あらかじめ時間を約束して、つい先刻も、「今駅についたから」と電話を入れたというのに、影慶がセンクウの住むマンションを訪れてみると、鳴らしたチャイムに応答はなかった。 手が離せないのかもしれない、と待ってみたが、いつまでたっても反応がない。 ノブは回る。 ともすると、ふと思い立って何か買い物にでも出かけたのかもしれない。 用件は借りた本のことなのだが、返してそれだけで終わらせるつもりなど、どちらにもない。 あまり頻繁には会えないのだし、影慶にはそう暇もない。たまに会える時には、つい長々と話し込むのが常だ。 コンビニが近くにあるから、飲むものとつまむものでも、と鍵もかけずに出て行った可能性はある。 なんにせよ、外で待っていなければならないほど遠い仲ではない。 影慶は中に入り、上着を脱いだ。 そして、気配があることに気付く。 どうやら部屋にいるらしい。 風呂場やトイレならともかく、それなら出て来れないということもないはずなのだが、と影慶はその部屋のドアをノックした。 しかしまたも返事はない。 なんなんだと思って開けてみると、 「ああ、すまん。気付かなかった」 顔を覗かせた影慶に、振り返ったセンクウは、謝りながらも、いつもの微笑みではない、もっとはっきりとした笑顔だった。 床に座って、手元には分厚いファイル。 「まあ、構わんが。何をしてたんだ?」 「写真の整理をな」 散らばっている、何枚もの写真。
誰が決めたわけでもいのに、根がマメで、物事を綺麗に整えておくことに関しては羅刹よりも向いているセンクウが、いつの間にか彼等全体の写真の管理人になっていた。 ふと思いついて撮った景色。 どこかに出かけた時のもの。 儀式の最中。 誰が撮ったものか、いつのものか。 全て写真の裏は一枚ずつ、日付と撮った者の名、その時のことが書きこまれている。 そういえば、と影慶も思い出す。 在学中には、何度か訊かれたことがあった。変哲もない写真を持ってきて、これを撮ったのは羅刹だったか、とか、いつだったかな、とか。 あまりにも他愛のない、塾の敷地の池に来た鴨の写真だったりして、撮った本人すら忘れ果てて「撮り人知らず」などと書かれたものもある。 「チャイムもノックも聞こえないほど夢中になってたのか」 「見ろよ、この枚数。これなんか、俺たちが一号の時のヤツだぞ」 センクウが影慶へと差し出したのは、十年以上も前の一葉。 受け取って、影慶はベッドの端に腰掛ける。 これはセンクウがもらったもので、当時は「管理」などしておらず、日付も何も書かれていないが、写っているのは自分たちだった。 同期なのは影慶、卍丸とセンクウで、邪鬼と羅刹は本来、一学年上だった。 統合……併合される前の、塾内での試合の光景。 「こんなこともやったな」 「結局、これは警官の乱入でうやむやになったんだっけな」 「ああ。なかなか度胸のある男だったな。だからこそ、塾長も譲られたのだろうが。そういえば、センクウ。おまえ、この時は鋼線は使わなかったな」 「知られたくなかったからな。何も。おまえだって、ずいぶんと手の内を隠してただろう」 「お互い様、か」 「あ、ほら。これ」 そして次にセンクウが取り上げたのは、三人が明らかにカメラを意識して、一緒に写っている写真。 撮ったのは。 邪鬼。
「……繰り上げられた、時のヤツだな」 一気にこらえがきかなくなって、影慶の眼が霞む。 「すまん。まだ、駄目らしいな。こうなると」 拭うのが間に合わない。 だが、それでもその一枚の写真を見つめる。 「覚えてる。いい意味で、目をつけられていたからな。いきなり、そこに並べと言われて」 センクウの貸してくれたハンカチで目を押さえ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。 並べ、と厳しく命令されて、わけが分からないながらも渋々並んだ途端、隠し持っていたポラロイドカメラで一枚。 呆気にとられた三人に、邪鬼は笑って見せた。 そして、言った。 「昨日まではどうかは知らんが、今日からは先輩でも後輩でもない。俺の命令には従わねばならん、のではないぞ。こんな強張った顔をするな」 そして渡されたのが、ぼんやりと絵が出始めたこの写真。 「まだずっと荒々しくもあったが……悪戯を仕掛けるような、度量があった。俺はな、影慶。この一件で、この人にならついていけるかもしれない、と思ったんだ」 「そうなのか?」 「ああ。三号筆頭でさえ恐れるとまで言われていながら、こんな他愛ないこともできる。何か……すごく優しい人のような気がして。それから、これ」 センクウはまた一枚、新しい写真を出した。
「北海道旅行の時のか」 二ヶ月ほど前、四月の半ば。 なんとなく全員の都合がついたので、四人で何処かへ行くのもいいな、という話になった。 思えば男塾在学中、毎日顔を合わせて同じところにいはしたが、あらためて四人で出かけたことなどなかった。 卍丸の提案に反対する者はなく、まだ肌寒い北海道へ旅行した。 人のいい青年に撮ってもらった、四人一緒に写っている写真。 立ち寄った公園から見えた雄大な景色は、影慶が撮ったものだ。 雑多な町並みは、羅刹。 それから、大口を開けて焼きトウモロコシに齧りつく卍丸も。 「これは……この後卍丸が吹き出してえらい目にあったな」 いきなりフラッシュをたかれて驚いたのか、卍丸は口の中に齧りとった粒を吹き出してしまって、それが飛び散った。までは良かったが、一斉に群がってくる鳩の大群。 「で、これは決定的瞬間」 「ん?」 センクウがまた一枚取り出して見せる。
その旅行の時のものだったが、影慶は受け取って固まった。 まるで記憶にない写真なのだ。 それも。 自分と卍丸が目に涙まで浮かべて笑っている写真。 「こんなもの……いつ撮った」 恥ずかしいような、困ったような、複雑な気持ちで眺める。 服装からして、四人で撮ったものと同じ時のようだから、おそらくは日程三日目中だ。 裏返して見てみたが、まだ何も書かれていない。 撮られた記憶がない上に、背景がほとんど見えなくなるようなアップだから、具体的にどの場所でかが分からない。 「これは、何処で撮ったヤツだ? おまえが撮ったのか?」 「ああ。ツーショット撮ってやるとか言って、羅刹がカメラを構えたまま後ろに下がって」 そこまで言われて、思い当たった。 たしかに、大笑いした。 摩周湖のほとりだった。 後ろを見ずに下がっていく羅刹の後方に、ゴミ箱があることには卍丸も影慶も気付いていた。 もしかして、と思っていたとおりにそれにぶつかって、カメラを庇うあまりらしくもなくゴミ箱ごと引っ繰り返って、頭からゴミをかぶった羅刹に大笑いした。 どうやらその時、少し離れていたセンクウがこれを撮っていたらしい。 「あれ見ろよ!」 笑いながらそう言って卍丸が指差した瞬間の、その声まで聞こえてきそうな写真。 「俺のお気に入りだ」 影慶の手から、センクウが写真を取り上げていく。 嬉しそうな、愛しそうな、優しい眼差しでその一枚を見つめる。 写真の中の自分たちに注がれる目の思いがけない真摯さに、影慶はまるで自分が今、その目を向けられているように落ち着かなくなった。 「望遠レンズの調整をしてたんだ。湖の向こうに鳥が下りたようだったから、それを撮ろうと思っていじっていて……。羅刹の悲鳴が聞こえて、おまえたちが笑い出したから、そのままシャッターを押した。こんなに綺麗に撮れてるとは思ってなかった」 「どうせなら、ゴミをかぶった羅刹を撮れば良かっただろう」 気恥ずかしくて、声がぶっきらぼうになる。 そんな影慶にセンクウは、 「だってな、おまえが笑うから」 そう笑いかけて、写真を持ったまま、床から立って隣に座った。
余るほど深い声で囁くように言われて、微笑まれて、影慶はそれに飲まれて動けなくなった。 写真に向けられていたままの目が、ふっと影慶に向けられ、また写真の上へと戻る。 「笑ってはくれる。昔よりずっと。一号や二号だった時なんて、にこりともしない奴だったからな、おまえは。三号になって、付き合いも長くなって、いろいろあって……。だが、こんなふうに笑うことは、滅多になかった」 「………」 「今なら残しておけると思って、ほとんど反射的に撮ってた」 そんな思いを真っ直ぐに出されても、影慶は戸惑うしかなかった。 慣れない。 こんなふうに笑う自分を見られることも、ましてや見ることも。 そんな困惑に気付いたのか、センクウは急に悪戯げな顔をした。 「これな、本当は写真立てにでも入れて、枕もとに飾りたい気分なんだ」 「バ、バカ、よせ!」 「やらないさ。人が見たら何かと思うに決まってる」 「当たり前だ」 「飾っておくなら、こっちか」 床の上からセンクウが拾い上げる、四人で写した写真。
「何か飲むものでも持ってこよう」 とセンクウが部屋を出て行った。 何枚もの写真と共に残されて、影慶は床に移動し、それを拾い上げ、眺めてみる。 影慶には、こういうものを眺めて感傷に耽る趣味はないが、センクウがそうしているのは、悪くはないと思った。 たとえ写真の中でも、「自分」に向けられている優しい眼差しがあると思うのは、恥ずかしいような気はしても、悪くはない。 とりあえず、忘れないうちに本だけは返してしまわないと、また持って帰るのでは話にならない。 影慶は鞄の中から三冊、借りていた本を出してベッドの上に置き、もう一度写真に向き直った。 (明日も休みだしな……) センクウさえ構わないなら、今日は泊まることにして、一晩中、この溢れ返った思い出と過ごすのもまた、悪くはないだろう。 紅茶とパウンドケーキを持って戻ってきたセンクウに、そんな思いつきを告げる。 カップを一つ渡しながら、センクウは嬉しそうに微笑んで、頷いた。
(了) |