で あ い

 八連制覇が終わって一ヶ月。
 死んだと思っていた連中が姿を見せて、桃や富樫たちはえらく喜んでいたが、伊達には今更だった。
 邪鬼が「天挑五輪」と呟いた時から、もう分かっていたのだ。
 十六人一組での出場ということと、人の命の重みを知らないはずのない江田島のあの態度。
 誰も死んでいない、ということを予測するのに、伊達にとればこれで充分だった。
 ただ、やはり実際に無事だった三面拳の姿を見ると嬉しくないはずもなく、それを押し殺すのには苦労した。
 性分からしてそんな喜びを人に知られたくないというのもあるが、何より、どうせこれから先、また苛酷な闘いが待ち受けているのだ。
 それは伊達自身にとればむしろ望むところだったが、その中でまた誰かが、今度こそ誰かが命を失うかもしれないことは大いにありうることで、今一時、喜ぶだけ虚しい。
 浮かれている暇があったら気を引き締めろ、と言いたかった。
 しかし、始まってしまえば否応なく切迫してくるだろう。
 それなら、喜べる時、喜べる者には、その温かさを思う存分味わわせてやりたいとも、思うのだった。

 そんなわけで、どうしても仏頂面しかできない伊達は、一人、仲間のもとを離れて散歩していた。
 三年前と変わったところのない、不可解な広さを持つ男塾の敷地。
 今右手に立ちはだかっている刑務所もかくやというこの壁が、一号生校舎からは見えないというのだから、その広さも知れるというものである。
 無事だった三号生の八人は、今頃この中なのだろう。
 武芸に秀でた彼等ならば、天挑五輪というものの苛酷さについてもわきまえているだろうから、無事を喜ぶよりはこれからのことを思い、療養中になまった体に喝を入れるべく、鍛錬にいそしんでいるのかもしれない。
 敵に回せば厄介だが、味方になるなら、使える戦力だ。
(ん?)
 延々と続く壁、真昼の太陽に照らされたその影。
 地面に落ちたその影の一部が、妙な形に歪んでいる。
 何かと思って壁の上を見上げると、十メートルはあるかというその壁の上に、腰掛けている人影が見えた。
 逆光でよく分からないが、背を向けて上を見上げているようだ。
 目を凝らして、いったい誰が何故あんなところにいるのか、歩きつつ見極めようとした、その時。
「馬鹿! そんなところで何をしてるんだ!!」
 壁の向こうから、ものすごい大声が聞こえた。


 気が塞がる時は、広いところに行きたくなるのだと言う。
 しかし広いといっても世界には様々な物体があり、ましてやこの狭い日本、広々と地平線まで見渡せるような光景は存在しない。
 許されるならこの辺り一帯の建物だのなんだのを全て破壊したいところなのだが、いくらなんでもそんなことをすればどうなるか、影慶にも分かっている。
 誰が困ろうと知ったことではないが、肝心なセンクウが、困っている人たちを見て憐れむに違いなく、そんな馬鹿なことをする自分たちに腹を立てるのだ。
 そんなわけで、影慶は「高いところ」を見上げて、センクウの姿を探していた。
 空に障害物は少ない。
 だから、何か悩んでいたりする時、センクウは高いところにいることが多いのである。
 別に何か用事だというわけではない。
 ただ、八連が終わって復帰して以来、どうにも元気がないようだったから、話を聞けないかと、皆して探すことに決定したのである。
 天動宮周辺を卍丸が、宿舎付近を羅刹が、今頃捜し回っているはずである。
 影慶は、それ以外のところをうろうろと歩いていた。

 温室、林の中、裏山の池、と昼飯も食わずにとにかくあちこちを探し回って、まさか外へ出たはずもなかろうが、と疲れと不安を覚え始めた時。
 ふと見やったところに、その姿が見つかった。
 なんと、三号生地区を囲む塀の上。
 高さもあるが、何より、乗り越えられないように電線が通されているのである。
 無論、それは今壊れていて、作動していないからこそそこに座っていられるのだろうが、いきなり壊れて何故かも分からないのに動かなくなった以上、いきなり直って突然作動することもありうるのである。
 カール・ルイスもベン・ジョンソンも(古いというな。連載当時は1980年代だ)真っ青の、百メートル9秒フラットかという勢いでダッシュ。
 障害物は破壊し、ともすると一人くらい蹴り飛ばした気もするがそんなことに構ってはいられず、まあたぶん案山子だろうくらいに考えて駆けつけ、塀の上へと怒鳴りつけた。
「馬鹿! そんなところで何をしてるんだ!!」


「はあ……」
 溜め息が洩れた。
 不本意ながら拳法などというものを身につけ、こうしてこういう場所にいる以上仕方がないとは思っているが、嫌いなものは嫌いだ。
 人を殴って、ましてや殺して、何が楽しいのか。
 そんなことをして確かめなければ自分の「強さ」に自信が持てないなら、いっそ弱いままでもいい。
 いや、そんなものが「強さ」だとは思えない。
 しかし一度入ってしまった以上出て行くことはできない地獄の男塾。
 嫌いなものばかりではないし、好きなものがあればこそ我慢していられるが、自分を含めて八人全員が、いったんは「死亡」したという事実が、どうしても重い。
 泣きたくなってくる。
 というより、もう既に涙目になっているのだが。
 また誰かが死ぬかもしれないことを思うと、怖くて仕方がない。
 邪鬼様や影慶たち、ディーノたちがいなくなったら、と思うと恐ろしくてたまらなくなる。

 天挑五輪についてそう詳しいわけではないが、八連制覇より苛酷であることは疑う余地もない。
 いかに生死に関わる争いといえど、八連制覇はあくまでも男塾内部で行われることで、お互いに「身内」だ。
 そこには先輩と後輩という関係があり、情もある。今回こそ実力が拮抗したために多くの「死者」を出したが、たいていは自分たちの圧勝に終わり、殺してしまうまでもなく決着はつくのだ。
 だが天挑五輪は完全なる他人と、自分たちの望みを叶えるために戦う。
 人間は残酷な生き物だ。
 生きるためではなく喜びのため、他人の希望を踏みにじることもできる。
 江田島塾長の憤懣は分かるし、卑劣な藤堂という男についてはそんな外道がいるのかと信じがたいほどだが、その藤堂を討つためにその道中、いったい何人の人が傷つき、死んでいくのか。
 味方に死傷者が出るのはもちろん嫌だが、相手にしたところで、彼等には彼等の思惑があり、人生があり、何かのために大会に参加しているわけで、自分たちの望みを叶えるためにそれを踏み台にして先へ進むのは、やはり「酷いこと」のように思える。
 こんなことは誰かに言おうものなら、何を甘えたことを、とか生ぬるいことを、と叱られるか、困らせてしまうだけで、誰にも言えない。


 センクウさんがそんなことを鬱々と、塀の上で考えていた時だった。
 いきなり、
「馬鹿! そんなところで何をしてるんだ!!」
 と物凄い大声がして、心底驚いた。
 その拍子にバランスを崩してしまい、後ろへとよろめく。
 足を塀上にかければそのまま持ちこたえることもできるが、情けない涙目になっているところを声の主、影慶に見られたくないというのもあって、センクウさんはそのまま、塀の外に飛び降りることを選んだ。
 倒れこみ、そのまま宙で身を翻し……
「!?」
 真下に、人。
 下の人物も気付いたらしく上を見上げた。
 このままでは彼の上に降りることになってしまう、とセンクウさんは塀を蹴った。
 と同時に、下の男も横へ飛びのいた。
「え!?」
「なんで……ッ!?」
 二人の座標は重なったままで、結果、ものの見事にクラッシュ。

「いたた……。あ、大丈夫か!?」
 まともに人の上に重なることになり、着地などできるはずもなかったが、どうやら相手を下敷きにしてしまったがため、ダメージは受けずに済んだらしい。
 センクウさんは慌てて横に退き、自分が押しつぶしていた相手を覗き込む。
 顔に六条の傷のある男は、伊達臣人。
 三年前から噂では知っていたが、こうして顔を合わせるのは初めてだった。
 だが、八連制覇でお互いの姿は見ているというのに、
「誰だ、てめえ」
 と言われるとは思っていなかったセンクウさん。
 自分という存在は人の視界にすら入っていないのか、と哀しくなったが、ふと思い直す。
 戦場に出る時以外、髪は立てていない。
 これのせいかもしれない。
「こうしても、分からないか?」
 顔にかかる髪を手で掻き揚げて、押さえる。
「ああ、あんたか。たしか、センクウったっけな。なんだ、普通の頭してりゃ大した色男じゃねえか」
 言って、伊達は気付かなかった自分に呆れたように、苦笑した。

 おっちょこちょいのキューピッドが、通りすがりに矢でも落としていったか。
「なんだ?」
 心拍数が一気に跳ね上がって、顔まで熱くなってくる。
 訝しげな伊達の顔をまともに見ていられず、俯いた。
(な、なんだ、これ……)
 動悸に眩暈まで感じている。
 あと一分あれば正解に辿り着けたろうが、それより早く、
「センクウ!」
 上から声が降ってきた。
 塀を飛び越えた影慶が塀際に着地し、
「貴様、伊達臣人、そこへなおれぃ!」
 といきなり毒手を振りかざしたからそれどころではなくなった。
「てめえ何しやがる!」
 難なく影慶の一撃を避けて、伊達が怒鳴り返す。
「何しやがるとはこっちの台詞! 貴様センクウに何をした!?」
「何もしてねえよ!」
「何もしてないならなんで涙目で真っ赤になってるんだ!? よもやけしからぬ振る舞いに及ぼうなどとしたなら言語道断、裁判無用! 即刻この場でそっ首打ち落としてくれるわ!!」
「冗談じゃねえ」
 どう見ても正気と思えない相手とまともにやり合う気はなく、伊達は大きく飛び退くと撤退することを選んだ。
「待たんか〜ッ!!」
 それを影慶が追いかけていき、ぽつんと取り残されたセンクウさん。
 とにかくなんとなく、影慶が来なければもう少し話でもできのたに、と思うと無性に腹立たしくなってきて、結局その日からそれ以後丸一日、影慶はセンクウさんに口もきいてもらえなかったそうな。


(おしまい)

恋の始まりはハプニングと相場が決まっているトカいないトカ。