始まりは、伊達の携帯電話にかかってきた一本の間違い電話だった。
そもそも携帯電話など、何処にいてもそれで「誰か」「何処か」とつながっているような感じがして伊達は嫌いだったのだが、桃がどうしてもと駄々をこねるので、仕方なしに持ち歩くようになった。 もちろん、なんでもないのにかけてこられたくはないので、「用事」もなしにかけてきたらその場で捨てる、と宣言した上でのことだ。 おかげで、一度としてこの携帯電話に着信があったことはない。 それならば持っていなくてもいいようなものだが、「持っている」ことは桃との約束だ。 その電話が、いきなり鳴り出した。 着メロなどどうでもいいという伊達は、一切手を加えていない。味気ない電子音がポケットの中で喚く。 電話番号は桃しか知らないはずだから、相手は桃なのだろうが、伊達は校舎を見上げて首を傾げた。 今は授業中だ。 寝ているとはいえ出席している桃が、授業中に電話を寄越すとは思えない。 出てみれば分かるか、と小さなボタンを押した。 途端、聞こえてきた声に伊達は目を剥いた。
『良かった。無事か。ったく、焦らせんじゃねえよ』 (卍丸……?) それも、いきなりこの台詞。 相手を間違っていることはすぐに分かった。 「人違いだ」 伊達が端的に言うと、相手も声で分かったらしい。 『伊達か!? お、おい、なんだっておまえが影慶のケイタイ持ってんだ?』 (影慶の、だと?) 「いや。これは俺のだ。あんたが間違ってかけてるんじゃねえのか」 『なに? ってことは……。すまんな、伊達』 声はにわかに切迫して、電話は一方的に切れた。 一方的にかかってきて、一方的に終わる。 ムッとしないわけではなかったが、卍丸の声が緊張していたことが気になった。 伊達は桜の幹から背を離し、立ち上がった。
刑務所のような高い塀に囲まれた三号生地区だが、伊達にとれば侵入するに難はない。 三号生地区にはそう何度も入ったことがあるわけではないが、いつになく閑散とし、静まり返っているように思える。 身を隠そうとするまでもなく、見回りの連中の気配すらない。 やはり何事か起こっているのか、と確信を得て、伊達は天動宮に辿り着き、忍び込んだ。 音もなく、気配もなく。 だがそれでも、広間にいた邪鬼は振り返りもせずに、 「珍客だな」 と呟いた。 そこには他に人影もなく、邪鬼の声が無闇に響く。
「何用だ」 「用はねえ。が、あんたには借りがある。そいつを返せるんじゃねえかと思ってな」 「フ……。あの程度、貸しとも思わぬが」 「あんたがどう思うかは関係ねえんだ。それより、何が起こってる」 問いながら、伊達は邪鬼のかけた椅子の脇へ進んだ。 ちらりと見下ろした横顔に、憂慮の陰がある。 「何かが起こっている、……と、何故知った」 「間違い電話だ。俺のところへ、卍丸から」 「ほう」 「影慶の奴にかけたつもりだったみてえだが、第一声目が『良かった、無事か』だったからな」 「なるほどな」 口元に微笑を浮かべて、邪鬼は長く息を吐いた。 束の間の沈黙。 やがて、 「手を貸してくれるというか」 邪鬼が呟く。 「ああ」 伊達が答える。 邪鬼は、立ち上がると壁際へ寄った。 壁が開く。 (隠し部屋とはな) そこで話す気だとすれば、よほどに内密にしたいことらしい。 伊達は黙って、邪鬼に従ってその小部屋に入った。
中は六畳ほどの殺風景な部屋で、椅子の一つとして置かれていなかった。 四方全てコンクリートが剥き出しになっており、その無表情さは不気味なほどだ。 「五日前だが」 部屋の奥に立ち、邪鬼は伊達がドアを閉めたことを確かめると、唐突に話し始める。 「我々の食事に毒物が混入していた」 「毒……ねぇ」 「無味無臭、まさかとも思っていなかったものでな。事前に気付いた者もなく、口にした者はほとんどが今、動けぬ状態にある。幸い命に別状はないが、出かけていた俺と、遅れて来た卍丸、そもそも毒に耐性のある影慶以外、三号生は全員が療治中という有り様だ」 「ふ、ん……」 「調査を影慶にやらせていたのだが、昨日から連絡がつかなくなっている。別方面から探っていた卍丸を引き戻し、捜索に当たらせたものの」 「手応えはねえ、か」 邪鬼は無言で頷いた。
伊達には、何故いきなり押しかけてきた自分を、邪鬼がこうもあっさりと引き入れたのかが理解できた。 忍び込む、探る、突き止める。 そういった事柄は、武術家のすることではない。 それには独自の知識と技術、ネットワークが必要だ。 卍丸や影慶がいかに手練れであろうとも、刑事の真似事は本分ではない。 だが、望んで得たものではないが、伊達には下地がある。 そのことを知っている邪鬼にとれば、伊達の来訪は思いがけぬ幸運だったのだろう。 「手掛かりは」 「食事に毒を入れたのは、塾生だった。その者は捕らえてある。……PCPに類する新種の麻薬が検出された。もはや正気ではないが、繰り返し『ハイ』という言葉を口にする」 「……『ハイ』?」 「ashの意だろうとは思うが」 「灰、か。ヤクのことをそう呼ぶ組織に一つ、心当たりがある」 「そうか。……必要なものは?」 「金だ。おそらく国内にはもういねぇ」
それが三日前。 目当てとする組織に見当がついており、それが外れていなかったことで、影慶の居場所はすぐに突き止められた。 テキサスの片田舎、農場を装って作られた広大な地下研究所に忍び込み、捕らえられていた影慶を連れ、脱出するまでは難なく運んだ。 伊達の複雑な過去は、そこに食い込んだ狂った組織や個人に支えられ、迂闊に関わることを許さないものがある。 カルテルの追っ手に悩まされたのは僅か半日。 あとは静かなものだった。
闇に沈んだ荒野に、消え入りそうなネオン。 大型トレーラーばかりが並ぶ駐車場に、古びたシトロエンの鼻面を突っ込んでおいて、伊達は助手席から引きずり出した影慶を担ぎ上げた。 捕らえられていた間に、何種類かの薬物を投与されていたらしく、影慶の意識ははっきりしない。 混濁と覚醒を繰り返すような有り様で、今はぐったりと目を閉じている。 南部訛の強い女から部屋の鍵を受け取った時、彼女のやけに粘りつくような視線に腹は立ったが、それを無視して、伊達はモーテルの一室に落ち着いた。
日本でいう「モーテル」とは違い、こちらは本物だ。 だが、そういう目的で使う者も少なくはない。 既に隣の部屋からは、けたたましいような女の嬌声が聞こえてくる。口走る言葉は、ドイツ語だ。 おおかた、長距離輸送の合間に拾ったヒッチハイカーと、納得済みのギヴアンドテイクなのだろう。 窓を開けると聞こえる声は大きくなったが、部屋に篭もっていた臭気は薄れた。 伊達は窓際に椅子を寄せ、煙草をくわえる。 ちらりと見やったベッドでは、影慶が正体もなく眠りこけている。 意識のある間、毅然と己を保ってはいるが、捕らえられていた数日の間、何事もなかったわけではない。 手酷い拷問や人格に関わりそうな自白剤、それが効かないとなれば、また新たな薬。 もう数日遅れていれば、薬物に耐性があるのをいいことに、新薬用のモルモットにされていたかもしれない。
制服に入れたまま、トランクに突っ込んである携帯電話のことを思い出す。 影慶の持たされたものと、末尾が違うだけらしいナンバー。 この間違い電話がなければ、伊達が関わることはなく、おそらく今頃、事態はほとんど変化も見せず、影慶も研究所に捕らえられたままだったはずだ。 桃の我が儘に付き合って持っていただけだが、今回は思いがけず人一人の命を救ったらしい。 無論、こんなことが二度あるわけもないし、二度起こす気もない以上、このことを桃に告げる気はない。 ましてや、邪鬼が内密に事を解決しようとしていたことを考えても、他言できるはずもない。
影慶が気がついたのは、それから一時間ほどたった頃だった。 「伊達……、ここは」 「シッ。起きるな」 「あ、ああ……? しかし、何故おまえが……俺と寝てるんだ?」 「ガタガタ言うな。狭いんだ。仕方ねえだろう」 ほとんど重なり合うように密着した状態で、伊達の喉には影慶の息がかかる。 体温が、触れ合ったところから上がっていくような蒸し暑さだ。 しかし伊達が言うとおりそこは狭く、やけに息苦しかった。今が何時かもわからないほど真っ暗なのは、視力が低下しているからなのか、それともここに窓がないからなのか。 あまりものを考えられないまま、影慶は息苦しさに耐えかねて大きく喘ぐ。 なんらかの研究施設とおぼしき場所で投与された薬のせいか、頭の中が、世界ごとぐらぐらと揺れているような感覚が続く。 甲高い耳鳴りも途切れない。 伊達には感謝しているが、この窮屈な状況はなんなのかと落ち着かない一方、神経を焦がす不快感に突き動かされて苛立ちも募ってくる。 「伊達。退いてくれ」 まかり間違っても、その苛立ちのままに暴挙に出るわけにはいかない。 冷静に、伊達に言いつけた。 その瞬間だった。
凄まじい爆音と共に「部屋」が揺れた。 何事かと跳ね起きようとする影慶を、伊達が上から押さえつける。 「伊……」 「静かにしろ!」 低く小さく、しかし強く、伊達が言いつける。 暗闇の中、彼の目の鋭さと険しさが、まるで光を放つかのようだ。 飲まれて、影慶はじっと言葉をとどめた。 不可解さゆえに闇に目を凝らし、妙なことに気付く。 伊達の背に積み重なった、何かの影。 それが何か見極めようとした時、英語のわめき声が聞こえ、近づき、ドアが開き、閉まる音。 そして、「部屋」が小刻みに揺れ、背の下から大きな唸りが聞こえた。 (これは……エンジン音、か?) 「My
God!!」 頭のほうから微かに聞こえる吐き捨てる声。 遠心力に振り回される。 間違いなく、この「部屋」は移動している。
「案の定だな」 伊達が背の上のものを落として起き上がり、「ドア」をすかした。 夜の匂いと共に、暗がりの道路と、その向こうに燃え上がる建物の絵が飛び込んでくる。 そこは、大型トレーラーの中だった。 山積みにされた箱の合間で、影慶が背を起こす。 「どういうことだ」 「どうもこうもねぇ。できるなら消しちまいたかった、ってぇことだ。身代わり置いてきたんじゃねえ以上、すぐにバレるだろうがな。それにしても、この俺を消そうとは、ナメた真似しやがって」 思い知らせてやるか。 そう呟いた伊達の笑みを、影慶は忘れることにした。
それから二度と「灰」と呼ばれる麻薬が出回ることはなかったという。
(End)
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