夜に垂れ込める雲は、世界を真っ暗に覆い尽くす。 叩きつける雨は更に闇を濃く厚く塗り替えて、最早逃げ道もない、牢獄のようだ。 風が窓を鳴らす。 いったい何処に明かりがあるのか、その窓に自分の姿が映っている。 たぶん、廊下の非常灯なのだろうが……。 この世界に、完全な闇などない。 月も星もないこんな夜、たとえ人工の光のない密林の奥に行こうとも、暗黒など何処にもない。 そこに命があれば。 命の痕跡があれば、それが光を放つ。 闇の密林など、その輝きで青く眩いほどだ。 金属の壁に囲まれた密閉空間でさえ、そこに人の触れた気配がうっすらと浮かんでいる。 本物の闇は、何も見えない暗闇は、世界の何処にもない。 あるとすれば、心の中だけだ。
ガッと世界を照らした雷光が、間髪を入れずに轟音を立てる。 古い校舎が揺れるほどの雷鳴に、窓ガラスが弾けた。 枠がたわんでその圧力で割れたガラスは、散弾さながらに飛び散る。 あまりに突然のことで避けきれず、伊達の腕と頬を裂いた。 風が吹き込む。 雨が床を濡らす。 揺さぶられる木立の音が絶え間なく続き、雨が吼えるように強くなり、弱くなり。 切れた頬に触れて、それが見事に古傷の一本をなぞっていることを知り、伊達は薄く笑った。 何が可笑しかったのかは分からない。 何故自嘲めいているのかも分からない。 考えるのも面倒で、忘れることにする。 腕の傷は思ったより深いらしく、痛みが続く。 この、熱く疼くような感触は嫌いではない。 焼け焦げるようなそこから、出て行くのは血より熱。伝わる液体の感触がなければ、なおのことその温度だけが際立つ。
バタバタと音を立てながら、雨はまだ床を濡らしている。 机も椅子も、濡れてひっきりなしに雫を落としている。 水はよく命にたとえられる。 生命の恵み、母なる海、その流れ。 そのせいか、木々や鉄より、夜の中では朧に光を含んで見える。 床に溜まった雨水は、少しずつ古びた床を浸食していく。 じわじわと。 這い寄るように。 形を持たないその身の中に、床板の持っていた光を食らい、そこを黒く塗り替えながら、遠い稲妻の輝きを受けながら、キレイに、他の光を食い物にして、静かに、広がっていく。
ガラリと、突然背後でドアが開いた。 振り返ったそこにいたのが知った男で、伊達は思わず安堵の溜め息をついた。 「あんたか」 人の気配から鎖されるほど深く、自分の妄念の中に潜り込んでいた不覚を恥じる。 「こんなところで何をしてる」 少し頭を倒して鴨居をくぐり、入ってくるのは二号生の赤石だった。 「あんたこそなんで一号校舎にいる」 「見回りだ。こういうことがあるんでな」 こういう、と赤石は割れた窓を顎を示した。 「ご苦労なこったな。二号の筆頭ってのは、雑用係か」 「口の減らねえ野郎だな。で、おまえは何をしてた」 尋問。 基本的にこの塾では、夜間に校舎に出入りすることは禁じられている。 赤石がその立場上、それを問うのは当然のことだった。 「別に」 伊達の答えを、だからそのまま許すわけにはいかない。 「そんなものでは理由にならん。答えろ」 そういう赤石の立場と、その責を全うしようとする律儀さを、伊達は承知している。 かつて、以前この男塾に筆頭として在籍していたおりから、少しも赤石は変わっていない。 激すれば苛烈にして容赦ない男だが、折り目正しく真っ正直で、冷静だ。 三年たった今も、少しも変わっていない。 「居残ってただけだ。なんとなくな。飛行帽が戸締りには来たが、何も言いやしなかった。それで、そのままここに居た」 その答えを聞いて、赤石は仕方なさそうに息を吐く。 かつて教官を殺した伊達に対する恐怖は、今も教官たちの間に根強く残っている。 今の伊達にはそんな面倒な騒動を起こす気は欠片もないのだが、それを感じつつも信じられずに、関わりを避けようとする。 「まあ、それなら俺がとやかく言うこともねえか」 そこから更に「何故」と問うのは、赤石の領分ではない。 ましてそのような興味を表に出すことは、好きではなかった。
赤石はいったん教室を出、ビニールシートと補強材を持ってきた。 それを、伊達は奥の机に腰掛けて眺めていた。 こんな雑事は配下の者にさせれば良いものを、二号生筆頭がじきじきに、厭う様子も見せずにやっている、というのが、妙に可笑しい。 黙々と作業する後ろ姿は、違和感があるような、しっくり来るような。 光のない薄闇の中に、白い髪は朧に鮮やかだ。 「なあ」 彼の背に、伊達が問う。 「あんたのその髪、染めてるんでも抜いてるんでもないだろう。なんでそんな色してるんだ」 眉や睫毛は日本人らしく黒いのに、髪だけが白い。 伊達にすればその白さがこの闇の中、無視できないほど目についたのだが、赤石にとってみれば、あまりに唐突で脈絡のない問いだ。 だが、いくぶん不機嫌にではあったが、 「生まれつきだ。赤ん坊の頃から、髪だけが白かった」 淡々と赤石は答えた。 「そうか……」 そこに幾許かの屈託を感じはしたが、それだけ言って、伊達はまた黙った。
それからまた、伊達は赤石の髪を見ていた。 空を染める雷に照らし出されれば、まるで鬼火のような不気味さだが、闇の中に浮かんでいる様は優しい。 敵意を持って襲い来るものには鬼と化しても、ただそれを見つめる者には、仄かに浮かぶ標。 闇の中、変わらずそこにあり続ける、生命の白。 この鎖された牢獄に、唯一映える人の命の白。 気配を消したつもりはなかったが、伊達が赤石の髪に触れた時、赤石は手にしていた木材を放り捨てて、振り返った。 「脅かすな」 伊達の手首を掴んで握り締めたまま、ほっと息をつく。 それからまた、放り出した板を拾って窓を向く。
雨はまだ降り続いている。 雷鳴は遠くなって、雨脚も弱まりはしたが。 風はひどく気まぐれに、強くなったり弱くなったり、苛立ってものに当たる子供のように、聞き分けなく吹いている。 補修を終えた赤石がようやく窓の傍を離れた。 そして、 「どうした、伊達」 溜め息混じりに問う。 「どうした、って、何が」 「どうもしてねえならいいが」 「どうかしてるように見えたのか?」 「見えはしねえが、普通でもねえだろう」 「ありがたいねえ、先輩? 心配してくれてるのか」 「心配なんぞしちゃいねえ。……気にはなるが」 その言いように、伊達は小さく笑った。 その「気」に、いくらか心配という要素も含まれているのだろう。 「別に。なんでもねえ。だいたい、俺にもよく分からねえ。どうしたって言われたところで、こうしたなんて答えられやしねえよ」 感じるのは、妙な閉塞感と息苦しさ。 今自分の感じているものを言葉にして外に出せるなら、おそらくこんな気分にはなっていないだろう。 言いようがなく、言えないからこそ閉じられているのに、それを言えとは無茶を言う。 全て見えない闇の中だ。 手探りで辿ろうとすればどろりと絡みつく、一条の光もささない闇の中。 何処に何があるのか、どんなものがあるのかも分からない、本物の、黒く澱んだ闇。 答えてみようかと答えを探せば、差し入れた手まで黒く染まって見える。 自分自身にも分からないことが他人に分かるはずもなく、自分自身でも持て余しているものを、他人が扱えるはずもない。 「まあ……、それなら、問わねえが。ともかく、いつまでもこんなところにいるな。寮の門限もとっくに過ぎてる。さっさと帰れ」 それだけ言いつけて、道具箱を肩に担いだ赤石が出て行った。 白い髪が、ドアに阻まれて消える。 夜の雲。
古びた校舎。
降りしきる雨。
わめく風。
並んだ机。
闇に浮かぶ色。
命。
―――何もない。
「……ぉぉあああああああぁぁぁッ!!」
「!?」 突然後方から聞こえた伊達の咆哮と、続く凄まじい破壊音に、赤石は道具箱を投げ捨てて駆け戻った。 ドアを引き開けたところには、机を一つ叩き割り、荒い息を吐く伊達がいた。 小刻みに歯が、小さく音を立てている。 「伊達……。いったい、どうした」 「どうした……だと……?」 おさまるどころか更にひどく荒れる息。 その合間に吐かれる言葉は、無理やり搾り出されて、歪んでいる。 「それに」 まるで断末魔の喘ぎ。 「それに答えられるならこんなことしやしねえんだよ……!!」 憤怒にまみれた、それは悲鳴に聞こえた。
「落ち着いたか?」 赤石を一発殴りつけて、ようやく興奮状態から抜け出した伊達は、 「……すまねえ」 小さく詫びて、赤石から離れた。 そのまま壁にもたれて、床に座り、顔が見えなくなるまで俯いた。 項垂れたというよりは、頭を起こしている気力がないようだった。 赤石は口の中で折れた奥歯を手に吐き出して、そのまま口の端の血を拭った。 「気にするな。……言えと言われて困るなら、聞かん。が、言えることがあるなら、言え。……今でなくともいい。たぶん……関わりが薄い分、剣たちより俺に言えることも、あるだろうからな」 「……ああ」 減らず口一つ叩くでもなく、冗談一つ言うでもなく、身勝手に押し付けられる勝手な言葉を、拒みもしない。 全く何も分からないが、少なくともそれは、そこまで伊達が追い詰められていることの証のような気がした。 「なるべくなら、寮に戻れ。ここにいても、構わんが」 それだけ言って、赤石はもう一度廊下に出た。 道具箱を拾い、中から飛び散ったものを集める。
伊達という男がどういう人間なのか、それはまだほとんど見えない。 だが、恐ろしくプライドが高いことだけは知っている。 隙間もなく、ぎりぎりにまで張り詰めて、強張ったプライド。 それに見合う力。 だが、やはりどこか歪んでいる。 それがどこで、どう、何故歪んでいるか。それは分からないが。 何故そう感じるのかもまた、分からない。 ただ、幾人もの男と闘い、修羅場をくぐってきた赤石の、人を見る、人を感じる「感」が、告げることだ。 差し出される手を見れば、必ず拒む男だろう。 ならばじっと、待つ他ない。 永遠に他人の手など求めないとしても、ならば見ている他ないが。 壊れる前に俺を頼ればいいんだが。 あまり関わったこともない男を相手に、そんなことを思う自分に、赤石は小さく笑った。 全ての教室を見回り、道具箱を倉庫に片付ける。 深夜を回り、雨も風もずいぶん弱くなっている。 台風はもう通り過ぎたのだろう。 やがて朝がきて世界がひらければ、心を鎖す闇も晴れる。 今はおそらく、その闇の中に蹲っている男を思って、赤石は雨の中へと顔を上げた。
(終)
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