敗軍の将

 第三闘場を遠くに見下ろしながら、邪鬼はいくぶん厳しい顔つきになっていた。
 重油の湖を渡る小船の上の、二人の男。
 一方が、聞いていた男とは違う。
 だが、その予定外の出来事に動揺を覚えたのは、誰よりも、羅刹とディーノだろう。
 一号生は虎丸龍次と月光が出てくるはずだった。
 だが今、闘場にいるのは、本来ならば第四闘に現れるはずの、伊達臣人。
「王大人め。勝手をしおる」
 しかし、そう言った時には、邪鬼は僅かに苦笑していた。
 影慶は彼の隣、一歩下がったところから、じっと闘場を見つめていた。
 何か、考えること、思うことがあるような気がするのだが、何も言葉にならないまま、頭の中を流れていく。
「どうした、影慶よ」
 邪鬼の声すら、曖昧な思念の濁流に飲まれ、聞こえてこない。
「影慶」
 再度強く呼びかけられて、我に返った。
「案じておるのか」
 あるかなしかの微笑を向けられる。
 影慶は、返答に困った。
 心配しているのでは、ないと思う。
 影慶の沈黙をどう受け取ったか、邪鬼は再び闘場へと目を移した。
「羅刹ならば、己一人負けることはあるまいて。ある意味、この組換えは僥倖なのかもしれぬな」
 執念で、地獄の底からでも相手へと手をのばし、諸共に引きずり込む覚悟のある男。
 それが、羅刹。

 伊達とディーノでは勝負にならないことは、戦いはじめる前から明白だった。
 ディーノが弱いのではない。
 伊達が圧倒的に強すぎる。
 塾長をして「男塾300年の歴史に稀なる逸材」とまで言わしめた男である。
 影慶ですら勝てない。
 邪鬼はそう読んでいた。
 だが同時に、羅刹であれば、己一人負けることもない、と。
 羅刹という男は、窮地に追い詰められたときの気迫、忍耐力、そういったものが群を抜いている。
 そして、律儀で義理堅く、責任感が強い。
 絶対に勝たねばならないこの場面において、彼は間違いなく、本来の底力を発揮してくれるはずだった。

 邪鬼は無言で、勝負の動きを眺めていた。
 時が過ぎ、石林の島が炎に飲まれゆく様を、一時として目を逸らすことなく。
 勝ちを急いだような、何処か自棄的な、あまりに羅刹らしからぬ戦いぶりに、次第に険しい顔になる。
「何を考えておる、あやつ」
 理由は、影慶には分かった。
 だが言えなかった。
 何度、言わねばならぬと思ったか知れない。
 虎丸を人質にとろうという羅刹に、邪鬼が明らかに眉を逆立てた時には、言わずには済ませられまいと喉元にまで出かかった。
 だが、影慶が一言発するその前に。
 伊達に勝てないと見極めたのち、羅刹は、自らの愚行を清算するかのごとく、炎の中へと落ちていった。

「申し訳ありません。第四闘においてこの影慶、必ずや」
「おまえが謝る必要はない。奴等を甘く見たこの邪鬼に誤算があった」
 第四闘で奴等を待とう、と邪鬼が踵を返した。
 後に従いながら、影慶は心の中でかぶりを振る。
(全ては、私の責なのです、邪鬼様……)
 邪鬼の誤算などではない。
 自分の不手際ゆえに、後がなくなるまで追い詰められているのだ。
 にも関わらず邪鬼は己の誤算と言い、八連制覇には勝利することすら苦しくなっている。
 苦さだけが、口の中にも腹の底にも、広がっていく。
 むろん、邪鬼にとれば一号生など相手ではなかろうが、相手にせずとも済んだはずの者たちと、戦わせてしまいかねなくなっている。
 そして。
 八連制覇の行方は未だ分からずとも、「死天王」は既に敗れたのだと影慶は思った。
(俺は、将たるべきではなかったのだろうな)
 己が身一つ、他の何も顧みることもなく自在であれたなら。
 血の一雫、命の最後の息吹さえ、安心して邪鬼のために使い果たすことができるだろうに。
(邪鬼様ならば俺の心中程度、見抜いておられたろうに。何故こんな俺を、将として据えられたのだ)
 問いかけに返る、揺るぎない沈黙の背と、悠然たる靴音。
 答えは、ない。

 第四闘場を囲む闘神像には、内部に部屋を持つものがある。
 邪鬼は、そのうちの一つに入ると、影慶を待たずに扉を閉めた。
 一号生たちが到着するまでの間に、考えておきたいことなどもあるのだろう。考えるまでもなくそう承知して、影慶は一人、無数の穴があけられた闘場を見下ろした。
(全て、俺のミスだ。俺が繕わねばならん)
 できるなら、邪鬼の手を煩わせることもなく、残る二人を葬らねばなるまい。
 大将が打ち倒された場合、生き残っている者たちには選択肢が与えられる。戦うか、否か。
 仇を討とうとでも戦うことを望む者があるなら、それら全てもこの手で片付け、そして。
(……俺は、どうすればいい)
 仲間を無駄に死なせた愚かな将として、どうするべきなのか、どうせねばならないのか。
 思い悩む影慶は、邪鬼が背後に立っていることにも、長い間気付かなかった。

「何を考えておる」
 突然、背後から聞こえた声に驚き、振り返る。
「邪鬼様」
「何を考えておった」
 問われれば、全てに、偽りなく答えねばならない。
「……この始末、どうつけるべきかと」
「それは、俺の考えねばならぬことだ。何もおまえが悩むことはなかろうに」
「いえ。事実、この顛末は全て私の責。それを、邪鬼様に考えていただこうとは思いませぬ」
 采配を誤り、出すべき指示を間違えた。それゆえにセンクウは勝ちを譲り命を譲り、羅刹は卑怯な振る舞いを見せ、それを恥じて命を断った。
 どれ一つとして、邪鬼の責ではない。
 ほとんど拒絶に近い態度。
 影慶の異常なまでの頑なさを、邪鬼はいくらか怪訝に思った様子だが、その理由を問い掛けることはしなかった。

 問いの代わりに、
「ならばせめて、この邪鬼の尖兵として相応しい働きを見せよ」
 沈黙する影慶に、邪鬼は昂然と命じた。

 闘気さえ感じさせる、絶対的な命令。
 影慶は、深い眼差しを見上げて、気付く。
 これが、邪鬼の思いやりだと。
(分かっておられるのだ、このかたは。俺が……俺が、誤ったことなど、とうの前から。センクウが、らしからぬ真似をした時から、きっと)
 全て承知で、その言葉が影慶に命をかけさせることも承知で、そしてその死すら見届ける覚悟で、邪鬼は言うのだ。
 己の命令が、影慶の中の迷いを殺すと、苦悩を殺すと、知っているから。
「御意の……ままに」
「行くぞ。奴等、とうとうここまで来たようだ」
「はっ」

(始末はつける。死天王の将として、俺だけ生き残ろうとは思わぬ。だが、せめてこの命、邪鬼様のために使わせてくれ)
 その思いで狂わせ、その思いで死なせた仲間に請う。
(俺を……、おまえたちを見てやれない俺を、許してくれ―――)
 その思いだけは、欠片ほども邪鬼に向かっていないことに、気付かぬままに。
 そして、最後の幕は、上がった。


(了)

……結局アンタが一番オイしいトコとってってないか、邪鬼さんよ?
さすが男塾の帝王(違
この時点では、「全て邪鬼様の御為に」な影慶には
人を率いることはできんと思って書いてる。
「邪鬼様」と「仲間」、両方しっかりと見られるようになってこそ、死天王の将。
この後でそうなってもらう予定。