薄闇を抜けて

 雷嵐。
 その名に似つかわしい、苛烈で容赦ない手腕だ。
 こちらが内府の動きに気付いた時にはまだ出兵準備も整っていなかったはずが、たった半時ほどの間に、これだ。
 本宅はとうに手入れを食らい、店も今は包囲されている。
 俺は親父が逃げる時間を稼ぐため、外見ばかり清潔で華美なレストランの、この地下闘場に残された。

 どうせ俺は拾い子だ。
 ほんの幼い時には、「父」という存在を求めもし、あんな外道でも「父」ならば、なんとか気に入られようと必死にもなったが、その報酬は裏切りと失望だけだった。
 俺はただの道具だ。
 奴の駆け引きの、そして娯楽の。
 いったい何人、ここで獣人たちと戦っただろう。
 いったい何人、殺しただろう。
 可哀相な奴等。
 人にあれほど近しくありながら、獣としてしか扱ってはもらえない。
 この帝都ではある程度の権利が認められていればこそ、親父の作ったこの地下闘場は違法だが、他の都市では黙認されるだろう。
 くだらない。
 こんな場所がどうなろうと知ったことではないし、親父のことも憎み厭いこそすれ、感謝や恩義など欠片も感じてはいない。
 なのに何故未だに俺は、親父の言うままに動こうとするのか。

 …………。
 俺の、綺麗なシラン。
 白毛の美しい、ワーパンサー。
 俺のたった一人の友人であり、それこそまさに、兄でもあった。
 彼もまた、この場所で消えた。
 俺の良心そのものでもあった、俺の人間らしさそのものでもあった、優しく、綺麗な獣人。
 彼の消えたこの場所で、俺は死にたいのかもしれない……。
 名があり実のある男に、せめてその手で黄泉へ送ってほしいのかも、しれない。

 鋼鉄製のドアが破られ、本隊がここに通じるフロアへなだれ込むのが音で知れる。
 俺は暗がりの階段へと構える。
 操気術を極めた俺は、己の気を焔に変えることができる。
 それに龍という形状を持たせたのは、俺なりの自尊心なのかもしれない。
 薄暗い穴倉に這う蛇と変わりないこの身でも、せめて心くらいは龍のごとくありたい、という。
 俺の放った焔の龍に焼かれる悲鳴が聞こえる。
 だが、その悲鳴を飛鳥のごとく飛び越えて、俺の前に現れた男がいた。
 何度となく、凱旋する姿を見たことがある。
 武人とは思えない見かけながら、その内に秘めた力を思わせるその様。
 今もろくに武装だにせず、俺の前に立つ。
「おまえは……足止め、か。己の息子を足止めに使うとは、何処までも卑劣な男だな」
「息子、か。そうと思えば道具にはすまい。雷嵐。俺に、勝てるか? この穴の底で生き抜いてきた俺だ。凡百の兵とは違うと思え」

 シラン。
 俺がもしこの男に勝ってしまったら。
 おまえの傍には行ってやれないが。
 いつか必ず辿り着くのがおまえの眠る土の下だ。
 おまえのために、誉れのない武勲でも、今は稼がせてもらおうか。
 おまえの気に入っていた金色のチェーン。
 この男の髪で編めば、さぞかしそれに似て綺麗なことだろう。

 さすがに強い。
 まるで己の一部のごとく、見えぬほど細い鞭を使う。
 それも、同時に五本も六本も。
 手ではなく指で操るそれは、その軽さゆえか、小さな動きに過敏に応じて変化する。
 だが、殺傷能力がない。
 加減しているのだ。
 俺は生き証人だ。
 殺すわけにはいかないのだろう。
 雷嵐本来の武器は、これよりさらに細い、刃と化した糸だという。
 触れれば打ち鍛えられた鋼すら寸断し、血すらまとわず肉を切るという。
 だが、殺す気がないのなら、俺には勝てん。
 痛みがなんだというのか。
 傷がなんだと。
 流れる血が、俺の血が、どれほどのものだと。

 俺の力を増してくれる、宝刀・クライムレッド。
 その赤く透き通る刃に気をこめる。
「焔龍撃・乱!」
 俺は渾身の力をこめて、四体同時に焔の龍を打ち出した。
 ニ体、避けられる。
 だが一体が奴の肩を掠め、一体が脇腹を抉った。
「ツ……ッ!!」
 転倒した雷嵐の体から、黒い煙が上がる。
 その焼けた傷口を、雷嵐は腰にあった大型のナイフで削ぎ取った。
 滴るのは、薄青く透明な血。

 そんな血液を持つのは、この世界広しといえども、たった一種だ。
 世界そのものの末裔とさえ言われる、ノーブルグリーン、俗に草人と呼ばれる、絶滅したはずの種族。
 まさか、内府がひそかに保護している、という噂のもとは、こいつだったのというのか……。
 草人が絶滅した理由は、彼等が死に際に咲かせるという「霊華」の持つ奇跡の力と、血の持つほぼ万能の薬効のためだ。
 炎に弱いという決定的な弱点ゆえに、捕獲は容易に行われ、簡単に、殺されていった。
 もう何百年も前の話だ。

 草人とあっては、焔を操る俺との相性は最悪だ。
 だがそれでも現れた時と変わりなく、静かに、俺を見る。
 さすがは雷嵐といったところか。
 俺が攻撃の手を休めたこの一瞬で体勢を整え、再び鞭を閃かせる。
 致命的な弱点でもある、俺の焔を恐れもしない。
 だが深手を受けたことは事実だ。
 キレがない。
 真正面から、仕掛けてくる攻撃諸共に叩き潰せる。
 俺がそう決めてもう一度気を溜め始めた時だった。

「センクー!!」
 黒い影が闘場に走りこんできた。
 俺とにらみ合っていた雷嵐が、そちらを振り向く。
 チャンス。
 だが俺は、撃てなかった。
 雷嵐の前にいるのは、黒いワータイガー。
 それも生まれてニ年過ぎたかどうかという子供だ。
 それが、成体もかくやという凄まじい殺気を放っている。
「オミト……! 何故ここに!?」
 これは、雷嵐が飼っているのか。
「イヤな感じ、したから。……センクーにケガさせるのは、オレが許さない」
 ゆっくりと身を沈める、戦闘姿勢。
 整った瞬間、飛んだ。
 速い。
 かろうじてかわすや、後方から受けるプレッシャーを感じて即座に伏せる。
 技術的な戦法など欠片もないのに、その能力そのものが、一級クラスだ。
 油断すれば、間違いなく首を掻き切られる。
 だがこんな子供を手にかけたくはない。
 脅せば、逃げるだろうか。
 威嚇態勢に入っているワータイガーへと、オレは威力のほとんどない、焔龍を放った。
 だが、それを見えない力がからめとる。
 焔に巻きつき、弾き飛ばすのは雷嵐の鞭だった。
 そして、地下のこの暗い部屋は、炎に包まれた。

 運が悪かっただけだ。
 雷嵐の弾いた焔が、ゲームの余興に使われてきた液体燃料に引火した。
 そこにそんなものがあると知っていたのは俺だけで、突然の爆発と炎上、炎は瞬く間に壁を覆って天井にまで広がる。
 熱気が、それだけでまるで、俺を焼き殺すようだ。
「なんてことだ……」
 雷嵐が初めて表情を崩した。
 獰猛に輝く大量の炎に、黒いワータイガーの子はそれまでの気迫も失せて狼狽している。
 人の意思も思いも知らずに笑いつづける炎の姿は、それを利用するすべを知らない生粋の獣人には、恐怖そのものだ。
 やがてへたり込んで、身動きもとれなくなる。
 ……そう言えば昔、リングロープに火を放って、ほんの小さな、これくらいの子供の獣人と、……オレも子供だったが、戦わされたことが、あった……。
 怯えて動けもしなかった彼を、オレはただ親父に可愛がられたくて、燃え立つ炎の熱さから逃れたくて、動けないのを幸いと、殺した。
 シランは泣いていた。
 同朋を殺されたことが哀しかったのではないと、大人になった俺に分かるようになった時には、もう、彼はいなかったが。

「オミト。おいで」
「セ、ンク……」
「怖くない。大丈夫だ」
 雷嵐が「オミト」という名らしいワータイガーの子を抱え上げる。
 そのまま、俺を見た。
「何故、逃げようとしない。人間のおまえならこの程度の炎、駆け抜けることもできるだろう」
 逃げる。
 何処へ。
 そしてまた親父に囚われ、親父の言いなりになるのか。
「命を粗末にするな。生きられる限りには、生きろ。己の望むところを成すために。おまえの目は、曇っていない。こんな、人目につかない後ろ暗い場所で終わっていい男には思えん。もし、外に出るつもりがあるなら、焔紅を頼れ。話の分かる奴だ」
 俺の何かを見抜いたような顔。

 ……そういえば。
 植物は近くにいる人間の、心に感応するという。
 草人にも、そういった力があると聞いたことがある。
 だが、俺に奴の心は読めない。
 そのまま炎の中に進もうとする、奴の心など。
「待て。……貴様、焼け死ぬぞ」
 炎はもう外に通じる階段も舐めている。
 たしかに人間である俺ならば、いくらかの火傷さえ覚悟すれば走り抜けられるだろう。
 だが、草人の体では絶対にもたない。
 その程度のこと、分かっているはずだ。
 そしてやはり、分かっている顔で、俺に笑った。
「かもしれん。だが燃え尽きる前に、この子くらいは外に投げてやれる」

 俺のために戦って、俺のために死んでいった、シラン……。
 おまえもあの時、同じ顔をした。

「心の汚れきった者に、そんな涙は流せない。落ちる前に、這い上がれ。おまえの心に中にいる者も、それを望んでいるはずだ」
 涙?
 頬に触れた指が濡れる。
「待て!」
 今しも炎に中へと一歩踏み出そうとする雷嵐を、俺は止めた。

 操気術の極意は、世の理を知ること。
 炎は水にて鎮められるかに思われるが、真に燃え盛る炎を食えるのは、風なのだ。そして狂う炎より更に強い炎だけが、その風を生み出せる。
 しかしてそれの語るところは。
 火は火にて死に、水は水にて滅し、風は風に飲まれ、地は地に還る。
 全て自らの力の内に、それを御せぬ者は滅び行くという、自戒に秘めた真理。

 

 俺の放った全霊をこめた一撃は、一気に階段の炎を消した。
 壁の炎すら、その衝撃の名残に食い止められる。
「行け」
「おまえも来るんだ。悪いようにはせん」
 一刻を争う時に、雷嵐は俺へと手を差し出した。
 俺は。
「ここで死ぬな。我々を盲目と思うのでないなら、共に来てくれ。真に断つべき源は何か、その程度のことは心得ている。それとも、それでも奴はおまえの父か」
 俺は。
 俺は誰にも従わんし、誰に保護されようとも思わん。
 俺の主は、俺自身だ。
 だから、その手をとろうとは思わない。
 だが、共に歩むのはいいかもしれない。
「分かった。行こう」
 階段を駆け上がりながら、俺はようやく、本当に外に向かって歩き出した自分に気付いた。
 この暗がりを、今こそ俺は本当に後にするのだと。

 

(end)