烏の足跡



2008年11月17日(月)

 ここんとこずーっと、アドホックパーティでモンハンしてます。
 とりあえず、Gクエストを回数こなすのには人数がいないとホントにつらいってことです。
 しばらくは「系譜ONLY 天鱗よこせ!」なルームを作って狩りまくりそうな自分がここにいます。
 テンリンテンリンっ@皿@ いや、天鱗出なくても紅玉が出れば……ええ、あと7個ほどはほしいので。(そのうち4つは今日手に入りましたが)
 あるいは、2ndキャラで「HR4以下限定」というルームもいいかなぁ。

 とゲームの話ばっかりでもあれなので、たまには最近読んだほんのことでも。
 「ジョーカーゲーム」(柳広司)を読みました。
 この作家さんは、「黄金の灰」でしたか、ちょっとタイトルうろ覚えですが、歴史上の人物を探偵役にしたミステリ文庫で先に知っていて、それが面白かったのです。
 けっこうな賛辞のついている「ジョーカーゲーム」ですが……うーん、帯とかに書かれてるほど結城中佐って悪魔的でかっこいいかぁ?
 それほどキャラが立った人物がいるとも思えないし。
 やはり短編で、連作というわけでもなく、短い中で「人」を表現するのは難しいようで。

 これよりはタニス・リーの「悪魔の薔薇」のほうが楽しみです。
 だいぶ昔に「闇の公子」という文庫を読んでちょっと気に行ったイギリスの女性作家です。
 耽美で(801な意味ではない。そういう要素もあったりはするが、本来の語義)退廃的な物語を書く人です。
 ここんとこずっと翻訳もなにもされていませんでしたが、また急に出てきましたね。
 文庫版の「闇の公子」が表紙を変えて再販されたので、これもつい買ってしまいました



2008年11月19日(水)

 今日、というかたった今、心底からしみじみと思ったこと。
 誰かに「ありがとうございます」とか「おめでとうございます」と思いを届けられる人こそ、逆にありがたく、おめでとうと人から言われることがたくさん起こってほしい人だよな、と。

 おめでとうございます、ありがとうございますと言われて、私こそそのかたへ、ありがとうございます、あなたにも良きことがたくさん起こりますようにと、しみじみと、つくづくと思いました。

 なにか誰かにしてもらったことに感謝できること。
 誰かの幸いや喜びを喜べること。
 「素敵な人」っていうのは、そういう人なんだと思います。

 私の周りにいるすべての「素敵な人」たちに、与える以上の喜びや優しさ、幸いがもたらされることを心から願います。
 そしてもし私がその一助になれるなら、それもまた素敵なことだと思うのでした。



2008年11月20日(木)

 ラッセル=ワトソンとイルディーボの新譜を買いました。
 あまぞんで輸入盤を。
 つまり国内盤なんか待ってられない(笑)のと、別に国内盤でなくてもいいけどあるなら聞きたいものって感じです。
 今回のラッセルのアルバムは、カバーですか? 原曲がほとんど分からないものばかりでしたが、オペラとかアリアはなしで、ジャズとかのスタンダードナンバーなのかな? ファンク?
 音楽の知識は皆無に等しいのでよく分かりませんが、声楽家というイメージではない、ちょっとハスキーなゴールデンボイスが堪能できる一枚でした。
 しかしどうせならラッセルには、この中間、すなわち(?)バラード集みたいなのを出してもらえたら最高に嬉しいのになと思ったりしました。

 なお、買ったときにはあまりピンとこなかった「Ryan Dan」というカナダの双子デュオのアルバムがあるのですが、何度か聞いていたらこれもかなりのお気に入りに。
 しかしなかなか次が出ないのが寂しいのでした。



2008年11月21日(金)

 嬉しいことが続くこの三日間。
 すべて同じことに関するものです。
 19日なりたてのタイミングで「一日違いだと覚えてたんです」とメッセージをいただき。
 19日の夜にまたメッセージをいただきました。
 そして今日(20日)仕事に行ったら、別の店舗のスタッフからメールでメッセージが届いていたのです。たまたまその人の店舗に私と同じ日の人がいて、そのからみで知ったそうなんですが。しかもこっちの店のマネージャーに用事があって電話をしてきて、たまたま私が出たら、開口一番「おめでとうございます!」と。

 もし私が祈って本当に幸いがもたらされるなら、1時間でもそれぞれのかたのことを考えていたい気分です。
 そして、できるだけ私の思いが伝わるように、言葉にして記しておきたいと思います。

 苦しいことやつらいこと、悲しいことがあったとして、それでその日、あるいはしばらく塞ぎ込むようなことがあるのは、人生、仕方のないこと。
 だから、取り返しがつかないことは起こらないでほしいけれど、「悪いことが起こりませんように」とは祈りません。
 苦しいことやつらいことの中、あるいはその先にしかない、楽しいことや大切なものもきっとあると思いますから。
 だからただ、垂れ込めた雲もいつか必ず晴れて、晴れたその先に、良かったと思えること、気持ちが解放される瞬間があるよう祈ります。
 そしてまた日々の中、小さなものでもいいので、ちょっと嬉しい、ちょっと楽しい、ちょっと幸せ、そういったものが必ず一つはもたらされ、それに気づくことができますように。
 苦しいとき、つらいとき、悲しいとき、それを分かち合ってくれる誰かが傍にいたり、あるいはそれをいっとき忘れていられるなにかが身近にありますように。
 そしてもし、私でなにか力になれるなら、いつでも、声をかけてもらえたら嬉しいと思います。
 そしてずっと、好きでいたいなと思います。

 小さくてもいいし、他愛なくてもいいので、いいこと、楽しいこと、うれしいことが、いっぱい起こりますように。



2008年11月24日(月)

 クロノトリガー中。
 懐かしいなぁと思いつつ遊んでます。けっこう覚えてるもんですよ。
 でもたしか、クリアはしてなかったような記憶……。

 そしてまたぞろAFRIKAをやってみたりと、いろいろ触ってます。
 リトルビッグプラネットもあるステージでつまずいて、そこがなかなかこせないので、今はWちゃんを誘ってはアイテム集め中(笑

 とりあえずこれで12/25まではほしいゲームが出ないのですが、その25日には一気に2本。……ファンタシースター0は……一応買うのかもしれませんが、ハズレそうな予感もヒシヒシとしています。
 って、そういえば侍道3、10分しかやってないじゃん!?煤浴@;



2008年11月26日(水)

 突然、一緒に働いているアルバイトスタッフから家族のことについて相談されました。
 その内容とかはともかく、うちもそれほど親子仲は良くないというか、希薄なのでふと思うこともあるのです。

 たぶん、「上手く」やれないのは、お互いが子供だからなんだと思います。
 そして、あえて「上手く」やっているとしたら、変に大人の対応をし合っているからかもしれません。
 相手に自分の望みや期待を押しつけて半ば強制して、叶えられないと不機嫌になる。
 逆に、ぶつからないようにとそれを優先して、仮面越しにしか向き合っていない。

 そしてまた、たとえ親子だろうと兄弟だろうと、本当に仲良くいるためには、相手を好きだと思っていることが重要なんじゃないかと。
 これは、親はたいてい子供のことか大切、とか、子供にとって親は大事な存在、とかいう「大切」や「大事」ではなく、「好き」であることが重要。
 好きでもないのに「大切」とか「大事」が先走ると、なにかが歪むんじゃないかなと。

 好きってのは、心地良さや居心地の良さだと思います。心地良いから好きなのか、好きだから心地良くなるのかは微妙ですが、それがうまく循環していると、好きな人がいることがどんどん幸せなことになる。
 それに対して、大切とか大事ってのは、好きだからってのもあるときもありますが、たとえ好きでなくても、必要だという意味であったり、利用できるとか、ないと不便とかいう、実利的な形でも存在する。
 好きってのは気持ちの問題なので、義務的に好きになることはできないけれど、義務的に大事に扱うことはできる。

 そこであえて問いかけてみるのです。
「ご両親のことを好きだと思った瞬間、思うときをいくつでも思いだして挙げてください」
 ただ単にほしい物を買ってもらって「お母さん好きや〜」とかいうのは、財布が好きだってことなので入りません。でも、頼んでいないけれどほしいと思っていたものを、こっそりと買ってきてくれたというときに、ラッキーと思うより、嬉しいと思う気持ちがあれば、物ではなく気持ちを感じて幸せになったってことでしょうから、これはアリ。

 残念ながら、私の場合母親に関しては皆無です。
 感謝はできますが、これは「感謝すべきだからしている」だけのこと。ありがたいな、御苦労さんだったなとは思うけれど、好きだとはまったく思わない。
 そういう楽しさや快さ、心地良さを感じた覚えがない。
 なにか「それっぽいこと」があっても、内心なにを考えてるのかとか、そうすることで自分が満足したいんだろとしか思えない。
 ま、完全に心は離れきっているわけで、こんなんで上手くいくわけがないのは確かです。今更歩み寄りたいとも思わない。それでぶつかるくらいなら、音信不通で結構。というか自分から連絡するのは、車出してほしいとか、利用するときだけですから。
 ぶつからないように「上手く」はやるようにしてますが、まったく好きではない。
 それで自分の居心地が悪くないなら不幸ではありませんが。

 とかなんとか考えたのでした。
 相手のことが好きかどうかってのは、他人だろうと家族だろうと同じじゃないかと思います。
 そしてふと、あまりにも自分には縁がないので分からないのですが、「ご両親のこと好きですか?」と言われて、「うん、好きだよ」「まあ好きだよ」とあっさり応えられる人って、いるんですかね?
 どこの家庭でも屈託はいくらかあるでしょうが、その屈託の大小、私には小さいほうが想像できません。



2008年11月27日(木)

 DSiを買ってしまいました
 たまたまモンハンのDLクエストを落としに玩具屋に行ったら在庫があって、「うちのDS(Liteではない)、だいぶスロットの差し込み口も甘い感じがするし、iは画面少し大きくなってるし、外に持ち出してプレイすることないから持続時間は気にならないし……買うか」と。
 今丁度クロノトリガーやってるのもありますね。
 こうしてどんどん、ゲームの王国と化していくわけです。

 最近では、まあいいかと思ってます。
 バカになれなくなったらそこから先は余生、というのが私の座右の銘なのですが、ある意味、「ゲームバカ」になっててもそれしか見ないわけでもないし、バカになれるものがあるってのが、私には重要だよなと。
 そういう、なかなか動かないものってのは軸とか芯になるので、自分の立ち位置や選択がやりやすくなるのです。たとえゲームなどという、実利性の乏しいものでも。
 それが、「私らしさ」の一部でもあるだろうと思います。

 とか言いながら、実はまだ開けてもいないわけですがね!



2008年11月29日(土)

 「バットマン ビギンズ」と「ダークナイト」のサントラ購入。
 そろそろDVDも出ますね!
 未だに鮮烈に覚えていますし、DVDで再び見るのが楽しみです。ちなみにバットポッドつきのプレミアム版を予約しています。てへ★
 今思い出しても見どころ満載で、印象的なシーンがたくさんあります。そうやって思い返すほどに、先の先を読んで罠を張るジョーカーの狡猾さとその心に踊る狂気が強烈です。
 その一方で、他のアメコミヒーローとは違い、超越的な存在ではないバットマンの、人間的な部分も思い返されます。特に、自分が愛する幼馴染と、その幼馴染が伴侶に選んだ知事(ゴッサムを良くしようと自分の信念と命すら掛けて戦う「光の騎士」)と、どちらを自分が助けに行き、どちらを他の人間に任せるか、というところで、即断即決で恋人を選ぶところ。ここ、けっこう悩みどころですよ、普通。
 でも、恋人がいるはずのほうにいたのは、知事のほう。「なんでこっちに来た!?」と悲痛に訴える知事と、無言で彼を助け出すバットマン。
 あと、「憎しみには耐えられない」とバットマンをやめようとするシーンがあってこそ、最後に汚名をかぶり「闇の騎士」として、人に評価されなくても人のために戦い続けることを選ぶシーンが輝きます。
 そして、そんな彼を唯一、本当は彼こそが「光の騎士」であると知り、協力していくことになるゴードン警部の存在が、ものすごくかけがえない。

 船上での選択シーンも、以前にも書いてますがハラハラしました。
 2隻の船に乗せられた人々に渡される、「相手の船を爆破するスイッチ」。それを押せば自分たちは助かる、とジョーカーに告げられる。
 見ている観客としては、これまでもさんざん裏をかいてきたジョーカーの言うことなので、それが本当なのかどうかを疑います。もしかすると押してもなんともないかもしれないし、逆に自分たちの船が爆破されるのかもしれない。
 囚人の見せる思いがけないほど潔い「スイッチを捨ててしまう」という決断。しかもスイッチを寄越せと言ったその人は「もっと早く決断しておくべきだったことを実行する」と言った後に、窓からスイッチを捨てる。これがかっこいい!
 一方の船に乗っているのは普通の人ですが、彼等のほうこそ、「囚人たちは相応に悪いことをしてきたのだし」という考えもあって、スイッチを押すほうに心が傾いている。
 でも、「押すから寄越せ」と受け取った人も、結局押せずにスイッチを返し、椅子に座りこんでしまう。これ、囚人の命でも奪うことには耐えられなかった、罪悪感に勝てなかった、ともとれますが、後にバットマンがあえて汚名をかぶることを選ぶシーンを思い起こすと、人を助けるためであれ悪人になるという選択ができなかった、ともとれます。

 2007年のマイ・ベスト・ムービーは「トランスフォーマー」でしたが、2008年は間違いなく「ダークナイト」ですね。
 クリスチャン・ベイルは「ターミネーター4」でコナー役をやりますし、これも絶対見なければ!と思っているのでありました。
 最近はジョニー・デップよりベイルのほうが好きかも〜。
 「サラマンダー」も「リベリオン」も「アメリカンサイコ」もオススメです。
 まあ、「サラマンダー」は軽くハゲのおっさんにオイシイところとられてますが(笑)、このおっさんもかっこいいのでOKです。
 「リベリオン」はストーリー的には王道の近未来SFで、それほど見新しくもないし、アクションも途中はそれほどでもないのですが、ラストのラストにあるタイマンがホントにかっこいい。
 「アメリカンサイコ」は、一番スタイルがよくてかっこいいベイルが拝めることと(笑)、空々しさと虚しさの溢れる惨劇がなかなか……。



2008年11月30日(日)

 たとえば普通の知り合い、会社のちょっとして同僚との話の中で、「あそこの店美味しいんだよねぇ」という話が出たりすると、会話のそこそこできる人は、どんな店なんだとか、なにか美味いのかとか問いかけて、話を弾ませることでしょう。
 そしてたいがい「へぇ。今度行ってみようかな」とか言うのではないでしょうか。

 しかし、本当に行ってみることって、あまりないみたいですね。
 話をしているときには本当に行ってみてもいい気がするけれど、話が終わってしまうと、わざわざ出かける気にはならないというか、そんな感じですか?
 たまたまその店の近くにいるときに空腹を覚え、どこかにいい店ないかと思ったときに思い出せば行く、くらいの人が大半なんでしょうか。
 レストランなどに限らず、本でもゲームでも音楽でもなんでも、話のな流れと弾みで「見てみようかな」とか言っていても、本当に実行することって、ここをご覧のあなたはいかがですか?
 私の周りにいる人は、まあ、ほとんどその場の言葉だけで終わるみたいです。

 しかし私は、本当に行ってみること、読んでみる、見てみることがけっこうあります。
 話の中で興味を覚えたことは間違いないので、あとは、「実際どうなのか試してみよう」というのが一つ。
 そしてもう一つは、「あの店行ってきたよ」と、相手に話を戻せることが理由です。
 というか、実際に自分も行ったり見たりしてきたら、そのことを相手に告げます。
 実際に体験してくればこそ、「この間はこういうの食べたんだけど、○○くんのオススメはなに?」とか、そこからまた新しい会話がはじまります。

 他愛ないことですが、これがけっこう喜ばれるみたいです。
 たぶん、相手(私)が本当にちゃんと自分の話を聞いてくれていた、と分かるからでしょう。
 しかも、まさか本当に実行してくるとは、あまり期待してない人のほうが多いんじゃないでしょうか。
 たまに「どう? 行ってみた?」とか自分から切り出してしまい、押しつけや強制の雰囲気を醸し出してしまう空気の読めない人もいますが、だからこそ、本当に実行してきたよという意外性が喜ばれるのか。

 借りた本とかDVDも、何のリアクションも起こさないと、本当に読んでいるのか、見てくれたのかが分かりません。
 さりとて私の場合は、「どう? 読んだ?」とは聞きたくない。時間がないかもしれないし、借りたときは見る気だったけど、少ししたらあまり興味がなくなったってこともある。
 だからこそ私は自分から、「ちゃんと見たよ」と相手に伝えるようにしているのかもしれません。

 投げた球が返ってこないのはちょっと寂しい。
 でも、ささいなことだけに、自分から投げ返してくれとは言い難いこともある。
 返ってこなくてもいいかと思うことを知っている大人ほど、思いがけない返球が来ると、用意がなかった分ズシンとハートに響いたりもする。
 ま、人たらしの処世術です(笑
 質疑応答やお礼しなければならない事態とかの、「返さなければ減点」なことでちゃんと返した場合の「ちゃんとしてる」というプラスより、「返さなくても特に減点はない」場合の思いがけないリターンのほうが、プラス幅は大きい気がするのでした。


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