差出人のない手紙には、一枚の便箋。 几帳面に折りたたまれた、痛いほど白い白紙の中央に、 ただ一つの意味が捺されていた。 三本の横線に貫かれた、六角の星。 伊達はそれを元通りに折りたたみ、封筒に納めると四つに破り、 金属製の灰皿の上に置いた。 煙草を半分灰にして、残り半分を、その紙と共に燃やす。 燃え尽きた頃を見計らい、流しに捨てた。
誰に断る必要もない。 気付かれぬように寮を抜け出し、通りすがりの不幸な青年から、オートバイを奪う。 何かの時のため、と手元に残しておいた札束を置き去りにして、 伊達は真っ直ぐに高速インターへと向かった。 深夜の高速道路は、大型トラックの吐き出すガスでうっすらと曇っている。 その合間を縫うようにして、北へ。 目指す場所は、そこから遥か、北にある。
秋口には雪が降り始めるような場所だった。 積もることはないが、途絶えることもなく。 落ちるそばから溶けていく雪が、伊達の肩を重く湿らせている。 安物のモーターボートは、耳障りな音を立てながらも、荒れる波を掻き分けていく。 地図にない島。 記憶にのみ残る島。 灰色の空と黒い海の境に、やがてその島影が、ぽつりと見えた。
島に点在する砂浜の一つにボートを乗り捨て、生い茂る針葉樹林の薄闇へと滑り込む。 鳥の声一つない静寂に、波音が聞こえてくる。 枯葉の上を足音さえ立てずに、伊達は気配も殺したまま、森の奥へと進んだ。 何度も通いなれた場所のように、先に広がる景色が、あらかじめ頭の中で再現される。 杉の巨木が何本となく佇む斜面を上がると、そこは、断崖だった。
抉られたような窪地は、縁よりも底のほうが広い。 だから、落ちれば簡単には上がってくることができない。 記憶にあるとおりの光景。 ただ一つ違うのは、その窪地、穴の底が、どす黒いということ。 粘りつくような黒い汚臭の中に、混じる鉄錆の匂い。
油断していたつもりはなかった。 だが、突然背後に現れた気配に振り返るより早く、伊達はその穴の底に突き落とされていた。 空中で身を翻し、全身のバネを使って着地する。 ぬるりと、足元がぬめる。 足場を確かめて立ち上がるや、取り出し伸ばした槍を一閃させた。 重い手ごたえと共に、千切れ飛んでいくのは子供の腕だった。
子供、子供、子供、子供、子供、子供、子供……。 ばらばらと降ってくる子供。 皆、十前後だろうか。 手と足で這う、獣のような子供。 言葉のない唸りを洩らす子供。 開いた口の端から涎を垂らしながら、血走った目を見開いている。 子供。 伊達は、十数人の子供に、囲まれていた。
首をはね、胸を貫き、胴を薙ぐ。 流れ出して溜まる血。 その中に混じる脳漿、眼球、内臓。 子供たちの肉塊。 最後の四人は、怯え逃げようとして逃げられず、穴の壁際で震えていた。 「生きてたって、仕方ねえだろう。……死ね」 澱みなく煌く鋼の弧。 もはや穴底に、子供はいない。
追い詰められる獲物の、恐怖が響く。 だが追い詰めることに感慨はない。 己以外は全てが敵の島だ。 見えたものは、全て殺す。それだけのこと。 そうして最後の気配の前で、なんのつもりかは伊達自身定かではないが、一時の暇を与えてやった。 「この……化け物が!」 たぶん、そんな言葉が聞きたかったからかもしれない。 「俺を作ったのは、貴様等だろう」 何が罪かを知ったところで、罪を罪と思えない、欠落した心。 人間のふりをして生きることもできるが、人間ではない何か。 「貴様等が、俺を、こんなふうに作ったんだろう」 人間らしい心を真似すれば真似するだけ、いびつな空白が胸を圧す。 人間と共に生きていきたいと望んでも。 「化け物が!」 いつかきっと、知られてしまう。 「ああ、そのとおりだ」 最後の命も途絶えた、森の静寂。 波の音が、遥か遠くて、何も、もう何も、聞こえない……。
†† †† ††
「伊達。五日も無断で、何処に行ってたんだ。鬼ヒゲの胃に穴を空ける気か」 「野暮用でな」 「まったく。一応、俺の立場ってのも考えてくれよ」 「はっ。教室にいりゃあ寝てる奴が何をほざきやがる」 「いないよりマシだろう」 笑う男に笑い返す、胸の奥底。 何にも反応しない屍の心。 誰かこの屍に声をかけ、墓の中から呼び起こす者があるのだろうか。 ラザロを呼んだ、イエスのように。 「桃」 「ん?」 誰か、この壊死した心の目を覚まさせ、罪を教えてくれるのだろうか。 「どうした?」 誰か、この血に汚れた狂った獣を、許す者があるのだろうか。 「いや、なんでもねぇ」 「おかしな奴だな」 「てめえに言われたかねぇな」 「なんだ、それは。とにかく、鬼ヒゲには自分で釈明しておけよ」 去っていく背中。 助けてくれと、縋って許される者が、あるのだろうか。
ああ。 そんなものは何処にもないと、屍に腰掛ける死神が言う。 適わぬ望みは願わぬがいい。 そも事の始めから、屍に未来など、ないのだからと。
(了)
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