁寧に拭いとる。そしてまた、体を弾ませる。
 強烈な締め付けと、摩擦。擦り上げられるたびに、射精しそうになる。何度かはそのまま放ってしまったが、伊達はいっこうに降りようとしない。

(くそったれが……!)
 唯一動くのは頭だけだ。それと、かろうじて目。だが世界は、まだぼんやりと紅紫色をしている。
「どうだよ、赤石。満更悪いもんでもねえだろう」
 荒れた息の合間から、半ば笑いながら伊達が言った。
「て、め……っ、いって……ドコ、で、こ、な……」
 痺れた舌を懸命に動かした。途端、その口に指を押し込まれた。ゆっくりと動かされると、妙な感覚が―――快楽らしきものが、そこから生まれて言葉を奪った。
「野暮は言うな」
 伊達が妙な具合に腰を回す。
 粘膜がそれに合わせてよじれ、強烈な刺激となって赤石を絞り上げた。

 


 翌朝、赤石は頭の芯に澱みを抱えて唸っていたが、伊達はけろりとした顔で、非難の視線も受け流している。
「てめえ、なんのつもりだ」
 睨み付けても、いつもどおりの薄い笑みを浮かべて、
「俺もちっと酔ってたからな。まあ、いいじゃねえかよ。無理やり犯っちまったわけじゃねえんだ」
 伊達が酔っていたなど嘘だ、と赤石は思ったが、確かめようはない。
 ただ、
「犯られるならともかく、犯るならそう大したことでもねぇだろ。桃が鬱陶しいなら、ケツ貸すのは御免だが、と持ちかけたらどうだ。妥協するかもしれねぇぜ?」
 と伊達は言ったが、少なくとも、そんな「覚悟」をさせるためにしたわけではなさそうだった。
「そろそろ行くぜ」
 伊達が手荷物を肩に戸口に向かい、赤石は考えるのはやめて後を追った。
 忘れ物はないかと振り返った時、部屋にはまだ、あの酒の甘い匂いと、微かな紅紫の色が残っていた。

 


 塾に到着すると、伊達は邪鬼のところへ報告に行くと言い、裏口から三号生地区へと向かっていった。
 赤石は塾長への報告を頼まれて、一号生校舎に向かう。
 だが、
「せーんぱーい?」
 校門をくぐるなり、がっしりと後ろから肩を掴まれた。
 声でもう既に分かっているが、桃―――だ。
 三日間のツケを払わなければならないらしい。
「どこ行ってたんですか? 俺に内緒で。それも、噂じゃ伊達が一緒だとか聞いたんですけどね。まさか、二人で旅行ですか? でもって、イケナイコトしてきたんじゃないでしょうねぇ?」
 出かける前ならば、「いけないこと?」と素で聞き返せたかもしれない。最早、動揺を押し隠して不機嫌を装うのが精一杯だ。
「どうなんですか、先輩?」
 桃の表面ばかりは温和な笑みを見て、赤石はこれから始まる地獄について覚悟を決めた。
 そうして、たしかにこの三日……いや、二日半は天国だったが、ともすると最後の半日で、余計な厄介事を一つ抱え込んだのではないか、とげっそりするのだった。

 

(終)