三年目の憂鬱

 やたらと甘い匂いがすると思った。
 甘く濃く、足元に溜まって絡み付いて立ち昇って、絡んでくるような匂いだ。
 雷嵐の執務室に近づくにつれて強くなってくるその匂いに、俺はもう眩暈まで感じていた。
 分かりやすいって言やぁ分かりやすい奴だ。
 何かいつもと違うことになっていれば、この匂いで分かる。
 それも、少し嗅覚が鋭くてものが分かっていれば、匂いから奴の状態も分かる。
 この、うかうかしてると俺まで巻き込まれそうな甘ったるい匂いは、……十五年ぶり、くらいか。
「雷嵐!」
 俺が部屋に入ると、雷嵐は机の上に肘をついて、頭を抱えるように突っ伏していた。
「……なんだ、焔紅か。どうした」
 つらそう、というより気だるげに喋る。
 雷嵐が大きく息をつくと、それだけで部屋に充満する香が強くなる。
 ざわざわと背筋が落ち着かねえ。
「どうしたもこうしたもねえだろう。こりゃあ立派な公害だぞ」
「だから、閉めきっているんだがな」
「無駄だ無駄。密閉されてるわけでもねえのに。東館中すげぇ匂いだ」
「すまんな。どうも……今回は、駄目らしい」
 瞬く目の、瞳の色が「開いている」。

 研究者たちは、これを「ブルーミング」というらしい。
 ノーブルグリーン独特の現象。
 要するに発情しちまってるんだが、それを「咲く」「開く」ってあたりは、学者にしてはイカした発想だ。
 対になる「花」を求めてそれぞれが独特の香を放つ。
 昔の話だが、ノーブルグリーンがうざうざいた時代には、「交配」の時期はそこらじゅうの花も開いたっていう。
 一人が「開き」はじめれば、連鎖反応を起こして次々と、一斉に放たれる様々な香。
 それが混じり合って大気中に漂って、植物の交配も促す。
 ノーブルグリーンには、この全てを嗅ぎ分ける力があるそうな。で、自分に一番ぴったりくる匂いの主を求める。
 自然の調和ってヤツかもしれねえが、気の合う二人の香ってのは混ざると最高にいい匂いになるらしい。
 もっとも、俺たちにはもう知りようもねえことだ。
 それと、ブルーミングのもう一つの特徴は、瞳の色の変化。
 ノーブルグリーンは全員が緑色の目をしてるが、ブルーミングの最中だけ花が咲いたように色が変わる。
 今の雷嵐の目は、赤みがかった紫色をしていた。

 しかしノーブルグリーンってのは淡白な種族で、これまでも雷嵐は、その時期をやり過ごしてきた。
 三年ほどの周期でやってくる発情期を、最初の一度以外、全部抑えてきたのだ。
 雷嵐とはガキの頃からの付き合いだ。
 間違いなく十五年、いや、十八年かそこら前に一度だけ、これくらい強烈な香に巻き込まれたことがある。
 今もそうそう自制心のあるほうじゃねえが、当時の俺はもうそれだけで我慢ならなくなって、慌てて女のところにシケこんだ。
 俺はそれでいいんだが、雷嵐には、相手がいない。
 結局は執事兼世話役のじいさんが、口の堅い、手頃なヒューマンの女を見つけてきたらしいんだが、ノーブルグリーンにとって交配ってのは、体だけのことじゃねえ。
 奴等独特の共鳴能力で、心身共に一つになることを意味する。
 一方が欠けたままではろくに満たされねえもんだと、これは雷嵐の口から聞いた。
 それでも、相手がいないのだから仕方なしに、奴は三年に一度、ブルーミングが始まりそうになると前もってそれを抑制して、適当に体だけの関係で誤魔化してきた。

 さすがに二十年近くうやむやにしてきて、限界だったんだろう。
 なんとなく俺には、抑えようとすればするほど匂いが強くなっているような気がする。
「どうすんだよ」
 俺が聞くと、
「どうするかな」
 困った顔で笑われた。
「それじゃうちに帰れもしねえだろう」
「ああ。そうだ。すまんが焔紅、オミトのことをゴウキに頼んできてくれないか?」
 それっくらい、お安い御用だ。
 雷嵐自身のことについては俺にはなんにもしてやれねえし、俺は気安く引き受けて、雷嵐の執務室を出た。


 焔紅が出て行って、俺は思わず溜め息をついた。
 自分の鼻に分かるくらい、甘い香が強くなる。
 「公害」とはうまいことを言ったものだ。悪臭ではないにせよ、これほど強い香が執務館中に溢れている上に、これには「巻き込む」作用がある。
 なんとかおさまるまでここにいるしかない。
 さすがにこれでもう十八年、表に出ないよう抑え続けてきたせいか、その分症状がひどい。
 部屋の中に置いた秋咲きブルーアイリスが、満開になってしまっている。
 頭を上げるのも億劫だったが、振り返って窓の外を見れば、庭は季節外れに彩られていた。

 どうやら、先日のオミトの一件が引き金になったらしい。
 共鳴してオミトの感覚をダイレクトに味わったせいだろう。
 そういえば俺もそろそろ危ないか、とは分かっていたのに、いつになく急激に「開いて」きて、止めようもなかった。
 忘れていた。
 オミトがいるようになって、すっかり忘れていた。
 この、最悪の三年目のこと。
 俺はいつも、この時期が近くなるとどうしようもなく憂鬱になって、そのせいでブルーミングも曖昧だった。
 この期間がどれくらい憂鬱かを忘れるくらい、オミトと過ごしているのは楽しいから。
 日は刻々と沈んで、部屋の中は暗くなる。
 明かりはいらない。
 椅子から立つのも面倒だ。
 オミトのことは、ゴウキがちゃんと見てくれるだろう。彼の言うことならオミトもちゃんと聞き分けるし、事によっては焔紅も、遊びがてらにしばらくとどまっていってくれるかもしれない。
 俺は、暗い部屋の中で、一人―――。

 否応なく感覚が「開く」。
 「相手」を求めて開いてしまう。
 けれど、何処にも、誰一人として感じられない。
 帝都全体にまで拡散して、それより更に遠くまで広がっていくのに、やはり今も、誰もいない。
 昔、俺がまだ子供で、初めて「開いた」時も同じだった。
 一度きりでもう二度とは御免だと思うくらい、最低な感覚だ。
 誰もいない。
 何処にもいない。
 俺に応えてくれる仲間は、世界中探してもいない。
 母も死に、父も死んだ。
 昔は、あの時は父が俺を宥める気持ちが、たぶんこの執務室の中から届いてきて、まだ少しは良かった。
 「相手」はいなくても、俺は一人ではなかった。
 だが今は、本当にもう、誰もいない。
 俺にはもう仲間などいないのだと、突きつけられるこの時期が、嫌いだった。

 一人きりだと分かっているのに、それでも同種を求めて、放たれる匂いが強くなり、感覚が更に広がっていくのが分かる。
 もう俺自身にも制御などできない。
 庭の花は、昨日枯れた蔓薔薇さえ満開になっている。
 オーバーブルーム。
 狂い咲き。
 部屋の中の空気は、手で掻けば触れるほどに濃い。
 これで窓でも開けようものなら、帝都中の花が咲くだろう。
 それは全部、俺の情けなさの証だ。
 頭では分かっている。
 ノーブルグリーンとしては最後の一人でも、俺には別種族の仲間や同僚がいて、友人も、可愛いオミトも傍にいる。
 けれどたぶん俺は、共鳴しあって心の中まで分かち合える「同朋」が欲しくて仕方がないのだ。
 そんなものは、俺たちの種族以外誰も持たないし、持たずに強く生きているのに。
 俺の弱さが形になっただけの、狂い咲いた花の群れ。
 それを人は綺麗だと言う。
 俺そのものだ。
 外側ばかり名誉や武勲で飾り立てて、もっともらしい振る舞いで物の分かったふりをしても、この中にあるのは、実際はどうしようもないものばかりだ。
 人が俺を示して言うほど、俺は「綺麗」な生き物じゃない。
 そんなことは、ブルーミングが終われば全ての人の目に見える。
 無理やり開花させられた花は枯れ、発情に巻き込まれた動物は狂わされた生理で体調を崩す。
 「爛漫刹那の春」と学者が名づけた束の間の幻想。
 次に来るのは、穏やかな秋を飛ばした「枯死の冬」。
 全ての花が枯れ草が萎れ、動物たちまで力をなくした、陰気な現実だ。

 いきなり、窓が開いた。
 吹き込んでくる冷たい風、薄れる部屋の中の香気。
 何事かと思って振り返ると、そこに、オミトがいた。
「オミト。何してるんだ、こんなところで。どうやって入った」
 執務館は府領の最奥だ。
 いかにオミトでも、選りすぐりの近衛隊員の目を盗んで忍び込めるものではない。
 だいたい、何故こんなところまで。
「焔紅が連れてきてくれた」
「なに?」
「一緒にいてやれって。それにしても、すごい匂いだな。俺がワーウルフだったら、卒倒してそうだな」
 焔紅が?
 何故?
 それは……オミトが近くにいてくれればそれより嬉しいことはないが、こんな時に。
「駄目だ。帰れ」
 まだ衝動そのものが弱いオミトは、つい先日発情期を終えてしまったから、巻き込まれないのかもしれないが、こんな俺を見られたくはない。
 声がひどく辛辣になったのが、自分でも分かった。
 オミトは一瞬ひるんだが、俺の言葉を無視して、中に入ってきた。
「来るな!」
 命令。
 飼い主の命令は絶対。……俺は、一度としてそんなふうには、教えなかったが。
 それでも昔飼われていた時の記憶か、臣人が居竦む。
「帰るんだ。今は、俺の傍にいないほうがいい」
 ……卑怯だ。
 こんなふうに、また形ばかり整えて。
 来ないほうがいい?
 来られたくないだけなのに。

「……なんで嘘つくんだよ」
 オミトが呟いた。
 俺は怒ったような拗ねたようなその顔を見て、意味を汲みかねた。
「嘘……?」
「嘘ついてるだろう。本当は俺にいてほしいくせに。俺だってセンクウのこと、ちゃんと分かるんだ。センクウが、俺のこといろいろ分かってくれてるのと同じなんだ。俺だって、センクウのことなら分かる。言われなくたって、なに思ってるかくらい、なんとなく分かる」
 なにを、妙なことを。
 俺はそういう種族だから相手の心が読めるだけで、……分かっているつもりになるだけの、他種族とは違う。
 だが、飲まれたように動けもしなくなった俺に近づいてきたオミトは、俺に抱きついて、言った。
「センクウも思うんだな。一人でいるの嫌だって、淋しいって」
 言って、笑った。

 そんなことは、一度としてオミトの前で、いや、人の前で出したことなどない。
 もし気付いている者がいるとすれば、峨山や焔紅たちだけのはずだ。
 俺は、彼等以外の誰かの前で、そんなところを見せた記憶はない。
「なあ。この間してくれたみたいに、俺がすればいいのか?」
「え?」
「一緒じゃ駄目なのか?」
「一緒、って……」
「なんだよ。つらいんだろう? あ、それとも『ツガイ』いるのか?」
 オミトの言葉に、頭が追いつかない。
 何故そんなことをオミトが。
 焔紅が話したのか?
 いくらなんでもこんなことを、オミトに話すとは思えないが。
「ああもう。なんだよ、ぼーっとして。じゃあ勝手にするからな」
 オミトがいきなり俺の前に膝をついて、俺のベルトに手をかけた。
「ちょ、ちょっと待て! なんでそんなことを。まさか焔紅に聞いたのか」
 思わずそう尋ねてしまう。
 オミトは少し驚いたようだが、何故かむっとしたように、
「そんなこと、センクウの近くにいれば分かる。こうやって触ってれば、もっとちゃんと分かる。センクウの思ってることだったら、俺にもちゃんと分かるんだぞ」
 まさか。
「今、驚いてるだろ? はっきりは分からないけど、それくらいなら分かるんだからな。……ずっと落ち着かなかった。昼からずっと。わけ分からないのに一人でいるの嫌で、ゴウキのところ行ってもちっとも変わらないし、この前みたいにそわそわするし。でも、なんか違ってて。俺のものじゃないのが、勝手に俺の中にある感じ。でも、ここに来たら分かった。これ、あんたが今感じてるものだ。そうだろう?」
 まさか、何故オミトが、俺に共鳴して……。
「なんだよ。そんなに驚かなくたっていいだろ。センクウのほうが俺のこと、なんでも分かってるのに。俺だってもうそう子供じゃないんだ。もう少し大きくなったら、もっとちゃんと分かるようになるんだからな」
 そういうことじゃ、ない。

 共鳴したからといって、相手に俺のことが分かるわけじゃない。
 相手からも共鳴してこないと、俺のことは何も見えないはずだ。
 だがオミトは、間違いなく「俺」を感じている。
 茫然としていたが、オミトが勝手をしようとして、俺は慌ててそれを止めた。
「こんなことはしなくていい」
 外されかけたベルトを押さえて、オミトの手を掴み取る。
「なんで。俺がまだ子供だから駄目なのか?」
「そうじゃない。こんなことは、しなくていいんだ。それより……おいで」
 まさか、もし本当に間違いないなら。
 俺はオミトを膝の上に座らせて、抱き締めた。
 感覚を開いて、オミトに触れさせる。
 嬉しそうに小さく笑って、オミトが逆に触れてきた。俺の感覚に、感覚で。
 ……間違いない。
 相互共鳴。
 俺にこうして抱かれていて、安心して、嬉しいと思っているオミトの心が分かる。
 そして、その心に触れた俺が満たされていくことが、それを感じているオミトを通して、分かる。
 重なり合って次々と、何処までも深くなっていく。
 喜びに喜びを重ね、重なったその喜びに喜び、もう、それが俺のものなのかオミトのものなのかは分からない。
 ただ温かくて、……俺は、一人じゃ、ない―――。

 「種子」を残せないなら、体を重ねることに意味などない。
 ゆっくりと、少しずつ感覚を引き戻して、離れる。
 オミトが少し照れたように、顔を赤くして笑いながら、もう一度俺の首にしがみついてきた。
「良かった」
 と呟く。
「なにが?」
「センクウも俺のこと好きだって分かったから」
「それはひどいな。今まで信じてなかったのか」
「そんなんじゃない。だって……こんなに俺のこと思っててくれるなんて、思ってなかったから。こんなにたくさん好きになってくれてるなんて、……思ってなかったから」
 分かってる。
 ずっと不安だったことなら、分かってる。
 今こうして深く触れて、はっきりと分かりもした。
 いつか捨てられる時が来るんじゃないかと、心の奥底にあった不安と恐れ。
 だが、そんなことは決してないと、もう分かったはずだ。
「オミト」
 髪を撫でて、口付ける。
「緑もキレイだけど、その色もいいな。すごくキレイだ」
 オミトが俺の目元に触れた。
「朝には元に戻る。見るなら今のうちだ。次は三年後だからな」
「じゃあ見てる」
 見てる、と言って本当に眺めているオミトが可愛い。
 しかしこんなところでは、ゆっくりと寛げもしない。
「うちへ帰ろうか」
「うん。って、自分で歩く……」
「いいからしばらくこうしていさせてくれ」
 腕に座らせるようにして抱き上げて、俺は窓から外へ出た。

 庭の花は月の光の下に咲き乱れている。
 朝には萎れて「冬」が来るだろうが、それでもこうして眺めている花は、俺に巻き込まれたのか、喜んでいるように見えた。
「すごいな。来た時もいっぱい咲いてたけど、さっきよりずっとキレイだ」
「そうだな」
「でも」
「うん?」
「俺にはセンクウが一番キレイだな」
 額に降ってくるキス。
 このままではまずいのかもしれない、とふと思ったが、心のありようを無理に曲げてしまうと、必ず何処かで狂いだす。
 俺がこんな無茶苦茶なオーバーブルームを引き起こしたように。
 オミトの心の中にあった、俺を一番綺麗と言う言葉の中に埋もれた意味。
 見つけてきてやった「ツガイ」の子より、俺に触れられているほうがいい、と思う……歪んではいるが、真っ直ぐに俺に向かってくる気持ち。
 俺を、俺が傍にいることを、他の誰よりも、心の中に大切に刻まれている白髪のガイアよりも、強く求めている。
 今はただ、俺の傍にあり続けることだけを願ってくれる。
「俺にも、おまえが一番綺麗だよ」
 「綺麗」の意味は、きっと今のオミトになら分かる。
 答えは、もう一度触れる唇と、小さな笑い声だった。

 

(end)