烏の足跡



2005年5月16日(月)

 「より上」を求める人は、「それより下」を認めていないことが多い。
 今の自分を。
 それは、今の自分と同レベル以下の人も、つまり認めてないってことだ(人としてはともかく、技量としては)。
 「私なんてまだまだです」というのがそういう意味なら、「私と同程度でしかない人もまだまだです」って意味になってしまう。
 謙遜、謙虚がそういう意味しか持ってないなら、それより傲慢なことはない。
 本当の謙虚さは謙遜というのは、「私にはこれだけのものはあります。でも、そんな大それた賛辞にはとても値しません。もっとすごい人がたくさんいるじゃないですか。私はまだまだ発展途上だと思ってます。これからもやっていきます」という「私なんてまだまだです」じゃないのかと。

 なんでこう、自己否定ばかりするんでしょうね?
 そうしておけば、他人からは「下手だね」とツッコまれないから?



2005年5月17日(火)

 朝の5時に、超!久々の塾更新。
 えー……八ヶ月ぶりですな。

 うちのセン伊達は、居酒屋のメインメニューのくせにまだ「いたしていない」という意外な事実があり、いつかどこかでは書くべきだよなと我ながら思っていたのであります。
 Untitledの中で赤石先輩がらみで一度、かなりイレギュラーな交流しか持ってないんですねぇ、あやつら。
 これではいかん、いかんですよ!? ……まあたぶん。
 なお、16日中に見た人は、追加位置が「ブービー」になってたかと思いますが、位置間違いです。よって直しました。正確には(ってほどのこともないが)『ロシアンカレー』の下くらいかと。その後の『KISS』じゃ当たり前にちゅうしてるしなぁ。

 まあしかしなんですな。
 あれこれ書いてますが、そもそも801というもの自体はあまり好きではないワタクシでありますから、意味もなくそういうシーンだけ書くのには、ものごっつい抵抗があるわけであります。文字通り、「ヤまなしオちなしイみなし」には耐えられません。そんなもので「こんな男いるわけねぇだろ!?」みたいな話なんか、とても読めたもんじゃ。
 その話・シーンにて伝えたいと望むものがないかぎり、いかんのであります。そういうものもなく量産される商業801は表紙見るのもイヤなくらいで。
 人の目にどう映っているかはともかく、この巣に置いているものには、明確な理由があるはずであります。
 互いを確かめ合うとか、コメディの一要素だとか、とちらかの心中の情景とか、あるいは、話の中にはなんの理由もなくても、読み手の特定の誰かを喜ばせるためだとか。
 なんの試みも理由もなく「げへへへへ」とは、私は書けんわけで。

 そんなわけで、現場には到らずに寸止め。
 あとは脳内でお願いしますっぽい、近頃のマイ・パターンに陥っていたり。
 もし書くなら、801でなく、男女のことに置き換えても違和感のない、「本当に好きな人とする、好きな人を思ってのエッチとは」みたいな夢でも語ります。
 「萌へ〜」のためだけのステレオタイプな描写ではなく、本当に好きな人を抱くならこうだろう、というような。半ば実体験?みたいなトコまで突き詰めて、トリップして幻想を描きだしてなんぼ。っつーかうちの常連さんは、そういうモノを求めて居着いてくれているんでないかとも思います。いささか自惚れ気味でありますが。

 とかいう自画自賛系はこのへんにして。
 本当に久々の塾更新。
 アップから一週間の間に、どれくらいの人が気付き、読んでくださるのか、これはちょっと楽しみです。
 まあ普段からお目にかかったり、このザレ覗きに来てくださってると分かっているかたが何人かおられるので、そういうかたを勘定に入れて五、六人ってとこでしょう。
 私の予想を裏切ってやりたいかたは、読んだぞと自己主張の一言メルでもください(←阿呆



2005年5月18日(水)

 好意なら、お返しする義務はない。
 下心なら、お返しする理由がない。
 相手の好意を感じて「なにか返してあげたい」と思うから、お返ししたくなるだけで。
 「ねばならない」ことなんて、実はありえないのだ。



2005年5月19日(木)

 最近のお気に入りメニュー。
 野菜の豚巻き揚げ。
 タマネギとかニンジンとかピーマンとか、野菜を細く切ったのを豚肉で巻いて、それをパン粉つけて揚げたもの。
 これがンまいんだ。
 しかも、トンカツよりも手間はかかるが金はかからない仕組みで、野菜もばっちり摂れる。肉のうまみが野菜に、野菜のうまみが肉にしみこんで、私ゃカツより断然好きだネ。

 ざっぱんとは言えないんでここに簡単に書くと、
・冷蔵庫の残り野菜→千切りか短冊切り
・豚肉→べろーんとベーコンみたいな形状で売ってるヤツ。脂身は少なめのほうがいい。が、正直、ベーコンでも美味い。
・塩・コショウ・卵と小麦粉は混ぜて下地の衣に
・パン粉
・つまようじか串
 を用意する。
 んで、切った野菜を肉(牛肉にはイマイチあわない気)でくるくると巻いてつまようじでとめる。多少器用な人なら、パン粉までつけた後にさしてもいいけど、崩れやすいのでさしたあとで衣つけるほうが楽。
 串で数個まとめあげする場合、間隔をあけて(衣が全体につくようにするため)刺して、卵+小麦粉液は、ひたしたりかけたりでまんべくなく。パン粉をつけた後で間隔を詰めてやると揚げやすいしきれい。
 あとは油で揚げるだけ。あまり大きく作らず、180度くらいの油で、焦げないようにさっと揚げて、野菜の中心地には余熱を通す感じがいいかも。

 具は、実はなんでもありだったりする。
 ゆで卵をくし型(縦四分の一)に切って、それを巻いてもンまい。
 きのこ類も合うし、とろけるチーズをスティック状、あるいは短冊状にきって、なんらかの具と巻き込んでもンまい。
 コンソメの素(粉。ブロックしかないなら包丁で削るべし)を軽く降りかけて、キャベツとか巻き込んでもこれまたンまい。
 トマトの、液状の部分はわざと少し落として、肉の部分を使うのもイケる。ちなみに液状部分は、そのままケチャップにでも混ぜて、食べる時にかければトマト本来の酸味を補える。
 ナスは火が通りにくいので、用意してある油で最初に軽く揚げておくという手もある。あるいは逆に、薄くきって肉や他の野菜をナスで巻くという荒業も。ちなみにナスにはゴマ油がマッチするので、ナスの片面に軽く塗っておくという技もあり。
 無論シャガイモOK。コロッケにはしないのがコツ。深皿に水を入れてジャガイモを皮ごとレンジへぽい。揚げることもふまえてまあ5分も放置すれば充分。つぶさずにくし型やスティック状に切って(少しシャリシャリしてていい)具にする。皮は簡単に剥けるようになってるので楽チン。
 私はこっそりと、中身は野菜、巻くのもキャベツを使ったという「ハズレ」をいくつか用意して遊んだ経験もある。友人のバァスディパーチーで。
 そもそも小麦粉つけたりパン粉つけたりが面倒なら、巻いた状態でフライパンで焼いてしまってもいい。アスパラのベーコン巻きみたいなノリで。ただ、小麦粉卵パン粉でコーティングした場合より、味の流出が大きいのでイマイチではない。

 とまあ、常備野菜関係のほとんどを消費できるので、賞味期限的に危険な野菜の余りが増えてしまったら、やってみてはいかが?
 私が食べている感じでは、タマネギらしさとかニンジンらしさというものはかなりマイルドになり、単なる「甘味」になってるような感じで、野菜が苦手な人でも案外食べられてしまうかもしれない。そしてその甘味ゆえに、単なるカツより美味いと感じるのだ。



2005年5月20日(金)

 「最近ケロロ軍曹にハマった★」と言ったら、友人Tの反応は「話書いて★」だった。
 そして、「えー!?」と言いつつ書けている己がここにいる。
 つーかぬいぐるみほしい。五匹の。

 ところでメル返信。あえて返信不要のところを、沈黙したままでは不安だろーなと思うので。さりとて返信コーナーに書いては御覧になられないかもしれないので、気が向いたときに覗いてくださっているといーなーと思いつつここで。
 「そーかもしれない。でもそうでないとも思える。どっちにゃー? でももし自分のことなら、迷惑かけたくないしなー。きいちゃえ★」くらいです私は。不愉快になったとか気分を害したとかはゼロなので!
 「もしかしたら」と思ってるだけで、灰色のまま適当に距離を保ったりすると、やがて糸が細くなってしまう、それがイヤで、だったら、自分が悪いなら謝って直せばいいし、そうでないよと言ってくれれば「そっか★」と今までどおりでいられるし。
 かなり前向きです。ノーミソ足りない風味に(←ダメじゃん



2005年5月21日(土)

 うーム……。
 ペットづいている。
 カエル話が進む進む。
 どしうようってくらいに久々にツルツルと言葉が出てくる。
 うぅむ。
 メインのシーンだけとっとと書き殴り、せっせと間埋めしております。
 とはいえ。
 長ェよ己ッ!?
 しかもシリアスってなんだろう己。
 見たい人がいればアプします。



2005年5月22日(日)

 ケロッケロッケロッ♪ いざ進め〜、地球侵略だ〜♪
 ……頭から離れずに一日が過ぎました。
 つい、マスコットつきのお菓子を買ってしまいました。
 タスケテ……。

 返信不要とのことでしたが、いつかまたお暇な時にでも覗いていただけることを期待して。
 実はあの話、Aさんのサイトへちょっくら遊びにうかがって、その勢いで生まれたものだったりします。
 「2月に更新あったのか、ちくそう!」と超今更ながらに新作を拝見し、なんとなく自分の書きかけのSSを読み返して捨てるものととっておくものと分別し、なにか書けそうだぁなぁと思っていたら書けてしまった感じで。
 ああ、やっぱ赤伊達はAさんのSSがマイ・ベストです(笑
 いやホントに、プリントアウトしておいて良かったとつくづく思っています。



2005年5月23日(月)

 あまりTVドラマには興味のない己だけれど、ようやくレンタル開始された「トゥルーコーリング」はちょっと気になっている。
 基本的にサスペンス・ミステリーで、そこにあっさりと人間関係とか問題がからんでくるくらいならば構わないのら。
 ベタベタの泣いてくださいドラマとか、ドロドロドラマはとても見ていられない。
 「スカイキャプテン」もそろそろレンタル開始かなぁ。

 今をさかのぼること十年ばかり前、「映画から学べるものは多い。特に、小説を書こうというなら尚更だ」と、一人の映画マニアに映画を見ることを勧められた時は、「見られるもの」がかなり少なかった。
 よほどのものじゃないかぎり、借りて見ようとも思わなかった。
 しかし今は、映画ファンと言うには足りないが、まあそこそこにチェックし、そこそこに娯楽費と時間を費やしている。
 別に、映画からなにかを学ぼうと思って見ることはない。
 せいぜいで、悪い習性で「ここがこうだったら」とか「もっとこうしたら」と考える程度たが、そんなものは嗜好レベルの話でしかない。
 もっと見巧者になれば、構成の妙だの小道具だのにまで意識がいくのかもしれないが、もし、そういう見方しかできないとしたら、それはたぶんつまらない気もする。

 見巧者や識者ならではの楽しみというのも、あるのかもしれない。
 けれど、「なんかすごくジーンときた」くらいで楽しめる人のほうが、得をしてる気もする。
 私はどっちかと言わずともウルサイほうなので、ゲームしてても話読んでても映画見てても、井の中範疇でコヤカマシイのだが(自爆



2005年5月24日(火)

 たとえば、嘘でもいいから言ってみる。
 「こうだったらいいな」ではなく、「きっとこうなのだ」と決め付けてみる。
 たとえば、「私には絵の才能がある!」と。
 そして、「まだそれが磨かれておらず、努力が足りないだけなのだ」と。

 たとえば、「プロのイラストレーターになれたらいいなぁ」と夢想するのは簡単だ。
 「なりたいなぁ」と思うだけなら朝飯前だ。
 そして「でも私にはそんな才能はない」と言うのも、馬鹿らしいほど呆気ない。
 が、冷静に考えてみる。
 「そんな才能はない」と、他人であれ自分自身であれ、そんな言葉を、何故確信を持って言えるのか?
 たいていの場合、勝手にそう決め付けているだけで、とことんまでやって「無駄だ」と思い知ったわけでも諦めたわけでもないのではないか。
 「そんな才能はないから」と言えば、努力せずに済む。必死にならずに済む。うまくいかなくても言い訳ができる。失敗することはない。
 が、決して、成功することもない。否応なく才能を発露してしまうという、ある意味憐れなほどの天才でもないかぎり。

 なにもかもが思い通りにいくことなんてない。
 必ずつまづきや停滞はある。
 壁というものがある。
 そこにぶち当たった時、「私には無理」と諦めるのか、乗り越えようとマジになるのか。
 本当に好きなら、どうしようもなく好きなら、泣きながらでもきっとがんばるんだろう。

 自分を信じるということは難しい。
 信じて失敗したら、誰もかわりに災難を背負ってくれないし、責任もとってくれない、保障もしてくれないからだ。
 だから、成功もしないかわりに失敗もしない道を、つい選ぶ。
 ひょっともすると、自分ことを信じていない人は、まずいないのかもしれない。
 実は誰だって、自信は持ってるのかもしれない。
 ただ、なにか行動することが皆できないだけで。
 自信がありますと言わないだけで。
 失敗した時に他人からも自分自身からも責められたくなし、傷つきたくないから自信がないふりをして、「だから、できなくても仕方ないよ。こんなものだよ。仕方ないんだから許してよ」ということにしているのかも。

 信じてみるか?
 「私には、私の好きなあのことで一花咲かせるくらいの才能はある」と。
 今の評価が低いのはまだ磨いてないからで、がんばればもっともっと良くなり、今よりも多くの人に「いいね」と言ってもらえるようになるんだと。
 今すぐに、いつも必ず、確実に成功したりできたりするわけではないけれど、「少なくとも私はこんなものじゃないんだ」と信じてみるか?
 信じて、自信を持って、そして本当の意味で謙虚に他人の言葉や成果に耳を貸し目を向け学び、本当の意味で勉強してみるか?
 「私には実はちょっとばかし才能あるんだ」と信じて。

 「私には特別な能力はない」なんて、誰が決めた? 決めたそれが正しいと、何故言える?
 そりゃ世界で一番とか日本で有数とか、そんなレベルに行き着けるのは天才だけかもしれないが、もう少しくらい欲を出してもいい程度の才能は、貴方の中にも眠っているかもしれない。
 貴方が日々陰鬱な子守唄を聞かせて眠らせている、才能の芽ってヤツが。
 陳腐な言葉だが、自分を試す、自分を他人に向けて問う、そんな「勇気」というヤツを持った人だけが、自分の望みをいくらかでも叶えることができるのかもしれない。

 「私には才能はない」と諦めるのは、自分一人で勝手にあれこれ決めたりしてではなく、他人に、社会に、世間にぶつかってぶつかって、気が済むまで試して、それからでいい。
 もっとも、気が済んだ時に傷ついたり打ちのめされたり落ち込んだりするのが嫌で、誰も試さないんだろうが。
 その恐怖や不安に立ち向かえる人だけが挑んで、一部の人は社会のニーズにマッチして社会的な成功を得る。挑んで破れても、痛みや挫折感、悔しさを受け入れてなお笑えた人だけが、本当に自分の好きなそのことを、愛しているのかもしれない。才能なんて関係ない。人の評価なんて関係ない。そんなことくらいでやめたり、嫌いになったりはできない。そんなふうに。

 ……まあもっとも、みんながみんなしてそんなふうにチャレンジャーになったら、世界は回らない。
 試さずに諦めて、試すまでもなく見つけられなくて、大なり小なりの疑問や不安や失望や諦めを抱いてとりあえず生活する道を選んだ大多数がいなければ、社会はガタガタだろう。
 そこで今日の結論。
 人生は楽なほうに回るか、好きなほうに回るかってことか?



2005年5月25日(水)

 5分外に出ていると。
 くもりの日で日差しがかなり弱くても。
 光に当たっていた手の甲にポツンポツンと淡い発疹が。
 ……太陽なんて消えてなくなれ。
 太陽なんざなくても生きていけるわーい!!(←言うまでもないが無理

 話はすっ飛んでカエルさんたちのSS。
 久々に長編かつルート選択のものになりそうです。
 見たいコールおよび楽しみコールくださったみなさま、できれば巨大な間だけはあかないようにアップしたいと思います。



2005年5月26日(木)

 「(自分のサイトを)もっと宣伝したら?」とちょっとした友達に言われた。
 うんまあたしかにね、もっとたくさんの人に見てもらいたいという気持ちがないわけではないけれど、来る人が多くなれば、要望を出してくる人も多くなるし、あまりにもたくさんの不特定多数人物の訪れは、食い違う意見との衝突も招く。
 自分とは異なる価値観の持ち主と話して学んだりというのは、確かに大切なことで、これが充分でないと手前勝手でちっちぇおバカさんにしかなれないのは明々白々なんだが、避けようもなく大勢の人間と出会ってしまうリアルだけでたくさんだという気がする。
 私がネットに求めているものは、大してデカいものではないが、けっこう切実なものなのだ。
 それを壊してまで来訪者増やす努力なんて、したかぁねぇよなぁ。



2005年5月27日(金)

 ゲロッゲロッゲロッ高らかに〜♪ 勝利の雄叫び〜を〜♪
 ……すみません勘弁してください二番(?)まで覚えてしまいそうです。
 内容のない歌も大好きなので。
 なお、覚えるつもりもなかったのに、気が付けば一番丸暗記してました。
 己の頭も捨てたものではない模様です。

 カエルさんと戯れつづけています。
 書ける時に書かんでどうするか!?という潔さでカエルまみれです。
 ああ楽しい。
 久しぶりに、というと語弊があるかもしれませんが、SS書いてて楽しくてたまりません。
 そりゃあもちろむ、塾だのPSOだの書いてる時も楽しいし、こういうシーンを見てもらいたい、見せたいと思うから書いてますが、持続期間の長さと申しますか、連鎖反応の醍醐味と申しますか。

 正直にぶっちゃけまして私、他人のものより自分のもののほうが好きなことがほとんどです。
 自分に押せないツボってのもありますから、そこをうまくポチッと押してもらえれば他人様様で、だからこそ毎度遊びに行かせてもらうサイトさんとかがあるわけですが、自分の見たいものをSSにしたりラクガキしたりしてる以上、基本的に、自作萌えなのです。
 ぶっちゃけ第二弾ですが、私は、私が自分で読む限りにおいては(←ここ重要。試験に出ます/←出ません)、自分の文章力は充分だと思ってます。まあつまり「面白い」と。
 自分で書いたものがどうしても気に入らない、という、目と手の落差というものはあまりありません。「こうしたいのになかなかこうならんなぁ」ということがないわけではありませんが、ほぼ、自分の思うように書けてます。やっほい。

 そんなわけで、ノッて話を書き、続きができるのが自分でも楽しみで、当たり前みたいにPC立ち上げて椅子に座る生活は、しあわせです。
 そしてもう本当につくづくと、楽しいから書くんだなと思います。
 人の評価、気にならないわけではありません。楽しんでもらえたり褒めてもらえればそりゃ嬉しいものです。
 が、それを前提には書きません。
 そんなものなら、別に書きたくもないとも言えます。
 他人の評価のためだけに書く「良い作品」なんて、作れるかどうかはともかく、目指したくもない。ケッ。ぺっぺっ。
 ぶっちゃけ第三弾、私が楽しけりゃ最高です。
 自分で書いててニヘニヘして、えぇ話じゃと感動してりゃ自給自足無問題万事OK人畜無害。
 それを一緒に楽しんでくれる人がいるかどうかは、付随する楽しみなのだろうと。そりゃほしいけどね、ほしいけどさ、目的にはならないんだよ。付録目当てで買う雑誌ではないんだよ。

 世の中にたくさんのアマチュア絵描き・物書きがおらりますが、こんな私は、それなりに理想的な状態なのかもしれません。生活のこととか考えなければの話ですが。げふ。
 何故書くの?
 楽しいから。
 書いてるとしあわせだから。
 私の答えは、出ているのです。



2005年5月28日(土)

 役に立たない小説作法久々の応用編。
 ちょっと「よさげ」にしたいなら、必須は三感による描写。
 毎回毎回やっていては鬱陶しくてたまらないが、シーンの切り替わった冒頭や、主人公の心が大きく動いた時などに、その時主人公が感じている、主人公を取り巻いている音・見える物・匂いについて丁寧に描く。
 ステレオタイプなお定まりのパターンではなく、できるだけ自分の実体験に因った、リアルな景色・気配を。
 そして、「ここまで書くとクドすぎるか?」という見極めをする。

 そこそこ上手いけれど「小説」と言うにはなにか足りない、というSSの大半は、人物の外見・行動・感情は書いていても、世界をちゃんと書いていない。
 たしかに上手いし分かるしいいなと思うんだけど、なにか足りないと感じると、たいていそれだ。
 「上手い人」は、それを必要充分なだけ盛り込んで、物語を際立たせるセンスに優れているのだろう。



2005年5月29日(日)

 自分は本音を言わないままで、相手には本音を言ってと求めることがある。
 本当のことを言ってくれればいいのに、と言う人は、本音で接してるんだろうか?
 知らず知らずにみんな、自分のことは棚に上げている。
 まあたぶん私も。



2005年5月30日(月)

 腹が立つ相手のことは観察する。
 それが、自分の身近な人でないなら尚更だ。
 たとえば、仕事中のお客さん。
 まあ私も不出来な生物なので、「んだあの客ムカつく死んで来い」と思うことはままある。
 あと10年若ければ「今辞めます」と言ってバイト辞めて殴り倒していただろうなと思うこともある。それでやめたバイトもいくつかあるセイシュンのアヤマチ。
 が、さすがにそれが実行可能なほど青くもなくなり、今は少し違う。

 たしかに腹は立つ。
 腹は立つが、だからこっそりウサ晴らしをする。
 それは私の場合、「勝手にストーリーを作り上げる」というもので、同僚にも勧めている。

 細かいことでいちいちツッコミくれて文句をつけ、グチグチとうるさい客がいたとする。
 だいたいのお客さんなら気にもせず、おおらかな人だったり苦労人だったりすると笑って「気にしなくていいよ」と言ってくれるようなことでいつまでも文句を言い、しかもなんらかのサービスを得ようとするようなヤカラだ。
 言ってることがもっともで、それが店や自分のために本当に役立つことなら素直に聞き入れるべきだが、そういう忠告をくれる人というのは、こんなにいやらしくはないものである。
 ウゼェ阿呆に真っ向から腹立てたって、不愉快になるだけ自分が損だ。
 そんな時には、その人の家庭事情や友人関係というのを勝手に捏造してみるとけっこう楽しい。

 威張りくさったおっさんだが、実はうちに帰ると息子にも娘にも相手にされず、なにか言うたびに「はあ? なに言ってんのあんた? バカじゃないの?」と言われているのかもしれない。そして腹の底に「オレは正しいんだ」という鬱屈を抱え込んでいるのかもしれない。だから、「オレは正しいんだ、オレは偉いんだ」と言わんばかりに文句を言うのかもしれないのだ。
 と、思ってみよう。
 そして、そのおっさんの一日を勝手に作り上げる。
 朝は5時に起き、ささやかな趣味の庭の手入れをする。しかし水をまく音がうるさいと娘に睨まれ、「あんな品もなければ趣もない、単なる雑草の塊みたいなもののために朝っぱらから騒音立てんなよこのハゲ」と罵られる。
 「親に向かってなんだその口のききようは!」とか怒鳴っても、白い目で見られるだけで謝らせることなどできず、怖がられもしない。カカアからは「朝ごはん食べながら喧嘩しないでよ」と冷たく言われる。
 仕事に出かけるが、能無しのオッサンは30年間勤めても平。年下の上司が何人もいて、一応は立てられているような感じだが、本当は裏で「あのオヤジつかえねぇ。いらねぇよ」と言われている気配を感じ取っている。そう、友達も誰もいない。同年輩で同じく平な人間もいるにはいるが、プライドばっかり高くて少しも人を思いやらないオッサンは嫌われ者。ここ何年も、飲みに誘ってもらったこともない。
 昼は一人で食べに出かけ、飲食店のねえちゃんにケチをつけてウサ晴らしをしようとするが、そのねえちゃんが娘と同じ冷たい目の愛想なしで怖気づき断念。
 とぼとぼと職場に戻り午後の仕事。
 家に帰って家族と顔を合わせるのが億劫で、乏しい小遣いで安い酒を飲み、そしてこの時間、この店に来た。
 幸いにしてある程度スタッフの接客についてはうるさい店なので、みんなが下手に出てくれる。アルコールのせいで少し気も大きくなったオッサンは、ちょっとしたことでも耐えられないほど傷だらけ。そしてちょっとしたことに耐えかねて腹を立て、自分の持てるだけの知識を総動員して威張り散らすのだ。「オレは、オレは偉いんだよ、能無しじゃないんだよ、すごいんだよォォォ!」と言うかのよーに。
 店員に八つ当たりして少しはスッキリして家路につくが、帰宅予定時刻を大幅に過ぎたため、玄関のドアは施錠されているのだ。鍵はある。こうしてここに持っている。でも、でも、これじゃあんまりだと、オヤジの目からは一粒の涙が零れるのであった―――。

 ざまぁみやがれ、と本当かどうかは別として、少しは気が晴れようぞ?
 しかしまあ、「なんでこいつは自分の理屈をこうまで押し通そうとするんだろう」ってなことを考えて見ていると、けっこう面白い。私は幸い、それなりに接客業もこなしてきたのでそういう客につかまることは、最近ない。そんなわけで脇から覗いていると、まことに興味深い。
 もっと穏やかに、落ち着いて、冷静に説明することもできるだろうに、何故怒りの感情を前面に出して怒鳴るのか、その理由を考えてみたりする。何故その程度のこと、「まあいいか」と気にもしないで流す人もいるのに、この人は躍起になって抗議するのかとか。自分より立場の弱い相手にはこれだけ食って掛かるが、相手がヤクザでも同じことが言えるんだろうかとか。
 そういう、「何故この人は」の理由の中には、本当に上記オヤジの物語に似た背景がないとは言えない。たったそれだけのことを人に譲るだけで自分の価値観とか地位(立場)が揺らぐと感じてるなんて、よっぽど弱いんだな、としか思えない人がほとんどだ。いっそ可哀想。弱い犬ほどよく吠えるというあれである。
 どうしても許しがたい過ちというものもある。そういう時には怒鳴ることもあるだろうが、その「許しがたい」のレベルが低いと、自分の弱さや身勝手さを大声で宣伝しているだけになる。
 私としては、カッとくるほど許しがたい時こそ、そんな感情だけに流されず、相手に「それはちょっと承服しかねる」ということを冷静に穏便に伝えるだけの度量ってものを持てたらなと思う。だってそっちのがカッコいいじゃん。



2005年5月31日(火)

 ふと思ったこと。
 心に染み入る歌というのがあったとする。
 しかしその歌の浸透圧は、曲そのものは詞よりも、歌い手の声質によって大きく左右される気がする。
 詞なんてものは自分の言葉やイメージで補えてしまうので、実はほとんど影響がない。自分の中にあるなにかが歌詞に反映されてさえいれば気に入れるものだ。微妙な言葉の使いまわしなんかまで注意してみている人はまずいないだろう。「ここは『思い』じゃなくて『心』がいい」とかなんとかと。
 曲はメロディより音の高低、使用している楽器の、やはり音の持つ質のほうが大きい気がする。

 友達にはそのアーティストが大好きな人がいて、借りてみたら歌詞はたしかに私も「いいな」と思うことが書かれているのだが、私好みよりは全体的に音程の高い楽器編成とボーカリストの声のせいで、さしていいとも思わなかった。
 だからそんなことを思ってみたのだが。


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