烏の足跡



2010年1月2日(土)

 あけました、おめでとうございました。

 と、去年も書いていたような気がしますが、2010年です。
 もちろん年末年始は仕事です。
 バイトという形ででも働きはじめて以来、未だかつて一度として、年末年始が休みだったことはありません。たぶん。あったとしても、自分で休みを希望したわけではなく、たまたま休みになっただけでしょう。

 そんなわけなので年末年始だからって特別なことをするはずもなく、ゼルダをクリアしました。
 クリアはしたものの、機関車の改造のためにぼちぼちミニゲームしたりしていようと思います。

 ところで、年末に不良在庫の一掃ということで、ちょっとしたグッズの処分がありました。
 そこで入浴剤をもらえることになったのですが……。
 バスボール、というタイプのものです。風呂の中に入れると塊が溶けて、モノによっては中からフィギュアが出てくるようなヤツです。
 しかし、裏面の説明書を読むと、飲むなとか、目に入ったらよく洗えとか、洗濯に使うなという程度ならともかく、この入浴剤を溶かしたお湯では洗髪・洗顔もしないでくれという。
 なんでそういうものが他の部分ならOKなのかが理解できず、謹んで辞退しました。
 目に入りやすいから、とかいう理由なのかもしれませんが、入浴剤は、フツーのでいいです。



2010年1月3日(日)

 「こうするべきだ」「こうしなさい」と人に教えやらせるのが「ティーチング」。
 本人の自発性に任せるように働きかける、それが「コーチング」。本人が自分の意志で実行を決意するように導くやり方のことです。
 昨今の企業ではコーチングがもてはやされているわけですが、少なくとも自分の会社のコーチングは、なんか違うんじゃないかと思えてしまいます。そう、コーチングを受けているはずの立場としてですが。
 「自分で目標を立てて、自分でその達成に向かって」とか、そのこと自体を「そうしなさい」と強制しているのだし、なんらかのイベントに対しての意見を求めるにしても、「こういう答えを求めているんだろうな」というのが分かる人は、そういう答えを作って送ります。しかしそれは自発的な意志ではなく、「空気を読んでそう言った」だけのもので、言質をとられたというだけのものです。
 なので私は絶対にその思惑には乗るまいと、そうそう意思表明はしてやりません(ぉぃ

 ぶっちゃけ、強制しないとやらない連中ばっかりなら、コーチングなんてしてたって無駄なんだと思います。
 本人の意志でやる気を出して仕事をしてくれる相手にはコーチングで接して、ガイドやヒントを与える程度にし、できたら褒める、とか。
 自発性に任せておいたら役に立たない人・期間は、遠まわしにやらず、やるべきことを強制して実行させ、できたら認める、できていなければ教える、とか。

 そもそも自発性って、なにもないところけからは生まれないのではないかと思います。
 やったら、なにかいいことがあった。だから、人に言われなくてもやるようになった。そういうのがほとんどじゃないでしょうか。
 給料が増えたでもいいし、褒められたでもいい、自己満足でもいい。とにかくなんらかの利益が得られると分かっていて、それがそのために消費するものよりもいいものに思えれば、強制されなくても取り組みます。
 なんの利益があるのか分からないとか、得られるものより、それを得るための苦労のほうばかり大きく感じられるとか、成功したところで嬉しくもなんともないといった場合には、強制されるのでないかぎりやらずにいたいし。

 コーチングというものをやるなら、なにより先に「その人にとって、多少苦労してでも得たいものはなに?」を明確にするのが一番のような気がします。



2010年1月4日(月)

 ビジネス書を扱っていると、「ビジネス書」というジャンルの書籍は今、半数近くが自己啓発書であることがよく分かります。
 経営やマーケティング、財務管理、企画書の書き方、マナーといった実務・実用系より、もっと漠然として曖昧な自己啓発書のほうが圧倒的に多いのです。
 そして昨今、某ミセス・インディ(@「ヘッテルとフエーフル」)が、某女性心理学者……臨床医ですか? の出した本への反論書なぞ出版してくれました。
 「おいおい」と呆れたのは私だけでしょうか。
 自分には自分の、人には人の生き方があって、それが正しいか、多くの人に受け入れられるかどうかなんてものは、どうでもいいことだと思います。自分の生き方を他人に対し、「私はこうしています。こうしていると私はハッピーです」と公開し、誰かの生き方のヒントとして提案するのはいいと思いますが、最新刊は「相手」を意識しすぎというか。
 そうなると、出版の意図が、ねぇ。どうしても、自分を否定されたように感じて噛み付いた、という気配がタダよってしまってます。実際にはそうでなく、「私の言いたいこと、言おうとしていることはそうじゃないんだよ。こういうことなんだよ」というのが主旨だったとしても。

 多くのビジネス書を見て、面白そうだと思えばパラパラと眺めている私が自己啓発書について思うのは、以下の一事です。
 「すべては参考書で、答えは載っていない。書いてあるのはヒントに過ぎない」
 誰のどんな意見も、正しいとか間違ってるとかはないし、どれ一つとして「あなたにとっての答え」じゃない。
 ただ、自分一人で考えたり悩んだりしていても出口が見つからないときには、違う人の意見や考え方も知ってみるといい。でも、そうそう周りの人とそんな話もできないなら、いろんな自己啓発書を読んでみると、そこに自分を励ます言葉や奮い立たせる言葉、自分の悩みに光を与えてくれる言葉はあるかもしれない。
 だから、できるなら「自分が今求めている言葉」と欠かれたものと、「聞きたくない、間違ってると思う言葉」の書かれているものを両方読むのがいいと思うのです。「自分の求める言葉」は、それこそが自分の手に入れるべき答えであることや、正しい道を照らす光であることもありますが、時折、自分を甘やかすための言い訳でしかないこともあるでしょうから。

 だから、ミセス・インディと某女医さんと、両方あって、違う立場、生き方、考え方から、違うことを言っている、それが「いい」んじゃないでしょうかね。
 自分とは違う生き方を紹介する相手にわざわざ「そうじゃなくて」とか言ったって仕方ない。
 どっちの生き方を良しとしてどう生きるかは、読者の決めることです。著者がわざわざ言うことじゃない。(自己啓発書を鵜呑みにしてそれをそのまま真似しようとして振り回されるのも読者の自由です)
 惰性に流されないで、癒しを求めて甘えすぎないで、諦めないでということを言いたいとしても、そのときに他人の著書を意識する必要なんてない。そんなこととは関係なく、「私が言いたかったことは伝わっていないのかもしれない」と思ったら、それだけをきちんと書けばいい。
 頭もいいし実力もある人なんでしょうが、……まあ、「ヘッテルとフエーテル」に書いてあることがどこまで本当なのかも懐疑するとして、私には、自己顕示欲と自尊心の塊のような人だなとしか思えなかった著書でした。



2010年1月5日(火)

 ようやく年末からの連勤が終了しました。
 しかしこの後は、一日行って一日また休み、というのを挟んで、9連勤です orz

 明日はレイトンの映画を見に行きたいし、映画友達(兼狩友)のWちゃんも休みなのですが、お互い、映画に行く体力と気力があるかどうかが不明。
 そんなわけで、夕方くらいになったら、そのときの気分次第ということになりました。

 幸い風邪をひくこともなく乗り切った年末年始、しかしいい加減、背中が痛い!
 とはいえ、家に帰れば「父親」でもある社員なんぞは、子供にせがまれて朝から買い物に行き、昼飯の後にはそのまま仕事で夜中まで、なんてハードスケジュールなわけでして。
 彼等をさしおいては、疲れただのなんだのとは言えないなと思ったりします。
 仕事が朝9時から夕方6時まで、とかいう人はともかく、交代制シフトで、朝になったり夜になったりするこの仕事……、いや、ホントお疲れ様ですよ、お父さんたちは。



2010年1月6日(水)

 背中が……痛いのです。
 相変わらず痛い。一日寝れば治るかなと思っていたのですが、うーむ。
 それはいいとして(いいのか)、今日は部屋の掃除をしようと思っていたのに、それができません。
 Wちゃんも体調を崩したようで、レイトンの映画に行くのはお流れになったし。
 だから掃除でもと思ったけれど。
 ええい、鬱陶しい痛みであることよ。

 仕方ないので軽く放置していたところ、少しは和らいだというか、痛みを感じる姿勢が少なくなったので、ぼちぼちPCに向かっています。
 一日無駄にした感が満載です。



2010年1月7日(木)

 もう一日寝たら背中の痛みはほぼとれました。
 ホントにどーとでもなるもんだなと思います。
 というわけで、今からがマイ・タイム。
 掃除でもゲームでもなんでも好き放題!
 そのかわり、その後は9連勤 orz
 もーマジ勘弁。

 そういえば。
 先日仕事場でバイトくんが、「日記つけようと思うんですけど三日坊主なんですよねー」という話をしていました。
 私は、この巣を作って以来コンスタントに戯言の更新を行っています。タイミング次第では一ヶ月くらい放置したりもしますし、一昨年くらいからは毎日ともいかなくなりましたが、それでも、なかなかマメに書き付けているものだと思います。
 そもそも日記なぞというものは、本人に「書きつけてきたいこと」がなかったら、絶対に続きません。ただ漠然と「書こう」では、そもそもなにを回たらいいのかも分からない。
 そういうとき私がアドバイスするのは、「食べ物メモからはじめたら?」ということ。
 ただひたすらに、朝なに食べた、昼はなに食べた、夜はなに食べた、と書くだけです。
 そのかわり、食べたものを思い出したついでに思い出したことも、一緒に書きます。
 すると、朝は「食べなかった」という一言で終わっても、昼はどこそこのコンビニで○○弁当を買った、とかになったりします。すると、「他に弁当がなかったからそれにした」とか「××弁当と迷った」とか、ちょっちとしたことならくっついてきます。慣れてくると、給料日まで何日あるから300円しか使えなくて寂しかった、とか、書くことはいくらでも出てきます。
 また、誰かと一緒に食べたのであれば、食べながらにどんな話をしたか、も書けますし、ろくに話もせずに掻っ込んだ、ということも書けます。
 そんな具合に、「その日に絶対に行うこと」をメモするつもりでやりはじめれば、少なくとも、面倒だから書かないことにしたという日はあっても、書くことがなくて書けなかったという日はない!
 あとはやはり、自分一人で記録としてつけるだけの日記より、ブログやSNSで、誰かに見てもらうほうが書く同期は生まれます。
 食べ物日記も、毎日事細かに書いていたら、それを面白がる人もいるだろうし、そこから食全般のブログになったりしてもいいし、慣れてきたら他の内容も入ってくるし。

 なんにせよ、こうして何年も書き綴ってくると、何年か前の記録を読み返し、「はぅわわわわ」となったりもすれば、半笑いにもなるし、読むに耐えないこともあり、まあ、それなりに自分の記録だなと。
 このザレゴトも、前半は「だ・である」調で書いてあるので、ものすごくエラそうで(笑)、ぶっちゃけ自分でも読み返したくない気持ちがあります。でも、それも含めて、過去の自分がそこにいて、今の自分にどうつながっていったのかの、ひとつの軌跡には違いありません。
 そういう、かつての阿呆な自分を記録として残しておき、しかも人様が自由に読める場所に置いておくことは非常に恥ずかしくもあるのですが、それを隠しても仕方ないなと。
 今の自分だけではかられても、過去の自分だけではかられてもつまんないし。
 そしてまた、今書いていることも数年してから振り返ると恥ずかしいのかもしけないし。
 そんなの全部含めてある種の「自分」がここにいるのは確かですし、その記録は、自分にとっては忘れたりなかったことにしたりはできないもののはずだと思うのでした。



2010年1月8日(金)

 うーん……最近はやっぱり海外のロックのほうが性に合ってる感じです。
 ニッケルバックとか、ブレイキング・ベンジャミンあたり。日本での知名度はイマイチだったりもしますけど、けっこうエッジのきいた音出してます。
 とか言ってたら、Skilletというバンドもきっと気に入るよと友人が教えてくれました。
 オフィシャルサイトがあるというので覗きに行ってみました。
 で、あまぞんで注文中です。
 女性コーラスが入ったゴシックな雰囲気もいいのですが、メインの男性ボーカリストがはっきりした声で歌ってるのも好みだったり。

 国内のアーティストのアルバムで最近のヘビーローテというと、アシッドブラックチェリーくらい? それでもアルバムまる一枚気に入っているわけではなく、「眠り姫」とか、4曲くらいかな。
 あとは最近聞いてるのというと、話題のスーザン・ボイル。この人の声は、ヘイリーとかサラ・ブライトマンみたいな、なにか特殊なものを感じる領域、下手すると合成音声のような気もしてしまう作り物めいた美声ではなく(彼女らの声が作り物だというわけではなく、それくらい整ってしまった音という意味)、人の声として、とてもきれいだなと思うのです。それほど上手いかと言われると、特別に上手いわけではなく、同程度の歌手はいくらでもいると思いますが、声のきれいさと人間味のバランス、あとは歌心? 声の性質が強すぎると、歌の向こうに心は感じられないので……。



2010年1月9日(土)

 ブリザード吹き荒れる就職戦線。
 そのためか、アルバイトから相談されたり、意見を求められたりすることが出てきました。
 聞けば答えてくれる、実のある答えをくれるだろう、と期待されているということなので、とても嬉しく思いつつ、できるだけ手応えのある、前に進むために役立つ答えを返すよう、ない知恵を絞ってます。
 その絡みでちょっと思ったことなど、つらつらと。

 私はものすごく饒舌です。そんなもの、よく書くことが尽きないなという文章量からもある程度推し量れるでしょうし(高が知れてはいますが)、雰囲気として、そんな感じがする、と思われるかたもいらっしゃるのではないでしょうか。
 たしかに、よー喋ります。
 語れと言われれば、そりゃもう語ります。
 でも、けっこう聞く側に回ったりもします。これは、意識的に。
 じゃないとすぐ自分が喋りだしてしまうので、意識的に、「今は聞こう」「言い終わるまで口は挟まんとこう」と思って聞きます。特に、少しでも重みのある話をしているときには。

 あれこれ考えるのが好きで、いつものことで、その考えたことを言葉で表現するのが不得意ではないとなると、たいていの言葉に対して、さほど考えずともレスが出せます。
 だからつい、相手が言いたいことをすべて言い切らないうちに話しだしそうになるのですが、意識して、口を閉ざします。
 それは―――正直なところ、「言いたいことを最後まで言えなかったら相手がつまらないだろうな」という以上に、「それでは肝心な部分を聞き逃すんじゃないか、それじゃつまらない」という、ものすごく自分本位な理由だったりします。

 就職に関する相談もそうです。
 シューカツしたことはないのですが、人を使う側でものを見ると、「こういう人のほうが一緒に働きたい」とか「会社はこういう人材を求める」というのも少しは分かってきます。
 なので、その視点から、人の心理という観点から、けっこう簡単にあれこれ言うこともできます。
 しかしそういうとき、すぐに「それはさ」と言ってしまうと、浅い問に浅い答えを返しただけで、相手にとって「大したことのない会話」で終わると思うのです。
 けど、最後まで聞く、気になったことをまず聞き出す。いろいろと聞いた後で、「それはさ」と言えば、たとえ言ってることが同じでも、なにかちょっと大事な話をしたような感じもしてしまいますし、たいがいの場合は、追加された情報によって、こちらの答えも少しは形を変えるのです。
 そうして相手の話、考え方、感情の動き方を、知るのが私には楽しい、失礼かもしれませんが、面白い部分だったりします。「へえ、こいつこんなこと考えてるのか」と。
 理解はどれくらいちゃんとできてるかは分かりませんが、少なくともその人のなにかをより多く知れば知った分、おり興味深い面白い奴になりやすいのです。

 ま、こんなふうに「見られる」のも気分はあまりよくないのかもしれません。
 でも、ただ話を聞いてほしいだけの人はともかく、なんらかの答えを求めて相談してくる人には、「答えを言う前に、自分のことをいろいろと聞いて、たくさんの情報を得て、考えてくれる」という態度のほうが、信頼は感じられるだろうと思います。
 それにやはり、少ない情報からステレオタイプな答えを出すなら、誰にだってできるわけで。
 でもたぶん、個々それぞれの性格と境遇があれば、それだけでは解決しないことがたくさんあるわけで。

 よー考えてみれば、「アルバイト」が「社員」に自分の人生のなにかを相談することって、そうそうあるものではない気もします。
 親なり先生なり友達なり先輩なり、もっと身近な人がいるでしょう。
 でもその中で、この人にちょっと聞いてみようかな、と思ってもらえたことには、「ちゃんと聞いて、知る」という姿勢で接してきたことが関係しているような気もします。

 アルバイトから見れば「社員」なんてそう大きな存在ではなくて、会わなくなって数年もすれば、もう二度と思い出されることもないのかもしれません。
 でも私は、一緒に仕事して、お互いに楽しく過ごしているなら、数年後にでも「あのときは世話になったんだよな」とか「こういう人がいてさ」と思い出してもらえるほうが嬉しいなと思います。
 私がバイト生活してたとき、今から見ればもうどうしようもないほどアホだったにも関わらず、呆れずに使ってくれた店長のこととか、社員のこととか、迷惑かけた人のこととか覚えていて、「バイト時代にさ」と語ることがあるように。
 肩書をなしにして、個人として、いい思い出としてちょびっと残れたらいいなと思います。
 たとえば何年かした後で、かつてバイトだった誰かが店に来たとき「あいついるの? えー」と言われるとか、「別にどうでもいい」と思われているよりは、「どうせ来たならちょっと顔出そうと思って」と思われるほうがいいじゃないですか。
 その上で、単に楽しいバイトだったというだけでなく、「仕事」の一端に触れることもできたと思ってもらえるような采配をすることが、私が「社員」として「アルバイト」の彼等に渡せる、最高のものかと思ってたりもします。「あそこでバイトして、けっこういろいろ勉強になった」とかね。あるいは、彼等自身は意識しなくても、彼等を雇った会社の人が、「こいつ、こういう気遣いとか仕事の仕方をどこで覚えてきたんだ?」と評価されるような。

 ―――ここまで書いてきて、オチがこれなのはどうかとも思いますが、わたくしホントつくづくと、なんで小売業やってんですかね? 仕事してる中でよく気にかけてることが売上とか顧客じゃないってアンタ。
 占い本でも適正診断でも必ず出てくるのは「医師・教師・探偵・カウンセラー」です(笑



2010年1月10日(日)

 ブログにしないのですか、という問い合わせ(?)をいただきました。
 えー……、しません!
 便利なのは分かるんです。アーカイヴで同じ話題を集めることができるので、たとえばゲームに興味のある人なら、「こいつがゲームについて書いてることだけを」とか、簡単に遡って読めるようにもなりますし、私も、自分の書いてきたことの管理というか、見直しがやりやすくなります。
 そこは便利だなと思うのですが、反面、そうやって簡単に過去を振り返られたくないというか(笑
 ちょっと前にも書いているような気もしますが、昔はかなり偉そうな語調でもありますし、書いてる内容も放言に近いようなこととかもあったりします。
 そういう自分を否定はせずとも、やっぱはづかしいわけです。それを簡単に遡って見られたくはありません。
 この、時系列にしたがって並んでるだけのザレゴトを、それでも読みたいと思うくらい私の書くこと、考えていることになにかを感じてくれたような人になら、お恥ずかしながらと開示もしますが、軽い気持ちで簡単に除かれて平気なほど、人様に誇れる自分ではないのです。
 だから、アーカイヴは便利だけど、便利だからこそ、怖いなとも思います。
 あと、内容をジャンル別に管理するというならいっそ、今まで書いてきた分もすべてそうしてデータベース化してしまいたいと思います。けどそれは、できるとしても非常に面倒。

 デジタルとコンピューターの便利さに頼り切るのに、どうにも抵抗があって、「面倒くさい」アナログ部分を残したいような気持ちもあります。
 あとは……ブログのほうが検索されてしまいやすい、のも理由かもしれません。簡単につながってしまいやすいというか。
 辺境の、たどり着くルートも限られた、検索で上位にヒットする可能性もほとんどないサイトだからこそ、けっこう好き勝手やってても叩かれずに済んでいる、ということもあるかと思います。
 自分の書いたもの、ザレゴトであるSSであれ、それを多くの人に見てもらいたいと思う反面、人が増えることで「厄介な人」も出てくるのが非常に億劫なわけです。

 そういうわけで、メジャー路線には近づきたくないなぁと、ここに至ります。
 見てほしいという気持ちと、見た人の反応で私が喜べないものを回避したいという気持ちのバランス点が、この形態、この運営スタイルなのです。
 それが変化すれば、ともするとあちこちの検索サイトとかリンクに登録したり、ブログを開設したり、ついったーを始めたりもするのかもしれませんが……。
 筆禍・舌禍を地でいきかねない私は、「気軽な発言」ができてしまうのは非常に怖いと、そういうものに手を出さないようにもしているのでした。



2010年1月11日(月)

 ポータブルの音楽プレイヤー(i podとかではないです)を買ったので、その中にいろいろと曲を突っ込んでます。
 CDを入れ替えずにあれこれ聞けるので便利なのですが、私はこのアパートにでさえかなりの枚数持ってるわけで、4Gくらいの容量では「あれ、もう入らないの?」な感じです。
 まあ、1と間違って入れてしまったパイレーツ・オブ・カリビアン2のサントラとか、とっとと削除すりゃ他のがもう一枚入るわけですけど。私はあのメインテーマが聞きたいのであって、アレンジバージョンとか、およびでないから!

 このプレイヤーの中に、ACE OF BASEの「ブリッジ」が入ってたりします。
 流行ったのは……もうかれこれ10年以上前ですか?
 今の流行りではないのでしょうが、それでも好きなものは好きで、今聞いてもこのアルバムは飽きません。しかしこの一つ前のアルバムは当時から特にいいとも思わなければ印象にも残っていなかったりもします。
 ANGRAの「REBIRTH」とか、何年経とうと好きな曲は好きで、時とともに自分の趣味も多少は変化しているだろうに、それでも根強く自分の中に残る「好み」があります。
 それにしても、映画サントラからゲームサントラからアニメのテーマソングからメタルからロックからジャズからフォークから演歌から歌謡曲からポップスからクラシックからテクノからR&Bから……一人の趣味だけで収録されているとはちょっと思えない有り様かも。
 そういや実家には「テクノ・クラシックス」とかいう、クラシックの名曲をテクノアレンジした珍妙なアルバムもあったりしますねぇ。たしか、エイベックスが今ほどデカくなる前、知られ始めた頃くらいに出したもんじゃなかったっけな。その当時エイベックスでバイトしてた子からもらったサンプルのはずです。ジャッキー・グラハムとかと一緒に。そういやその頃にプロディジーを知ったような記憶も。

 なお、アパートに置いてある5連走のCDプレイヤーの中は、今ロック・メタル祭です。
 ソナタ・アークティカ、ブレイキング・ベンジャミン、スキレットの新譜、アヴェンジド・セヴンフォールド、そして最後に、デーモン閣下のガールズロック・ティアラ(笑



2010年1月13日(水)

 小さなミスでものすごく動揺する人を見て、「若いなぁ」というより「おこちゃまだなぁ」と思ったりする今日この頃。
 そして、自分も昔はそういうところがあったなぁと思うと、今がいかに図太くたくましくなったことか! それが少し可笑しくもなります。

 今は、「今した失敗のこと」をほとんど考えなくなりました。
 やっちゃったもんは仕方ない。多少動揺したとしても、大部分はそういう気持ちになります。
 で、「じゃあどうしよう」です。
 取り返しがきくことなら、そうする。でももうどうしようもないなら、なにもしない。できないんだから、なにかしようもない。
 ただ、私がミスしたときに目上の人から寛大な対処をされるのは、そういうとき、「その失敗からなにか得る」からだろうとは思います。
 別に立派な発想ではありません。
 ミスするのはいい気分ではないし、そんなことで人に迷惑かけて嫌がられるとか怒られるのも嫌なので、同じこミスはできるだけしたくないし、自分でちゃんと事後フォローもしたい。
 ただそれだけの理由です。
 そういう理由でも、同じミスは繰り返さない、対処の仕方を身につける、そういうことをしてれば、普段もそれほどバカな真似せずにいますし、そりゃ大目に見てももらえます。

 今したミスのことを誤魔化そうとするとか、その言い訳ばっかりしようとするとか、あるいはオロオロしてるだけのパニック状態でなにを学んでる様子もないとか、なんど注意しても同じミスを繰り返すとか。
 そういうのは怒られもするでしょうが、重要なのは、「ミスをした。じゃあ、自分にはなにができるか、どうするか」だと思ってます。
 その「なにができるか」を取り違えて、できもしないことを言ったりとか、見当違いなことを考えたりするうちは、動揺してしまうのかもしれません。

 失敗とか、ミスなしに生きていくことなんてできないなら、それとどう付き合うかはけっこう大きな問題です。
 そういや、エジソンのものと言われている名言にこんなのがありましたっけね。
 「失敗したのではない。この方法ではうまくいかないということを確かめただけだ」みたいな。
 これはものすごくチャレンジングな発想ですが、私たちの等身大に引き下ろしてきても、ある程度似通ったものはあるように思います。
 「こうすると失敗すると分かったから、次からはやらない」とか。
 失敗したとき、うまくいかなかったとき、それにどう向きあって、どうその経験をプラスに転換していくか。
 それをある程度うまく続けていくと、社会人生活は楽になります(笑
 いやいや本当に。
 ちょっとしたミスでものすごく怒られる人もいて、見ていると可哀想だなとも思うのですが、そういう人は「同じミスばかりする」とか「ミスそのものが減らない」、つまり、ミスするところまでは仕方ないとしても、それを少しも本当の意味では反省せず、次に活かしていないから、と言えるのです。
 反面、動機は不純だろうと、「ミスしてもただでは起きない」を続けていると、ミスそのものも少なくなりますが、ミスしてしまったときの対応が明らかに優しいのですよ。

 私も、社員としてアルバイトを使う立場でものを見ると、同じです。
 ミスの事後処理自体は面倒だとしても、自分の仕事だし、仕方のないもの。
 ただ、そのときの相手の態度や、その後の成長が問題です。
 「すみません、気をつけます」と言うだけで同じようなミスを頻発する奴とか、謝っててもヘラヘラしてる奴とか、そういうのは相手にしません。信用もしないし可愛がりもしない。庇ってやる気にもなれない。
 でも、そのミスを真摯に受け止めて次から気をつけてくれる人なら、怒ろうとは思いません。幸いにしてついカッとなる性分でもないので、ミス自体は、相手がちゃんと受け止めているようなら、「ああ、いいよ、別に」くらいで済ませてしまって、むしろその対処の仕方とか注意点とかを話すのに時間を使います。

 ミスはどうしてもしてしまうものなら、そのミスそのものについてオタオタしても仕方ない。
 どう対処するのかをきちんと覚えるとか、同じことをしないために、自分にはなにができるのか、どんな工夫があるかを考えるとか。
 そういう気構えでいたら、小さなミスの一つや二つ……たとえ大きかろうと、それほどジタバタしないで済むように思います。



2010年1月14日(木)

 TOPを少し変えました。
 理由は単純で、更新頻度の高いジャンルが奥まったところにあるのはどうかと思ったためです。あと、20本程度のSSがある29も手前に出しました。
 できるだけスクロールせずにすべてが見渡せるようにしたい、という思いもあり、デザインみたいな部分はほとんど一緒です。
 ただ、今回は左右幅を最低でも700pxにしているので、解像度によってはもいかすると、左右にスクロールする必要のある人も出てしまうのかもしれませんが、その場合も、切れるのは右側で、使用頻度は低いか、あるいは一部でも見えれば意味が分かる更新履歴。問題はないかと。
 あとは、テーブル組などのミスで崩れて見えてしまうブラウザがないかです。
 一応、IEとFIRE FOX、OPERA系は大丈夫なはずですが、もし「ひどく崩れていて、重なったりしてまともに使えない」ということがあったらろ、お手数ですがご一報くださると助かります。

 デザイン能力なんてものはないので、あまり凝りません。
 見やすい、アクセスしやすい、それだけです。
 たまに、イラストやSSのページへ行くためのリンクがどこにあるか分かりづらいサイトさんとか、独特の表現をしているのはいいけれど、それがなにを意味するのかの解説がなく、そこに行けばなにがあるのか分かりづらいサイトさんとかもあります。
 管理人さんが好きで作っているものなので別にどうでもい構わないのですが、不便だなぁと思うのは確かです。いくつか、どこからメインの創作ページに行けるのか分からず、閲覧をやめて帰ったサイトさんもあります。
 デザインを優先するのもいいけれど、探さないと入り口が分からないようなのは……デザインの根本的なところでなにか違うのではないかと思ったりもします。
 見た目に面白いとか美しく、かつ、機能的。これが最高ですね。



2010年1月15日(金)

 久々に、まともな雪です。
 50cmくらい積もったのかな。
 おかげで、今日予定されていた全店担当者会が延期になりました。こりゃ集まるのも一苦労だし、危ないだろうと。
 おかげで、予定されていた休日出勤も解除されました! ひゃっほう!
 しかし、アラームで12時頃起きてしまった私は、そそくさとAC5のオフィシャルページを見に行きました★ だって14日に更新かかるって出てたんだもーん。

 ここのところPSPへの移植が相次いだため、PSPで出るんじゃないかなんて噂もありましたが、無事PS3とX360です。
 ああ、またすげぇ楽しみだ。
 こんな、落ち着かなくなるくらいに発売が待ち遠しくなるタイトルって、近年ありません。不思議とACfAもこんな感じで、ものすごいソワソワしながら待ってましたが、それ以外にはどれ一つとして。
 なんでかな。気になるし好きだっていうならアサシンとかもそうだったし、これまでの無双系とかもそうだったのに(ここ数年のは除外)、本気でドキドキハラハラしながら情報待つのは、これまでにはただ一本、ACfaだけでした。
 体験版が配信されるというから心待ちにしてたら発売後だったとかいうのも、今ではいい……いやまあ、遠い思い出です。


Made with Shibayan Diary