広大な広間にぽつんと据えられた、豪奢な椅子。
座る主はもういない。
そしておそらくこれからも、これに相応しく座るものは現れまい。
大豪院邪鬼。
男塾の帝王。
「帝王」など、並の者が名乗ればただの道化だ。
だが、その名に相応しい力と器を持ち、あえてその道化の役どころをこなし、真の帝王であったただ一人の男。
帝王が掛けるに相応しい椅子。
赤石は座るまい。
剣も座るまい。
帝王を名乗り道化を演じて美しく、率いる者たちをまとめる力のある者は、いるとすればおそらく伊達だが、彼は剣たちと共にあるかぎり、二度とそのようなことはするまい。自分が今そこで何をするべきか、どの役割を果たすべきか、よく承知している男だ。
再びこの椅子を温める者は、現れるとすればただの愚者だろう。
影慶は「帝王の椅子」を眺めている。
広間に近づいてくる人の足音が聞こえ、振り返った。
「やはりここにいたか」
扉付近からさえ、さして大きくもないのにはっきりと届いてくる柔らかな低音は、センクウの声だ。
背にした明かりに照らされて、立てた髪が眩しい。
ここのところ髪型を設えることはなかったが、あえて卒業式にあって立てたのは、「別れの儀式」に赴く彼なりの覚悟というか、正装なのだろう。
その手には美しく枯れたドライフラワーの花束がある。
生花を好むセンクウにしては珍しく、だいぶ前から彼の部屋に吊るされていたものだ。
センクウはそれを手に近づいてくると、影慶に笑いかけてその脇を通り過ぎ、椅子の上に花束を置いた。
「そんなものを作っていたのは、そういうことか」
影慶の言葉にただ笑って隣に立ち、椅子を眺める。
高い窓から差し込む明かりも届かない、静かな薄闇の中、ドライフラワーを抱いた椅子が端然と沈黙している。
「……いろいろあったな」
それを眺めたまま、センクウが呟く。
声音には感慨が滲み、口元は微笑んでいた。
「そうだな。いろいろあった」
全てを思い返すこともできないほど、様々なことがあった。
その中に、様々な姿があった。
「こうしていると、死天王を名乗る前のようだな」
「ん?」
「お互い、学ランを着ているのが」
「ああ、そうだな」
たしかにそうだと、影慶が笑う。
「やっばりここか」
その背後から卍丸の声がした。
彼もやはり制服姿だが、式の最中とは違って、ボタンは全て緩めてしまっている。
やがて羅刹も現れて、
「やはり皆ここにいたか」
と、三度目の「やはり」を口にした。
卍丸が羅刹に向かい、制服が似合わないなどと軽口を叩きだし、にわかににぎやかになる。
センクウが口を挟み、ますます。
「だから何もそんなこと言ってねえだろう? だいたいおまえにはこういうピシッとした格好より、土方やってるようなのが似合うんだよ」
「なっ、なんだそれはっ」
「白い……このへんにボタンのついてるようなランニングを着て、地下足袋を履いて、首にタオルを巻きつけて……」
「そうそう、それだ」
「センクウ! なんだおまえまで!」
「いや、土方、というイメージだとそういう格好だろうな、と。何もそれがおまえに似合うとは……、似合わんとも言わんが」
「こらーッ!!」
「似合わんとも言わん、というだけで、似合うとも別にまだ言ってないぞ」
「『まだ』ってはなんだその『まだ』ってのは!?」
「え? ……あ、まあ、つい」
「……天然かよ、今の。こりゃ崖っぷちだな、羅刹」
「ぐぅぅぅ」
「いや、しかしそういう格好が似合ったとしても、職業に貴賎はなかろうし」
「本気で宥められると本気で腹が立ってくるわ」
「羅刹。ここは潔く土方やったらどうだ? アスファルトだろうが素手で掘れるわけだぜ。そりゃ一財産築けそうじゃねえか? 土方長者、いずれテレビからも出演依頼だ」
「おまえな……」
拳を震わせる羅刹に、卍丸はセンクウの後ろに逃げ込んで彼を楯にした。
「お、おい卍丸」
しっかりと腕をとって離れられないようにして、ひょいと脇から顔を覗かせて羅刹を見る。
つらいこともあった。
気を張り詰めて挑んだ、激しく厳しい時間もあった。
喧嘩もした。
些細なことで争ったこともあったが、譲れない信念同士をぶつけ合って、どうしても理解できず、何ヶ月も反目しあったことさえあった。
こうして笑いあったこともあった。
なにげない日常の中に、他愛のない苦笑や失笑、微笑み、馬鹿笑い。
そして。
泣いたこともあった。
「影慶」
優しい声がして、肩に手が触れる。
「すまんな。あれから涙腺が緩みっぱなしらしい」
「詫びなくともいい。俺だって同じだ」
「センクウ?」
目を上げると、隠そうともせず、溢れるものを素直に頬に落として、泣いている緑色の目があった。
「気にすんなよ。……それだけデカいってことだ。デカいもんがあったってことだ。嬉しいじゃねえか」
卍丸の目も赤く潤み、顔をしかめて鼻をすすり上げる。
嬉しいじゃねえか。
その一言が胸に響いた。
「まったくだ。そう容易く泣けるような性分でもないのに、これほど胸に迫るものがある。いったいこの世にいる人間の、どれだけがこんな大きなものを味わえる。……皆。この長い間、本当に……。……礼を言う」
ゆっくりと、しっかりと頭を下げた羅刹の顔の下へと、光を弾いて落ちていく粒。
「ああ。感謝してるぜ。俺にこんな時間をくれた。こんなにデカいもんをくれた。一生失くせねえもんをくれた。……ありがとうよ、みんな」
にやりと笑う卍丸の口髭に染みるもの。
床に、それぞれに落ちていく。
羅刹が懐から小さな神像を取り出す。
死天王を名乗るにあたって邪鬼より下された、「四天王」の像の一つ、持国天王。
卍丸の持つ増長天王。
センクウの持つ広目天王。
そして、影慶の持つ多聞天王。
それぞれを手にとって、軽く掲げる。
「よく、ここまで共に来てくれた。おまえたちがいなければ、今の俺はいない。死天王の将としてあれたのは、おまえたちがいてくれればこそと思う。教えられたことのほうが多い。むしろ俺は、そのために将を名乗ったのだと。感謝する。これまでのこと、全て」
「俺は、単純に良かったと思ってるぜ。面白かった。楽しかった。本当の意味で、毎日面白かったからな。いろんなものをもらった。全部、俺の中では力になってる。だからなんでもできる。そう思える。……ツラ突き合わせてなくても、一緒にいるんだと思ってるぜ」
「……上手くは言えんが、確かなものが、あるのだと思っている。さんざん苦労もさせられたが、そうだな。楽しかったと思う。それも楽しかった。そんなふうに楽しめる時間をくれたことに、礼を言う。これから何があっても、そうして過ごした時間と、そんな仲間がいることが、俺を支えてくれるだろう。本当に、礼を言う」
「…………。ありがとう。それだけしか、出てこん」
なんだそれは、と小さな笑いが上がった。
それぞれが影慶の手に神像を重ね、一歩退き、間を作る。
誰からともなく、椅子を振り返った。
「いいか?」
「ああ、いいぜ」
「うむ」
「ああ」
「我等死天王、これにて退任いたします! ありがとうございました!」
握りつぶされ、投げ上げられると同時に炎に包まれ、瞬く間に燃え落ちていく。
折っていた背を起こし、笑いあう。
去っていく四人の背後で、床に落ちた灰を風が飛ばし、花が揺れた。
(終)