強酸の沸き返る煙が、房内をうっすらと不透明にしている。 上から下はなんとか見えるが、下から上は、見えまい。 闘神像の額辺りに設けられた観覧室に、影慶と羅刹が佇んでいた。 第二闘における戦いを見下ろしながら、彼等に表情はない。 影慶は、事の顛末を邪鬼に報告すべく、副将としてその場に応じた指示を出すべく「観察」している。 羅刹は、表情というものを消すことに長けている。 内心の不安と焦燥を押し隠し、決着のつきかけた戦場に目を注いでいた。 足場に掴まり、かろうじて落下をまぬがれた一号生・飛燕を、独眼鉄が覗き込むようにしている。 (悪い癖だ) 僅かに、目では確認できないほど僅かに、羅刹の眉が寄る。 本来は口下手で、不器用で、優しいところもある独眼鉄。だが、人並みの神経には似つかわしくない、いかつい外見。 お世辞にも整っているとは言えない容貌に、人並みのコンプレックスもいだいている。 見目のいい、そしてそれを自覚している相手を、いたぶる癖がある。 さっさと手に一撃加えて叩き落とせば良いものを。 独眼鉄は、奪い取った鷹爪で、飛燕の頬を裂いた。 だが、誰もそれを、切実なほどの自虐からきているとは思うまい。 殺気立つ者たちの様子が、目に見える。
「誰か」 窓の外に目を据えたまま、不意に影慶が人を呼んだ。 「は」 邪鬼への伝令のために室外に控えていた二人の内、一人が入ってくる。 「センクウに、伝えろ。……独眼鉄は、負ける。だがあの一号は、殺さんかもしれん」 「は、はあ」 伝令役は、影慶が何を言わんとしているのか、くみ取れなかった。 だが羅刹には分かった。 それはならん、と口を開く前に、 「俺の予想通りになるようなら、おまえの手で始末をつけろ、と」 影慶が振り返り、告げた。 死天王の将。 鋼の意思を感じさせて重く、冷徹さを漂わせて暗い視線。 察しの悪い部下への苛立ちさえ混じった目に、伝令役は「承知しました」と一礼すると、逃げるように出て行った。 「影慶!」 非難の露な羅刹の声に、影慶の重い視線が移ってくる。 「何もそんなことをさせずとも良かろうが」 「甘い」 にべもない。 再び闘場を見下ろして、影慶は続ける。 「今、一号どもに付け入る隙を与えるわけにはいかん」 「だが」 「勝たねばならん。……羅刹。分かっているだろう」 「何を」 「この八連は、八人、四回の死合いで成り立っている。生存者数の多いほうが勝ちだ。つまり、一度も負けてはならんというものではない。第四闘は、剣桃太郎と伊達臣人。おそらく、俺と伊達臣人が先に戦うだろうが、俺では、奴に勝てん」 諦めではない。 過不足なく己の、そして相手の実力を見定めての判断だった。 そして、おそらくそれは間違いないと、羅刹も思った。 「むろん、道連れにする程度の覚悟はあるが」 影慶はそのまま、何か言葉を続けるつもりのようだった。 だが、開いた口はそのまま止まった。
「……やはりな」 影慶の顔から闘場へ、羅刹が目を向ける。 独眼鉄と飛燕、二人の立場は逆転していた。そして、独眼鉄の指には鶴嘴千本。 一本、また一本と、意思に関わらず指がのびていく。 「ここを落とすことになれば、挽回がきかなくなる可能性も、ある。是が非でも、とらねばならん。邪鬼様は、今回の八連を制することに、何か考えるところがおありのようだ。負けるわけには、いかん」 悲鳴と共に落下していく独眼鉄。 だが、濃酸の盆の手前で、ロープによって命を繋ぎとめられていた。 全て影慶の予測どおりに進んでいる。 (だが) 羅刹は、一つの危惧を覚えていた。 戦の先、相手の力量を読むことにかけては、自分は影慶に及ばない。 だが、人の心中をはかることは、影慶よりも得手のつもりだ。 何故なら、影慶の全ては邪鬼を中心に動き、他のものへと払われる注意が、邪鬼に注ぐ神経に比べては極端に少ない。 おそらく影慶は、センクウという男のことをよく理解していない。 それが、不安だった。
壁際に座ったまま、センクウが、ゆっくりと手を持ち上げる。 目に止まらぬ一閃。 独眼鉄の命綱が、切れる。 苦悶の声は歪んで途絶え、張り詰めた沈黙が、ここまで届いてきそうだった。 「おまえは、間違っているぞ」 羅刹は、影慶へと言った。 自信に溢れた、視線が返る。 「何が」 「もしあの場にいるのが俺ならば、その判断は正しい。だが、今は、これは、間違いだ」 羅刹のそれは、確信だった。
戮家殺人拳。 暗殺に適し、多人数を相手にすることにも長け、変幻自在。 飛燕の会得した鳥人拳より、拳法そのものの、闘技としての完成度が高い。 それを完全に習得したセンクウという男の、才も並ではない。 その程度のことは、羅刹もよくわきまえていた。 だが。 (やはり) センクウと飛燕の戦いを見守りながら、確信は絶望的に強くなっていく。 影慶の苛立ちが募るのと、ほぼ同じ速さで。 「何をもたもたと」 「おまえのせいだ」 舌打ちする影慶に、羅刹は反射的に答えていた。 鋭い視光に射抜かれる。 だが、彼の怒りなど何ということもない。 「分からんのか。あいつは我々と違って、人を、味方を手にかけて、それを振り切れる男じゃない」 「甘いことは承知の上だ。だが、だからといって今回の八連の意義も理解してないほど、間抜けではなかろうが」
「影慶!」 ついに、羅刹は声を荒げた。 「おまえは、邪鬼様配下としての我々を率いるには、うってつけかもしれん。だがな、人の将としては、剣にも伊達にも遠く及ばんぞ」 「……なんだと」 「我々死天王の将として、おまえは、見るべきことの半分も見てはおらん」 「よくも、言ってくれたものだ」 「事実だ。それが証拠に、センクウのことなど何も分かっておらんだろうが。あいつが何故今、有利に戦おうとせんのか分かるか。何故わざわざ相手の土俵で相撲をとっているのか、分かっているのか」 空中戦を得意とする飛燕に対し、有利に戦うつもりなら、飛び上がることができないように上空に獗界陣を張り巡らせれば良かった。そのために、この屋内という、天井と壁のある場所で、彼を戦わせているのだ。 だが、それをしようとはせず、空中から飛び込んできた飛燕に鋼線を放つこともせず、真っ向から拳で受けて立ち、深手を負った。 そして今、拳法の心得のない富樫を相手に、らしくもなく時を費やしている。 「敵でさえ殺したがらん男が、味方を手にかけて、今、……どんな思いで戦ってると思ってるんだ!?」
小さな痛みを自分自身が無視できないからこそ、他人の痛みにも敏感になる。 独眼鉄という不器用な男の、本人にもどうしようもない苛立ちや劣等感を、彼が心の奥に秘めた優しい思いを、センクウは誰よりも理解していた。 それを察して独眼鉄も、センクウに対しては、へりくだるのではなく、純粋に素直だった。 本来どれくらい純朴か、それを表現できない独眼鉄を思うと、それに気付かない者の数を思うと、切なくなるほどに。 そんな部下を、相棒を、その手で殺して、平気なはずがない男。 男塾という、むさ苦しく殺伐とした場所には不似合いな、優しすぎる男。だからこそ、彼と他愛のない話をするのは心地好く、羅刹には、センクウは弟のようなものだった。 だからこそ、我が事のように、センクウの痛みが分かった。 自分でも決して言いたくない、考えたくはない、一つの未来。 「あいつは、生き残ろうとは思っておらんぞ」 影慶の顔に、僅かな動揺と、後悔がよぎる。 だが、それが半分は「八連に勝つことができなくなる」という理由によるものだと、羅刹は、見抜いてしまう自分が嫌だった。
二度目の烈繞降死。 おそらく、富樫の意図は読んでいただろう。 一人、薄暗い石造りの通路を歩きながら、羅刹は、そこらじゅうの目につくものを破壊したいような衝動を、必死に抑えていた。 相討ちに持ち込まれることを承知で誘いに乗り。 殺せずに、助けた。 そして自らが。
「勝てというなら勝ってやる! どんな手を使っても、なんと罵られてもな! そうでなければ……っ!!」 死んでいった奴等が憐れすぎる。 そう影慶へと吐き捨てて、観覧室を出てきた。 影慶の立場、邪鬼への忠誠。 よく、分かっている。 彼もただ、一途で不器用なだけだ。 影慶が、平気であんな指示を出したわけではないことくらい、羅刹には息苦しいほどよく、分かっていた。 あんな言い方をすることはなかった。 影慶とて、邪鬼以外の者には何を言われても平気だというわけではない。 傷ついた顔を思い出すと、胸が痛む。 やり場のない怒りでプライドを殺し、やり場のない哀しみを闘気に換えて。 虎丸龍次と、月光。 恨みはない。 憎いわけでもない。 だが、失った仲間に比べれば、重い命ではない。 (俺は、羅刹だ) 血も涙もなく、鬼すら喰らう。 (……殺す) 切り捨てた青い痛みが、ゆらゆらと、身の縁に漂っていた。
(了) |