烏の足跡



2006年12月16日(土)

 珍しくない存在。
 自分が先に、非常にに失礼な態度をとっておいて、それに反応した相手の態度がいくらか杜撰であることに、「失礼な奴」と自分のことは完全に棚に上げて腹を立てる人。
 たいてい、困った客ってのはこうですね★

 だいたい、相手から先に好意や敬意を示されれば、普通の人はそれに応じて丁寧になったり笑顔になったりするものです。
 相手の態度や言葉の悪さの原因が自分にないかは、振り返りたいものです。
 もちろん、相手がただの礼儀知らずであるとか、虫の居所が悪かったとかいうことだってよくありますが。



2006年12月17日(日)

 のろ。
 怖いですね。
 仕事場でもバイトくんが一人とっつかまっております。
 退院したから、とがんばって仕事にきてくれたのは非常に嬉しいのです。「三日も休んだから気が咎める」って。
 こういうことをまったく気にしない、ある意味おおらかさ、ある意味無神経さがある人も時には心地好い存在ですが、「まずいなぁ、悪いなぁ、迷惑かけてるなぁ、こんな起こってないかなぁ」と思う、繊細な、あるいは臆病な人のほうが、私の場合気共感が持てます。



2006年12月18日(月)

 去年のザレを振り返ると、この頃はもう雪がすごく降ってたようです。
 よく、「去年は○日頃に降ったね」とか言う人がいますが、よく覚えてるなと思います。なんで覚えてるのかと思います。何月に降ろうが何日に降ろうがどうでもいい私は、一度として、そういうことを覚えていたためしがありません。



2006年12月19日(火)

 私のように、自分のテリトリーで好きなだけ語りたがるタイプもいれば。
 他人のテリトリーで語りたがる人もいます。
 いわゆる有名なSNSに顔を出してるのですが、私の肌には合わない。
 サイトはあくまでも、自分の家の庭を飾り付け、開放して誰でも入れるようにしている場所だけど、SNSは主宰者の提供する公園に、みんなでお邪魔してテントを張ってる感じ。

 ぶっちゃけ、「コミュニケーション」なんてものを、積極的にとってユウジンの輪を広げようなんて思ってないんですよ、私は。
 来て、そして残る人だけでいいと思ってます。
 ですから基本的にというか根本的に、独裁者体質で暴君なんですよ私は。



2006年12月21日(木)

 うーむ……。
 いきなりアカウント無効でネットつなげなくなりました。
 なんですのんそれ!?
 仕事行く前にちっとメールのチェックした時には普通につながったんですが、休憩時間中にチェックしようとしたらいきなりアカウントかパスワードが無効と出てきやがりました。
 日付が切り替わっていれば、接続料金の引き落としにでも不備があったかなと思うんですがね。
 あと、強制停止にさせられるようなことをした覚えはござんせん。
 そもそも私、ネットしてたってこの巣いじってるのがほとんどで、isaoに迷惑かけるようなことはしてないですしねぇ。
 それとも、なにか大事なおしらせでもあったのを見逃してんでしょーか。
 それにしても、17時にはOKだったものが21時で駄目になるってのは、あまりにも変なタイミング。
 サバトラですかねぇ。
 というわけで、更新しようと予定していたものはできずじまい。

 で、問い合わせセンターの受け付け時間になってTELしてみたら、引き落としでされてないせいだと、かーいらしい声したおねーちゃんが教えてくれました。
 いや、でも私、ちゃんと就職してからは、たしかに使う金は増えたけど増えすぎないようにしてるから、いまだかつてなかったほどちゃんと銀行にお金預けてあるし!? 生まれてこのかた二度目だよ、貯金が6桁持続してるのは!?(←それはそれで問題な人生だと分かる発言
 これまではちゃんと引き落とされてたんでないんですか!?
 と、思いまして銀行の通帳を、数年ぶりに記入しに行ってきたんですが。
 ……あんれー? なんか、該当してる引き落とし項目がないぞー?
 今現在まともに使ってる金融機関なんてここ一つしかないのに、今まではいったいどこから引き落とされていたんだろう??? いや、ここ以外で引き落とし口座指定するはずないのに。
 なんだかものすごく謎な状況なのでまたTELしてみたら、口座の登録がされてない、と言われました。
 ……は? じゃあ今までの半年間はいったいどーなってたんですか?? だってフツーにネットしてましたよ私?
 と、ますます謎は深まったのですが、ともかく、振込み用の用紙はもう郵送済みとのことなのですぐ届くはずだし、口座登録の書類も手配するとのことで落着しました。
 それにしてもほんとに謎だ……。



2006年12月22日(金)

 講談社α文庫、市田ひろみ著の「京都流 言いたいことが言える本」がなかなか面白かったです。
 ぶっちゃけて申しまして市田さんについては、テレビなんてろくに見ないため、「女優やってたこともある人? そういうと見たことあるような」くらいしか知らないんですが。

 人付き合いをうまくやっていく方法、みたいなことを書いた文庫です。
 仕事中に見つけて、ちょっと気になったのでパラパラと見て、なにかいい感じだったので買ってきました。
 何故この本が引っ掛かったのかは、微妙に謎です。今更こんなタイトルに引かれたわけでもない。中を少し見て、「面白そうだな」と思ったために買ったのは間違いないんだけれど、なにがアンテナに引っ掛かったのかは謎です。
 ただ、面白かったなと紹介しようと思うくらいなので、とても気に入りました。
 CDのジャケ買いに続き、こういう買い方しても私はほとんど外すことはありません。

 市田さんは「八方美人」をオススメしてます。
 誰にでもいい顔する、というのは悪い意味でとられますが、「みんなに優しい顔しといたらええやないの」ってことかなと、私は翻訳してみます。自分を売り込むみたいな意味の「いい顔」ではなくて、相手を傷つけたり怒らせたりしないための「いい顔」。
 そのためには、人付き合いの中でこういう言い方や気遣いをしたらどうやろ、ということを書いている本です。
 気遣いとかってものをしていれば、たしかに自分は少ししんどいことに間違いないんですが、無神経に相手を傷つけたり、あるいはあからさまに気まずい雰囲気になった後で後悔したり、その後で「あの人あのことどう思ってんだろ」とか不安になったり、その後になって「あの人と顔合わせるの気まずいな」と思ったりするくらいなら、少ししんどい思いしておいたほうが、結局楽なんでないかなとか思ってみます。
 ま、なんかそういうことを考えてしまうようなことが、書いてあります。

 ところで話は少し変わるんですが、斎藤孝という国語の先生(日本語に関する著作をたくさん出してます)が書いた本も、何冊か読んでます。
 三食ボールペンを使って本を読もうとか、なんかそういうこと書いてる人です。
 私はこのかたについて、「斎藤さんは「本を貪欲に自らの栄養にする」ための読み方を推奨しているけど、本があくまでも娯楽でしかない人にはどうでもいいことだよな」、と思っていたりして、全面肯定はしてません。
 それでも、いくつか頭の中に残ってる言葉があります。
 本の読み方について「その本の中から自分にとってはこれだ!というキーワード・キーセンテンスを見つける」とか。ちなみに、その本の中での私にとってのキーセンテンスは、この言葉だったわけですね★
 で、斎藤さんは他に、まあまあ大事だと思うこととか、個人的にものすごく気に入ったところとかをチェックしながら読むと、他は非常にいい糧になる、とかいうことをおっしゃってます。

 で、話は市田さんに戻ります。
 「京都流〜」を読んでて思わず目が止まったのは、次のような場所でした。
 ある美容院で、古いドライヤーと新しいドライヤーを交換してもらったそうです。で、あくまでも交換なので、本当はその時に古いドライヤーを回収してもらわないといけなかったんですが、後になってみたら、古いドライヤーがそのまま残ってる。
 だから、引き取りにきてくれるよう業者に電話しようっていう時に、市田さんは、こういうふうに言うといいよ、とアドバイスをしたそうです。
 引用しきらず要約しますが、「ただ引き取りに来てくださいって言うだけでは、相手はこちらの事情なども分からず、有償の引き取りを頼まれたと勘違いするかもしれない。だから、(ここからは引用)この間新しいドライヤーを入れてもらったときに、持って帰ってもらうのを忘れたのでよろしくお願いしますって言うこと」。

 市田さんはこれまでの間に、「相手に恥をかかせたらあかん」と書いてます。そういう居まずい思いをさせない気遣いをしてあげると、お付き合いはスムーズになるよ、と。
 この赤文字にした部分読んだ時、なんというか、言葉にならない感嘆みたいなものを覚えました。「なぬ!?」というか「ははあ!」というか。
 ……分かります? なんで私がそう思ったか。
 この赤文字の部分が、相手と摩擦を起こさないため、相手に恥をかかせないための大事な言い回しなんです。
 これを、「回収し忘れていかれたようなので」みたいな言い方をすると、言葉はどんなに丁寧でも、「あんたのとこの人が忘れて帰った」っていう意味になる。
 でも市田さんは、「私たちがうっかりして、持って帰ってもらうのを忘れてしまった」という言い方をなさったわけです。
 たぶん、ご本人は意識しておられないんでしょうけど(だからこの言い方がポイントとは注釈されてない)、当たり前みたいに相手の気分を思いやった言い回しになってる。
 ご本人はもしかすると、当たり前のことすぎて「ここにもそういうテクニックがある」とすら気付いておられないかもしれない。それくらい身に染み付いた気遣い、言葉遣いなんだなあと。
 なにやらそんな思いが「なぬ!?」とかいう感嘆になったわけです。
 そんなわけで、この本での、キーセンテンスとまではいかずとも、個人的に非常に大事だなと思ったところ。

 このエピソードと、そこから得た感想から発展して私は、つまり気遣いも、慣れればどうってことない、自然な所作になるってことなんでないかなと思いました。
 慣れない内は失敗もするしストレスにもなるしうまくいかなくても、慣れてしまえばまるで意識せずともできるようになる。することが当たり前になるから。
 シチュエーションに応じて臨機応変に、ってことなんかは特に、最初はいろいろ考えないと対応できなくても、場数を踏んでいけば、反応はだんだん速くなる。
 なんか、そういうものなのかなーと。

 ちなみに、マイ・キーワード、キーセンテンスとしたいのは、引用そのままではないんですが、「八方美人は八方律儀でもあれ」ということかなと思います。
 あちこちに優しいいい顔して応じ、それがちゃんと相手にとって心地好いものになるには、その場しのぎの自分の株上げるための「調子のいい顔」じゃいけない。
 みんなに少しずついい顔をするなら、そのいい顔分は相手に対して律儀でないといけない。だからこそ、調子のいい顔じゃなくて、気持ちのいい顔だとみんなに思ってもらえる。

 なんにせよ、私には面白い本でした。
 私はめったに本の角を折ったりしませんし、斎藤さんのようにガンガン線引いたり書き込みしたりってのにも抵抗あるんですが(風呂場には持ち込むくせに)、「絶対売らない。これから何度も読むだろうし、読み返したい」と思える本は、逆にあっさり角折ります。心底自分のモンだと思えばこそです。
 この「京都流〜」も、二ヶ所ほど折りました。



2006年12月23日(土)

 久しぶりにちょいと良いなと思う時代もの小説に出会いました。
 小杉健治の『母子草 どぶ板文吾義侠伝』です。
 主人公の文吾は、小間物の担ぎ売りをしているちょっといい男。金のある相手からを強請って金を巻き上げるような悪いこともするけれど、弱い者いじめはしない。
 これが、一度とった客は二度ととらないという、滅法いい女の夜鷹の噂を聞くことから物語ははじまります。

 細かい話はさておき、この小説には文吾の他、何人かのメインメンバーがいます。
 孤児の文吾になにかと優しくしてくれた、恩人でもあり憧れでもあり、そして今は亡き人であるお良。
 このお良の間夫(いわゆるヒモ)で、お良を殺した、にっくき仇の弥三郎。
 噂の夜鷹であり、そしてお良によく似たおさん。
 町の者から嫌われている五郎兵衛という岡引。
 それとは逆に、よく慕われている岡引である辰之助。
 文吾の住んでいる長屋の大家。
 隣に住んでいる浪人の伏見十三郎。
 文吾に危ない仕事を頼んでくる口入屋、大黒屋の主。
 いろいろあって、おさんが育てることになるお里という女の子。
 お里の実の母親であるお紋と、お紋の今の亭主。

 短編連作の形式で、一話完結で進んでいく話の中で少しずつ進んでいく、もう一つの物語のようなもの(主に、文吾からおさんへの思い)があるのですが。
 おさんに惹かれながらも、どうにも一歩踏み込めない文吾の、ウブというより煮え切らない態度もうまく書かれてる。
 頑固で無愛想(陰気な気も)な伏見十三郎が、実はとんでもない剣の達人だったりするのも面白い。この人いったいなんなんだと思ってしまいます。
 地味なくせにいい味出してる大家さんもいい。
 けれどやはり、この一冊の最後の一話で、がらりと逆転する要素に感心しました。

 読みながら「あれ?」と思っていたのが、最後の最後で一気に確信に変わる。
 そして「やっぱりそうだったか」と思う。
 簡単に先が読めてしまっていた、とも言えますが、ちゃんと匂わせて書いていたということでもあります。
 さすがに、なにも気付かずに読んで、どんでん返しを読んだ時に「あっ!」と気付くほどではありませんが、「そうだろ、そうだろ。やっぱりそうなんだよ」と納得できる快感はしっかりありました。

 笹沢さんのものとか池波さんのものとかみたいに、「笹沢世界」「池波世界」ってものを醸し出すほど深くはない感じですが、続きが出ないか非常に楽しみです。
 一冊目でいきなり、一番美味しいどんでん返しを使ってしまったのは勿体無いと思います。
 でもまあ、文吾とおさんが今後どうなっていくのかも楽しみだし、伏見がどういう理由で浪人してるのかとか、それが関わる事件が出てきても面白そうだし、大黒屋に腹の据わった悪党(ってほど悪くもないんですが)ぶりを披露して文吾と読者を唸らせてほしい気もします。

 時代作家というと、昨今とにかく人気があって作品量も多いのは佐伯泰英さんなんですが、あのかたはどうしても、一冊一話の長編ばかりなので手がのびません。



2006年12月24日(日)

 カチンときても、とりあえずひとまず「うん、そうだね」と聞き入れてみる。
 カチンときたのはただの感情の反発で、それは、損得も正当性も一切含まれてない。
 でもそこで、自分の意見とか思惑とは違っていたとしても「はい、そうですか」と一度聞き入れることを決めてしまえば、だいぶ変わる。

 たとえば、一生懸命仕事してるつもりなのに「段取り悪いよ、もう少し急いで」とか言われると、こりゃカチンとくる。
 こういう言い方をする人がまず無神経と言えるから、「そんなこと言ったって一所懸命やってんだよ! おまえこそなんだよその言い方!」とかとにかく感情はヒートアップする。
 でもここで、「その言い方ないんじゃないですか」とか言うのは、自分の感情をぶつけてるだけ。相手の、無神経な物言いとまったく同じレベル。
 それよりは、ムカッときそうなのを自分で宥めて、「はい、そうですね」と思ってみる。
 たしかに自分は段取り悪い。たしかに遅い。急いでと言った人の目からは遅く見えるし、その人の求めるスピードはないという事実を、見詰める。
 その上でなら、「私のところで滞ってて迷惑してるのかもしれない」という、客観的な可能性にも思い至れる。
 そして素直に、今すぐには無理だけど、少しでも早くできるようになにか工夫してみようとか、手を早く動かそうとか、自分を向上させる方向につないでしまえばいい。より良くなって得するのは自分なんだし。
 そういう、できるだけ冷静で客観的な受容の後に、「でも、あの言い方は嫌だよね」と考えて、そこから「私はああいう言い方になってることないかな。こういうこと言われると嫌なんだから、私はああいう言い方はしないようにしよう」と、相手を責めるより自分の肥やしにしてしまえばいい。

 相手が本当に嫌な奴なら、「貴方のここがいけません」なんて注意して、より良くしてやる必要なんてまったくない。ほっといたらいい。
 もし相手が、「今のちょっと言いすぎたかも」と後悔していたり、あるいは言葉こそきついけど内心では特に責めてるつもりもない、むしろ、本人はただハッパかけるくらいのつもりでしか言ってないのであれば、気遣いはないにせよ悪い人でもないわけで。だったら、その人に無闇に盾突かなくてすんだのは、いいことだろう。



2006年12月25日(月)

 久々にほんのちょっとした小説作法。
 私は自分なりの感性で(文法で、ではなく)、助詞を選ぶことがあります。
 「の」にするか「が」にするかと、「に」にするか「へ」にするかです。

 たとえば、「彼が言うことには」にするのか「彼の言うことには」にするのかです。
 正式な文法としては、どちらにすべき、どちらが正しい、どういう場合にはどちら、どういう意味ならどちら、と決まってるんだと思いますが、帆足しの場合はたいがい、感覚です。
 あと、繰り返し使用になるのを避けるためにも使います。

 たえばですが、「彼が言うことには無理があった」と「彼の言うことには無理があった」なら、私は後者をとります。
 前者は「彼が、無理が」と「が」が続く。しかも「が」ってあんまりきれいな音じゃない。後者なら「彼の、無理が」で音が重ならなくて聞こえもいい。
 ちなみに私は、「聞こえ」という言葉の示すとおり、自分が音読しやすいような文章を書いている、と言ってもいいかもしれません。
 そこでまた例文。「音が重ならなくて聞こえがいいほうがいい」もまた、「が」の連発。こういうのが気になって仕方ないので、「音が重ならなくて聞こえのいいほうがいい」にします。
 他にも、「こういうのが気になって仕方がないので」にすると、また「が」の連発。それなら、意味もほとんど変わらないし、「が」にするより少しやわらかい感じもするから「こういうのは気になって仕方がない」にする。しかも今回、例文ではなく地の文では「こういうのが」として「こういうの」を強調したかわりに、「仕方ない」として「が」を消しています。
 あんまり「が」って好きじゃありません。

 も一つ例文。って、今書いてる話の一文なんですけど。
「寝たまま顔を横に向けると、庭の垣根のむこうへ、広い青空が続いていた。」
 ってものがあります。「へ」と「に」の使い分けです。
 本来は「へ」は「その方向へ向かって」とかいう、移動のニュアンスがあって、「に」には「その場所において」という固定したニュアンスがあるそうなんです。
 この例文は「寝たまま顔を横へ向けると、庭の垣根のむこうに、広い青空が続いていた。」にもできます。でもなんで私がこうしないかというと、「むこうに」より「むこうへ」のほうが、本来のニュアンスどおり、なんとなく広さというか、「むこうへずーっと」って感じがするから。「むこうにある」より広い感じがする。

 助詞にかぎらず、実は気になると気になってしまってけっこうこだわります。
 この例文は、「顔を寝たまま横に向けると、広い青空が庭の垣根のむこうへ続いていた。」とかいう構成にしても、ちゃんと意味は通りますし、意味が変化することもありません。
 じゃあなんでこうしないのかっていうと、読んだ人の頭の中に、どういう順番で意味が出てきて、どういうふうに組みあがっていくか、にあります。イメージの流れというか。
 「顔を寝たまま横に」だと、なんか、顔があって、それが寝てて、それを横に向ける、という順番。それに「顔を向ける」という動きが「寝たまま」「横に」という言葉で引き離されてしまっていて、ちょっと安定感がない。
 でも「寝たまま顔を横に向ける」だと、まずその人が寝てるってことが分かる。そこから、「顔を横に向ける」。すぐに動作が見える。……そんな気がする。だからこうしてます。

 「庭の垣根のむこうへ、広い青空が続いていた。」と「広い青空が庭の垣根のむこうへ続いていた。」はどうやって選んでいるかというと。
 後者だと、主語と述語(青空が広がっていた)の間がはなれてて、「垣根のむこうへ」を読んでる間に、青い空が消えてしまう。
 前者にすれば、まず垣根があって、そのむこうに青い空が広がっている、という事物の配置にも合うから、景色が自然と、手前から奥へ広がっていく感がある。……ような気がする。。
 とまあ、こういう理由があります。

 ちなみに、書いてる時はいちいちこんなこと考えてません。
 とにかく感覚、気取って言えば感性です。
 その感性はどうすれば身につくのって話になると、数としか言えません。
 何百回も何千回も自分の言葉と向き合って、自分と向き合ってるうちに、自分の心地好い言葉、音が分かってくる。
 私は理性で書けないのでなおさら、感性のみに頼ってるからどーしても、回数っていう答え方しかできない。
 私はひたすらに書いて書いて書きまくって、私流の文法みたいなものを、頭でなく感覚で手に入れました。それをまた日々使いまくって、磨くというか、いじるというか、ともかくずっと向き合いつづけてます。
 その結果、独自の文法感覚みたいなものを身につけました。それが人にとっ手心地好いかどうかはまた別の問題ですが、私は、私にとって心地好いものを書けるようになってます。

 と、いうわけなので、久しぶりに久しぶりな、とても嬉しくありがたいお言葉をいただいたのでお応えしてみましたが、私にはおそらく、教えてさしあげられることはなにもないのです。
 思いつくままがなった後で、それは何故かをこんなふうに説明はできても。
 だいたい、絵も音楽も文章も、「創作物」と呼ばれるものの熱心な作り手は、質を云々しながらは作ってないと思います。
 作りたいから、あるいは作らずにはいられないからせっせと作ってて、その上で、作ったものの質について気にするんでないでしょうか。



2006年12月26日(火)

 クリスマスってなんですか? という感じに今年は無関係に過ごしました。
 いろいろと予定があったんですが、あいにくと友人たちの都合も合わずにボツorz
 その結果、今更ながらDS「おいでよ どうぶつの森」と睡眠ですごしました。
 普通に面白いので、ちまちまと進めようと思いますが、まあ、初期は一気に遊んでるんだと思います。
 今日はずーっと釣りしてました。スコップやじょうろが売られてないんし、冬場で虫もほとんどいないんで釣りばっかり。
 おかげでローンの返済は終わり、おうちは一段階大きくなったのですが、売買のであるお店が改装のため休業。おかげで、今はせっかく釣っても拾っても売りに行けず、なにもできなくなっています……。



2006年12月27日(水)

 二十代前半くらいなのに「もう年だから」とか言ってる人を見るとアホかと思います。
 そんなにさっさと年寄りになって、そんなにさっさと諦めモードに入って、残りの五十年、どうやって過ごす気なんでしょう。
 ろくに考えもせず言ってる口先だけの言葉であれ、聞いててかなり嫌な言葉の一つです。

 何度か書いてますが、人の一生を80年として一日におきかえたら、二十歳なんてまだ朝の6時。少し前まで寝てたか、まだ寝てるくらいにろくに世の中に関わってないってーのに。
 ……あ、そーか。寝惚けてるだけか。
 寝惚けてるだけならいいですが、起きてて「もう年だから」とか言ってる人は、(ピー)と思います。



2006年12月28日(木)

 ようやく明日(日付的には28日)、雪が降るそうです。
 雪のしっかり降る土地なのに、こんな時期まで雪が降らないとは、まさに暖冬。
 しかし、降雪、積雪の遅い年ほど、いっぺんに山ほど降るような気がします。

 さて。
 明日は仕事が休みですが、その後は7日連続勤務が確定しています。
 暮れも正月も一切関係ありません。
 むしろ大学生のアルバイトたちの帰省のため、……って前にも書いてますネ。
 しかしそのあと2連休です。たまたまなんですが。
 しかし、年末年始はそれほどお客さんも多くないので、まったりと売り場をいじれるので、けっこう楽だし面白かったりします。



2006年12月29日(金)

 小掃除をしました。
 というか、机の周囲を片付けたんですが。
 一時間かかりましたorz
 でも、PCのモニターの上とか本体の上とかスキャナの上とか開けたひきだしの上とか、まだ片付いていません。
 というか、本が多すぎて本棚を増設しないかぎり収納ができません。
 CDもラックに入っている数より積んである数のほうが多い気配です。
 なんというか、この部屋の大掃除をしたら、三日ほどかかるんじゃないだろうかという気がします。

 私の部屋はおそらく八畳あるんですが、異動に際して用意されるアパートの部屋は、はたして何畳あるのでしょうか?
 というかお父上、お母上。今のこの部屋を書庫にしても構いませんでしょうか?
 窓以外全て本棚(箪笥とモニター台くらいは置きますが)、という有り様にしたい私です。
 ぶっちゃけ衣食住すべてどーでもいい生物なので、それでちっとも構いません。



2006年12月30日(土)

 萌えってのは、恥も外聞もなくした者が勝ちなんだろうなと思う日々です。
 私は人目一切気にせず自分の妄想全開にすることなんてできません。
 いや、大した妄想もしてませんが。たぶん。



2006年12月31日(日)

 さて、お酒の季節です。
 ところで私は酒は飲んでも煙草は吸いません。
 ここで喫煙権、嫌煙権について云々するつもりはないので話をとっとこ進めますが、私は世の人に問いたい。
 煙草にせよ酒にせよ、本当に美味しいと感じてるんですか?と。

 いや、かなりの酒飲みの私が言うのもなんですが、私が好きな酒はかなり限られており、また、家にいる時に飲むことはほとんどありません。……というか、「飲むものお茶しかないけど、お茶や水飲む気分じゃないんだよな」という時に、飲料のひとつとしてビールや缶チューハイを開けるくらい、ビールごとき酒と認識していませんが。
 そんなわけで極一部のブランデーやバーボンを除き、基本的にはカクテルが好きです。お酒だからではなく、美味しいからです。ですから、ノンアルコールでも美味しければ構いません。

 などと思うのは、初めてお酒を飲んだ時、私は、美味しいとは思わなかったからです。
 かれこれ中学生の頃ですが、「ピーチツリーフィズ」という缶のカクテルを飲んだのが初めてだと思います。でも、こんなんだったらただのピーチスカッシュでいいや、というのが正直な感想でした。
 ただ、格好つけて「美味しいじゃん」とか言っただけです。若き日にはよくあるコトですネ★
 ちなみに今現在、キリンの缶チューハイ「氷結」を飲みながら打ってますが、べつにお酒がほしいわけではなく、ジュースのようなものがほしいだけです。私にとっては多少のアルコールはゼロも同然なので、こーゆー選択基準です。この「氷結」意外に柚子が美味しくていい感じでした。でも今飲んでものはグリーンアップル。ちなみに本日、三本目です。一本はレモン、二本目で柚子、三本目でグリーンアップル。
 さすがに酒飲みだと思われそうですが、返す返すも、私にこれはジュースでしかないのです。

 これがもっとしっかりしたお酒、すなわちブランデーやバーボン、あるいは酋長、日本酒、ウオツカ、ジンとなってくると、私が本当に美味しいと思えるのは片手で数えられるほどです。それほど大した酒好家ではないのですが、「本当に」という言葉をつけて自分の口に合うものを探すと、年数までが指定されるのです。名コニャックであるポールジローでも何年はダメだ、何年がいい、とか、ターキーも何年はいいが何年は好かん、とか。
 そういう極一部のもの以外はダメ。飲めるだけで本心から美味しいなんて思ってない。私が飲むのを眺めるのも酒の席の一つの楽しみになっているので飲むだけです。

 ともあれ、強いだけでそれほどアルコールが好きなわけでもない私は、晩酌だ風呂上りの一杯が美味いだなんて感覚もありません。
 つーかビールのどこが美味しいのかちっとも分からない始末です。実は焼酎とビールだけは、どんなものを飲んでも美味いと思ったことがなかったりします。
 味覚の差だと言ってしまえばそれだけなんですが、お酒を飲む人、煙草を吸う人に聞いてみたい。本心から美味しいと思ってるんですか、と。