序
目が覚めると、そこは古臭く汗臭い部屋だった。 「お、気が付いたぞ」 野太い声が聞こえる。 体を起こそうとすると、ひどく頭が痛んだ。 「まだ寝てろよ」 だみ声の中から、優しい男の声が届く。 そちらに目をやると、端正な面立ちの青年がほっとした顔で笑っていた。 涼しげな目といい、柔らかい愛嬌のある顔立ちといい、それでいて引き締まった男の顔は二枚目という以上のものなのに、白いハチマキがそれを茶化している。 寝てろ、といわれたがなんとなく起き上がって、大きく息をつく。 何故か体がだるい。 「痛みますか?」 その青年の隣から、男の声ながら少し高い、よく響く声がして、長髪の女、いや、男が微笑んだ。 「あ……ああ、少し」 キレイな男だな、と少し見惚れる。 顔立ちもそうだが、優しそうな眼差しの、その微笑が美しい。 ざわざわと騒がしい周囲の濁音に比べると、その二人は別のところから切り取ってきた偽物のようだった。 定期的にズキズキと、抉り取るように、右のこめかみから即頭部が痛む。 手をやると、触れる柔らかい布地は包帯だろうか。 (怪我、したのか) そのせいか、ものをはっきりと考えられない。 今少し、じっとしているしかない。 「まったく、いくらおまえだって俺とJとをいっぺんに相手できるわけないだろう。何にそんなに苛立ってたのかは知らないけどな、そのせいでJが俺のせいかって落ち込んでるんだ。腹を割って話せとは言わないけどな、少しは悪いと思うなら、無駄に自分苛めようとするのはよせよ、伊達」
「俺」。 J。 伊達。 伊達? 伊達、とハチマキの青年は言った。 (伊達……) 自分を呼んだのだろうか。 「彼」はハチマキの彼を見る。 「なんだよ伊達」 伊達。 (俺は……) 伊達? (俺は) 「伊達」という名―――。 「おい、どうした」 「どうかしましたか?」 「おい、伊達。どうしたんだ?」 「まだ痛むのか」 「伊達。どうしたんだよ」 「なにボーッとしてんだ」 「伊達」 「おい、伊達」 「伊達」
「あ……」 伊達? 違う。 だが、違うとしたら。 何も出てこない。 「伊達?」 「あ、あ……」 「お、おい?」 ハチマキの男が顔を覗き込む。 思わず「彼」は、その顔を、肩を突き飛ばしていた。 「伊達!? なにするんだよ!?」 後ろに少しよろめいたものの倒れることはなく、彼はただ驚いた顔をする。 (伊達? 違う、俺は……、俺は……、俺、は?) ギリッ、とこめかみが痛む。 「う……」 「伊達! だからほら、まだ寝てろって」 のばされるハチマキ青年の手を払う。 「違う。俺は……!」 俺は? 目の前が赤くなるほど、痛む。 堪えきれずに頭を抱え込んだ。 「伊達!」 背に触れる手、肩に触れる手。 寝かせようと押してくる力、知らない名を呼ぶいくつもの声。 「は……」 全てが襲い掛かってくる。 「放せ! なんなんだよおまえら!!」 思い切り腕を振って、からみついてくるものを払った。
ぴたりと止まった音と動き。 「なん……なんだよ。俺が……なんで、ここは……、おまえら……ここ……」 古びた木造の室内。 焼けて色あせた畳と塗りの剥げた壁。 磨かれたように手垢で光る箪笥。 薄い布団。 重苦しい色の同じ服を着た男ばかり。 ここは、いったい何処なのか。 彼等は、いったいなんなんのか。 伊達、という名。 そう呼ぶが、 (俺は、違う……) だが、 「俺は」 なんと呼ばれ、なんと名乗っていたか。 出てこない。 「あ……」 ここは何処か。 何故ここにいるのか。 何をしていたのか。 何一つ、思い浮かんでこない。 名前。 場所。 過去。 未来。 現在。 「だ、伊達……?」 無精髭の童顔が、恐る恐る視界に入ってくる。 その顔を見るが、覚えはない。 隣の禿げ頭も、後ろの妙な髪形の男も。 知らない顔、知らない男ばかりに、まるで折り重なるように囲まれて、見られて、閉ざされて。 「な、なん、なんだ……。なんで、俺……おまえら、……なんで……」 ふっと動いた誰かの手が見えて、「彼」は思わず後ずさった。 何がそんなに恐ろしいのかは分からない。 何もかも知らないものに囲まれて、分からないものに覆われて。 押しつぶされそうな息苦しさと怖さだけが募る。 「お……おい、伊達……?」 伊達、と何度も呼ばれる名。 ならば自分は「伊達」なのだろうか。 だが、その名も他のどんな名も、浮かんでは来なかった。
「俺は……? 俺は、伊達……? ここは? 何処……? おまえら、なんなんだ……」 何も出てこない。 この場所にも人の群れにも、「彼」の知っているものは一つとしてなかった。 自分の名前も、素性も、そして姿さえ。 「彼」の中には一切存在せず、あるのは途方もない不安と、頭を疼かせる痛みだけだった。
1
記憶喪失ってヤツじゃねえのか、と誰かが言って、やっとその単語にすがれた。 正確に言えば「記憶の再生障害」。 慣習的な記憶は全てあるのに、その個人固有のエピソード的な記憶が再生できなくなる。 「おい、本当かよ。ホントにそんなんなるのか?」 信じかねているような、微かに笑みの混じった声。 「なあ、伊達。本当になんにも思い出せない、のか?」 そっと前に屈んで手を重ねてくるハチマキの青年。 信じかねてはいても、心配そうな目をしていた。 「彼」はもう一度自分の頭の中を探って、何もないことを確かめて頷く。 「ハハ! 冗談だろう!?」 離れたところでいくつかの笑い声が上がった。 「秀麻呂!」 間髪入れずに飛ぶハチマキ青年の怒声。 「冗談で伊達がこんなになるか!?」 優しげだと思った風貌を裏切るほどの容赦ない叱咤に、部屋の空気まで張り詰めたように静まり返る。 その声に驚いて思わず青年の袖を握り締めていた、その手の上に色白な、男のものにしては華奢な手が重なる。 「大丈夫ですよ。今は少し、ショックで混乱しているのかもしれませんね。少し休んでみましょう?」 子供でも宥めるような声に、「彼」はやっとほっと息をつけた。 促されるままに横になる。 ふと目に入ったいくつもの顔の、奇異なものでも見るような眼差し。 目を逸らし、見ていられるものを探して、女顔の彼を見る。 「少し休みましょう」 気付いて微笑まれる。 頷いて、「彼」は目を閉じ、眠りに落ちた。
まさか、と桃も飛燕も思いはしたが、伊達が冗談でからかおうとしているかどうかを間違えるほど、ものが見えないわけではない。 悪戯の一つや二つ仕掛けたとして不思議ではない伊達だが、たとえ演技でも、ああまで怯えた顔をするだろうか。 桃は自分の袖についた皺に触れる。 よほど強く握り締めていたのか、跡が残っている。 そして、震えていた感触も。 とりあえず騒々しい連中は富樫たちに任せて部屋の外に出し、桃と飛燕、Jだけが中に残った。 「ちゃんと加減すれば良かった」 Jが呟く。 桃は首を振った。 「加減すればしたで、伊達がまたあれこれ言うのは分かりきっていただろ。避けきれなかったのは俺が仕掛けていたせいでもあるんだ。たまたまおまえのパンチのほうがヒットしたってだけさ」 「ええ、そうですよ。誰が悪いと言えば、この人自身でしょうけれど、いろいろと負うものもある人ですから……」 「そうだな。だから、誰が悪いなんてのはない。それとも、皆が皆悪いかだ。伊達が一人でなんだかんだ抱え込むのは、俺たちにそれを言わせる力がないってことでもあるんだからな。とにかく、もう一回起きるのを待とう。それでもしまだなんにも思い出せないなら、塾長に報告しておいたほうがいいだろう」 それでもJは納得いかない様子だったが、言葉を重ねることはなく、黙って頷いた。
向こうの様子を見てきます、と飛燕が出て行って、Jもまた居辛かったのかそれについていき、桃は一人、部屋の中に残された。 もう一度、掴まれていた袖を見る。 まだ皺が残っている。 自分の頭の中に、何一つ思い出せるものがなくなった状態。 想像するのも難しい。 だが、伊達にとってはよほど恐ろしいらしい。 自分たちに怯えていたとしか見えなかった。 何がそれほど怖いのか、桃には分からない。 もし伊達が目覚めたら、今度はゆっくりと静かに、問い掛けてやったほうがいいだろう。 そう思って寝顔を眺める。 痛みのせいか、束の間の覚醒の間に感じた不安のせいか、硬く見える。 瞼の上にかかった前髪が邪魔そうに見えて、手をのばす。 それを払ってやると、同時にうっすらと伊達の目が開いた。
名を呼びそうになり、こらえる。 自分を見る目を見つめ返して、桃はじっと待つ。 伊達の口が動いて。 「―――」 止まった。 明らかに、名を呼びかけたはずだ。 だが、出てこなかった。 泣き出しそうな顔になるのを見ていられず、桃はことさら意識して、笑いかけた。 「起きたか? って言っても、さっきからほんの十分ほどしかたってないけどな」 何か言おうとしている伊達だが、ただ口が震えているだけだ。 「まだ、思い出せないか?」 言える言葉を与えるため、尋ねてやる。 と、伊達は頷いた。 「俺の名前も、じゃあ分からないよな。俺は剣桃太郎だ。桃って呼んでくれ」 「モ、モ……?」 「ああ。皆そう呼ぶ。で、おまえは伊達だ。伊達臣人」 「ダテ、オミト―――」 さっきいたのは、と言いかけて、やめる。 一気にいろいろと教えないほうがいいような気がした。 桃の名前と伊達自身の名前すら、まだ理解しかねているようなところに、何を言っても混乱させるだけだ。
だいぶたって、 「桃?」 と伊達が口にして、桃は頷いた。 「変わった名前だけどな。そう呼んでくれていいからな」 「……分かった。俺は……伊達、というのか」 「ああ。皆もそう呼んでる。まあ、もう分かってると思うけどな」 「さっきの、髪の長い人は?」 人、という言い方に途轍もない違和感を感じはしたが表には出さず、桃は一つ頷いて教える。 「あれは飛燕」 「ヒエン……」 「飛ぶ燕、って書く。あ、俺のはケンに、お伽話の桃太郎。桃太郎、分かるか? それとも忘れちまってるか?」 「モモタロウ……。……いや。なんだ、それは」 「そうか。じゃあ、話はいいや。あとで何か本でも読めばいい。果物の桃に、太郎は一番普通の太郎。で、おまえの伊達は、伊達正宗とか、男伊達とか、伊達者とか、伊達や酔狂とか言う、あれだ」 「ああ……」 「オミトは、臣下、幕臣とかいうあれのシンに」 「シンカ? バクシン……て?」 「ああ、そうか。あんまり普通じゃない単語だよな。えっと」 桃は落ちていた雑誌を広げ、机の上からとったボールペンで、余白に「伊達臣人」と書いて見せた。 「こう書くんだ」 寝たままでは見づらかったのか、伊達は起き上がって桃の手から雑誌を受け取り、その文字を見た。 その文字の形から何かを思い出そうとするのか、伊達がいくらか眉を寄せる。 だが何も思い浮かんではこないらしい。 「そうか」 とだけ言って、桃に雑誌を返した。
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