赤い籠

 たまの日曜だというのに、塾長の言いつけで、俺はとあるお偉いさんに挨拶に出掛けていた。
 なんでも、高名な茶道の宗匠らしい。
 狂気じみたイベントしかない塾だと思っていたが、二号生になれば、それなりにまともな授業が組まれていて、その中には一般教養から、高度な嗜みまで含まれている。
 後期に入ると、その先生が週一の割合で訪れて、茶の心というものについてレクチャーしてくれるらしい。
 それで、筆頭である俺が、挨拶しに行かされたわけだ。
 実際に大した老人らしく、偉ぶったところもなく、始終穏やかな笑顔を浮かべて端然と正座している様には、俺も感じ入った。

 その帰り。
 俺は、とんでもない場所に腰掛けている伊達を見つけた。
 河原の近くにある野球場の、そのフェンスの上。
 低く見ても五メートルはあるその上に、いったい何を考えているのか、空を見上げて腰掛けていた。
 通りを歩く人がそれを見かけて、見なかったことにして、歩き去っていく。
 俺は呆れてフェンスの傍に寄り、声をかけた。
「そんなところで何をしてるんだ」
 上から下へ、伊達の顔が動く。
「おまえか、桃。何処かに出掛けてたのか」
 声が降ってくる。
「塾長の遣いだ。それより、下りて来いよ。いい見世物になっているぞ」
 言うと、伊達はそのまま後ろに倒れこみ、空中で一回転してアスファルトに降り立った。
 俺の後ろで誰かが悲鳴を上げたようだが、と思って振り返ると、年寄りが一人、座り込んでいた。
「伊達……」
 もう少し下り方を考えてくれ。
 俺は分かっているから平気だが。
 俺が老婦人に手を貸して引き起こすと、伊達もさすがに少しは悪いと思ったのか、
「驚かせてすまなかったな、婆さん」
 と呟いた。

 連れ立って歩きだすと、鳥を見ていた、と伊達は言った。
「あんなところじゃなくても見えるだろう」
「……そうだな」
 珍しい。
 伊達の歯切れが悪いなんて、珍しすぎる。
 だいたい、皮肉めいた笑みを浮かべているか、つまらなそうな無表情、厳しく引き締まった顔。これが伊達の普段の表情(カオ)だ。
 何か思い悩むような顔つき自体が、只事じゃない。

 歩きながら、
「おまえは、何処にでも行けるんだろうな」
 突然、伊達が言った。
 俺は、いったい何を言い出したのか、と伊達を見た。
 伊達は歩く道の少し先を見やったまま、俺のほうは向かない。
「伊達。何かあったのか?」
「何も。……何もねえから、」
 何もないから。
 そこで、伊達は黙ってしまった。
 「なんでもない」という意味には聞こえなかった。
 何もないから、なんだというのか。
 続きを促すのが躊躇われる、伊達の沈黙。
 俺も黙って、歩く他ない。

「伊達。あんまり、考えすぎるなよ」
 寮について、俺はそれだけ言った。
 伊達には、あれこれと問い掛けるだけ逆効果だってことくらい、承知している。
 とにかくこの男は、自分の内部に人が入ってくるのを嫌う。
 詮索、興味、好奇心、そして気遣いまで、嫌う。
 人に「自分」を知られるのを怖がっている、というのとは違う。
 知られた後が煩わしいから、知られたがらないのだ。
 無理もない。

 天挑五輪が終わってからの伊達は、少しおかしいと思っていた。
 理由は、分かっている。
 皆、伊達の前では何事もなく振る舞っているが、時々、ほんのちょっとした切っ掛けで伊達のいないところで伊達の話になると、一様に言葉が重くなる。
 雷電と飛燕も、例外じゃない。
 豪学連時代から付き合いのある彼等でさえ、伊達の昔のことについては、ほとんど知らなかった。
 伊達が詮索を嫌うことを敏感に察して、問おうともしなかったのだろう。
 そして、問われないことを語る伊達でもなかっただろう。
 消えない傷。
 消せない証。
 それが苦い思いを生むのなら、なんとかしてやりたいと思う俺たち。
 けれど、伊達は俺たちのそんな身勝手な思いを、嫌うのだ。
 俺たちの身勝手な同情や憐憫を感じ取って、あれからずっと、さりげなく距離を置こうとしていることに、俺は気付いていた。
 そして、セブンタスクス以降、それに拍車がかかっていることにも、なんとなくだが、気付いていた。

「桃」
 俺がここにいること、こんなことを考えていることも、伊達には迷惑なんだろう。
 そう思って去ろうとすると、呼ばれた。
「考えるなってんなら、相手してくれねえか」
 俺の鼻先を掠める鋼。
 伊達の手に、槍がある。
「組み手か? 授業には出てもこないくせに」
「あんなお遊びじゃあなくてな」
 感情のない、ただ暗く冷たく、静かな目。
 頷くのを躊躇わせる目だ。
「どうだ」
 重ねて問われる。
 俺は、引き受けたくなかったが、それ以上に、断りたくなかった。
「分かった」
 だから、引き受けるしかなかった。

 「それ」は思ったとおり、少なくとも組み手じゃなかった。
 野次馬が集まり、慌てふためき、青ざめ、狼狽し、成すすべもなく佇む。
 殺意は感じないが、伊達の放つ気配は殺気に近かった。
 一瞬でも気を抜けば、間違いなく俺は殺される。
 だから、見ている連中には、俺たちが何かで本気の喧嘩になり、伊達がキレたとしか、見えなかっただろう。

「やめーいっ!!」
 誰かが呼んだに違いない。
 塾長の一喝が轟いて、伊達はぴたりと動きを止めた。
 その頃には俺は細かな切り傷だらけだった。
「喧嘩結構、死闘も大いに結構。だが、意味もなく塾内で血を流すことは許さん」
 両の手を袂に入れて、塾長は俺と伊達を見据える。
「わけを言え」
 俺にか伊達にか、塾長が命じる。
 俺には、答えようがない。
 伊達に組み手を頼まれた、としか言えないが、そう言えば、責が全て伊達に行ってしまう。
 それでは駄目だ。
 俺は、こうなることを予感していながら、引き受けたのだから。
「大したこっちゃあねえよ。ただの喧嘩だ。ちっと本気になりすぎた。それだけだ」
 伊達が、答えた。
 嘘。
「喧嘩の理由は」
「こいつがあんまり優等生すぎるんでな。癇に障った」
「伊達! 違います、塾長。これは」
 言いかけた俺の前を、凄まじい刃風がよぎる。
「そういうところが、気に食わねえんだ」
「伊達!」
「やめい! もう良い。言う気がないならば聞こうとは思わん。その代わり、双方とも三日間謹慎しておれ」
 伊達の嘘など見抜いた顔で、塾長はそれだけ言いつけて、背を向けた。

 途端。
 伊達はその塾長へと、槍を携えたまま跳躍した。
 唸る穂先。
 だが、振り返るより早く繰り出された塾長の拳は刃を横殴りはじき飛ばし、空中でバランスを失った伊達の延髄に、強烈な手刀を叩きこんだ。
 地面に叩きつけられた伊達は、それっきり動かない。
 松尾たちには何が起こったのかすら分からないくらいの、一瞬の出来事だった。
「桃。連れていけ」
「お……、押忍」
 俺に言いつけ、去る間際、塾長が少し困ったような苦笑を見せた。
 伊達のことは俺に任せる。そう言っている。
 俺は、心底からの感謝を込めて、頭を下げた。

 塾長の一撃はよほど凄まじかったらしく、伊達はそれから丸一日近く、昏倒したままだった。
 三日間の謹慎には、そのことも計算されているのかもしれない。
 だが、伊達を止めるために、なにもここまで強烈な打撃を加えることはなかったはずだ。
 おそらくあの一瞬、俺では伊達の動きを予測できず、目で追うのもやっとだったあの時、塾長でさえ、加減する余裕などなかったのだろう。
 これまでに一度も見たことがないくらい、速かった。
 ぎりぎりまで撓んでいたものが、一気に解き放たれたような感じだ。
 伊達がようやく目を覚ましたのは翌日の昼前で、俺は部屋の中、手持ち無沙汰に週刊マンガを開いていた。
 伊達の呼吸の音が変化して、そちらを見ると、伊達はうっすらと開いた目で天井を見上げていた。
「気がついたか」
 雑誌を置いて、覗き込む。
 伊達は何か言いかけたようだが、結局何も言わず、どこか虚ろな目をしている。
 どうやら、いくら起きたとはいえ、ショックは抜けきっていないらしい。
 俺は厨房からコップに水を汲んでくると、背を起こすのを手伝って、それを渡してやった。
「悪いな」
 やっと、伊達らしく笑った。
 俺は心底安堵して、思わず大きく息をつく。
 そして、話をするなら今しかないのかもしれない、と思った。

「伊達。聞いていいか?」
 それでも、したくない話は、させたくない。
 俺がそう言うと、伊達はややあって、低く「ああ」と言った。
「なんだって、あんなに切羽詰ってた?」
 殺気に変わりそうなほどの、ぎりぎりの何か。
 たぶん、苛立ちとか、鬱憤とか、そういうものなんじゃないかと思う。
 俺の問いに、
「何もねえからだ」
 伊達はそう答えた。
 「何もねえから」と昨日も言った言葉だ。
「何も、ないから?」
「この半年、何もありゃしねえ。平々凡々と、日が過ぎてく。俺は、それが我慢ならねえ」
 理解しかねた。
 意味が、よく分からない。
「要するに、退屈だってことか?」
「ああ、そうさ」
 俺の浅薄な一言に、伊達は笑った。
 寒気のする、凄惨な笑い方。
 今まで一度も、見たことがない。

「毎日毎日、くだらねえ戯言聞いて馬鹿話して、飯食って寝るだけだ。退屈で仕方ねえ。俺はこんな腑抜けたみてえな毎日には耐えられねえ」
 伊達は次第に早口になり、吐き捨てた。
 それは、今思い浮かんできたことを口にしているというより、頭の中に刻みつけられて、何度も声に出さずに繰り返してきた言葉を、そのままなぞってでもいるかのようだった。
 そんな思いを裏付けるように、どこか抑揚に乏しい。
「伊達」
「おまえらといると、自分が嫌になる。俺が、どれくらいイカれちまってるのか、見せ付けられてるみたいでな」
 語尾に滲み出す、再び、苛立ち。
 あの、組み手とは言えない「戦い」の最中に感じたものによく似た。
「そんなことないだろう」
 俺はありきたりなことしか言えずに、伊達に真っ向から睨みつけられて、それを後悔することになった。
「おまえに何が分かる。おまえらが、当たり前にみたいに笑ってること、話してること、何が面白いのかもだからなんなのかも分からねえで、平和そうなツラ見てると、てめえがどれだけマトモじゃねえのか、そればっかりが見えてくる。俺は、このなんにもねえ平和な日常には飽き飽きしてんだよ」
「だ……」
「痛みもねえ、血もねえ、敵もいねえ。やってられるか!!」
 怒鳴った伊達の手から、コップが飛んで、壁に当たって粉々になった。
 残っていた水が、畳を濡らす。

 静まり返った部屋の中、伊達の洗い呼吸音が耳につく。
 古傷の上を、汗が一滴、落ちていった。
 足の上で手を組み、その手に目を落とし、伊達が項垂れる。
 息を整えて、最後に一つ、長い吐息を零した。
 そして、ゆっくりと、俺が聞き落とすことがないように、ゆっくりと、言う。
「……平和に、退屈してる。何して過ごしゃいいのかが、分からねえ。明日も明後日もこんな日が続くのかと思うと、……恐ろしくなる。……てめえが、ただの血に狂った獣だってことが、浮き彫りになる。俺は……戦ってねえと、生きていけねえんだ」
 語尾を振るわせた笑いに、俺は喩えでも何でもなく、本当に胸が痛むのを覚えた。
 そんな俺をまるで宥めるように、伊達が険のない苦笑を見せて、布団から抜け出し、窓に寄った。

 よく晴れた空の中、電線に雀が止まっているのが見えた。
 「鳥を見ていた」。
 昨日、伊達が言った。
「よく言うじゃねえか?」
 外を見やる伊達の顔は、俺には見えなかった。
 いくらかおどけたような声は、いつもの、昨日までの伊達のようだが、何処かが違う。
「籠の鳥、ってよ。籠の中の鳥は、自由に憧れて籠の外に出たがって、……結局、外の世界で生きていくことなんざできなくて、たいていくたばっちまうんだろう? よく、そう言うよな」
 頷けない。
 肯定してはいけない、そんな気がして仕方がない。

 俺には、何もできない。
 滅多に自分のことなんか話さない男が、こんなふうに、言わなくていいことまで吐き出すのが、どれほどつらいことかは分かるのに、それをやめさせてやることができない。
 なんだって塾長は、俺みたいな半人前をあてにしたのか。
 俺がどんなに、何をどんなに思って伊達を助けたいと願っても、何をしていいかすら分からないのに。
 昨日一瞬でも、俺になら話してくれるかもしれない、話せばすっきりするのかもしれない、なんて自惚れた自分が、嫌になった。

 甲高い笛の音のような鳴き声を出して、大きな鳶が空に弧を描いている。
 いつの間にか雀はいなくなって、その囀りも聞こえない。
「……おまえみてえだな」
 伊達が言う。
「え?」
「いつも、当たり前みたいにああやって飛んでる。いつも……当たり前みたいに、空にいる。何処へでも、飛んでいける」
「伊達……?」
「俺は、一生、血まみれの籠の中だ」
 空を、鳶を、それよりはるか上を向いた伊達の目が、閉ざされる。
 口元に浮かべた微かな笑みは、安らかなほど穏やかだった。
 そして、そんな微笑をそのまま声にして、言うことが、ひどすぎる。
「外に出されたって、どうせ終いにゃ、てめえから籠の中に戻る。綺麗で、広くて、平和な世界になんて、……耐えられやしねえんだ」

 どう言えば、何を言えばいいのか。
 俺はただ途方に暮れる。
 赤い赤い籠。
 血の色をした小さな籠。
 開いたままの扉を、ただ見つめるだけの赤い鳥。
 届かない空を見上げると、どれほど背中が痛むのだろう。

 ぼたぼたとみっともなく泣けてくる。
 今までも、誰かが死んでいくのを見ている時、そこでそうして見てるしかない自分の無力が嫌だった。
 けれど、こんなにつらくはなかった。
 何ができても嬉しくない。
 どんな力があっても、誰にどれだけ褒められても、嬉しくなんかない。
 そんなもの、なんにもならない。
 全部、何もかもくれてやるから、その代わり、伊達にかける言葉が欲しい。

「泣くな、馬鹿」
 いつの間にか傍に戻ってきていた伊達の手が、俺の頭を撫でる。
 そのぬくもりと優しさに、胸が詰まる。
「俺……おまえに、何……して、やれる……?」
 かろうじて聞いたが、答えは、横に振られる首だった。
 俺にできることなんて、やはりなんにもありはしないんだろうか。
 壊れたみたいにまた一気に湧き出してきた涙で、伊達の顔も見えなくなった。
「馬鹿。そういう意味じゃねえ。おまえは、おまえでいりゃいいんだ。俺のことなんて気にせずに、いつだって飛んでいけばいい。俺を、枷にするな。こんなくだらねえ話しちまって、そのせいでおまえがグズグズしてるんじゃ、最低だ。俺のために何かする気があるんなら、俺のことなんか振り返らずに飛べ。おまえの、行きたいところへ、何処へでも」
 そんなの
「嫌だ……!」
 思わず伊達にかじりついていた。
 伊達を忘れて飛ぶことなんてできるはずがない。
 そんなことができるなら、こんなに苦しくもない。
「俺を、おまえの足に巻きついた、血の色の枷にする気か?」
 優しく優しく、拒絶される、俺。

 潤んでもいない渇いた目を見上げる。
「そ……、するしか、ない……っか?」
 俺ができることは、それしかないんだろうか。
 俺が伊達を捨てていくことが、伊達にしてやれる唯一のことなんだろうか。
 伊達が頷く。

 心を殺そう。
 思いを殺そう。
 そして笑おう。

「分かった」
 俺は、笑えているだろうか。
 伊達の目の中に、答えを見つけた。

 

静かに
何もかも 諦めきって
捨て去って
赤い籠の中
優しく歌う鳥が一羽
いつまでも いつまでも
微笑んでいる―――


(終)

勝手に吐き出して勝手に完結するな伊達−ッ!!
桃がそれじゃああんまりにも可哀相だろうがよ〜!?

と、思いつつ書いていたり。