ひどい雨が降っていた。 この季節、この地方を必ず訪れる、「崩落の雨」と呼ばれる集中豪雨だ。つい一時間ほど前までは綺麗に晴れていたというのに、今では前も見えないような土砂降りだった。 ようやくまとまった金が入って上機嫌だったってのに、ついてない。 もっとも、その日暮らしの賞金稼ぎには、こんなずぶ濡れの有り様も似合わないわけじゃない。 第七シティからセントラルシティに向かう途中の、「トイブロック」と呼ばれるこの断崖は、豪雨で巨大な滝と化している。俺の足元を流れる水は褐色に綾を織って、遥か眼下の谷底へと流れ落ちていく。 俺がそいつらを見つけたのは、そんな断崖に刻まれた、小さな窪みの傍だった。
急に獣のような唸り声が聞こえて、何かと思って目を凝らせば、そこにワータイガーとおぼしき者が、今しも俺に飛び掛らんばかりの姿勢で蹲っていた。 この雨ではよく分からないが、ただ唸るだけとなると、まだ幼体なのだろうか。奴等は外見ばかりすぐ大人になるから、実際の年齢がはっきり分からない。 唯一知る方法は、毛色を観察することだ。ガキはさすがに、柔らかくて曖昧な色をしている。 さんざん獣人を狩ってきたこの俺だ。雨さえ降っていなければ見分けることもできる。 だがこの状態では無理だった。 もし相手が修羅場を掻い潜って生き延びてきた成体ならば、足場の分、俺のほうが不利だ。 それでも油断なく、背に背負った刀に手をかける。 人の背丈ほどもある、その名はガイア。伝説の三大長刀の一つで、俺が師から譲り受けた名刀だ。
それにしても、凄まじい殺気だ。 これはどうやら、少なくとも幼体じゃないらしい。
こんな場所で組討になれば、圧倒的に俺が不利だ。隙は、見せるならば誘うため。それ以外の時に飛び掛ってこられては、俺の命が危うい。 時機を探して時が過ぎる。 やがて俺は或ることに気付いた。 そいつの唸り声は途切れ途切れになって、ひどく苦しそうだ。 その上、奴の激烈な殺気に紛れて分からなかったが、もう一つ、ずいぶんと弱い気配がある。 ガイアと共鳴すれば、微妙な気配をこの愛刀は増幅し、教えてくれる。間違いなく、ここには二匹いる。しかも、もう弱り果てて死にかけだ。 子を守ろうとしている親だろうか。親子ともども怪我をして、ここで休んでいたのだろうか。俺はそう思った。だとすれば、助けてやってもいい。いや、むしろ、意味もなく戦いたくはない。
時間が過ぎれば、二匹ともどうなるかは分からない。 俺が覚悟を決めて、全神経を前方に集中し、一歩踏み出した途端。 そいつは四肢を使って跳躍し、飛び掛ってきた。 速い。 だが、俺の喉笛に食らいつくには、あまりにも攻撃が直線的すぎる。 腕を掲げてそこに食らいつかせておきながら、力任せにその腕を振り下ろす。 「ガアッ!」 地面に叩きつけられて悲鳴を上げたそいつの上に、俺はすかさず膝を乗せ、体重をかけた。
屈んで見てみれば、なんてことだ。 まだ生まれてふたつきもたっていない、ほんのガキだ。髪に柔らかい産毛が混じっている。 なのに、俺を睨みつける金色の目は、ぞっとするほどの殺意と憎悪を湛えて、輝くようだった。 そして、どうやら元は人に飼われていたらしく、傷がつけられていた。 俺は嫌いだが、金持ちたちはよくこういうことをする。自分の所有物だという証に、奴隷やペットの身に消えない傷を刻み付けるのだ。 それも、こいつは一本や二本じゃない。 両頬に三本ずつ。 しかも、まだ新しい。 薄皮が破れて、僅かに血が滲んでいる。それを全て、雨が流していく。 「ハ……ハ……ッ」 俺に押さえつけられて苦しいだけじゃないらしい。口を開け、舌を見せて喘ぐ。 たしかに、ひどい熱だ。こんな傷をつけられて、癒える間もなくこの雨に打たれれば、無理もない。 それなのに、勝てないと分かっただろうに、俺を睨みつける目は強かった。
俺はその傷つきの一匹を縛り上げ転がしておいて、もう一つ隠れているらしい、もっと弱い気配のほうへと近づいた。 「ガアアアッ!!」 後ろから凄まじい吼え声が聞こえる。 逃れようと暴れているが、そのロープは金属製だ。俺でも、素手で切れる代物じゃあない。 そして、雨の当たらない窪みの奥に見つけたのは、兄弟と思える同じ色の毛並みをした、もう一匹のワータイガーだった。 こちらはずいぶんと弱りきっていて、頼りない息をしているだけだ。前髪からサイドまで、綺麗に帯のように、真っ白に色素が抜けているのが珍しい。 高熱を出してくたばりかけているらしい。 俺が手をのばし、確かめようとした時だ。 いきなり、踵に何かがぶつかった。 見下ろせば、手も足も封じられたまま、傷つきのほうが俺の足に噛み付いていた。 ……守ろうとしているのか。 たぶん弟らしい、帯毛のほうを。 「心配すんな。殺しゃしねえ」 この様子では言葉がわかるとは思えなかったが、俺はできるだけゆっくり、そう言ってやった。 と。 「ホント、か?」 俺の踵から口を離した傷つきが、そう喋った。 こいつは、ずいぶんと利口なもんだ。それとも、無理やり覚えこまされたか。 「本当だ。このまま放っておいたら、おまえもこいつも、死ぬぞ」 「ウウ……」 「おとなしくついてくるなら、助けてやる。どうだ?」 俺は傷つきを引き起こし、目を覗いた。 じっと俺の目を見上げていた傷つきは、やがて小さく頷いた。 途端、がっくりと崩れ落ちる。安心して気を失ったらしい。 そうして俺は、二匹のワータイガーを拾い、こいつらと共に暮らすことになったのだった。
二匹とも三日ばかりは熱にうなされていたが、なんとか持ちこたえると、それからはすぐに回復していった。 第三シティあたりで飼われていたものを、逃げ出したらしい。 傷つき……オミト、と名がついていたが、そのオミトのほうが傷を刻まれた時、隙をついて弟のモモを連れ、逃亡したのだ。モモはあまり丈夫ではなく、そんなことをされたら死んでしまう、と思って逃げたらしい。 さんざん追っ手に追われ、なんとか逃げてきたところで、俺に行き会った。 なんにせよ、獣人の面倒を見るとなると鑑札を手に入れて首輪をつけなければならない。誰かの所有物でない獣人は、町にも入れないし、その場で殺されても無理はないのだ。 モモはおとなしく、ものめずらしそうにそれにじゃれついて、素直につけさせてくれるのだが、オミトが暴れる。鬱陶しい、という言葉は知らないようだが、たぶん、そういう感じで嫌なのだろう。しかし、これをつけていないと駄目だということを言い聞かせてやると、渋々といった様子で頷いた。
俺は頃合を見て、産毛を丁寧に櫛で抜き取ってやった。こうしたほうが毛並みが良くなる。実際、二匹ともオニキスのような見事な毛色のブラックタイガー系で、ことにモモの白毛の部分は、眩しいほどに引き立った。 「ゴージ、ゴージ」 やっと覚えた俺の名前を呼びながら、モモがじゃれついてくる。俺の手を、飽きもせずに面白そうにいじっているのだ。握ったり開いたりしてやるだけで、興味を持って追いかけてくる。時々噛まれるが、それは愛嬌というヤツだ。 それに比べてオミトは、あまり俺に近づこうとしない。いつも少し離れたところで、モモが俺と(俺で?)遊んでいるのを見ている。たまに俺が遊んでやろうとしても、ぷいと顔を背けてしまう。どうやら、構われるのが好きではないらしい。
俺はセントラルシティから更に足をのばし、比較的、獣人にも寛容だと言われるカスバ・ラーダに居を構えた。 山間の城砦都市は雑多で活気に満ち溢れ、様々なものを飲み込んで混沌としている。 そこを拠点に、俺は本来の仕事、賞金稼ぎに精を出した。 なにせまだ二匹ともチビだから、食うことといったらない。体だけは大きい上に、エネルギーの消費量が膨大なのだ。ほとんどじっとせずに動き回っている。 時には二匹で、狩りの真似事なのだろう。仲良く喧嘩している。そのたびに棚は引っ繰り返る、カーテンは破れる、さんざんな目に遭うせいで、二匹の遊び部屋には壊してもいいものしか置いていない。 困ったのは、俺の服を含めた布地の取り扱いだ。 爪はマメに切ってやってるし、オミトは自分で切るようにさえなったのだが、問題は、牙。まだのびきっていない小さい牙だが、ものを噛む感触を本能的に求めるらしく、そして噛み応えの丁度いいのが俺の仕事着だったりするから、油断しているとすぐボロボロにされる。 これだけは叱っても叱っても、やめようとしない。俺に叱られるのを楽しんでいるような節もある。 ともかく、そういったことも合わせて、俺一人で暮らしていた時に比べて、出費は倍以上に膨れ上がっていた。 小さな遣いのようなものから、一人では普通手におえないような、大掛かりなものまで、俺はできると思えばえり好みする余裕もなく、引き受けた。 ただ、俺は獣人を狩る仕事だけは、二度とやらないことにした。 野生化して凶暴化したモノと、こいつらを同じに扱うことはない。だが、獣人の血の匂いをさせて帰れば、きっと嫌がるだろう。そう思ったからだ。
そして、その日。 俺がモモとオミトを拾って、一年ほどたった日のことだ。 その日もまた凄い雨が降っていた。 さすがに仕事にも出られず、俺は暖炉の傍で本を開いていた。 傍らでは、モモが丸くなって眠っている。 今の俺には、もうなくてはならない、暮らしのパートナーだ。 殺伐とした仕事に疲れて帰ってきて、こいつらを見るとほっとする。 雨の降る前、昼に遊びに出かけたオミトがなかなか戻ってこないことが心配だったが、あれはモモに比べてしっかりしている。 いずれちゃんと帰ってくるだろう。 そう、油断していた。
それから三日たっても四日たっても、オミトは戻ってこなかった。 心配してあちこち探してみたが、豪雨の日のことで、見かけたという者もなかった。 「オミトは?」 モモが淋しそうに問うのに、見つからない、と答えるのがつらい。 だが俺のそんな思いを察して、諦めたのだろうか。 モモはやがて、何も言わなくなった。
それから更に一年をカスバ・ラーダで過ごし、俺はモモを連れてまた旅に出た。 旅の内に、オミトを見つけることもあるかと、それを思い。 モモは立派に成体になって、今では俺の仕事を手伝ってくれる。 ただ願うのは、野生化して己を見失ってしまったオミトと、出会わなければいいということ。そんな手配を、見ることがなければいいということ。 晴れたトイブロックを歩きながら、モモがふと立ち止まる。 そこは俺が二匹を拾った場所だった。 「行こう、ゴージ」 感慨を振り切るようにモモが笑って、俺の手を引いた。
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