「ゴーキ」 俺が「部屋」で一服していると、いきなりドアに隙間が生まれて、黒いワータイガーが顔を覗かせた。 よくここまで毎度、誰にも見つからずに入ってくるものだ。 俺は全く構わないが、一応飲食店でもあるここでは、獣人を中に入れたがらないスタッフが多い。 埃などで汚れていることを言えば人間も同じだ。しかしそれを言えばあれこれと面倒な言い合いになるのは明白でもある。 だから俺はこのオミトに、なるべく店には来ないように言いつけた。 しかし「見つからなければいいんだな」と全然違う方向に、しかしある意味正しく理解して、こうしてやってくる。 無理もない、とは思う。 こいつの飼い主である男は、なにせあの雷嵐だ。 ほとんど常に内府の執務館にいて、帰ってくるのなど夜中。 昼間一人で過ごすには淋しすぎるのだろう。
俺は、ずっと獣人たちに囲まれて育ったこともあって、人間よりこいつらに、むしろ親近感を覚える。 汚い嘘はつかない。 何より、人が愛情をかけてやれば、それを裏切らない。 人間よりずっと綺麗な「心」を神から与えられている。 「ゴーキ。さっき、何してたんだ?」 俺は暇潰しにというか気まぐれに、異国の言葉と文字を教えている。 その「勉強」の最中に、いきなりオミトが言い出した。 「さっき?」 「うん」 「さっき、というのは、いつだ?」 「店の裏の、庭にいただろう?」 裏庭。 そこでしていたことと言えば。 ……現在の一応「恋人」と会っていたが。 そこで、オミトが不思議がるような「していた」こと、となると。 キス、か。 「ゴーキ?」 「あ、ああ。見てたのか」 「あれ、なに? 相手の女、嬉しそうにしてた」 間違い、なさそうだ。 「キス、といってな。好きな人と……一番好きな人と、することだ」 「好きな人と?」 「ああ。すごく好きな人がいると、したくなる。その人とだけの、そうだな。秘密、だな。だから、みんなの前でしている者は、いないだろう?」 「じゃあ、オレ見てたの、悪いこと……か?」 「心配するな。怒ったりはしない。おまえはたまたま来て、たまたま見ただけだろう。見ようとして覗きにきたのなら怒りもするが、それなら仕方がない。そのかわり、誰にも言うんじゃないぞ」 「うん。約束する」 「よし、いい子だ」 軽く頭を撫でてやる。
……まったく似ても似つかないのに、思い出す。 昔、いつもずっとオレの傍にいた、白いワーパンサー。 オレがまだほんの子供だった頃、その地下クラブで見世物を演じていた、綺麗な豹。 親父の、……お気に入りだった。 クラブで戦わされる以外に、あの親父にどんなことをされていたかなど、想像がつく。 それでも、オレには優しかった。 オレを守ってもくれたし、俺の、唯一俺を恐れない、話し相手でもあった。 あいつが消えていった、あの闘技場……。 破壊してくれたことに、俺はどこか、感謝しているのかもしれない。 オミトの飼い主、雷嵐―――。
「ゴーキ。ゴーキ。どっか痛いのか?」 少し、ぼんやりしてしまった。 心配そうなオミトに苦笑する。 「平気だ。それより、続きをやろう」 「うん」 俺が笑ってやると、安心したのか、笑い返してきた。
あまり実があるとは思えない定例会議が無駄に長引いて、もう夜になっていた。 以前はどれだけ仕事が長引こうと構わなかったが、今は違う。 一日のうちでオミトといられるのなどほんの短い間なのに、それを無意味に奪われるのは腹立たしい。 幸い、俺がいない間に構ってくれる相手を見つけたようだから、毎日淋しい思いをしているわけではないようだが、……俺が、悔しい。 俺は朝、出かける前に、まだ眠っているオミトの様子を見て、食事を作り置いて、あの子が起きる前には屋敷を出てしまう。そして帰ってから、共に食事をして、眠るまでの束の間だけ、一緒に過ごす。 執務のない日など半年に一日あるかどうか。 その貴重な時間を、有意義とも思えないことに削られるなど。 大急ぎで戻ってきたものの、もうこの時間では、オミトは寝ているかもしれない。 そういえば、今日はこんなに遅くなると思わなかったから、夕飯は用意してやらなかった。 腹をすかせているんじゃないだろうか。
俺がオミトの部屋に行くと、オミトはまだ起きていた。 いい匂いがする。 髪から、何か、こった料理の匂い。 「センクー! 遅い」 「すまん。おまえ、誰かのところでごはんはもらったのか?」 「帰ってこないから、ゴーキのところ」 「ああ」 やはり。 ……こんなことを繰り返していたら、オミトは、俺よりもゴウキのほうが好きになってしまうんじゃないだろうか……。 そんなことを思って心配になってきた俺を、オミトは何故か、じっと見上げている。 どうかしたのか、と思いながら抱き上げて、いつものように、ベッドの端に腰掛ける。 俺の至福の時間だ。 このまま、オミトが欠伸の一つでもするくらいまで、話をしたり、聞いたり……。 「センクー」 「うん?」 俺を呼ぶので、何かと思えば。 いきなり。 オミトが俺に―――キス、をした。
思わず、頭の中が真っ白になる。 唇に触れるだけの、たったそれだけだが……いったい、何故こんなことを。 だいたい何処で覚えてきたと。 まさか、ゴウキのところに通ううちに? ……教えられたんじゃ、ないだろうな……。 「センクー。……オレにキスされるの、イヤ……?」 「え? あ、いや。まさか。しかし、こんなこと何処で覚えてきたんだ」 「ヒミツ。でも、一番好きな人とするって聞いた」 嬉しそうに、笑う。 一番好きな人。 俺を、一番好きだということ。 「オミト。他の人とは、していないだろうな?」 「うん。だって、一番好きな人としかしたらダメだって」 ということは、教えた当人とは、していないということだ。 まったく、この俺にこんなことで、こんなにも安心させるとは。 「俺も、キスしていいか?」 「うん。あ、でも、みんなの前でしたらダメなんだって」 「ああ。二人だけの秘密だ。ずっとな」 「うん……」 「俺とキスしてる、ということも、誰にも言うんじゃないぞ?」 「う……ん……」 「約束、できるか?」 黙って、頷く。 少し赤い顔をして。
ああ、そうだ。 どうせならこのまま、一緒に寝るようにしようか。 オミトが寝るまで、ずっとついていてやって、そのまま俺がここで寝てしまってもいい。 朝起きるときに起こしてしまいはするが、朝に一度、俺を見てまた眠ればいい。 そうすれば、夢にも俺を見てくれるかもしれない。 俺の可愛いキティ・タイガー。 明日からは、目覚めのキスができそうだ。
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