「ここは?」 何も分からないなりに、さっきよりは落ち着いているのか、伊達は部屋を見回した。 「おまえの部屋、だな。月光……月の光の月光、な。覚えてるか。さっきいたんだ。きれいなハゲ頭の。少し仏頂面した」 「ああ。いたな。あの人か」 また「人」。 自信の根拠とするものも何もないのに、今までどおり「奴」とか「あいつ」とかは言えないのだろう。 「彼と一緒に使ってる」 「一緒に? ここは……アパートか何かか?」 「いや、寮だ。男塾の」 「オトコジュク?」 「ああ。えっと……学校、かな。ちょっと違うけどな。まあ、学校みたいなもんだ。だからほら、これ、学ランだろ」 言いながら、桃は自分の制服の胸元を掴んで開いて見せた。 「そういえば……そう……」 ふっと焦点が絞られていく伊達の目に気付く。
視点が曖昧になって、目が細められるが、すぐにうめきに遮られた。 「学ラン……制服……制服、のことだよな?」 「ああ……?」 何が分からないのか。 在り来たりの形ではないが「学ラン」という言葉くらい、ブレザーが主流になってきた今でもありふれたものだ。 「学校の……ガッコウ、の……?」 「伊達。いい。無理に考えるな。とにかく、ここは男塾って名前の学校みたいな場所で、俺も、おまえも、さっきの奴等も、皆そこの生徒だ。で、ここはその男塾の寮。寮、分かるか?」 「リョウ……ああ、寮」 「そこの、おまえの部屋だ」
根気強く、一つ一つ話していく。 「で、その怪我だけどな」 伊達の頭を示す。 「組み手やってたんだ」 「組み手?」 「ああ。授業で」 「授業で……組み手?」 「ここはそういう場所だからな。国語とか数学とかより、体を鍛えるほうが主流なんだ。だから、正確には学校じゃない」 「そうなのか」 「ああ。それで、本当は一対一でやるんだけどな、おまえがどうしても、二人いっぺんにかかってこいって言うから。俺と、J……見えてたかな。さっきも部屋の隅のほうにいたんだ。アメリカ人なんだけどな」 「いや。見てない」 「そうか。とにかく、そのJって奴と俺とで、相手することにした。その途中で、当たっちまったんだ。ちょっと勢いありすぎて、どうやらそのせいで、記憶飛んじまったらしい。……ごめんな」 桃が謝ると、伊達は要領を得ないまま、曖昧に頷いた。
何かあったらなんでも訊いてくれればいい、と言って、桃はもう一度伊達を寝かせてやった。 そうしながら、これは本格的に医者に見てもらったほうがいいのではないか、と考える。 その前に、まずは塾長に報告に行くべきだろう。 「少し、出てくる。すぐ戻るから」 「分かった」 立ち上がり、部屋を出る。 廊下で富樫と行きあった。 「どうだ?」 そう問われるので、 「あんまり良くないな。半日近くも昏倒したままって時点で、まずいんじゃないかとは思ってたが」 と答える。 「そうか」 富樫は渋い顔をして長く息を吐いた。
「なんか、ああなっちまうとは思ってなかった」 桃が歩き出すのにそのまま付いて来る。 それを拒まず並んで歩きながら、答えて桃が頷く。 「もっとあっさりしたもんだと思ってた。記憶喪失ってなよくあるじゃねえか、ドラマとかでよ」 「ああ。結構平然としてるからな。ただぼーっとしてるみたいな。……伊達が特殊なのかどうかは分からないが、ドラマみたいに済みそうじゃないのは確かだ」 「ああ。で、何処行くんだ」 「塾長のところだ。ちゃんと話しておいたほうがいいだろう」 「そうか。だったら、俺は戻る。皆にも言っとこうか」 「頼む」 富樫なら、短絡的な行動に走る連中を上手く諌めてくれるだろう。
話を聞いて江田島は、ただ「分かった」とだけ重々しく言った。 しかし、これで少なくとも磐石の敷石がこのことを承知してくれたことにはなる。 桃は一度しっかりと頭を下げて塾長室を出た。 あとは、なんとか伊達が記憶を取り戻せるよう、どうすればいいかを考えなければならない。 いきなりあれこれ押し付けても、混乱するだけに違いない。 それに、焦ってあれこれせずとも、ふっと何かの切っ掛けで元に戻るかもしれないというのもある。 それまでは、伊達の知りたいと思うことを中心に、少しずつ教えてやったほうがいい。
部屋に戻ると、伊達はすぐに桃を振り返った。 ほっとしたような、それでもまだ不安げな顔を見せられて、思わずひるんだ。 いつも、毅然というより超然としていた伊達の見せる顔としては、怒りの形相よりも怖いものがあった。 そんな動揺はすぐさま殺したが、殺せたかは分からない。 待たせたな、と言いかけ、今から何かしようと約束して待っていてもらったわけでもないと気付く。 何をどう言えばいいのか言葉が消えて、 「何か思い出せたか」 咄嗟に思い浮かんだことを口に出した。 伊達はただ首を横に振る。 こんな短時間で、冗談のようにあっさりと思い出せるなら苦労はないだろう、と桃は自分の言った言葉に呆れる。
戻ってきたからといって、特にすることもない。 あれこれと話し掛けるのも、今はまずいかと思うと言えることもない。 落ち着きない沈黙。 どうしようか、何を話そうか、当り障りのない、どうでもいい話題ならいいだろうか。 そんなふうに考える桃に、 「も……桃」 躊躇いがちに呼ぶ声が聞こえた。 いつもと違う調子で呼ばれる名に、落ち着かなくなる。 「なんだ?」 「ここは、寮、なんだろう?」 「ああ」 「皆、ここで暮らしてるのか」 「ああ。全寮制って言えば聞こえはいいけど、まあ、そんな上等なもんじゃない代わりに、気取ってもない。結構住み心地はいいんだぜ」 「俺は……」 「おまえもに決まってる」 「いや。……桃。俺の、家族とか、会ったら何か思い出せるかと思って」
家族。 期待をかけるような微かな笑みが、胸を抉った。 「うちへ帰れば、何か思い出せるかと思うんだけどな」 「あ、いや……うち、って……」 「駄目なのか? でも、このままでいるわけにもいかないし。誰かに言えば、許可とか、もらえるんじゃないか?」 家族に会えば。 伊達の、家族。 家庭。 親兄弟。 過ごした日々の、過去の自分の思い出が詰まったはずの「家」。 「桃? どうかしたのか?」 何処かにあるのかもしれない。 だが、少なくとも伊達は、その場所で過ごしたことは、ほとんどないはずなのだ。 「あ、あのな。おまえの家、……その、誰も、知らないと思う」 「え?」 「その、なんにも話さなかったから。おまえは」 「何もって」 「うちが何処にあるとか、どんなことしてたとか、親父さんやお袋さんがどんな人だったとか、なんにも。その……だから、俺も知らないんだ」 無い、かもしれない。 たとえ何処かに存在していたとしても、そこには何も無い、ようにしか思えない。 天涯孤独。 孤戮闘。 桃たちが知っているのは、そんな凄惨な過去があることだけだ。
誰も自分の家や家族については知らない。 そのことに理屈をつけるのに、どれほどの労力がいるのか。 ずいぶん考え込んでから、また口を開く。 「知らないって、じゃあ、今はここに住んでて……、それまでは何処にいたとか、暮らしてたとか」 聞いていない。 皆それぞれに後ろめたいことがあってここに放り込まれ、その中で腹を割って昔について語りあった者もいれば、家族と打ち解けて絆を取り戻した者もいる。 だが、伊達が何処で何をしていてここに来たかは、誰一人として聞いていない。 「なんにも、話してくれなかったから」 「……誰も、知らない……? じゃあ、俺が思い出すしか、ないのか」 「そう、なる、な」 「……そうか。なんで俺は、なんにも話さなかったんだろうな」 無理に零す笑いが消え入り、空白。 伊達の口が動く。
「カゾク……。トオサン……カア、サン……」
ぞっとした。 機械的に出てくる音と音。 そこにはなんの感慨もない。 記憶がなかろうが、愛しいはずの「位置」。 愛せるはずの大きな存在の呼び名を、音だけで綴る。 「……なんか、いないみたいだ……」 伊達の目に見る間に湧いてきた涙が、ポツ、と手元に落ちた。 「イナイ―――。もしかして、本当に、イナイ、のか……? なんか……思い出せない、だけなのか……。ウチ、とか……帰ればって言ったけど、カエル、って―――カエル……? カエルとこ……。思い出せないだけなのか、これ……? なんか、本当に、無い、気がする……。何処に、あるんだ? 忘れてるだけ……?」 落ちてくる涙に掠られながら、笑っている口元。 その顔を向けられて、桃は言葉に窮した。 それが、答えになってしまった。
「……そうか。……無いんだな、そういうの」 涙を拭い、何度も瞬いて止めて、諦めたような、無理な笑い方。 「そ、それは俺たち知らないだけで」 「いい。だったら、知ってること、教えてくれよ。俺が何処にいたとか、何してたとか。なんでもいいから」 だが、重ねて問われても何一つ答えられるものがない。 このなんの記憶もない伊達に、いきなり孤戮闘だなどという無茶苦茶な話をして、何かいいものがあるとも思えない。 では豪学連時代のことか。 一度ここにいて、教官を殺して逐電し、そこにいた、と? (そんなこと、言えるかよ) 「なあ。なんでなんにも教えてくれないんだ」 「それは、……その、詳しく、知らないんだ本当に。本当になんにも話してくれなかったから」 「なんにも?」 「ああ」
「……そうか。じゃあ、仕方ないか。それなら、知ってそうな人は?」 三面拳。 だが、彼等に何か話しているのだろうか。 「知ってそうな人も、いないのか?」 答えかねていると、重ねて問われた。 「その……俺よりは付き合いの長い奴、いるにはいるけどな」 たとえ知っていても、話せる内容なのだろうか。 「いるけど? いるけど、なんだ? やっぱりなんにも知ラナイ?」 ほとんど淡々と矢継ぎ早の質問。 「……呼んでくる。少し待っててくれ」 桃が立ち上がった途端。 「もういい」 伊達が遮った。 「どうせ誰も”知ラナイ”んだろう。おまえと同じで。話す気がないならそれでいい、もういい、どうせろくなことじゃないから誰も何も言わないんだろう!? もう、いい!!」 いきなり伊達が叫んで、桃は立ちかけた姿勢のまま縫いとめられた。
余韻が荒れた息の音に重なる。 それが嗚咽に途切れて、伊達は膝を抱いて頭を伏せた。 「なんで……俺、嫌われてたのか? なんにも話してなくて……なんで……?」 「伊達」 「ウチ……カエリたい……」 ほとんど吐息に消えた、小さな呟き。
空っぽの伊達の中には過去がない。 過去の作ってきた今もない。 今が見せる未来もない。 何一つ持たずに置き去りにされた子供と同じだ。 帰る場所も行く場所も、今の居場所もわからなくなった迷子の子供。 助けてくれる家族の顔も知らない、空っぽの子。
「伊達」 泣き出した肩をしっかりと抱き締める。 「探してやるから。な? 家族でも、記憶でも。俺がちゃんと一生懸命探してやるから。な? だから、泣くなよ」 嘘。 記憶は探せるけれど、家族は探せない。 探さないほうがいい。 だが今は、嘘でもそう言ってやりたかった。 伊達がそれを嘘だと見破ってしまってもいいから、言わずにはいられなかった。
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