Glass Rose

 開いた目の、視界の端で、窓辺に赤く、花が揺れた。

 そんなものを持ってくる人間が二人いるとは思えず、影慶は頭を室内側へと向けた。
 雑に置かれた見舞い品を片付けているセンクウの、背中を見やる。
 この男の笑った顔を、影慶は見たことがない。
 感情を見たこともなければ、聞いたこともない。
 引き結ばれた口元は、決して固くはないが、綻ぶこともない。
 整った指先は器用に動くが、無造作でもある。
 バスケットの果実を一つにまとめ、出しっぱなしの皿を流して重ね、花びらでも拾うように、くしゃくしゃのレシートを拾い上げ、屑篭の上に放す。
 影慶が目覚めていることに気付いてすら、眉一つ動かすでもなく、何も言わない。
 放っておけば、このまま黙って出て行くだろう。
 言葉を口にすることすら少ない男だ。問われたことに答えるか、必要なことしか言わない。
 ただ戦いの場においてのみ、相手へと語る。
 淡い金髪の散った黒いシャツの背は、他にするべきことだけ探して向けられて、やはりそのまま出ていこうとしていた。

「あの花は、おまえか?」
 影慶がその背へと言うと、ただ振り返り、微かに頷く。
 いつも少し伏せたような目の下で、感情のない、硝子のような薄い青の瞳。
「気に入らんか」
 囁くように言う、低い声。
 感慨もなく抑揚にも乏しい、独特の調子だ。
「いや。悪いな」
「気にするな。何か、他に必要なものはあるか」
「特には。話し相手がいてくれるのが、何よりだが」
「では、卍丸でも呼んでやろう」
 当たり前のように言い、再び出ようとする。
「いい。わざわざ呼ぶことはない」
「そうか。では、な」
 自分がその場に残って話し相手になろうとはしない。
 話したくないのではなく、「自分は話し相手として求められる者ではない」と思っているに過ぎないことに、これでいったいどれだけの者が気付くのか。
 付き合いも長ければこそ影慶には分かるが、困らせられることもしばしばだ。
 引き留めるには明確な話題がいる。
 だがそれを考えられるほど、回復したわけではない。
 ただ、見えるものは見えた。
「センクウ」
 慌てて呼ぶ。
 ドアを開けかけていた手を引いて、センクウが振り返る。
「おまえ、脚……」
 ほんの僅かにだが、たった一歩の間だけ、引きずるようにした右脚。
 センクウが今回の八連制覇で受けた傷は、腹部の裂傷と、薬品による軽度の火傷と、左足を刺し貫かれた傷のはず。
 奇跡的に内臓がほとんど無傷であったこともあり、他の者に比べては格段の軽傷で、それゆえにこうして、毒の影響から抜け出せない影慶の見舞いにも訪れる。
 傷は負わなかったはずの、今庇った右脚。
 庇いきれずに見せてしまった、たった一歩の間の違和感。
 知っているのは邪鬼の他、影慶だけだが、この右脚は膝から下、義足なのだ。

「まさか」
「今度のことで多少酷使した。それだけだ」
「……本当だろうな?」
「頷けば信じるか。否と言えばどうする。……今は己のことだけ考えていろ」
 責めるでもなく突き放すでもなく、宥めるでもない。
 やはりなんの感情もなく淡々と。
 届かない。
 ベッドの上からは、手をのばしても届かない。
「センクウ」
 あまりにも誇り高く美しい、物言わぬ花。
 触れるために、のばした手に追いつくため、動こうとしてままならず、影慶はベッドから落ちた。
 ふわりと揺れるようにして傍に来たセンクウが、脇をとって抱き起こす。
「何をしている」
 子供でも扱うように軽々と、影慶をベッド上に座らせる。
 そのまま離れようとするのを、手首をとって留めた。
「……なんだ」
 訝ることすらない声。
「教えてくれ。本当にそれは、なんでもないのか? 本当にただ、八連で傷めただけか?」
 真摯に問えば。
「……いや」
 問えばまるで何事でもないかのように、答える真実。
 取った手を放せなくなる。

 センクウが右脚を切除したのは、四年前だ。
 足首に生まれた悪性腫瘍を除くため、膝から下を切り落とした。
 そのことを嘆くでもなく、彼はただ淡々と戦い方を変え、以前と変わることもなく死天王の一角を担い続けた。
 だが、小指の先に生まれたものですら、腕なら腕、脚なら脚、一本全て引き換えにするべき悪腫だ。
 ひそかに残り、いつまた芽吹くのかも知れなかった。
 五年。
 五年何事もなければ、おそらくは。
 そう医者は言った。
 だがまだ、四年しかたっていない。
 そして、問いかけに返った答え。
 まるで何事でもないかのような、否定。

 覚えている。
 まるで飛翔するように駆ける姿。流れるような闘技。それは静かだが、苛烈、そして美しかった。
 片足を失って二度とそのようには戦えなくなったが、最小限の動きで敵を仕留める様も、戦いに向くとも思えない倒立の姿勢から、舞うように繰り出される技も華麗だった。
 失う、というのは、今この手に触れるぬくもりを、二度と感じられなくなるということだ。そしてもう二度と、いかなる姿も見えることはなく、ただ記憶の中でだけ、生きるということだ。

 今またすぐに、今度こそ右脚全体を切断すれば、また数年は確実に生きるだろう。ともするとそれで二度と発病はしないのかもしれない。
 だが、完全に片脚を失ってしまえば、戦うことはできなくなる。そして、それを知られずにいることも。
 問うまでもなく、語らせるまでもない。
 センクウは、それでも戦い続けられる体を選ぶ。ただ静かに、淡々と。
 そんな男だ。

 喪失の予感は冷たく、寒く、言葉も出ないほどに恐ろしかった。
 だが、目の前の、感情のない氷の色を写し取った目に、涙も封じられる。
 死の影に怯えることもなく、恐れ慌てることもなく、無為に足掻くこともない。
 憐れみも、愛さえ厭い、人の目に触れずともただ美しく咲いて散る、断崖の花。
 与えられた「時」に挑むかのように気高く、誇り高い眼差し。
 触れていてさえ、これほどに遠い。

 だが。
 封じきれなかった涙を拭う指は、優しかった。
「センクウ……」
「人は皆、いつかは死ぬ。……俺が先に逝くとも限るまいが。だから、嘆くには早い」
「センクウ」
「泣くな。こんなもので、目を曇らせるな。俺を見ていろ。俺が先に逝くなら、その時まで―――見ていてくれ」
 そして、ほんの僅かな、微笑。
 こらえきれず腕をのばし、今はまだここにいる朋友を、影慶は抱き締めずにはいられなかった。

 

(End)