気がついて最初に感じたのは、ひんやりとした水の香だった。
 それから、背に当たる固い感触。
 あとは闇。
「む? 気がついたか」
 間近から江田島の声がして、伊達は背を起こしかけ、低く呻いた。
 目が痛む。
 痛みようが只事ではない。
 目の奥、脳にまで鉄槌の一撃を食らったような激痛であり、鈍痛。
「無理はするな」
 今ほしいものは、そんな言葉ではない。
 無理をするなと言われたから、無理にでも起き上がる。
 が、体を起こしているのもつらいほど、頭の中に渦巻く痛みは強烈で、吐き気までがこみ上げてくる。
 結局、数分ともたずに起きていられなくなり、江田島の手で転がされるはめになった。
 悔しいが、腹立たしいが、このバケモノには到底叶わない。
 拳を一発、本気で頭にもらってこの様だ。
 だが、まだだ、と伊達は思う。
 安らぐ時間など要らない。
 優しさなど要らない。
 意識のない体を滝壷に放り込んで、鼻で笑うくらいのことを、してもらわなければならない。
 そうでなければ、ここにいる意味もない。
 伊達は、もう一度起き上がり、壁を支えに立ち上がった。
 江田島の拳は視神経に響いたのか、目を凝らしてみても何も見えない。
 気配を探り、江田島の位置を捉える。
 彼が溜め息をつくのが聞こえた。
「あんたを見込んでこそ、この俺が下げたこともねぇ頭下げたんだ。半端な真似は、すんじゃねえ」
 拳を突き出す。
 呆気なく掴み止められ、放り投げられた。
 ここはおそらく、洞窟か何かの中だったのだろう。
 外は、雨だった。



 三号生に進級すると、塾のカリキュラムはにわかに高度なものとなった。
 それは学術的な意味ではなく、現実社会で一流と呼べる振る舞いをするために必要な、様々な作法や礼儀といった意味で、だ。
 ディスカッションの時間などというものまで設けられ、与えられたテーマで延々と半日も論議し合うこともある。
 伊達には正直なところ、松尾や田沢といった「馬鹿の代表」が、学校教育とは関わりのないものについてならば、慧眼を持っていることが意外だった。
 たしかに彼等は九九をやっと覚えたような知能レベルだが、ぽつりともらす一言が本質に触れていることがある。
 そういった論議は、白熱することもあるが、たいていはなごやかなもので、自分たちの将来についての話になることもあった。
 桃は特に口には出さないが、政治を志しているようだった。
 みんなの喜ぶ顔が見たい、と言う松尾はサービス業だろう。数値的なことはともかく、直感的に株価の動向を見抜いてしまう田沢は、経済関係の道を考えているようだ。
 Jは帰国して海軍士官学校に戻り、そのまま軍事関係の職に従事するつもりらしい。
 富樫は、このまま塾に残って教官にでもなろうか、と零していた。
 そんなふうに、誰もが描いていく未来。
 だが伊達は、どんな未来も描けなかった。

 秋の終わり。
 日がな図書館で過ごすようになった桃に、廊下で江田島に行き合って頼まれ、資料を届けた。
 山ほどの専門書に囲まれて、桃は曖昧な返事をするだけだった。
 そんなふうに打ち込める「道」を見出せることが、羨ましかったのか、それとも単に感心しただけか。
 伊達はなんとなくそこにとどまって、熱心な桃を眺めていた。
 一時間ほどもたってから、桃はやっと、伊達の存在を気にかけた。
「何か用なら、言えよ」
「いや。えらく難しい顔してやがるな、とな。見てただけだ」
「難しい顔もしたくなるさ」
 桃が放り出したのは、麻薬とその流通、社会への影響などを綴ったらしい研究書だった。
 何処の国でも同じだ。
 麻薬や覚醒剤はマフィアや裏組織の手を通して売買され続け、国を蝕み続ける。
 銃器のように、誰の目にも明らかな破壊力を持つことがないだけに、恐ろしい毒。
 静かに広がり、気がついた時には手のほどこしようもない。
 一見は平和に見える日本も、若年層を中心に、軽いものが出回っている。
 効果は薄い。
 値段も安い。
 だから軽く試せる。
 大したことはないと思ってまた使う。
 だんだんと、効力の強いものに切り替えなければ、効果が得られなくなっていく「耐性獲得」が起こる。
 純度の高いもの、効果の強いものは、それなりに値も張る。
 解けた脳でまともな思考ができるはずもなく、それがなくては落ち着いていられなくなった者は、安直な方法に走る。
 無論、警察などがそれを防ぐために奔走はしている。
 だが、間に合うものではない。
 そんなふうに少しずつ腐っていく社会を、これから十年ほど先か、もっと早いか、それとも遅いかは分からないが、桃がまとめることになるのだろう。
 この男にその力があることは、疑うまでもない。
「どうした、伊達」
「なんでもねぇ。しっかりやんな」
 不思議そうな顔の桃を残して、伊達は表に出た。

 自虐がないとは言わない。
 だが事実として、伊達は自分に、戦闘能力以外の価値がないことを知っていた。
 まるで魅力のない人間でこそないが、自分について来られる者は限られる。
 そういった意味で、大きな社会の中では、扱いにくい分まるで無価値な人格。
 人に従ってしおらしく振る舞うこともできなければ、人を率いて導くには苛烈すぎる性格。ゴンダクレの集まりや武道家の集団ならばまとめられても、戦わない一般民間人を扱うには、まるで向かない。
 何も考えずにこの先へ進めば、法や禁忌に触れる裏の道しかない。
 だが、それならそれでいい。
 そんな人間にしかできない何かを、するしかないし、すればいい。
 そのことを結果的に、何かに生かせば済む。
 伊達の目にも、自分の道が見えた。
 だがそれには、力が要る。
 有無を言わせない力。
 戦闘能力以上に、全てのものを無視して我が道を突き進む、無神経で暴力的で痛みにひるむこともない、鋼のような心が要る。
 思い定めるや、伊達は江田島のもとを訪れた。
 そして彼に、しばらく本気で稽古をつけてくれるよう、頼み込んだ。
 伊達の言う内容は無茶苦茶だったが、江田島は黙考の末、引き受けた。
「死んだら死んだ。俺をぶちのめしてくれりゃいい。俺が、あんたみたいな怪物の前じゃただの雑魚だってことが身に染みるまで、徹底的に」
 そして、その無茶を誰に止められることもなく実行するために、人里離れた山に篭もったのだった。
 

 
 蹴り飛ばされ、放り投げられ、ぬかるみの中に転がる。
 目も見えず、耳もろくに働かなくなり、江田島が何処にいるのかも分からなくなる。
「俺が仕掛けるの、待ってるだけかよ」
「わしがいると思うところに向かえば良かろう。それがただの木であれば、さぞ間の抜けた様だろうが」
「うるせえ!」
 声の在り処へと槍を突き出す。
 江田島がかわした気配はあったが、それっきり、また見失う。
 途端、脇腹に凄まじい衝撃を受けた。
 嫌な軋みが、耳ではなく体の中を通って直接聞こえる。
(ニ、三本……イッちまったか……)
 だが、折れてはいない。
 起き上がろうと腕をつくと、上から背を踏みつけられた。
 負けを認めて寝てしまえば、終わる。楽になる。
 だが、それではならない。
 どれほど無駄で、報いもなく、未来もなく、閉ざされた状況だろうと、淡々と抗い続け、戦い続けられる力が欲しい。
 息が止まり心臓が動かなくなるまで、何も期待せず、何も望まず、自虐に酔うこともなく、無為な道を歩き続ける無感覚な心が欲しい。
 そうして果てても恨むことも嘆くこともない、揺るがない、本物のプライドが、欲しい。
 体重をかけられると罅の入った肋が呻く。
 それを庇おうとすれば逃れられないなら、庇うことをやめればいい。
 気合と共に身をひねる。
 折れた音がして、激痛が脳天にまで響き、黒から白へ、視界が染まる。
 だが、振りぬいた手刀は、間違いなく江田島の脛を切り裂いたはずだった。

 どれほど眠っていたのか、次に伊達が目覚めた時には、雨の音はしなかった。
 風が林を揺らしていく微かな音と、遠くからせせらぎ。
 吹き込んでくる風はもう冬に染まっているが、すぐ傍で、炎が燃えている。
 右の頬が温かい。
 今度はもう、起きることもできなかった。
 だが、起きられないからこそ、起きようと足掻く。
 体にどんな力も感じられないとしても、起きるために足掻いた。
 自分のしていることの無意味さを思うと、虚しさを覚える。
 そうまでして自分がしようとしていることが、どれほど馬鹿げていて、自己満足に過ぎないか、それを思うと苦しくなる。
 だが、そんな心は、殺さねばならない。
 居場所や理由、価値、仲間、そんなものを求める気持ちは、全て捨ててしまわなければならない。
「もうよさんか」
 不意に、炎より弱く、確かな温度が、頬に触れた。
「わけを言え。これ以上は、それを聞かずには付き合わん」
 重く言いつける声音は、反論を許さない厳しさがあった。
 それに逆らうか。
 それとも従うか。
 伊達は、従うことを選んだ。
 逆らえば、それで安堵できる。
 従って手の内を曝すほうが不本意であればこそ、江田島に促されたとおりに、わけを語った。
 それで罵られようと、呆れられようと、あるいは頷かれようと、それに構わず貫きとおすことだけ、決めて。

「裏が腐れてると、表も思うとおりに動かねぇ。けど、表ってもんが、裏がなけりゃ、もうまともに動かねぇのも、事実だ。だから俺は、裏を制する。……そういうことだ」

 無秩序な暴力をより大きな暴力で押さえつけ、毒は傷口ごと抉りとる。たとえそれが法や倫理に触れようとも。
 そんなものは正義でもなければ、許されていいことではない。
 だから、報われることも、認められることも、許されることも、あってはならない。
 非難され、唾棄され、嫌悪されてしかるべき道。
 そこには肩を並べる者などおらず、どれほど苦しかろうとも、一人。
 その道を江田島の力で形に換えて思い知り、仲間たちと過ごした時間の心地好さを、痛みと無為の中に葬り去るための茶番だ。
「……俺には、それしかできねぇ。だから……人のため、なんて、綺麗なことじゃあねえ……。それしか、できねぇから、せめて、役に立ったほうがマシ。まかり間違っても、半端な真似してヘタ打ちたかねぇ。だから、切り捨てるべきものは、切り捨てちまいたい。……それだけのことだ」
「それで、これか」
「俺は、口で言われても、頭ン中で繰り返しても、分かりゃしねえんだ。体に覚えこませねえと」
 江田島の溜め息が聞こえた。
 彼がどう思ったか、など思いわずらうことはない。
 たとえどうであれ、決めた道を行くだけだ。
「伊達よ。それが貴様の選んだ道なら、どうせ言ったところで聞かんのだろう。好きにするがいい。付き合ってやろう」
「……すまねえな」
 と詫びて、ふと。
「けど、これも、あんたに甘えてることに、なるのかもしれねぇな。てめえ一人じゃ、踏ん切りつかねぇもんだから、あんたに、面倒押し付けて」
「出て行けば、もう二度とわしなど頼るまい。……せめて貴様が塾生である内は、わしにくらい甘えておけ」
「……そうか」
「ともかく、このまま続けては命に関わるわ。死にたいわけではないなら、多少癒えるまでは待て。桃たちに知られたくない以上、その様で帰るわけにもいくまいが」
「そう……だな」
 宥めるように髪を梳く無骨な手に、眠気を覚えた。
 厳しさの分だけ、優しい手。
 こんなものも、気侭に振る舞える心地好さも、もう間もなく捨てる時が来る。
「だが、伊達よ。いかに貴様が遠ざけようと」
 眠りに落ちる直前に、江田島がそう言うのが聞こえた。
 だが、そこから先は、曖昧な音に消え、聞こえてはこなかった。


(終)

妄想箱の中から出てきたモノから、つらつらと考えている内に派生した。
何故伊達がヤクザになったのか。
それに、天挑五輪辺りでは大口叩きまくりの道化者だったのが、
「天より高く」ではめっきり無口になっていた辺りについても、少し。
率いることをしなくて良かった時間だけ、あんなに楽しそうだったのかと思うと、
ちと切ないネ……。