闇黒苛隷の伝説 remix

 刺激臭の漂う暗い部屋には、今、凄まじい緊迫感が満ちていた。
 原初より人類を脅かしてきた闇。その闇がこの部屋を支配している。
 目の前にかざした己の手さえ見えぬ闇の中、
殺気じみた気配は極限まで高まり、飲み込む唾の音まで、耳障りなほどにうるさい。
「……いいか?」
 ―――と、影慶が言った。

 沈黙。
 やがて、
「よし」
 ―――羅刹が答えた。

 明かりが灯る。
 そこは、普段は使われていない空き部屋だった。
 あるものは、味気ないテーブルと四脚の椅子。
 腰掛けているのは死天王。
 テーブルの上には大型のカセットコンロ。
 そしてその上に、大きな鍋。
 中身は、黄褐色のドロリとした食物だ。

 「カレー」。
 ……と、世間一般では呼ばれるものである。

 だがこれは、カレーはカレーでも、ただのカレーではない。
 或る特別な、……そう、特別な、カレーだった。
 凡百のカレーとは確実に一線を画し、家庭の食卓には決して乗ることのない、誤解を恐れずにあえて言うならば、これぞまさに究極のカレー。
 男塾の七大業行の一つと呼ばれる、その名も、「闇黒苛隷(アンコクカレイ)」なのである。

 「闇黒苛隷」。
 一口で語るならば、それは闇鍋の一種である。
 暗がりの中、各々が持ち寄った食材を、味のバランスなどまるで無視して入れていくという、スリルとサスペンスに満ちたアレだ。
 実際にやったことのある者は少なくとも、誰でもその名くらいは知っているだろう。
 それのカレー版が、これだ。

 何故鍋ではなくカレーなのか。
 答えはいたってシンプルだ。
 鍋の透明なスープでは中にあるものが見えてしまうし、何より、匂いなどにより何が入っているか、おおよその見当はついてしまう。
 ひるがえって、カレーなのである。
 幾種類もの香辛料によるこの刺激的な香は、たいていのものの匂いを殺す。不透明極まりないルーは、中に沈むモノの姿を包み隠す。
 まさに闇。
 闇黒に生まれ、闇黒にはぐくまれた料理と言えよう。

 闇黒苛隷の真骨頂は、そのルールにある。
 まず第一に、消化可能なものであれば何を入れても構わない、ということ。
 つまり、紙でもいいしその辺の雑草でも良ければ、ゴキブリなんぞでも許される。
 そして第二に、食材として取り扱われているものを入れてはいけない、というアホな……もとい、すさまじいルールがあった。
 ニンジンやジャガイモといった基本的な具は既に入っているが、そこに新たに加える各々の「闇具」は、普段、人が口にしているものであってはいけないのである。

 それぞれが三つの闇具を持ち寄り、ぶち込み、じっくりと煮込み、かき混ぜる。
 そうして完成した闇黒苛隷は、残らず食されなければならない。
 最初に食って死んでしまえばそれで終わりだが、それをたとえ目撃しても、残った者は完食せねばならない。

 遡れば古代中国、戦乱の続く三国時代において、かの曹孟徳(曹操)が見出した料理だという。底を尽いた兵糧、飢え、乾いていく兵。
 ―――詳細は民明書房より刊行されている『真・三国無謀 参ノ巻』に譲るが、戦の最中、飢えて死ぬか戦って死ぬかの瀬戸際で生み出された由緒ある料理である。

 食うべし。
 食わずして飢え、戦わずして死すよりは、食い、戦い、そして死ぬべし。 

 二年ほど前、二号生の一部が果敢にもこの「闇黒苛隷の儀」を決行したが、その時には全員が三ヵ月の入院という結果になった。
 このことを二号生筆頭・赤石剛次に問うと、かれは唇を引き結び、インタビュアーをじっと見つめるという。その眼差しには、筆舌に尽くしがたい苦悩と、悲哀と、一抹の自嘲が混じっているとかいないとか。

 ともあれ、このアルティメット・カレーは最早、神事の領域に到達している。
 三分間の瞑想を経、おもむろに胸の前へと掲げられる手、音高く打ち鳴らされる両手の音、三度。そしてその手を合わせ三度、頭を下げる。
 厳粛なその有り様は、あたかも今生の別れを告げるかのごとくである。
「―――では、始めるぞ」
 型どおりの儀式が終わると、影慶がおごそかに、銀色のお玉をとりあげた。


 闇黒苛隷の作法にのっとって、静かに鍋の中へとお玉を沈め、右に二度、左に三度、ゆっくりとかき回す。その後、角度はカレー面に対してあくまでも直角に底まで沈めたのち、垂直に引き上げ、己の器に注いだ。
 そして時計回りにお玉を回して、全員の器が謎のカレーで満たされると、あらためて合掌した。
「いざ!」
 影慶の合図と共に、一斉にスプーンを手に取る。
 そして、一口―――。

「こ、これはひょっとして……綿、か?」
 羅刹がもごもごとそれを咀嚼しつつ、眉を寄せる。
「綿? それはまたずいぶんと無難だな。俺のほうは、バッタ……?」
「蜘蛛はチョコレートの味がするっていうぜ。虫は貴重な蛋白源だろう」
「まあな。綿もずいぶん無難だな」
 影慶が言うと、
「甘い」
 きらりとセンクウの目が光り、羅刹は硬直した。

 この綿を入れたのがセンクウであるならば、ただの綿のはずがない。
「その綿はな」
 耳を貸せ、と手招かれて、聞かなければ良いものを、羅刹は律儀にも耳を寄せ……白目を剥きかけた。
「な、なんなんだ」
「どうせエキスも出てるだろうからおまえたちにも教えてやろう。それはな」
「それは?」
 ごくりと唾を飲む。
「塾長の敷布団から抜き取ってきたものだ」
「ぐはッ!」
「クリーニングに出しているとはいえ、かれこれ十数年も使われているらしいあの布団だからな。さぞ塾長のエキスが染みているだろう。霊験あらたかな逸品だ。よく味わって食えよ」
 それを自分でも平然と口にしながら、センクウが口に放り込んだのは、カレーまみれの錠剤のようだ。


 一杯目はなんとかクリアされた。
 まだ腹具合のおかしくなる者は出ていない。
 二杯目。
 卍丸が引き上げたお玉に、何か白く長いものがからんでくる。それを指で解きつつ器に入れながら、これが何かはもう分かっていた。
 桃愛用のハチマキ。
 一号生筆頭のハチマキマニアっぷりは常軌を逸している。
 一本でもなくなれば、筆頭の権限を利用して一号生全員に探させ、それを拒むことはあの伊達ですらできないという。
 こんなものを食べたと知れたら、ヒラキにされることは確定である。
 ただの布というならば当り障りなさすぎるのに、これはとんでもないシロモノだ。
 しかし食わないわけにはいかない。

「ん……? なんだ、これは」
 こんなものを入れたのはどうせセンクウだろう、と思って卍丸が睨んでいると、その彼は、器の中にコロンと落ちた卵型のものを見ていた。
「フッフッフッ」
 影慶が不気味に笑う。
「な、なんなんだ、いったい」
 羅刹が思わず距離をとる。
「はっきり言ってこの勝負、命を懸けるならとことんまでと思ってな。センクウよ。それはな、ムラサキイモガイだ」
「貝? そりゃ思いっきり食えるモンじゃねえかよ」
「い、いや卍丸。ムラサキイモガイには、猛毒が……」
 羅刹が青褪めた。
「そのとおり! 俺はこと毒物に関しては耐性があるが、おまえたちはどうだろうな……?」
 人が食うものに、致死の毒があると分かっているものを入れる。
 それが全くルールに触れない、闇黒苛隷の恐ろしさ。

 だが、
「なんだ、その程度か」
「はあ?」
 脅しにかかった影慶は、あっさりしたセンクウの一言で気迫を削がれ、あまつさえ、毒貝をあっさり口の中に放り込んだセンクウに口もきけなくなった。
 殻ごと入っている以上、その殻も「具」であるから、バキバキと派手な音を立てて噛み砕きながら、
「なかなか美味いぞ。殻ごとというのは難儀だか、まあこれくらい」
「セ、センクウ、おまえいくらなんでも……」
 毒のある貝をまるごと食うには、死ぬ覚悟がいる。
 と思いきや。
「そもそも、毒のある貝というのは、刺すから問題なんだろう。熱を通せば毒性が消えるもののほうが多いんだぞ?」

「あ゛」
「フ……。甘いな、影慶。どうせならフグの肝臓でも入れるべきだったな。テトロドトキシンは熱で毒性は失われんからな」
「くっ……不覚!」
 がっくりと、影慶はうなだれ、テーブルに拳をついた。
「いや、というかおまえよ、その前に殻食って平気なのか? 胃に刺さるとか……」
 卍丸の器の中にも、どうやらこの貝がいたらしい。彼の視線は手元に落ちている。
「いや、別に。すり潰せばただの粉だしな」
 呆気なく言われて、影慶はカレーより敗北の味を噛み締めるのだった。


 三杯目がなくなり、いよいよ最後の一杯。
 もうほとんど具はなく、どこか物足りない気配が漂っているあたり、さすが死天王である。
「結局、これまでに判明しているのは、羅刹が宿舎の壁を張ってた蔓植物、出がらしのお茶の葉、頭痛薬。卍丸がバッタ、煙草の葉、メチルアルコール。俺が貝とチョウセンアサガオの汁、トリカブトの根……」
 毒物ばっかりじゃないか、というツッコミはぐっとこらえて、羅刹はセンクウを見やる。
 塾長の布団から失敬してきた綿、桃のハチマキ。
 彼が入れたのはこの二つまで判明しているが、もう一つがいまだ不明なのである。
 しかし器をさらっても、もうそれらしい具はない。
「まあ、片付けるとするか。腹具合もそう悪くないし、今回は少し無難すぎたな」
 明るく言いながら、センクウはさっさと自分の器は空にした。

 何かひどく腑に落ちないような気はするが、無難に終わるならそれも悪くはない。
 そして、鍋も器も、ついに空になった。

「……なんというか、これはもっと大人数でやるべきもののような気がするな」
 綺麗に片付いたカレーの名残を眺めて、羅刹が呟く。
「そりゃあなぁ。それぞれが無茶なモン持ち寄って、そいつが合わさってなんぼだろうしな」
「そう言うと思って、俺はとっておきを入れたんだけどな」
 フフ、と薄くセンクウが笑った。
 ぎくりとして、影慶たちは顔を強張らせる。
「な……何を?」
「聞きたいか?」
 聞きたいか、と問われると、聞かずにいるほうが幸せなんだろうとは思いつつも、聞かずにもいられなくなる。

「ま、まさか排泄物系とか言うなよ?」
「冗談じゃない。そんなもの、俺が自分で食うと思うのか?」
「そりゃあそうか。おまえも食わなきゃならねえんだもんな。しかしよ、結局俺たちみんな、自分で食うハメになったって構わねえもんを持ってきたわけだろ? ってことは、そうとんでもないものは入りようがねえんだよな。こんなもんの何処が七大業行の一つなんだ? 二号どもは根性なかっただけか?」
「まあ、それはそうだろうけどな。俺が入れた最後の一つ。……どうしても聞きたいか?」
「う……」
 念を押されてひるむ。
 しかし、ここで「聞きたくない」と言えば負けのような気がして、三人はそれぞれに頷いた。
「よしよし。じゃ、耳を」
 そして―――。


「んー、今日もいい天気だな。……ん? どうした、剣。ああ、ハチマキか。昨夜卍丸が食ってたぞ。いや、本当に。なんだったら腹かっさばいてみればいい。どうせ今頃、まだ引っ繰り返ったままだろう。……え? いや、別に。じゃあな。……いや、本当にいい天気だな、今日も」


 影慶、羅刹、卍丸の三人が意識を取り戻したのは、それから三日後のことである。
 だが彼等は頑なに、センクウが入れた三つ目のものについては語ろうとしなかった。
 問い掛ける者へと向ける眼差しは暗く、諦めと自嘲を含み、どこか物悲しげでもあった。
 羅刹は好奇心まるだしの虎丸の肩をとり、
「いいか、虎丸。闇黒苛隷にだけは、なにがあっても手をだすな」
 肩に置かれた手は震え、声は深く、どこまでも深く、その目には、気のせいか一滴の涙が見えたようだっ。

 ハチマキを食われてしまった桃でさえ、センクウの口から三つ目の闇具を聞くなり、
「ご愁傷様でした」
 と頭を下げてハチマキのことは不問に付したという。
 そして、この死天王による闇黒苛隷の伝説は、センクウが入れた三つ目の闇具についての議論を生み出しつつ、男塾の歴史の中で延々と語り継がれていったとか、いかなかったとか―――。

 

(おはり)

さて問題です。
センクウが入れた三つ目の具はなんだったのでしょう?
正解はセンクウさんに聞いてください(←死ネ