烏の足跡



2006年7月17日(月)

 ペルソナ中……。
 さすがにペルソナシリーズということで、シナリオは良いと思います。先気になるし。主人公たちの成長が気になるというか。
 でも、システム回りでまだるっこしいのと、戦闘をこなさねばならない回数(必要な強さを見につけるまでの戦闘回数)が多いのでイライラして、円盤突っ込みました。EXP12倍くらいでいけばさくさくと。幸いこちらとのレベル差でもらえるEXPが変動するので、バカ強くなることもなく。あとお金も稼ぐの面倒なんでこっちもインチキ。
 なんつーか、メガテン3の時みたいに、戦闘自体が楽しくてとか、仲魔育てるのが楽しくてとか、そういう、戦闘自体の楽しさが、私には足りないっちゅー感じです。弱点つけば連続攻撃できるとか、敵全員ダウンさせると総攻撃で一気に大ダメージ与えられるとか、面白い部分も多いんですが、どうも戦略性に欠ける。
 でも、シナリオの先が楽しみだし、キャラたちもなかなかめんこくて面白く遊んでるので、現在、家にいる暇な時間はずっとペルソナです。



2006年7月19日(水)

 一昨年だかその前だか、当地方は集中豪雨……というか数日降り止まない雨のため堤防決壊、河川氾濫、我が家も浸水まであと1センチというところでした。
 そして現在も、その危機にあります。
 道路がねー、水溜りと化してるよ〜……orz
 それでも仕事へは行かんとならんのだろうなぁ、こんだけ家から近ければ。まあ、お客さん来ないし、ゆっくりメンテだのコーナー組だの掃除だのできるからそれはそれでいいんですけどね。

 はいペルソナクリアー。
 ストーリー見たから8割満足です。
 あとは見てないシナリオ見るくらい? ということで2周目突入。
 でも友人に貸す予定。
 なんか、もりもりやろうっていう熱さは感じませんでした。
 ストーリーは良かったけどね。
 ただ、さんざ選択次第、結末に責任をと訴えつつ、大したどんでん返しも意表をついた展開もなく……。
 あれか。もういい加減このテのRPGに慣れきった身には、当たり前すぎてこんなところでハラハラはできないということか。



2006年7月20日(木)

「気遣い」
 似たようなことは以前にも書いている気がするけれど、こっちのザレで書くのは初めてなのか。
 たいていの場合それは、他人に対する思いやりのようで、実はちっともそうじゃないんだなと思う。
 「大変そう」とか「可哀想」とか「それはまずいんじゃないの」とか思うそこまでは純粋な気持ちだったとしても、それで人に、実際にどうするか、どう言うかになると、下手すると自己満足になってないかなと。
 そうすれば・そう言えば、本当に相手の慰めやためになる、問題解決の役に立つのかどうかなんて実際ろくに考えもしないで、自分の「大変そう」とかいう気持ちを慰めるために、なにかしたり言ったりしてるのかもしれない。

 もう五年か六年ほど前の話だし、実例を挙げてもその本人が誰か分かる人はこの巣に来ている人にはいないだろうし、もしいたとしても変なふうには受け取らないだろうから、実際の話をするのだけど。
 その頃、あるネットゲーム上での友人に、降りかかった「嫌なこと」の話を聞いたことがある。
 人から譲ってもらった武器を、違法な手段(そのゲーム上では、普通では起こらない、味方を攻撃するという手段)で強奪された、という話だった。
 たしか、そもそもは「嫌なことがあった」程度にちょっと零されたのを、「どうしたの?」と尋ねて聞いたんじゃなかったかと思う。
 その時、その場にいたもう一人が、そのPKと装備品の強奪について、あれこれと理屈というか、良し悪しというか、そういうものを語りだした。
 たぶん今の私なら、「ちょっと待てよ」と思うんだろうけど、当時は特になにも考えずに相槌を打っていたと思う。
 このあたりから記憶は定かではないのだけど、たぶん当事者は、人から呼ばれたからと言ったか、あるいは用事があるから今日はこれで落ちるとか告げて立ち去ったんじゃなかったかな。
 で、後からメールで(ゲーム内の)、「あんな話聞きたくない。そもそも蒸し返されたくない」と訴えられたような。たぶん、なんだけど。

 本当にその人のことを思うなら、良し悪し論じるだの、相手の悪辣さを責めるだのではなくて。
 そんなこと言っててもとられてものは取り返せないなら、「パーッと遊んで嫌な気分吹き飛ばそう」とか、あるいは、同じようなアイテムを後で探してきて渡すとか(なくしたもののかわりにはならなくても)、そういうのが良かったんじゃないかと思う。今なら。
 本当に相手を慰めるとか、そのふさいだ気持ちをなんとかしてやろうと思うなら、少なくとも、その場であれこれ論じたり文句言ったりしてるだけってのは、的外れだろう。
 当時の私は、そういうことは考えていなかった。
 「うわー、ひどい目に遭ったなぁ。可哀想」と思う気持ちは別にねじれたものではなくても、相手への思いってのは、そこで終わってたんだと思う。あとの言葉には、そういう思いやりとか好意とかは、存在していなかったと思う。

 それから何年か過ぎて今、いつからかはともかく、なんとなく「本当にそう思うなら」ってことを考えるようになった。
 これは、私が二度か三度ほどこのザレでうだってる、「こう書く・言うことで、本当はどうしたいんだ?」ということの、同じ紙の裏表なんだろう。
 可哀想、と言ったまではただの気持ちでも、その後にあれこれつけた言葉は、「俺はこういう不正は許さないと思ってるんだぜ」という単なるアピールのための言葉だったろう。

 今の私は、五年、六年前の私よりは、「本当の言葉」を話していると思う。ネットでは、話すのではなく書くために読み返す時間もあったりするから、だいぶ前から意識的に、適当なおためごかしは書かないという姿勢で来ているが、リアルでも、その話題が大事なことだと思った時には、適当な言葉は出さないようにしている。特に意識せずとも、なんとなく。
 それでも御しきれてはおらず、ハタから見ればいい加減には違いなかろうけど。
 五月の頭にゴタゴタした戦国コーナーのことも、「本当に自分のため、相手のためになるように言う言葉、すること」を考え直すのには最高の時間だった。
 そういったことを経て今はだいぶ変わったと思う。
 少なくとも、「気遣い」のふりをして自己満足に終わることは、確実に減らせたと思う。
 ま、だからといって私が人から、「あの人は気遣いのある人だ」と思われてるかっていうと、それはないはずだ。だって、人がそう言うのって「私(たち)にとって都合のいい気遣いをしてくれる人だ」か、「いつも人に気ィつかってばっかりいるよね」ってことだからね。私、気遣いの大安売りできるほどの余裕はありません、はい。
 気遣いなんて、ピンポイントですればいいでしょ。いつもかも人のご機嫌損ねないようにして自分殺してどーすんのと、……あれ、なんか「気遣い」テーマで主旨二つになったネ?



2006年7月21日(金)

 パイレーツオブカリビアン2の文庫版読んでますが、今回のジャックはみっともないとこばっかっぽいですな……。
 1のジャックは、したたかで抜け目なくて機転がきいて、三枚目要素もありつつスマートでイカしたイカれた海賊。それがまたありえねーくらいかっこよくて私的には一番のお気に入り映画となってるんですが、2のジャックは今のところ……(半ば辺り)。
 2についてはネタバレになりかねないのでなにも言いませんが、映画を観に行くかたは、ジャックに1のかっこよさを期待すると、せっかくの面白さを楽しめなくなるかもしれませんとだけ、ご警告申し上げておきます。

 1のジャックはほんとにかっこよかったからなー。
 私の好きなシーンを3つ挙げると、登場シーンから船着場、インターセプター強奪、そして、DVDの映像特典になってた無人島でのエリザベスとのひとこま。
 ボロ船に乗ってて手下もいなくても堂々としてるジャックに、まずは誇り高さ、目に見え手に触れるものではない大切なものを持ってる男として惚れ、けれど今はそれが精一杯の虚勢にも見えてやっぱりかっこよく愛しい姿。
 実にスマートに、素晴らしい、しかもシンプルなトリックでまんまと船を手に入れてしまうあの計画の功名さに惚れ惚れし。
 そして無人島のシーンっていうのは、「伝説のジャックスパロウってのは、ただ飲んだくれて過ごして、たまたま船が通りかかって助けられただけってわけ!?」と失望して怒るエリザベスに、自分が魔法使いみたいな伝説の男ではなくて、生身の、ただの人間なんだってこと……ひどい傷痕のある腕や胸元を見せるシーン。子供も見に来るってことで、公開時にはカットされたのかもしれませんが。

 この三つ目のシーンがね。
 何度か見る内に、ジャックがすごいのは、素晴らしい頭脳と運動神経をもった、たとえばルパン三世みたいな(少しかぶる。三枚目と二枚目を行き来するところや、知的なスマートさが)存在ではないのに、伝説になるような事件を起こしたり、かいくぐったりしてることなんだと思うようになりました。
 撃たれたこともあるし斬られたこともある。瀕死にもなったかもしれない。間抜けなこともしただろう。最初にバルボッサに島へ置き去りにされた時、たしかにたまたま密輸船が通りかかって、それとセコく交渉して助かったんだとしても、それは、ジャックが生きることを諦めずに、ぎりぎりまでチャンスを待てる強い精神力の持ち主だったからでしかない。エリザベスは「飲んだくれてただけなの」となじったけど、普通の人間だったらパニックになって自滅してたんじゃないだろうか。
 当たり前の人間だけど、なにかが少しだけ強かったり優れてたりするジャック=スパロウ。
 この生身感ゆえに、大好きな私です。
 もう何度見たやら。

 2のジャックは今のところ情けないところばかりだけど、ストーリーとしては面白いと思います。つか1の文庫も持ってますが、2のほうが面白いかも。1は映像のジャックのかっこよさがバツグンだったからかもしれませんが。
 相変わらず好青年でちょっとお人好しでバカ正直、勇敢なんだけどどこか押しの弱いウィルと、愛する人を見つけて強くなったエリザベス。つか強くなりすぎよお嬢さん……。
 で、落ちぶれたノリントンがこれまた男臭くてかっこいい。結末に向かって(2だけじゃなく3も含めて)彼がどうなってくのかもすごく楽しみ。いや、今回ノリントンかっこいいと思うよ。前回の取り澄ました伊達男みたいなんじゃなくて、内面の人間くさいとことか強いとこも出るんじゃないかな。
 ウィルのパパの靴ひものビルも、親子再会ということでじんわりと。

 あー……22日仕事休みだし……でも公開初日は混んでるかもなぁ……。でも早く見たい……。



2006年7月22日(土)

 久々に、ゆっくりと読み込みたい本を見つけた。
 「自己啓発書」の一種に分類されるんだろうけど。

 本屋勤めなので本にはとにかく出会う。面白そうな本を見つけるにはもってこいの仕事で、まあ、世の中に数ある職業の中では比較的私にとって心地好い仕事だろうと思う。
 私はこの「自己啓発書」といったものはけっこう好きで、出会い、読んでみて良さそうだと思ったらよく買っている。
 言葉は、ガイドになる。
 ちょっと気取った書き方をすれば、「ジンセイというゴタゴタした山を登る時の杖になる」とでもしておこうか、一応モノカキとして(笑
 他人の言葉に頼りきれば、それは新興宗教に入れ込んで自分をなくすも同然だけど、自分が歩く際のちょっとした支えにするのに、こういった本、あるいはもう少しライトにメッセージブックというものはよく役立つ。少し前に流行った「魔法の杖」なんてのもそれじゃないだろうか。たった今思ったが、私が今自分で書いた「杖」と同じようなつもりで、この書名にしたのかもしれないなと思ってしまった。

 自分一人の力を頼りに登る、ということを小さい時から体験してきた人には、こんな本は関心も向かないものかもしれない。
 けれど、頼れるものは本当は自分だけ、ということをよく知らないまま過ごし育ってしまう人のほうが、今は圧倒的に多いんじゃないだろうか。私も、それに分類されると思う。
 振り返れば私は、―――というか、今だからこそ「他人の言葉は杖でしかない」と言うけれど、昔は他人の言葉を「自分にとっての真理」と勘違いして、べったりと寄りかかっていたこともあるように思う。
 まあ、ともかくそんなわけで、世にある「啓発書」とか「メッセージブック」にはある程度目ざとい私である。

 このテの本を読むと、私の場合だが、たいていは、「ああ!」とものすごく納得するというか、心に響くというか、しっくり来る言葉がある。そういうものが含まれている本を買う。
 たぶんこのあたり、このテの本を買う人はみんな同じじゃないだろうか。
 けれどこれは、「今の自分を慰めてくれる、今の自分にとって都合良いだけの言葉」だったりすることも多い。「こんな言葉をかけてほしいなと思ってる言葉」と言ってもいい。
 私は、何冊か手に入れて読み、まあ、ほとんど趣味のようにあれこれと自分の本音とかを探っていく内にそう思ったんだけどね。

 けれど今日(実際は昨日。日付からいけば一昨日)読んだ本は、そんな納得感をくれはしなかった。
 前半は別に私の身に差し迫った問題でもないことについての内容で、ただ私は、「私はどうなんだろう?」と思いながら読んでいたが、後半に入って何ヶ所か、ページの角を折った。
 今の私を慰める言葉が載っているからではなく、私が向き合わねばならないこととか、あるいはまあ、モノカく時に忘れずにおきたいこととか(笑
 そして、この本は何度かゆっくり読み返したい、と思った。
 「ゆっくり」というのは、ふと思いついてはページをめくる、といった付き合い方をする、という意味。何年もかけて何度かぱらぱらと読んでいく内に、もっと感じ取れる言葉が増えるだろうと、そういう予感のする本だった。

 もとは単に好きな劇作家の書いた本だからと買っただけなんだけど。
 鴻上尚史の「孤独と不安のレッスン」(大和書房)

 孤独、というか一人で過ごすことについては、私はその時間のほうが多いし、人といないと不安だなんてこともない。本当に気の合う友達と飲んだり遊んだりするのは好きだし、たまにはそれほどでもないなんとなくの知人と遊ぶのもいいが、一人の時間に退屈することはない。幸いこの、「書く」というはっきりとした趣味があるから。むしろ一人の時間がないことのほうにこそ耐えられない(笑)。あるいは、書くという精神安定剤に依存している可能性は、あると言えるかもしれない。このへんはまだ掘り下げて考えてないけど。
 不安は、鴻上さんいわくの「自意識」のせいでさんざ悶えてきたから、だいぶ打たれ強くなったというか、流す方法も身につけたというか。
 もし、私のこのザレゴトから考えるヒントをもらえることが多いというかたがおられれば、ちょっとチェックしてみてもらいたい本デアルヨ。



2006年7月23日(日)

 ここんとこまた吐き癖が復活。
 微妙な風邪なのかなんなのか、毎日咳き込んでて、仕事先のバイトくんからは(バイト仲間からは、と書きそうになる/笑)「医者行ったらどうですか」と言われる。
 そして咳してると、「うぇっ」とくる。……ごめんねぇ、きちゃない話で。
 咳してなくても、頻繁に胃がうぎゅっと活動して本来の方向とは逆方向に物事を進めようとする。「俺は牛じゃねーぞ胃!?」と言いたいが、胃には耳がないので聞こえまい。なので言わない。

 しかし以前に医者行った時は異常なしだった。
 気分が悪いわけでもないのに反対方向に活動するのが何日か続いた後、顔に異常が出たと親につっこまれて医者行ったんだけど、なにが悪いというわけでもなく、しかし薬は出されて帰り、ちなみにその薬は飲みきらす今でもありますが、これってやっぱり賞味……じゃない、消費期限みたいなものありますよね? プラシーボ狙って飲んでもいいんですが、マイナス効果になる可能性が怖くて手は出しません。じゃあ捨てろ己って気もしますが。

 念のために語っておけば、別に悩んでもいないしストレスもプレッシャーも抱えていない。
 どうせまたなにも悪くないと言われて念のために胃カメラ飲まされて薬出されて高い金とられるだけなら医者に行く気もしない。
 日光アレルギー気味なのもそうだが、「気味」ってのが一番どうしようもない。



2006年7月24日(月)

 本当に答えを決めたい大事な相談事なら、身の回りの人にしても無駄。
 なぜなら答えは簡単で、その人たちは「本当に問題解決に向かう言葉」ではなく、「自分たちの関係が気まずくならない程度の言葉」を最優先して語るから。
 本当に解決したいなら、言葉で頬を引っぱたいて目を覚まさせる程度のことが必要なこともあるのに、皆、言葉で頭や背中を撫でて慰めてくれるだけだろう。

 素人の相談役が、変に「解決のための言葉を」と思うのもまた危険。
 相手の精神状態とかをろくに考慮しない可能性もあるから。
 相談持ちかけてはいるけれど、今は解決を目指すことよりとりあえず慰められることのほうが大事、さもないと……、なんてケースで頬叩いたら、ねえ。
 結局、そのへんは信頼のおけるプロのカウンセラーに頼むのが一番だってことだろう。

 私も、たまには人から真面目な顔して相談されることもあるが、たいていは、実は慰められたいだけである。うむ。
 話聞いててツッコミたいところが出てきても、毎回思う。「ここでこれ言ったって聞かないんだろうなぁ」と。
 なんでそう思うのかは簡単。だってみんな、事情や自分の考えは話すけど、私の意見はほとんど求めてこないもの。
 結局、人の力に頼らなければ解決できない問題なんかじゃなく、少し慰められたり、言葉にして自分に確認することで自己解決できる問題なんだろう。
 そしてほとんどの相談事ってのは、本人も相手もそれでいいんだと思う。



2006年7月25日(火)

 顔文字の話。
 私はあまりあちこちにいくつも使うのは好きではないけれど、(涙)とか(苦笑)書くより(T□T)(^^;)とやったほうがイメージが伝わりやすいので、多少は使っている。
 この顔文字、調べてみるとかなり膨大な数になっていて、なかなか面白い。これ最初に作った人はすごいなと思うものとか、よくこんなの思いつくなとか、楽しんで見ている。
 ただ、どう見ればいいのか分からないものもたくさんある。
 どういう表情や仕草を表しているのか、ちっとも分からないもの。
 ペルソナ3をやってても出てきて、爆弾のヤツとかは感心したんだけど、+と−を組み合わせたみたいなヤツがどうにも読み解けない。どんなんだったかはちょっと忘れたんだけど。



2006年7月26日(水)

 本当に嫌なら切り捨ててしまえばいいのに、なにかに利用できると思うのか、その利用価値に甘えるのか、ぐずぐずしがみついている。
 一度は友達と思って仲良くした相手でも、親子という関係でも、しぶしぶ付き合う理由はいつも利己。
 都合良く利用する気がないなら、とっとと捨てて一人になるだろうに、嫌だ嫌いだと言いながらぶら下がる。



2006年7月27日(木)

「誤解」
 こうしてあれこれ書いていると、書いた内容に対して届けられた反応の言葉に、「いや、そういう意味じゃなくてさ」と言いたくなることも少なくない。言葉面を解釈すればそうも受け取れるかもしれないけど、私はそんなつもりで書いたんじゃない、ということが何度もあった。
 誤解は山ほど生じてる。
 昔は、「そうじゃなくて」と訂正を試みていた。
 けれどそれはいつも、かえって誤解を生むだけになった。
 訂正のために出した言葉をまた誤解して受け取られて、その訂正のために、というとんでもない悪循環が発生しそうになって、不本意だけど、「もういい」と投げ捨ててきた。
 しかしこれもまた、いつの間にかやめている(先日分と微妙に似てるなあ)。

 冷静に考えれば、「書いてあることを正確に読解するぞ、理解するぞ」なんて読み方する人は、激レアである。出現率128分の1の敵が、ドロップ率0.0002%で落とすレア品くらいにレアである(←なにそのたとえ
 普通の人はこのザレゴトから、私の言葉=「私」を読解しようとはしない。当たり前だ。けど、私は書き手として勝手に、「読んだなら分かってよ」って気持ちがどっかにあったんだろうな、以前は。
 今は、そういうしょーもない手前勝手からもなんとか脱出できた。
 しかしまあ、よっぽどディープなかたがおられれば、私の言いたいことや気持ちを推察するために読んでおられるかもしれないが。……愛だね、それ?(←いないから心配しなくていい

 どうせ人と人は「分かり合う」なんてことはない。分かったつもりでも勘違いしてるし、「そうじゃなくて」と言いたい誤解もいくらでもあるだろう。
 けど、「だから人はしょせん孤独なのさ」とかうそぶくつもりもない。
 要は、その誤解こみで付き合えるかどうかなんじゃないかと思う。今は。
 誤解されていることが判明しても、一つ一つにいちいち付き合ってたらきりがない。結局は、その誤解込みで許容範囲ならそれていいじゃん、ってこと。また逆に、プラスの誤解が壊れ(優しい人だ、とかいう類のもの)、その幻想が破れた時、それでも残るのか、去るのか。
 誤解が存在しているかもしれないことを含めて、今のところOKならそれでいいだろうと。ダメになったらなっただ。
 今の私は、そこまで他人に依存していない。他人の言葉に支えてもらわなくても、だいぶ立っていられるようになってきた。

 そういや、先日紹介したコーカミさんの本に、「人はそもそも分かり合えないものだから、少しでも分かり合えたと思えた時に嬉しいんじゃないか」とか書いてあったな。
 私は、分かり合えたと思うそれも単なる錯覚で、本当に分かり合えたかどうかなんて分かることじゃない、と思うから頷きはしないけど。
 でも、「そうそう他人のことなんか分かるわけがない」という基本スタンスは、おんなじだ。



2006年7月28日(金)

 パイレーツ観に行きたい……。
 来週はダメぽいし、再来週には……ッ!!



2006年7月29日(土)

 気がつけば七月も終わりかけています。
 そのわりに涼しい日が多くて助かります。おスミさんともども
 でも、相変わらず扇風機は私にではなくおスミさんに向いている日々です。




Made with Shibayan Diary