青い薔薇 それはこの世にありえぬ証 けれどもし ありえぬ花が咲いたなら 俺の願いも叶うだろうか
暑い夜だった。 どうしようもなく寝苦しくて、卍丸は苛立って起き上がった。 窓を開けると、風が涼しい。 どうやら暑いのは、密閉されたこの部屋だけらしい。 窓を開け、ドアを開け、空気を入れ替える。 ふと、見下ろした表に影が動いた。 (センクウか) 夜には目立つ姿だ。 まるでこの世のものではないくらいに、ぼんやりと淡く浮かび上がる。 月明かりのせいとは分かっているが、何か異様なものを感じて、怖くなる。 (こんな時間に、何処行こうってんだ) 卍丸はシャツを引っ掛けて、そのまま窓から飛び降りた。 あれを野放しにするのは、危険すぎる。 あれは、人の姿をした、人ならざる獣なのだ。
一度だけ、センクウが本気で戦うところを見たことがある。 殺人狂としか思えないイカれた男が相手だった。 ひきつった笑い声を洩らしながら、猿のように闘場を飛び回り、手につけた爪で獲物を引き裂く。 そんな男を相手に、センクウは最初、何故か動こうともせずに佇み、動きだけを目で追っていた。 攻撃をかわそうともせずに、だ。 切りつけて切り刻んで、ズタズタに引き裂いて殺す。そんな信条でもあるのか、その男は急所には手を出さない。 いくつかの手傷を負わされ、白い肌に赤い雫を滴らせながら、その時、センクウが笑った。 そんな笑い方をするのを見たのは、初めてだった。 いつも何処か無気力そうに、淡々として、表情を変えることさえなかった男が、見せたのは凄艶な笑み。 相手の男の動きすら止まった。 それは、実に美しい表情だったのだ。 ただし、同じだけ恐ろしくもある。 うっとりと、潤んだ目で、舌で唇を湿らせる。 そして、 「おまえは、楽しませてくれるか?」 そう言うなり、攻勢に出た。 凄まじかった。 いや。 滅茶苦茶だった。 相手の男のほうがよほど可愛いと思える有り様だった。 攻撃を避けようともせずに向かい、血を噴き出しながら、ひるみもせずに切り裂く。 ほとんど恍惚とした表情で、自らの血に触れ、舐め、敵を見る。 欲情している。 そう言ってしまったほうが正確に見える、濡れた喜悦のカオ。 そして、異様な気配に気付いた相手が、ようやく人らしく恐怖に青くなり、怯えたその時。 センクウは笑みの代わりに怒りを見せて、一瞬で、その男を細切れにした。 つまらない。 憮然とした顔が、そう語っていた。
それが引き金だったのだと、卍丸は思っている。 それからのセンクウは、まともではなかった。 肩が触れて文句を言われた、騒がれると煩い、なんとなく気に入らない。 それだけの理由で、殺そうとする。 極めて冷静で、感慨のない目。懇願も聞き入れられなければ、何故と尋ねても答えはない。そして咎めたところで、何を言っている、と言わんばかりの冷たい目を向けられるだけだ。 やめさせるために邪鬼がとったのは、口が聞けなくなるまで、動けなくなるまで、ただひたすらに痛めつけるという、これもまた正気とは思えない手段だった。 ほんの僅かでも抵抗すれば、容赦なく殴る。 床に頭を押さえつけて、反抗的な目を見せればそのまま床に頭を叩きつける。 手加減もない。遠慮などあるはずもない。僅かな慈悲も、寛容さもない。 完全に反抗の意思がなくなるまで続けて、従属させた。 それは人を従えるのではなく、凶暴な獣を従えるやり方だった。
それからいくらかの時をかけて、センクウという男には、モラルやタブーといったものが、実感できないのだと分かった。 先天的にそういうふうに生まれついたのか、それとも何かあったのかどうかは分からない。 彼は知識としてならば、常識も倫理も道徳も、知ってはいる。 それに従うこともできるが、従わなければならない理由が理解できない。 殺人が犯罪であり、些細なことで犯すなどとんでもない、と言われることは知っているが、邪魔なものを殺して何が悪い、としか思えない。 自分の大切なものは守ろうとしても、相手の大切なものを破壊することに躊躇いがない。自己と他者を完全に切り離し、重ね思いやることをしない。 気に入れば優しくし大事にもするが、飽きればすぐに捨てて顧みもしない。飽きて捨てても、また興味を持てば近づいてきて、拒もうものなら……。 自分の意思と感情だけが全ての、獣。 今まではそれを自覚せず、人に倣って生きてきたものが、解き放たれた。 己を知った獣は気侭に走り始め、邪鬼という巨大な怪物に、力ずくで止められた。 邪鬼には逆らえないので、おとなしく、ニンゲンらしく、世の中の道理に従う。 そうしていかにもニンゲンらしく振舞い、ニンゲンのように笑うようにすらなったが、根本的に彼は、獣なのだ。
こんな月夜には、人間でさえ狂気に駆られる。 まして理性の薄い獣。 卍丸が気付かれないように後を追っていくと、センクウは自分が作り出した薔薇園に辿り着いた。 人間らしくあることを求められれば、植物の世話さえ見事にして見せるくらい、完璧に真似をする。 だが、この光景は偽りだ。 巧みに演じられた、見せ掛けの慈愛。 今のセンクウは花を踏み倒すことも厭わず、花壇の中に入っていく。 赤い薔薇は夜の中で黒々と風に波打ち、まるで血の海。その中を歩く朧な姿は、美しい魔性の獣そのものに見えて、卍丸は小さく怖気をふるった。 だが、その奥。 白い薔薇は、月と夜に染められて、青く輝いていた。 微かに輝く薔薇の海に、立ち尽くす姿は、何故か稀薄だった。 言葉もなく、卍丸は目を奪われ、見つめていた。 この世のものではない獣には、この世のものとも思えない景色が似合う。 黒い血の海、青い夜の薔薇。 やがてゆっくりとセンクウは跪いて、一輪の白い薔薇に頬を寄せた。 愛しそうに、淋しそうに、動かない恋人に擦り寄る獣のように。 その目から、涙が伝う。 月を見上げた白い頬を、途切れなく落ちていく銀色の雫。 薄く開いた口から、哀しい鳴き声が聞こえたような気がした。 (ひとりぼっち……) そんな言葉が、卍丸の脳裏をよぎる。 誰にも理解されない本当の姿。 誰にも許されない獣の孤独。 人間の群れに迷い込んでしまった、憐れな獣。 淋しくて淋しくて、けれど何処にも、仲間はいない。
気が付けば、濡れたままの目が卍丸のほうを向いていた。 隠れようともせずに突っ立っていたのだから、無理もない。 人間の顔をして、自嘲して見せるのが……怖い。 本当は今も、淋しくて心細くて、恋しくて焦がれて、どうしようもないのだろう。 だが、今迂闊に近づいてはいけないことは、直感的に、というよりむしろ本能的に、分かっていた。 あれは、罠なのだ。 花が蜜で虫を呼ぶように、人間の顔で獲物を誘っているに過ぎない。 近づけば、食われる。 進むか退くかしかないなら、卍丸には、退くほうしかとれなかった。 背を向けながらも、限界にまで、全神経で警戒する。 幸い、飛び掛ってくる気配はない。 安堵したが、同時に罪悪感も覚えた。 今センクウが、どんな顔をして、どんな思いでいるのか、不満顔か、それとも……。 それを思うとひどく心がかき乱される。 だがだからといって、自分には何もできないのだ。 卍丸は心の中で唇を噛みしめる。 中途半端な愛情で、見せ掛けの理解で、近づいて襲われ、乱暴に突き放すよりは、最初から近づかないほうがマシなはずだ。 遠く背後から、月に鳴く哀しい声が聞こえたような気がした。
(終)
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