「おまえのせいだ」 「うるせぇ」 「どうしてくれるんだ」 「うるせぇ」 「風邪ひいたら……っ」 言いかけて、センクウは本当に一つ、くしゃみを零した。 土砂降りの山の中である。 夏の終わり、ちょっとした仕事で卍丸と出掛けたのはいいが、帰りの道で卍丸にハンドルを渡したのがまずかった。 ワイパーを動かしてもほとんど意味がないほどの雨なのに、卍丸は加減もせずにアクセルを踏みつづけて、結果、車は林の奥で大破している。 さすがに落ちる間際に二人とも飛び出してはいたが、そのため、灰色の雨の中を歩いていくはめになってしまった。 日が暮れ始めると気温は一気に下がって、降り止まない雨はいっそう冷たくなる。 時折、山道を走っていく車はあるが、このずぶ濡れの有り様では、乗せてもらえそうもない。 国道に出れば公衆電話くらいあるだろうから、そこで誰かに迎えに来てもらうしかないのだが……。 歩いていくとなると、あと二時間近くはかかりそうである。 もしこの辺りの地理に詳しければ、道を無視して林を抜けることもできるのだが、不案内なのはセンクウも卍丸も一緒だった。 迂闊に踏み込んで迷って、更に雨の中を彷徨うよりは、素直に車道を歩いていったほうがいい。 もし途中に何か建物でもあれば、そこで雨宿りもできる。
そう思って歩いていくと、大きく崖を回りこんだところで、木立の上を真っ青に照らしている明かりが見えた。 こういう山の中に、ああいう悪趣味なライトとなると、それがどんな類の建物かは考えるまでもない。 しかし、少なくともそこでなら電話は借りられるはずだし、バスルームもある。 この雨だ。 雨宿りに立ち寄ったとしても、あまり不躾な目では見られないだろう。 「あそこに……」 二人で同時に言いかけて、センクウがまたそこでくしゃみをしたので、 「寄るか」 と最後まで言ったのは、卍丸になった。
建ったのは最近らしく、人の手を見ることもなく、フルオートで鍵を手に入れる。 大理石を模したチープな廊下に水溜りを残しつつ部屋に辿り着くや、センクウは上着を卍丸に投げつけた。 「先に使うからな」 文句は言わせない。 おまえはしばらくそのまま待ってろ。 いちいちそんなことを言ってやる気もなくなっているらしい。 さすがに車を落とした張本人としては、卍丸も何も言えない。 しかし、かといってずぶ濡れのまま待っているほど反省しているわけでもなく、卍丸はクリーニングの袋がかかったバスローブを見つけると、濡れた衣類は全て放り出して、それに着替えた。 それから広大なベッドの端に腰掛けて。 (!?) 寝転がろうとして、はね起きた。 (……いい趣味してんな、この部屋) ニヤリと笑って、リラックスできる体勢に落ち着いた。 そういう仕掛けらしい。 バスルーム内に明かりがつくと、壁が透ける。 いわゆるマジックミラーというヤツ。 別に何か変わったことをしているわけでもないが、まさか見られているとは思わないで、シャワーを浴びている姿は、なかなかに面白い。 それにしてもセンクウは、あくまでも卍丸を待たせるつもりらしい。 湯まで張って、その中に体を沈める。 湯船の中に入られてしまうと、何も見えない。
「センクウ」 卍丸はベッドから降り、透き通った壁の前まで行って、中にいる相棒を呼んだ。 返事はないが、聞こえてはいるらしく、顔を向けられる。 安物のマジックミラーだとこちら側が透けることもあるが、その辺はぬかりのない卍丸。室内の明かりは消してある。 これなら、ただの硝子でさえ光のある側にとっては鏡同然だ。暗いほうは見づらくなる。 「いつまで怒ってんだよ。いい加減、機嫌なおせや。もうあったまったろうが」 声は聞こえてこない。 見せていないつもりの顔だけが見える。 少し考えて、小さく笑う顔。 「一緒に入るか?」 その笑みが深くなる。 こちらから見えているので、つい向こうからも見えているように錯覚して、卍丸は首を横に振った。 「こっち……この壁の前に来いよ」 軽く壁を打つ。 怪訝な顔をしながら、センクウが湯船から出て、壁の前に来る。 壁に手をついて、視線はまるであらぬ方向。 「なんだ?」 「このまま、してみねぇか?」 「は?」 「簡易テレフォンセックス」 言うと、心底呆れられた。 つい、そんな顔するな、と言いかけて慌てて言葉を飲み込む。 見えていることがバレてしまってはいけない。 「な? 電話使わねえでも、できるだろ」 「だからってなんでこんなところで」 「せっかくこういうトコにいるんじゃねえか。かといって、ただヤるだけってのも芸がねえ」 「芸もなくただヤるためにある場所じゃないのか、ここは?」 呆れた声を出しつづけてはいるが、センクウはもう笑っていた。
抱き合う代わりのように、壁に腕をついて。 目を閉じている。 見えないから、見ても意味がない。 センクウは卍丸の指示通りに、手を自分の体に這わせながら、時折唇が名の形を作るが、声は小さすぎて聞こえない。 「見えていない」のだから無視したところで構わないだろうに、卑猥な指示にまで、躊躇いながらも応じてくる。 そして聞こえない名前が見えるたびに、卍丸は、立ちはだかる壁を壊して、今すぐにでも抱き締めたい衝動に襲われた。 自分で好きなように痴態を演じさせておきながら、もどかしさに耐えられなくなったのは、卍丸のほうが先だった。 立ち上がり、壁を回りこむ。 本当に見えていないならともかく。 届かないところにいるならばともかく。 見えていて、手をのばせば触れられる欲しいものを、ただ黙って見ていられる卍丸ではなかった。
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「……雨は、上がったな」 「上がったな」 「……仕方ない。行くか」 「なあ、ここに着替え持ってきてもらおうぜ」 「ここにか」 「別にいいじゃねえかよ。雨宿りで寄った、濡れてたから脱いだ。乾かなかった。まあ、勘繰られたところで……」 「馬鹿か、おまえ。濡れたから脱いでそれだけだったら、ちゃんと干しているはずだろうが。すぐにバレる」 「まあ……そうか。けどよ、バレるも何も、どうせ暗黙の了解ってヤツじゃねえか」 「卍丸。暗黙の了解というものはな、あえて知られるような真似をせずにいてこそ成り立つものだ。隠そうともしなくなった時点で、あれこれうるさく言われるようになる」 昨夜のことなど何もなかったかのように、いつもそうなのだが、明るいところで見るセンクウは冷たいほどに素っ気ない。 だからこそ、二人きりの夜に見られるものが格別の味わいなのだが、淡々と正論を唱えられると、報復に出たくもなる。 とりあえず。 卍丸は濡れた服をそのまま身につけて、気持ち悪さを無視しつつ、ドアに寄った。 「センクウ」 「なんだ」 「風呂場の明かり」 「消したが?」 「いや。つけて、こっちの部屋来てみろよ」 「はあ?」 「いいから」 卍丸は部屋の明かりを落とした。 昼とは言え陽光の乏しい部屋は、薄暗く翳る。 不機嫌に見えるくらい訝る顔をして、センクウがバスルームへと消えたのを確かめて、卍丸はダッシュで逃げ出した。
(END...)
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