石造りの狭い通路は無数に枝分かれしていたが、彼等の進むべき道を炎が示していた。
 頼りない炎は闇を照らすのではなく、光の届かぬ闇の暗さを際立たせる。通路の隅、明かりのない脇道の奥、生きる者の気配はなくとも、何かがひそむ気がしてならない。
 油皿に浸された灯心が音を立てて焦げ、何処からか吹き込む微風に揺れる炎につられて影が歪む。
 暗く、長く、狭く、果てない。
 だが、誰一人として口は開かなかった。
 何処まで行けば何があるのか、少なくともこれが相手の罠の入り口であることは確かだが、焦りや不安を軽口で誤魔化すような者は、彼等の中にはいない。
 ただ冷静に、慎重に、油断なく、変化を待つ。
 小一時間ほども歩かされただろうか。
 前方に、灯明のものとは異なる大きな明かりが見えた。
 足を緩め、視線だけをかわし、その光へと向かった。

 そこは、石造りの伽藍だった。
 見下ろせば十メートルばかりあり、見上げれば天井が近い。
 足元から下に、階段が続いている。
(ここが「目当て」の場所か?)
 卍丸が視線で問う。
 安全の確信できる前に迂闊に口を開いては、気が緩む。
(分からん。だが、その可能性は高いな)
 羅刹は小さく首を振り、顎の先で下を示した。
 一面を覆う黒い汚れ。壁にも散り、塗りつけられている。
 乾いた血。
 ここが具体的にどのような場所なのかは分からないが、平穏とは無縁であることに間違いはない。
 ここに招き入れるつもりだったのであれば、相手にも動きがあるはずだ。もし何もないとすれば、この場所そのものが巨大な、そして強力な罠として機能するのだろう。
 周囲に目を配り、じっと待つ。

「さすが、と言おうか」
 揶揄を含んだ男の声がした。
 影慶たちのいる真向かいに、人影が現れていた。
 長身の男、小兵ながら幅のある男、そして、二人の女。
「よく来た。男塾の強者よ」
 朗々と歌うように響く声が、耳に障る。
 地に届くほど長い髪、冴えた美貌。隣に立つ、というよりはうずくまってしか見えない、蝦蟇を潰したような小男のせいか、際立った容姿は不穏なほどに美しい。
 紅でも塗ったように赤い口から紡がれる、声もまた美声だが、不快だった。
「お出迎えありがとうよ。で、そのまま下がってくれりゃあ、もっとありがてえんだがな」
 何故知っていた、などと問うのは無駄だ。
 それを知ったところでなんの利があるというわけでもない。
 それと同じほど、ただでここを通れるわけもないことも明白。
 卍丸は既にマントを脱ぎ落としていた。
「話が早くていい。そちらも四人、こちらも四人。面白い戦になると良いが」
 美貌の男がそう言って微笑み、傍らの女へと視線を投げた。

「女が相手ってぇのは、どうにもな」
「油断するな」
 肩を竦め、闘場へ通じる階段へと足を踏み出した卍丸へと、羅刹が低く言う。
 言わずもがなのことではあるが、今回ばかりは「余計な世話だ」とは思えなかった。
 闘う相手が女というのは、やりにくい。
 卍丸が見やると、向こうからは背の高いほうの女が歩みだしていた。
 褐色の肌を覆うものはほとんどない。ビキニに近いような、しかし金属製らしいものを身に着けているだけだ。
 剥き出しの腕や足は長く、遠目に見ても、それがただの女のもののようにヤワではないことは分かった。女らしさを失わない程度にではあるが、くっきりと筋肉の流れが浮き出している。
 張り出した胸や腰のボリュームは圧巻で、彼女はごく近いところで西洋の血を受け継いでいるのではないかと思えた。
 猫のようなアーモンド形の目は大きく、瞳の輝きは、鋭く、強い。高い鼻筋とやや頬骨の張った顔が険しくはあったが、それは男性的というより、野性的な美しさを強調していた。

「ああいう女とは、こんな無粋なところより、もっといいところで会いたいもんだぜ」
 にやりと口元を緩め、卍丸が階段を下りはじめる。
 急勾配の石段を下りきると、女と30メートルほどの間合いをおいて向き合った。
 卍丸と背丈すらさほど違いはないらしい。さすがに腕や首の太さ、肩幅などは比べるべくもないが、女というよりは、猛獣の雌のように無駄がなく、美しかった。
「俺ァ卍丸だ。おまえは」
 卍丸の問いかけに、女は細いが濃い眉をかすかに上げた。
 今から殺し合おうという場で、名など聞かれるとは思ってもいなかったのだろう。
「烈鬼」
 ややあって、女が口にする。
「レッキ、か。どんな字書くんだ? レツ……レツってぇと、烈しいか裂けるか、劣る、並んでるほうの列……」
「ふん。烈しい、のレツだ」
「ああ、そうか。キ、は、姫ってぇ字なら……」

 言いかけた卍丸へと、烈鬼が地を蹴った。
 いくらか見くびっていたことは、卍丸も認めねばならなかった。
 軽口を叩きながらも警戒は怠っていなかったが、かわしきれずに胸元に朱線が走る。
 烈鬼の手に武器はない。ただ、指先よりわずかに長く切り整えられた爪は、刃物も同然だった。

 侮れない相手であることに間違いはなかった。
 だが、卍丸の相手として不足ないかといえば、そうではなかった。
 決して加減はしていないが、本気にならずとも戦える。
 烈鬼の肌にはいくつもの傷が刻まれていく。
 だが、彼女は嬉々として一向ひるむ気配もなく、それが不気味でもあった。
 烈鬼の息はあがり、動きは鈍る。
 足元には新しい血が溜まり、土に混じってぬめる。
 呼吸を整えようともせず、烈鬼は肩を上下させて喘いでいる。

「俺の相手にゃならねえぜ」
 構えたまま、卍丸が告げる。
 烈鬼は唇を舐めて湿らせると、答えにならない言葉を吐いた。
「あたしのものだ」
 と。
 その目は既に、どこか正気を失いつつある。
 異様な力に輝き、ぎらついている。
 獲物を前にして獰猛になる猛獣。
 だが、そうたとえるにはあまりにも歓喜に満ちていた。

 卍丸が異変に気付いたのは、それから間もなくのことだった。
 ふと、足がもつれかけたのだ。
 指先にまで行き渡っているはずの意識が、末端で麻痺している。
(毒か……!?)
 はっとしたが、遅かった。
 気付いたことで加速したかのように、にわかに眩暈がひどくなり、耳鳴りがはじまる。
「くそ……」
 烈鬼が口をわずかに開き、満面の笑みを浮かべた。

「爪に、塗ってあったのか……」
 烈鬼は朱唇を大きく歪め、笑った。
「そんな小細工、あたしには必要ない。あたしは生まれた時から、食べるものにも飲むものにも、毒を混ぜてもらってきたよ。だから、あたしのこの体は、どこもかしこも毒でできている。もちろん、血も、この息もだ」
 烈鬼は卍丸の前にかがむと、その顔へと甘い息を吐きかけた。
 吸い込むと、世界が大きく渦を巻いた。

 血の飛沫、吐かれた息、そういったものが、この闘場の空気そのものを毒の場に変えていたのだ。
 動けない相手を仕留めるためならば、さしたる技量は必要ない。
 むしろ死なぬように傷を負い、不審を与えぬように息を吐き散らし、劣勢になることそのものが、最終的に優位に立つための布石。
(しくじったぜ)
 そうは思ったが、卍丸は何故か、憤りを感じることはなかった。
 気付いたことがあったためだった。

「どこもかしこも、ってこたぁ、それじゃあ、よ、キス一つ、できやしねえんじゃあ、ねえのか?」

 卍丸の言葉に、烈鬼の顔からはすっと笑みが引いた。
 まなじりがつりあがり、痙攣する。
 やがて
「そうだ」
 無理やり唇の隙間から、短く押し出した。

 硬い笑みの形に口の端が上がる。
「けれど、あたしが仕留めた男は、あたしがもらえる。あたしの好きにできる。あんたも、あたしのものになる」
「そいつぁ、願ってもねえことだが……死体になっちゃあ、楽しめねえな」
「あんたが楽しむことなんかない。あたしは……あんたが死んだら、その体でたっぷり楽しむ」
 烈鬼の体が翻る。
 痛烈な後ろ回し蹴りが、卍丸の横っ面に炸裂した。

 吹っ飛ばされ、転がりながら、それでも卍丸はかろうじて態勢を整えた。
 だがその眼前に烈鬼の手刀が迫り、自らもう一度転がった。
 ままならなくなった体で、避けようとすればするほど息が上がる。そしてこの闘場の血と気を吸い込まずにいられなくなる。
 いくらかは毒に耐性があるとはいえ、次第に視界は暗くなってきていた。
「俺の、仲間にな」
 それでも卍丸は、烈鬼の攻撃の合間、口をきいた。
「毒手を極めた奴がいるぜ。そこの、頭黒くて、髭のないほうだ」
 烈鬼は答えない。
 かわりに踵が振り下ろされる。

「あいつと、付き合うってぇのは、どうだよ?」
 間一髪避けたが、膝が砕けそうになり、こらえてバランスを崩した。
「人と共に暮らせるなら、その毒などどうせたかが知れている。あたしのように、息まで毒なんじゃあないんだろう」
「そりゃあ……」
「生きた男なんか、邪魔だ」
 爪が頬を削ぐ。
 四本、左の頬に傷が走り、マスクがちぎれ飛んだ。
「どうせあたしは、死体としか暮らせないんだ」
 振り払われた手が、今度は甲で右の頬を殴りつける。
「そうでなきゃ……、生きた人間の相手なんて、ここでしかできないんだ!」

 声は笑っていたが、悲鳴のようでもあった。
 烈鬼は笑っていたのかどうか。
 卍丸は腹を蹴り上げられて顔から視線を外していた。
 腹部の衝撃をこらえ、烈鬼の両腕を左右から掴む。
 抜けていく力を、あるだけ振り絞った。
「く……っ!」
 暴れようとする烈鬼を制して、引き寄せる。
「けどよ」
 烈鬼を間近に掴みとめたまま、卍丸は彼女の目を見下ろす。
 そして、口付けた。

 烈鬼が目を見開いたと同時に隙間のうまれた口と歯の間へと舌を差し入れ、酸味のある唾液をすくう。
 口内は粘りも薄く、吐息は甘かった。
 それが彼女の体で生み出された毒そのものだとは思えない、蜜のような甘味だった。
 顔を離すと、間近にある烈鬼の目は、これ以上は無理だというほど大きく開かれていた。
 茫然とした顔からは野生も狂喜も失せていたが、そのかわりどこかあどけなく、卍丸はふと、この女はまだずいぶんと若いんじゃないかと思った。
 そんな女……娘が、体を毒素で作り変えられ、生きている人間とは暮らせないまま、何年もの時を過ごしてきたのだ。

「なあ、死体は、こんなこと、してくれねえだろう? ガキの頃から、毒食わされたって、おめえが望んだことでもねえんだろうに」
 右手を烈鬼の左腕からはなし、癖のある黒髪を撫で、目を覗き込む。
「あ……」
 同情や憐憫ではあったが、戦うことを忘れた烈鬼を、可愛いとも思った。
 思うまま、左手も腕からはなし、右腕と合わせて、烈鬼の背へと回す。張り出した胸が、金属の衣装の硬さを、卍丸の胸へと押し付けてきた。
「もったいねえ。こんな美人なのに。……なあ、烈鬼よ。死体は、こうやって、抱いて……くれねえ、だろ……?」
 悪戯げな微笑みを間近に残し、ずるりと、卍丸の体が崩れた。

 足元に崩れ落ちた卍丸を見下ろして、烈鬼は身動きもしなかった。
「烈鬼! なにをしておる!」
 蝦蟇男のダミ声に反応して、ようやく右手が動く。
 だがその指は己の唇に触れ、その指に、目から溢れてきた涙が触れた。
「マン……ジマル……?」
 危地にあっても無駄口を叩いていたその声が、問いかけにも返ってこない。
 きれいに切り整えられた口ひげの口元に、もう笑みはない。
「卍丸……」
「烈鬼!!」
 蝦蟇男の声に突き飛ばされて、ふらりと烈鬼がその場に膝をついた。

 その瞬間。
 彼女の頭が宙に跳ね上がった。

 

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