烏の足跡



2006年8月1日(火)

 パイレーツオブカリビアン見てきました。
 小説版読んでいってるんで、なにも知らずに見る人とは感想の持ち方違うかもしれませんが。
 これから観に行く、1のジャックのファンにはつくづくと、1のカッコよさを期待して見るとハズレにしかならない、と申し上げておきます。
 今回はとにかくコメディ要素が増えたのが一つ。
 それから、恋愛模様もクローズアップされてます。
 で、ジャックに迫る危機ゆえに、彼の内面をちゃんと読まないと、面白くないかもしれません。

 とにかく今回情けないジャック。
 かっこいいシーンは……しばらくヒミツにしときます。
 しばらくしたら語らせてください。
 で、今回字幕で見たので、もしまた誰か観に行く人が近くにいれば、吹替えでまた観に行ってもいいかなと思ってます。
 でも今回……これは他愛ないことなんでバラしますが、冒頭、かなりオコサマには向かないと思います。生きたままカラスに目玉食われる囚人とか、足の骨だとか、かなりグロい……。



2006年8月2日(水)

 ケニーG+ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」。
 ケニーのサックスにルイのあのダミ声が優しく乗っかって、……ああっ、いいっ!! 技術の進歩は、こういう、昔なら不可能だったコラボを実現してくれるんだなと、ありがたく思いました。
 ルイ・アームストロングは、基本的にはクリアな声が好きな私が、どうしても好きでたまらないダミ声さんです。歌声の向こうに優しい笑いが聞こえたりすると手を止めて聞き入ってしまいます。



2006年8月3日(木)

 最近、禅語をちらちらと調べています。
 そのからみで、片岡鶴太郎さんの書+絵+禅語に関するエッセイみたいなもの、という本を見つけたので購入しました。
 鶴ちゃん好きですから!
 最近のお笑い芸人にはなんの興味も覚えないのですが、志村けんさんとか、さんまさんとか、鶴ちゃんとかは好きでしたし、今でも好きです。
 で、鶴ちゃんのは「禅語を正しく解釈する」というのではなく、「正しい解釈かどうかはさておき、自分はどう受け取っているか」なので、もう一冊、文庫で、こちらは禅語の一般的な解釈について軽く書かれたものを購入。
 比較して読むのがなかなか楽しいです。



2006年8月4日(金)

 やっぱりメガテン系は、本筋の「女神転生」が一番です。
 そして私は1より2より3が好きです。

 結局3のなにが私にとって面白いのかっていうと、それまでの仲魔は、レベルアップというのがなくて、たとえばLV3でものすごく好きな悪魔を見つけても、戦力外になってしまうから仕方なく合体させて他の悪魔を連れて歩くしかなかったわけです。
 これが3ではレベルアップするようになったので、その気になれば、初期レベル12くらいの悪魔でも、最後まで連れ歩くことができるようになりました。
 あと、パラメーターやスキルの増強に「御魂合体」「イケニエ合体」が使えて、更にある程度、自分の好きなスキルを選んでつけられるようになったから、ますますお気に入りの悪魔を作れるようになりました。
 しかも、その仲魔たちがポリゴンになって、パターンは多くないけどアクションしてくれるようになった。隣に並んで立っててくれるってのが、ビジュアル的にもグゥでした。
 あと、仲魔がレベルアップした時に、アイテムくれるのもよろしいです。仲魔にしてからもちょっとだけコミュニケーション。

 ライドウは、仲魔を連れて歩けるとはいうものの一匹だけだし、切り替えるのにえらい時間くうしで、システム回りの煩わしさが爆発。戦闘も自分と仲魔一匹だけって、そんな寂しい……。
 DDS(アバチュ)は、ストーリー的には良かったけど、悪魔合体じゃなくて自分にスキル追加していく、FFとか、王道的なシステムだったし。あと、無駄に二枚組みにされて腹立ったのも巨大ですな!
 で、ペルソナ3は、仲魔にあたるペルソナが育つものの、しょせんは背後霊。ペルソナ呼び出さずにガチンコしてれば姿を見もしない。人間になぞさして興味ない私には、人間の友達が一緒に戦うペルソナより、悪魔が一緒に戦うメガテンのが好きです。
 でも、デビルサマナーシリーズは良かったなぁ。SSで出た無印も、ソウルハッカーズも面白かった。

 というわけで久々にメガテン3をプレイしたら、またダンテ様が宝石を貢いでくれました



2006年8月5日(土)

 人の目なんかまったく考えず、ただただ私が書きたい・読みたいものを書く、ということを最近していない。
 サイトを持つようになってから、アップすることを前提に書くものは全て、どこかでやはり人目を意識してしまっている。

 ただひたすらに私の楽しみのために書いた話というものが、今までに一つだけある。
 読んでくれていた人が一人だけいるけれど、その話を書き始めたそもそもは、―――もう忘れたなぁ。
 ただ、書いていく間に、その時にプレイして気に入ったゲームの気に入ったシーンとか、マンガや小説でも胸に残ったシーンとか、そういうものをあっさり拝借してやっていた。
 人に見せることなんかまるで考えていない代物だから、それはただ、私の気に入ったあのシーンを、私の作り出したキャラクターにもやらせたい、というだけだった。
 出てくるキャラクターも、他のどこかで気に入ったキャラクターを、名前をかえてここに出してみようという具合だったりする。それは、その話以前に書いた自分の話のキャラクターだったりもする。

 RPGを最初から前提に、章の頭にはその時のパーティキャラの装備や所持品、レベルなんかが出てくる仕様で。
 今オリジナルに置いてある話の、その中に出てくる「サイコ」「イージャ」というキャラは、その話の中に生まれたキャラクター。

 小さな村で、特に裕福でもないけど特に貧乏でもなく、それなりに平凡に幸せに暮らしていた女の子が主人公で。
 ある日いきなり、その村が普段見かけないような強力な魔物に襲われて、その女の子が大好きなおじいちゃんが浚われてしまう。
 女の子は無鉄砲に、そのおじいちゃんを助けるために家を、村を飛び出してしいく。木刀と、父親のお古の皮の胸当てだけを持って。
 村から少し行くと、隣の国。人狼族の国であるその国は、騎士団が使っていた馬が、年老いると放たれて野生に返される仕組みがあって、だから馬は人に慣れていてしかも賢い。女の子はその馬の背に乗って進んでしまう。
 そのため、馬から振り落とされたところには、とてもその子では勝てない魔物が現れる山の中。
 そこへ現れるのが、やたらと強い人狼の男。この国では、少し知能のある魔物なら、その名前を聞けば逃げ出すほど。これが、その国の前任騎士団長、現在は自警団にいる男・サイコ。今この巣にある話に出てくる彼とはだいぶ違うけど。
 このサイコが、なんだかんだで女の子と一緒に来てくれることになる。女の子は知らないけど、同行者になってくれるのにはいろいろとオトナの事情というものもあったりして。
 その内に女格闘家のシェスタという美人でグラマーなお姉さんと、盗賊として知られているイージャも仲間になる。

 砂の王国、鬼の村、氷の魔王と魔都ヘルガランデ、片方は巫女として崇められ片方は忌み子として捨てられた双子の姉妹、黒砂の魔王、銀砂の主、おねえ言葉のシンカー、この世に最後に残った霊花の精霊、魔王に魂を捧げた闇の聖騎士、神剣の使い手、魔刀の使い手、黒炎の鳥を連れた魔法剣士、迫害された亜人、盲目の楽師、母なる森、変わり者のナーガ、絶大な力を秘めた八つの石、神たる神、神たれぬ神、太古の文明、浮上する巨船。
 なんかまあ、王道RPG的な要素をこれでもかと盛り込んである。

 今あらためて書こうとすると、整合性をつけようとかしてかえってつまらなくなりそうだ。
 そもそもおじいちゃん助けるためにって一人で危険なところへ飛び出して、まあ勢いがある内はいいが、少し冷静になったらとても無理だってことに気付くだろうとか。
 その目的一つで年単位引っ張ることはできないよなとか。
 ―――でもそんなのは、人目を意識するから出てくることで、ただ私が楽しければいいだけなら、辻褄や整合性なんかほとんど考えない。
 私の見たいものを書く。
 いつか、まあ、もしかすると、この話も、どういう形になるかはともかく、アップする日がくるかもしれない。



2006年8月6日(日)

 「PROMISE」見ました。真田広之出てるヤツです。
 まあ……うん、まあ。
 HEROのほうが面白かったなと。
 あんまり深みを感じられなかったのが原因かなあ。

 それでも、大将軍で、強気なことばっかり口にするちっとも素直でない光明るが、帰ってこない傾城にとうとう強がりも失せて、「もう日が沈む」と泣きそうな顔してるのは、ああ、やっぱ真田さんいい役者だなあと(笑
 で、それににこっと笑う奴隷くんがまたいい奴で。チャンドンゴンもいい役者です。
 つーか将軍と奴隷、この二人の間にある主従の感情が、少しばかり友情含んだりもしたのか、そういうことはないのか、この辺、変化をもたせてしっかり演出してくれたらもっと盛り上がりようもあったんでないかと思います。

 武器のアイディアは素晴らしいなと思いました。光明の使ってる、トゲトゲの鉄(?)球(人の頭くらいの大きさ)を二つ、鎖でつないだものとか。
 無歓の扇子もかっこよかったなぁ。でもあれは、「必殺」シリーズの映画でとっくに出てきてますがね! 扇子の骨に刃が仕込んであって、手元でスライドさせると突き出るというヤツ。まあ、派手なワイヤーアクションもいいですが、「必殺」ではたしか、歌舞伎俳優さんだかが扇子を武器にした仕事人演じてくれたおかげで、その所作が実に美しかったのを覚えています。(なお、後の作品で同じ役を別のとれんでぃー役者さんがやった時の所作は平凡でしたネ) 派手ならいいってもんじゃないんだよー。

 しかしまー、このテの派手なアクションを売りにしたものはみんなそうなんですが、アクションシーン長すぎてうっとうしく感じることが多くてなりません。私の場合ですが。
 最初はかっこいいと思うけど、どれもこれもダラダラ続きすぎ。
 時代劇の殺陣って、どう長くても5分程度でしょ。あれくらいにびしっとキメてぎゅっと詰め込めばその緊迫感とか華やかさは生きるけど、10分もだらだらと同じ人物たちのアクション見せられたら飽きてくる。
 あ、そういえばパイレーツ2は、その辺の切り替えはうまかったなぁ。同じようなシーンは連続で見せず、「一方その頃」的に別の場所に切り替えて気持ちをリセットしてくれる。で、「さて戻ってきてみると」で、前のアクションにも少し変化が出ててまた笑えたりする。
 1なら、ジャックvsバルボッサと、ウィル&エリザベスvs雑魚とを切り替えて見せていたように。颯爽と剣でやり合う二人と、少しコミカルに共闘するチームとで、変化がありました。
 私は同じものの同じ展開をじーっと待っていられないせっかちなので、なかなか話が進まない地味なヒューマンものとか恋愛ものも大の苦手です。



2006年8月7日(月)

 たとえそれが本当に自分のせいでなく他人のせいでも、「あの人が悪いんだから私はなにもしない」と言ってたら、なんにも変わらない。
 たとえ自分が悪いんでなく、他の人のせいで怒っているトラブルや苦境でも、それをその人のせいだからと放棄せず、自分でなんとかしようとすれば、そこからはじめて成長できる。……んでないかと思う。
 目下、直属の上司がどーしよーもない人なので、教えてもらう側としてはえらくしんどいのだが、「あの人がちゃんと教えてくれないからできない」と言うのはみっともないし、嫌いだとゆーことだ。
 そういう「あるれがああだから私はこうでしかないんだ」は、よー考えてみれば、嫌なことしないための都合のいい言い訳でしかない。
 だってそれって、「これがこうだったら、それでこれがもっとこうだったら」と自分の理想を勝手に周囲に押し付けてるだけだし。
 理想なんて叶うわけもないんだから、ベストとは永遠に言えない中で、どう自分なりに、自分をベターにしていくかじゃないかと、最近思う。



2006年8月8日(火)

 最近また、歴史関係の本を読んでます。戦国ものを。
 昔は、人物そのものに焦点をあてたものを読んでましたが、最近気になるのは、経済とか流通関係。
 これは信長あたり見てると実に面白いです。

 よく言われてることですけど、学校での歴史の授業は丸暗記で、その時代の空気や雰囲気とは無縁。
 美術や音楽も、西洋史だと政治・経済と分かちがたく結びついているのだけれど、そのあたりは、まあ大学で専攻すれば調べるようになるのかな程度。
 ま、学校教育はそれでいいのかもしれませんが。

 ただ、一人の歴史人物を、その人の性状や内面の面と、その人の成した事、政治・経済・宗教などなど、こういった面と両方から見ていくと、また面白いのです。
 何故そうしたか、に、いちいち自分なりに答えが出せるから。
 こうなると、年号暗記はできなくても、誰がなにしてどうなって、だからどうなっていったかなんて当たり前みたいに頭の中に浮かんでくる。
 こういう性格の人がこういうもの見て、こう感じてこうしている、という物語ができているものだから、すらすらと。

 話は突然逸れて終わるのですが、ぶっちゃけ、BASARA 2の秀吉は、歴史の信長だと思います。外見はおいといて、行動理念とかがね。



2006年8月9日(水)

 ゲーム関係の記事を見ていて、「NGC」と書かれていて、ああ、ニンテンドー・ゲーム・キューブね、と思うのが普通の人だろう。
 しかし私はどうしても、「ネオ・ジオ・CD」だと思ってしまう……orz
 なにせ初めて自分で買ったゲームハードがネオジオCDだから。
 そして初めて自分で買ったゲームソフトは、「真・サムライスピリッツ」です。



2006年8月10日(木)

 お互いに過剰な関心や期待を持つことがなく、極当たり前に自然と自立して親離れ・子離れしていければそれが一番いい。
 なんとなく、最近の親子やご近所さん、青少年が引き起こす殺人事件、あれは過干渉の結果なんじゃないかなとと思う。
 こうあってくれという思いが親子の間でも近所や学校の間でも強すぎるんじゃないんだろうか。それはつまり「押し付け合い」だから、当然摩擦力がものすごい。
 なにも大きなことは期待してなくても、「ちゃんと」とか「しっかり」とかいうのは、実は相当な重荷なのに、それに気付かずに「これくらいは当たり前」と押し付ける。
 むしろそのほうがつらいと思う。「このくらい」もできなくてはダメな奴と思われるんだ、という余計なプレッシャーが生まれてくる。

 我が子がいるわけでもないのに言うことだから勝手に思うことだけど、ほんの小さい頃にはしっかり甘えさせてやって、愛されてるんだとという実感を持たせることを第一にして、ある程度育ったら今度は、信用されてるんだという実感と、自分でなんとかしなきゃという責任感を持たせるため、貴方が自分でなんとかしなさいとある程度突き放してやらないといけないんじゃないかと思う。その結果が失敗だったら、その時には一緒に失敗をフォローしてやる。
 「転ばないようにあれこれ言ったりしたりするんじゃなく、転んだ時に手を貸してほしいのに」と、私は親に言ったことがあるが、今思えばこれはもう遅すぎた。
 なにせ二十歳頃。こんな時に今更こんなこと言って、親もああそうかと頷いてくれたところで、体質なんかそうそう変わるわきゃないよネ★
 小さい時から、転ぶことにも、そこから立ち上がることにも慣れさせないと、ちょっとした失敗を恐れてなにも行動しなくなったり、転んだが最後深刻に傷付いて立ち直れなくなったりするんじゃなかろうか。
 やがては反抗期で、転んだ時にも「ほっとけ」と言い出す。それで丁度いい。

 私はまあ今更なので、今のこの自分でどう自分の人生楽しく生きていくかの問題なんだけど。
 でもま、こんなこと言うのは簡単でも、実際に子供を持って、実践できるかとなったら、なあ。
 この世に、理想的な親なんかいない。理想的な子供もいない。お互いに間違ってばかりだけど、それとうまく折り合いをつけることに成功したのが、平和な家族なんだろう。
 やはりそのためにも、お互いにあまり期待しすぎない、依存しあわない、適度な距離を納得できる、自立した関係が必要だと思うのであった。
 だって、私が知っている本当に仲のいい親子って、「友達みたいだな」と思えるんだもぬ。



2006年8月11日(金)

 私の好きな作家・笹沢左保の捕り物帳に、「お不動さん絹蔵」というのがあって。
 これは最晩年に書かれたものなんだけど、先生の気力や体力の衰えを感じさせる、なにか面白くないものだった。
 魅力的なキャラクターはいるけれど、どうも事件が無理やり起こって無理やり糸口が出てきて無理やり解決されるような。
 ファンとしては、先生の苦痛を見るようでつらかった。

 けど、この「お不動さん」が、別の時代作家(本名で時代小説を書いておられるかたの、PNで公開)の手で書かれた。
 笹沢テイストを残しつつも、そのかたの手元に引き寄せて充分操りこなしたって感があって、なんというか、笹沢作品の味わいとはやはり違っているのだけれど、私は単純に、その作家のかたの、純正当な絹蔵オマージュとして面白いし、なにより、絹蔵を愛してこうしてもう一度世に出してくれたこと、それは笹沢先生とその作品への経緯や愛情なんだと思うけど、それがとても嬉しくてたまらない。
 ぜひとも続刊も出してほしいものでございます。



2006年8月13日(日)

 仕事先がですね。
 唐突に停電しましてね。
 しかも故障によるものなので復旧ができなくてですね。
 昨日は昨日で帰宅できず(仕事ではないのですが)更新もなにも手付かずで、今日も今日とて朝まで待機になりかけました。
 幸い、社長の鶴の一声で帰ってよいことになり、いつもより一時間早く帰宅できましたが。
 しかも明日は早出の予定だったのが、営業できないから通常出勤でいいと。
 店としては、盆に臨時休業しなきゃいけないなんてげんなりです。

 でも、店の前にいてお客さんに事情を話すなり案内をしていると、癒されます。
 半分以上の人は、電気落ちててやってないっぽいからもういいやと素通りだと思うんですが、駐車場に入ってきて、「やってないの? どうしたの?」と聞いてくれるお客さんは、ぶっちゃけ、良いお客さんです。それだけ楽しみしたり、期待したりして来店してくれているってことなんだと思います。
 そういうお客さんと話していると、「大変だね」とか、たいてい笑顔で会話ができて。
 「がんばってね」とみんなして声をかけていってくれた、四人くらいの若いグループもいたりして。
 接客、というものの髄を知るには、これほどいい場もない気がしました。

 お客さんが寄せてくれている店への期待や楽しみがダイレクトに分かるし、そういう励ましは、普段の接客作業の中では絶対に聞けないものだから。
 そういうものを感じれば、否応なく、接客に関するモチベーションみたいなものは、上がる気がしたのでした。



2006年8月14日(月)

 何日か前のことにも絡むけれど。
 たまに、ザレゴト書くのやめて、メールフォームやBBSも完全に取っ払おうかと思うことがあります。
 別に鬱陶しい嫌がらせのメールきたとかいうのではなくて。
 人からの、楽しかったよっていうお言葉をいただくというのは、「おはなしを書く」ということに、「人目」を意識する最大の原因だと思うのです。
 反応がほしい、反応が気になる、って。
 これをすっぱり捨ててしまえば、ひたすら自分で書きたいものを書き、ただそれを他の人にも見える位置に置くというだけになり、誰がどう思っているのか、気に入ってもらえたのかなど知りようもなくなります。
 そういった言葉をもらわないことの対として、私という個人のナマの言葉は全て削ぎ取り、ただひたすら品物しか置かない、というスタイルも、悪くはないなと。

 ただ、そうすれば本当に、人目を気にしない、書きたいものを書けるのかというと疑問だし、この巣でナマの言葉によってつながることのできたかたがた、そういった中に新たなお友達は増やせないことになるわけで。
 よく気に掛けてくださるかたがたをつくづくありがたいと思うことが多いので、それを捨ててまで話作りに専念したって、その対価、RAVENに興味をもって気にしてくださるかたがたと、同じほどの価値のある話を書けるのかって言われたら……。
 たとえ私自身にとってでさえ、そんなすごい話は書けないだろうなと。

 結局、人目を意識しないで思うままにするために、人目そのものを遮断するなんてのは下の下。
 書く時と見せる時、そして反応をいただく時、それを適宜切り替えて、バランスよく己を使いこなすのが上。
 と、思ったりするのでした。



2006年8月15日(火)

 うーむ、今月本にお金使いすぎ。
 アウトプットしつつもインプットしたいタイミングでもあるため、ものすごく乱読状態です。

 ところで、ファミコンミニの「アイスクライマー」を中古で安く買いました。
 昔、ファミコン時代には好きだったし面白かったゲームですが、今見てびっくり。こんなちゃちな画面だったんかいと。
 もう少しドット細かかった気がするんですが、まさかレベルダウンして移植するわけもなし。……いやはや、技術の進歩はすさまじいですな。


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