小さな地獄の中で学んだのは、強くなくては生きていけないということではなく、弱くては生きていけないということだった。
だからなにかを恋しく思う心を捨てた。 優しさや労りを求める心を捨てた。 優しさや労りを、いだく心を捨てた。 そこまでして生きるのかと、惑う心も、捨てた。 無心に、ただひたすらに、勝ち残り生き残ることを選んだ。
そんな中、最後まで捨てられなかったのは涙だった。 捨てた心が生み出した空洞から湧き出るように、悲しいわけでもつらいわけでもないのにただ流れだす涙は、たやすく涸れることはなかった。
だがそれが尽きたとき、胸の中の空漠は、冷たい鋼と化していた。 もうなにも恋しくもなければ愛しくもなく、悲しくもなければ苦しくもなかった。 何故己はここに生きて居るのか。 そんな惑いに対する答えももうあった。 目の前の敵を排除する、己はそのためだけに、ここに居る―――。
そしてそれは、雨だった。
雨が降っていた。 暗く沈んだ夜をさらにぼんやりと陰らせて、雨が降っていた。 夜目の効かない、漆黒の闇だった。 音と匂いが世界の輪郭を語っていた。 それで充分、仕事はこなせた。 足元からほのかなぬくもりと共に血が香っていた。 すべては終わった。 あとはただ去るのみだった。 痕跡は雨が消してくれるだろう。足跡も、返り血も、足元に流れる血も。 そして明日には血の気を失い冷やされて、青白い屍が一つ、ここに転がっているだろう。 それは白々と、静かで、肌寒いような光景になることだろう。
寒い。 ふとよぎったそんな推測が、まさか我が身に襲いかかるとは思いもしなかった。 寒いと感じたのだ。 むき出しの肩や腕を打つ雨に、すっかり冷え切った己が身に、ほとんど初めて寒さを覚えた。 急に鳥肌が立ち、―――そのときだ。 記憶の底の底、はるか深いところから、この冷えた肩を包むぬくもりが蘇ったのは。 あたたかく柔らかい、己を包み込んでいた記憶。
それは最早顔も分からぬ母のものであったのかもしれない。 だがそれよりも今少したしかな記憶があった。 あの地獄の穴底で、まだ寒さに震えるだけのモノがあった夜、己よりいくらか年上の少年が、寒くないようにと数人の肩を集めて抱きかかえ、過ごしたこと。大丈夫だと、呪文のように聞かされる不安げな声。 そしてその少年はやがて、暗黙の了解で標的となって殺された。 漠然と、なんとなく、彼がいなければと誰もが思ったのだ。 乏しい食料の取り分が増えるなどといった考えはない。あるとすれば、彼だけが自分たちよりいくらか大きいという「異種」であったことが、理由だろう。 それだけだ。 血にまみれ、恐怖に歪んだ泣き顔が、鮮明に脳裏に浮かんだ。 その不愉快な顔が疎ましく、とどめをさしたのは、己だった。
右腕に、あの胸を貫いた血肉の熱い感触が蘇る。 その反対に身を包む寒さは凍えに等しいほど強くなった。 早く帰らねば。 そう思い山を下るべく歩き出した。 だがいつしか意識は途切れ、消えていた。
気がついたのも、寒さのためだった。 ただ生きのびることを選んで生きてきた本能のようなものが、身の危険を知らせたのだろう。 これ以上ここにじっとしていては死ぬ。 雨はまだ、降り続いていた。
そしてふと、沸き起こったものがある。
何故己がこれほどに寒い思いをしなければならないのだと、怒りと、憤り。 雨の当たらぬ屋根の下で安閑と過ごす者に命じられ、何故こんな山奥のぬかるみと泥の中、歩かねばならぬのだ。
そしてふと。
あれがなければ、いなければ、あそこにあるすべては自分のものなのではないかと。
反逆は失敗に終わった。 だが完全に失敗したわけではなかった。 命は残ったし、なんとか目前の危機からは逃亡が叶った。 空が崩れたような土砂降りの中を逃げながら、彼は笑っていた。 肉体は極限まで疲労していたが、闇の果てに見つけた光が、心を躍らせていた。
力だ。 力があれば、道は開ける。 すべてをねじ伏せる力。 すべてを破壊する力。 すべて奪いとる力。
望まぬすべてを消し去れば、後には望んだものしか残らない。 だから、力を。 あらゆる手段でもって手に入れるのだ。 手に入るかぎりすべての力を。
強く意志する口の端に、深く冷たい笑みが浮かんでいた。
(終) |