2006年4月1日(土)
「ジャンクフード」
たまに食べるなら大好き。
マクドナルドでもモスバーガーでもロッテリアでも。
ケンタッキーは高いからなぁ。
たこ焼きとかあのテのものも好きだ。
毎日食べる気はしないが、たまに無性にマクドナルドのハンバーガーを食べたくなる。
ところで、「スーパーサイズミー」という映画。
あれって単なるコメディだよね?
毎日毎食マックって、そんなのどんな人でもよほど意識しないとできないことだ。
なんでああも極端な「実証」したのやら。
そんなものより、「朝はコーヒーとトースト、昼はジャンクフード、夜はコンビニ弁当」のローテーションで一ヶ月過ごしたほうが、ドキュメンタリーだよなぁ。
2006年4月2日(日)
「おせち」「お年玉」
「おせち」なるものを、私はずーっと、一種のシンボルというか、形骸化したものだと思っていた。
理由は簡単で、我が家、そして正月に遊びに行っていたおかんの親戚の家では、そんなものは作らなかったからである。
だから、おせちなんてものは凧揚げと同じくらい、正月にはつきもののようでありながら実際にはほとんど実行されていないものだと思っていた。
中学生の頃、一番仲の良かった友達のところへ正月に泊まりに行って、そこのお母様が当たり前のようにおせちを出してきてびっくりした覚えがある。
しかも手作りという。
もちろん、子供が食べて美味しいものではないんだが、栗とかエビくらいならね。
なお、お年玉としてもらったお金を、使った記憶もない。全て預かられてしまった。
たぶん、学費etcの一助に組み込まれ、私のために使用されたことは間違いないのだが。そのへんは、クソがつくほど真面目でおかたい親なので「自分で使ったろ」なんて疑いは、挟む余地もない。
夢はないが、まあ、私がもともと現実感覚の乏しい奴なんで、これで良かったと思ってる。
2006年4月3日(月)
時限式消去★
なにか言われたからとかではまったくなく、予定内のことでございます。
2006年4月4日(火)
……寝たのは昼の1時です。
起きたら、夜中の3時でした……。
さすがに十日以上も一日3時間以下の睡眠で動いていると、こうなるようです。
2006年4月5日(水)
話を書きながら、そして読み返しながら、その話のイメージに合った曲を聞きたいと思う。
凄惨で残酷で暗い話を書くのにきれいなバラードなんて聞いてたら頭の中がとっちらかるし、逆に、優しい話を書くのにメタルなんぞ聞いていられない。
そんなわけで、きれいな話にはラッセル=ワトソン♪
結局、手術する前に出したアルバム3枚とその後で出した1枚があり、基本的なアルバムは全部揃えてしまったことになる。下手するとDVDにも手を出しそうな自分が恐ろしい今日この頃ってくらいに、彼の声はお気に入り。
そのラッセルを知ったのは「悪魔城ドラキュラ 闇の呪印」のEDテーマであるわけで。
このドラキュラのEDテーマ、歌いだしを聞いていると聖歌でも歌ってるように聞こえてしまう。
オペラとかアリアとかいうのではないし、ポップスでもない。賛美歌という言葉も違う。美を賛えるとかいうそのイヤなニュアンスじゃなく、とても聖なる、なにか祈りのようなものに聞こえるのです。
そして、「あれ? これどっかで感じたことのある感覚だな」と思った。
そして思い出したのは、映画の「ドラキュラ」(コッポラ版)だった。
これのEDテーマ、ラッセルほどきれいな声で歌ってるわけではないが、なにかこう……近いものがあった。
ということで皆さん。
ラッセルさんのアルバム聞いてネ★(←ド阿呆
オペラ、アリアに興味のない人は4枚目から、もとから声楽が嫌いでないなら1枚目からがいいと思います。
それにしても。
ゲームしたい……orz
とーとつになに言ってやがる、やりゃあいいだろと言われそうですが、ほんッ……ッとにですね、話書いてるとゲームしてる時間がないわけです。
先日、政宗の4武器確認するために戦国2に一度触り、該当シナリオ一つやったきりです。その前となると、謙信と家康のあれですか。
三国4エンパも、買ってから二日間で5周ほどしたきりで、以降、触ってません。
で・も。
ゲームはいつでもできる。
話は、書ける時にしか書けない。
優先順位は揺るぎません。
その理屈で生きてきてます。
ずっと前から、「今書かなかったら、今から二年後、三年後、五年後に私は書いているのか」と思って。
二年後だろうが十年後だろうが、その時にも確実にまだできるものなら後回しでいいと思ってます。後回しにしたがため、その時にどんな苦労をするとしても、最悪人には死ぬという究極の逃亡方法があり、どんな悪いことも、それゆえに絶対に終わってくれます。……まあ、これは極端な話ですが。
でも、話を書くなんてこと、私には水物です。
どんなに好きで、今まで十年以上あれこれ書きつづけてきたとしても、五年先にも確実に書いてるなんて信じてはいません。
そしてまた私は、理屈で考えて書かず、思いつくままに感覚的に書いた後で理詰めにするので、いつなんどきにどんなものでも書けるわけではないのです。
書ける時に書けるものしか書けない。だから今も、戦国ものはアホかと思うハイペースで更新かけてますが、じゃあ男塾も書いてとか言われても無理です。
一日が48時間ほしいです。そしたら寝る時間ももうちょっととれるしなぁ。
2006年4月6日(木)
……3月の25日から今まで、一日も抜けずに戦国にSS更新かけてる阿呆がいます。
3月の11日から今までで、計21本。
27日で21本。
まあなんつーか、一時期の男塾なみのラッシュですな★
もしかすると短期間の連続ではあの時以上かもしれません。
無双戯言と重複したこと書いてますが、あの頃はバイト放棄で書いていたこともあるので、「自由にしている時間」に対する「書いている時間」のカキモノエンゲル係数(何)は、今のほうがアブノーマルな気がします。
しかし、これは別に無理やり「更新しなきゃ」とひねり出しているわけではありません。
一応、こうも連続すると「今日もあるかな」と期待して来られるかたもおられると思うので、その期待を裏切りたくないとは思います。
が、更新するために書く、では本末転倒。
更新するために適当に作り上げてアップするのも私の場合には本末転倒。
書けたものがあるからアップする。これが私の場合は正しい在り方。
分かってはいても、この連続状態を止めたくない、と思う己がいるのも事実です。
であればこそ、あえてここで言葉にして、「そんなことはしない」と己に言い聞かせたりしています。
さらっとオエビにラクガけるなら、一日一枚、来てくださるかたへの軽いサービスとしてアップする、というのも考えたいところですがね。
今のところ、自然に連続しています。
一度途切れそうにはなり、「いっそここで一度途切れさせるほうが己のためか」とも思ったこともあるのですが、結局書けてしまったのでアップしました。
これからも、書きあがるかぎりにはぼちぼち追加していきます。
書けなくなったら、それまでです。
2006年4月7日(金)
ぼちぼちいい加減今更かもしれないけどようやく気付いたこと。
話を書く、ということに対して、こんなwebサイトにアップする程度のものでしかないにも関わらず、私が過剰に攻撃的というか貪欲というか気合入り過ぎというか妥協を許せない理由が、ようやく分かった気がした。
たいていの人は、単に趣味や楽しみとしてなにか書き・描き、その結果、なにを気負うこともなくアップして、みんなで仲良く楽しめればいいと思っておられる。
これが実に当然、自然、一般的な有り様だ。
私が、ズレているだけ。
何故ズレるかというと、「なんのために書いているのか」が違うからだと思う。
楽しみのためでもあるけれど、私には、娯楽や趣味じゃないわけで。
自分が不出来であればこそだが、先行きに不安になったり、人から強く否定されたりして、今の自分の有り様や在り方、どうすればいいのかということに迷ってテンパった時、いつも、話を書くことでなんとか切り抜けてきた。
自分が正しいと思えるなら人にどう言われようと気にならないんだが、私自身が自分のダメなところを自覚し、私が間違っているんだろうとも思っている。そして、それを直す真面目な努力とか決意というものを、どうしてもできずにいる。それもまた己の甘えだろう、私の悪いところだろうと、自己嫌悪の悪循環が、そこにあった。
そんな中で、その悪循環をなんとか止めてくれたのがいつも、話を書くということであり、書けるということだった。
鬱屈したものをぶつけて書いて少しはすっきりしたり、気分転換したりし。
俺なんかほんとにダメ人間だよなと思うけれど、それでも私の書いた話を好きだと言ってくれる人のいることに慰められたり。
もっと大らかに、確かに、地に足をつけて生きている、現実的に「当たり前のことを当たり前に行って」生きている人から見ればただのバカ、甘えてるだけなんだろうが、私には、話を書く・書けるということは、自分でできる一番確かな自己肯定だった。
唯一、悪いところばかりじゃない、と思える部分だ。人のほんのちょっとした役に立つこともあるし、慰めにもなれること。
大袈裟な言いようになるが、私にとっては話を書く、それを見せるということは、自分の存在意義、人間社会における有用性を確かめるための行動になっている。そんなもの確かめなくても極自然に生きられる人がほとんどかもしれないが、私は、自分は社会的動物としては確実に劣等種だと思う。だから、なにかはっきりしたものを自分に突きつけていないと、安心できない仕組みだ。
己の存在意義をかけているんだから、ハンパなものなんか人に見せられるわけがない。それを否定されることは私自身を、「自分にマシなところはあるのか、人様に少しでも褒められるところはあるのか」という部分を否定されることになる。
必死にやって追いつかないなら諦めるしかないが、いい加減に問い掛けられる質問じゃない。
だから私はバカバカしいほど真剣に書くし、自分なりにできるだけ質のいいものを人様にお見せしなければとも思うのだ。
私は自分の書いているものを「小説」だなんて大したものだとは思わないが、それでも、どんなにちっぽけでも、私には大切なものだ。だからこそ「小説」なんてご大層に名乗って、そう言えるほどの実が伴わないことを恐れるほどだ。
だから私はただ単に「話」というか、SS、あるいは「物語」という。「物語」は、どこにでもいるばあちゃんが子供を集めて、「むかしむかし」と語り聞かせてくれたような、そういったイメージがあるから。私はそういうイメージで、「物語」という言葉を使っている。
さて。
自己弁護をやめてもう少し第三者的に見れば、そうやって書くことに逃げ込むから、それに頼らずなんとかしよう、社会性を身につける方向に変化しよう、という努力をしないんだ、とも言える。
私はなにか話を書くかぎり、社会的な人間としては成長できないのかもしれない。
しかし、「じゃあ書くな、それは間違ってる」と言われて、私は変われるのか。それは正しいことなのか。自然にバランスをとり、自然に成長か変化することを期待するのは甘すぎるのか。
これが大文豪ならな。そんなこと知るかよとダメ人間のまま突っ走っても、傑作さえ残せばOKなんだろうが。
……目指すか、大文豪(嘘
というか、ダメ人間のまま突っ走ったただの傍迷惑なおばかさんが、たまたま時流に乗るなり合うなりして大ブレイクすれば天才と呼ばれたりして許されるのかもしれないなぁ。
なんにせよ、人の目から見れば他のサイトとそう差はなくても、その程度のものでしかなくても、私には、かけがえのない行動であり、場所なのさ。
だからこそ、誠実さもなにもない非難や批判、反対意見には、へこむより攻撃態勢に入るか、無視という態度に出る。へこんだら、私には行き場がないからだ。ここは、そう見えないかもしれないが、背水の陣敷いてるんだヨ?
ま、こんなことは私の書く話を目当てに来られるかたには関係のない話。あまり面白くない話がいくつあろうと、その中で「これいいな」と思ってもらえるものがあれば、私はそれだけで少し前向きに生きていける。
2006年4月8日(土)
「クリスマス」
ここ何年も、まともにそれらしく過ごした記憶がない。
毎年仕事だ。
まあ、ホントに気心の知れた連中と騒ぐならともかく、仕方ナシに付き合うようなパーティなんぞ出るだけ気詰まりで金もかかるだけなので、それくらいなら稼ぎに行こうというだけのことなんだが。
去年は久しぶりに、懐かしい友人たちとちょっとしたパーティを開いた。
しかし、懐かしいと言えるほど会っていないとなると、私は、「なにしてた!?」とあれこれわいわい話し合う気にもなれない。
ろくに接触もなかった相手と、なにをもって今もって「友達」だと思うのか。
「かつて親友だった」という事実はあるかもしれないが、「今も友達」ではないと思ってしまう私は、もう少し素直に世の中見るべきなんだろうか。
2006年4月9日(日)
「お金」「時間」
お金は大好き。あればあるだけいいと思う。
実現可能か不可能かを無視して「一つだけ願いが叶うなら」と言われたら、金をくれと言う。
そうすれば好きなだけ話を書いても暮らしていける。働かなくてもいい。
……けれど、私の原動力はマイナスからプラスを跳ね上がろうとするところにあるのだから、本当にそうなったら、書く力というものも出なくなるかもしれなくて、それだけが恐い。
「命」の項目で、私はべつに生きていたいわけではないと書いている。
悲観でも自虐でもなく、だからなおのことわけが悪いのかもしれないが、それは当分変りそうにない。
だが、生きているなら話は書きつづけていたい。
プラスに傾いているからでも、話が出てこない日々が続くと私がつまらないからだ。
そして、べつにマイナスに陥っていなくても、話を書いていると幸せだし楽しいからだ。
切実な時もそうでない時も、私にはなにより大切なことだ。
PS、そしてPS2でもリメイクされた「ワイルドアームズ」に出てくるサブヒロイン、賞金稼ぎのがめつい女の子が、言う台詞がある。
「命はお金で買えないけれど、世の中にはお金で買えるものがたくさんある」
お金では決して買えないものもある。
でも、お金で買える、とても大切なものも山ほどある。
時間、食べ物、雨風をとのぐ場所、ともすると友達さえ、適度にお金を使うことで快く保てるだろう。切実な心友だの真友ならともかく。
賞金稼ぎの女の子は、荒れ果てた大地の続くファルガイアというその世界で、孤児院を運営するお金を稼いでいる。一時期流行った台詞じゃないが、「同情するなら金をくれ」だろう。
同情なんかじゃなにも手に入れられない。束の間、目の前の現実を少し柔らかく遠ざけてもらえるだけで実際にはなにも解決しない。
私にはそんな差し迫った現実こそないが、お金で買える時間がほしい。
働くのは嫌いじゃない。新しいことを覚えるのがけっこう好きで、実は一ヶ所で長く働くのが好きじゃない。余談だが、実は4年近く続いているのは今やってるバイトが初めてという有り様。2年目のジンクスというモノもあり、本当に初めてのことだ。トラブル起こさなくても、いつも2年もすればもっと別のことがしたくなったから。まあ、少しは成長したんだろう。一つの仕事も、できることを増やそうとすれば5年や6年じゃ足りないと、ようやく実感して働いてる気もする。
ただ、今のようにとにかく次から次へとなにかが出てきて、それを書き付けたい時には仕事が邪魔になる。行かなくていいなら行きたくない。それが通じやしないからマジメに日々通ってるだけの常識はあるが、できるなら、一日中書いていたい。
眠くなったら寝て目が覚めたら起きて、腹が減れば食事もするが、眠気を感じないなら眠らず空腹を覚えなければ食わないという、あのバカさ加減が自分では好きでたまらない。
ちなみにエンジンフル稼動していれば、5日で3時間しか寝ず一日一食食うか食わないかというのも平気だと実証されています。さすがにそんなことしてた時から数年たてば加齢に伴って体力は落ちてると思うが、そんなもんは気力でどうにかなる。
どうせ大事にはしない命なら、酷使して削ることに躊躇いはない。
時間を、買いたい。代価はお金+命でもいい。
ともあれ、他人の権利を侵害したり、割に合わない危険を冒してまでほしいとは思わないが、濡れ手で泡に手に入るならいいなと思うのがお金。
バイト先の新入社員(元バイト)から相談を受けました。
愚痴みたいなものなんですが、なんというか……自分じゃよかれと思って一生懸命したことで上司にキツく言われて、へこんでの愚痴で。
俺は間違ってるのかな、ダメなのかな、というニュアンスだったので。
具体的にどんなことだとか、どう答えたとかは関係ないことです。
ただ、私はふと、
「この人のために、この人が楽になったり頑張れるようになるために助言したり励ましたりしようとしているのか。それとも、単に『私はこういうことに答えられる、すごいんだぞ』と伝えるためになにか言おうとしてるのか」。
それを考えました。
ほんとの意味で相談に乗る、助言するってのは、難しいです。
少なくとも、そういうエゴみたいなものは引っ込めないと、相談に乗ってるんじゃなく自慢してるだけになる。
言ってあげられる意見はあるけれど、うっかりすると、そういうことを知っている、言えるという自分を自慢している気配が漂ってしまう。
そういうものなしに、ほんとに親身に、その人のために聞き、言うというのは、本当に難しいと思います。
言わぬが花。
全面的にじゃないけど、そりゃ当然のこと。
好きな人がいる。
ただ心地好いから好きなのではなくて、尊敬というほど畏まりもしないけれど、なにかこう、いいなあとか、すごいなあとか、憧れというほど甘くもないが。
そんな感じに好きな人がいる。
たいていは皆、ただ心地好い人しか好きにならないような気がするし、無論私にしても、珍しいことだ。
人付き合いの嫌いな私は、あれこれ面倒なことになるなら付き合うのをやめる、という実にえー加減なものなのであるが、多少の面倒くらいなんとか受け止めて、それでもその人と仲良くしていきたいと、そう思う。
貴方が好きですと言いたい気もするが、そんなこと言っても面食らわせるだけだろうし、言葉にすると薄っぺらい。
言葉にすると、「嘘」(世辞、へつらい、媚、など含む)になりうるようになる。
伝えたいと思うが、だからこそ、そんな言葉は言わぬが花。
そんな気持ちのあることを、かける言葉なんかに託すのが、一番いい気がする。