2005年5月1日(日)
美味い天麩羅と刺身をしこたま食いたい病発動中。
もぉ5万円分くらい食いたい。
たらふく食いたい。
タラノメの天麩羅とか、いい時期だ。
うちのおかんが自力で採ってきたのは食ったが、やはりこうサクサク感がさぁ!
買うと高いんだってねタラノメ。
レンコンとナスビとタマネギもいいなぁ。カボチャもいいなぁ。
刺身はフクラギが好きー。
2005年5月2日(月)
とか昨日わめいていたら、昼に電話があって、ちとした知り合いに誘われてエビのフルコースを食べに行くことになった。バンザイ。ごめんだからバイトサボるね己★(←最低だ貴様
え? フランス料理系なんですか? 己あの、どこからどう食えばいいのか分からないような料理苦手なんですが? 普通にフライとか茹でたりじゃないんですか?
っつーかあれこれいろんな味を加えて絶妙なバランスになってしまったものより、塩コショウとハーブ少しきかせてあとは揚げただけ、とかいう素材そのものの味がするほうが好きなんですが?
……ご馳走になる身でそんなことを言えるはずもなく、「本格的なフランス料理なんて食べたことないですよー」と牽制しつつついていく。
しかし我慢にも限界があった。
いや、だってこれ、不味くない?
「これが『美味しい』って味なんですか? だったらフランス料理の美味って私にはわかりませんよ」と思わず言っちまったわい。これが「美味い」なら、美味いフランス料理なんて食いたくねぇよ一生。
幸いにして先方は「正直ねぇ」と楽しそうに笑い、「私もいまいちだと思うけどね」と河岸をかえてくれた。
結局、近場のイタリア料理店に。
一皿2800円もするスパゲチーなんて初めて食べました。
ベシャメルソースとフェットチーネ、各種きのこを使い、チーズを乗せて焼き上げたグラタン風のもので、これはンまかった。
……その前にコースの途中で放り出したとは言え、一応食べてきてるのに、よく入ったな己。
2005年5月3日(火)
「ファントムキングダム」の話。
下僕ニンジン化計画始動中。
経験値+80%のスキルを覚えさせるため、ほとんど全てのキャラをマンドラゴラ系に転生させた。
この後、最高スキルを一通り集めるべく転生を繰り返させる所存。
攻略本には、最終的に強いキャラクターが書いてあるが、うちは胡散臭くヴァンパイア系とスペクター系、レッサーデーモン系で揃えて悪魔軍団らしくしてやろうかと。
効率のいい育成のため、ニンジン化の後は戦車経験100%のスキルを覚えるバトルクイーンに転生させてLV100まで上げ、後は高レベルの戦車に乗り込んで戦いまくる予定。これなら戦車も強化されるしねー。
2005年5月4日(水)
キングダム継続中。
見て目にこだわった悪魔軍団も捨てがたいが、スペシャリストの育成もオイシイなと思い始める。
使い勝手のいいATK武器を一通り使え、素手技も強力なのを備えたヤツとか。
一通りの強攻撃魔法と回復・補助魔法を覚えたヤツとか。
TEC依存の武器のスペシャリストとか。
アイテム回収と移動力に特化し、ついでに回復もこなす火事場泥棒兼レスキュー隊員とか。
綿密に転生チャートを作るバカがここに。
……GWなんてこんなもんさ。
バイトはフルで突っ込まれるしなー。
2005年5月5日(木)
「ターミナル」を借りてきた。
こういう地味な話は、本当に監督の腕次第で見られるかどうかが(私には)決まる。
これは、当たり。
コメディ要素が随所に織り込まれ(笑わせることだけを意図したものはほとんどない)、また、次々と物語が展開していく。この間の時間経過は、実は月単位で非常に長いものを、余計な注釈はなしに物語りの肝の部分だけを見せているため、飽きることもなく楽しめる。
まるで英語を話せもしなかった主人公・ビクターが、出ることも行くこともできない、お金をかせぐアテもないという逆境の中で、めげずに前進していく様が心地好かった。
リアリティを言えば、これも一種のファンタジーとしてみたほうがいいような都合の良い部分も目立つものの、見れば見るほど、そして、つらかったり逆境にあったりままならなかったりする時に見るほど、良い映画になる気もした。
次は「笑の大学」見るぞー。
凡百の大声とツッコミだけで笑わせるコメディ番組見るくらいなら、これ見て笑うだけの文化性がほしい世の中である。
2005年5月6日(金)
論点が違うんじゃないかと思う近頃の新聞。
「救助に加わるべきだったのではないか、そういう職業意識を持ってくれていれば良かったのに」というなら私もまさにそのとおりだと思うのだが、「そういう意識を持ってないのがおかしい」というのは、ずいぶんとおきれいだ。アンタそんなこと言えるほどリッパなんだ?
人の命を預かっているいないに関わらず、そんなに高い意識を持って働いてる人なんか、どれくらいいるんだっつーの。
それを棚に上げまくった非難がましい報道は、見ていて可哀想になってくる。
2005年5月7日(土)
「天使のラブソング」と「ドクタードリトル」などをもう一度見てみる。
ドリトルはねぇ。昔見た時にも思ったけど、コメディなのかヒューマンなのか、どっちにしてもあいまいなのが気になるんだよなぁ。コメディにしては笑いにパワーがないし、ヒューマンというにはじーんときてしまうシーンがない。
天ラブは好きな映画の一つなので、何度も見てる。やっぱり歌がすごくいい。今見ると、追い出すようなつもりなんてなかったのに、結果的に修道院長を孤立させてしまったデロリスの心中とかも思いやれて、味わい深い。そのへん、ちゃんとウーピーの顔や仕草があり、かつ映されてて、饒舌ではないけどちゃんと語ってるようには見える。私には。
そーして、「笑の大学」借りてきた。見るぞー!
2005年5月8日(日)
「笑の大学」見た。
良かった。
まあなんとゆーか、相変わらず役所さんはぼそぼそ喋るので聞き取りづらいんだが。
ここからはちょっとオチバレなので白。
あらかじめある程度のオチは知っていた。
五日目あたりで脚本&演出家の椿くんに赤紙が来てしまい、戦争に行くハメになる。で、その次の一日くらいで、死に物狂いで脚本に直しを入れて、七日目に検閲官のサキサカさんのところへ持っていく。
あえて言葉にして語ってはいないけど、もう演じることもない劇を、椿が最高に面白いものにしようと一晩必死に頑張ったのには、自分の大好きな、それこそ命をかけてもいいくらい好きな劇の脚本作りに夢中になることで、「国のために死んでくる」身になった自分の苦しさや恐怖を忘れようとした、というのは、語っているとおり、あると思う。
けど私としては、演じられることのない劇だけど、一人は必ずこれを読んでくれる。その人に笑ってもらいたくて、その人だけでも笑わせたくて、検閲官のサキサカ氏が笑うところを思って、がんばって書いた、書けた部分が、あると思いたい。
私もものを書く身だから思うのだが、確かに、目の前にどうしても避けたい、でも避けられないものがあると、現実逃避のようにして筆は進む。それはなんとない漠然とした、未来への不安でもいい。とにかくなにか、考えたくないものがある時ほど、空想の理想にひたれる物語に没頭するのは易しい。
だから、戦争に行かねばならなくなった時、もう帰ってこれないかもしれないことを思う時、そして戦争に行くことを誇りには思えない時、必死に、最後の脚本を仕上げたい、最高のものにしたいと、徹夜もするだろうし飯なんか食う暇も惜しいだろう。それはよく分かる。
でも、それを誰も読んでくれない、見てくれないと諦めるなら、そんなに必死になれるだろうか、とも思う。
一度表現し、評価され、喜ばれたり楽しんでもらって、褒めてもらったり仲間ができたりした喜びを知ってしまったら、自己満足のためだけに、最高のものは決して作れない気がするのだ。特にエンターテイナーは。
だから椿くんも、サキサカさんというたった一人の読み手を意識すればこそ、最高のものを一日で仕上げられたんじゃないかと思ってしまう。サキサカさんに読んでもらいたい、笑ってもらいたい、ぶつけてやりたい。そんな気持ちがあったんじゃないかなと。
今まで笑ったことのないサキサカさんが、クソマジメにも笑ってしまった回数をチェックしながら読んでいて「84回も笑ってしまったぞ。面白すぎる!」と怒る。
椿くんには、本望だったと思う。しかも我々には、サキサカさんが食事中や縁側、通勤途中や仕事場でその脚本を読んで、笑ったり頷いたりしているシーンも見せられるから、そんなに楽しんで愛してもらえたのかと分かる。
私も、たった一人でもいい。あちこち批評してでもなんでもいい、本当に自分の書いた一編の物語を愛してくれて、何度も読み返してくれ、大切に思ってくれる人がいるなら、その人に読んでもらえるなら、ヘボモノカキ冥利に尽きる。
良い映画だった。
欲を言うなら、最後のその感動するシーンで、サキサカが何度も「待ちたまえ!」と呼び止めるのがくどかった。椿が出て行こうとする、待ちたまえと止める、ということが二度三度繰り返されたのがしつこい。もう少しすっきりとまとまらなんだものか。
昔っから、「他人の敷いたレールに従って生きるのはイヤだ」とかいうキメ台詞がある。
今私が思うのは、「人間は電車的なんだから、レールを敷いて、その上をなぞって生きるほうが効率的だ」ということ。
親や社会が用意したレールがイヤだと言うなら、自分用のレールは、自分で敷かなければならない。
そのことに気付かず、単に「言うとおりにするのがイヤだ」という理由だけで、「他人の敷いたレールなんて」というのが子供ゆえの愚かさか。
他人の敷いたレールがイヤなら、自分でレールを敷かねばならない。そのことに気付かずにカッコイイ真似だけしてみても、なんにもなりはしないのだ。
要するに、未来へのビジョンということだ。
それがないままテケトーに生きていても、見える風景はあるし得られるものもある、起こる出来事もあるが、安心感や安定感はない。
たとえハランバンジョーでも、自分の見据える途中駅や終着駅に向かって進むレールの途中ならば、地盤はがっちりと安定していると言ってもいい。
自分がどこに向かって進んでいるのか、なにに向かって進みたいのかも分からないまま、ただレールを否定し、自分で敷くこともなく生きていても、できることも得られるものもたかが知れている。
他人の敷いたレールがイヤだとカッコいいこと言うなら、自分でレールを敷かねばならない。自分で敷けもしないのに言ったって、単なるバカなガキのお定まりのワガママ、反抗心か怠け心に過ぎない。
目標や目的は、途中で変わってしまっても、それは仕方ない。けれど当座決めた駅(目標)に向かって、補給すべきをし、改善すべきをし、たまに脱線したり事故ったりはしても、着実に進んでいくなら、それが一番「確かな人生」のような気がする。
さて。
貴方はレールの上にいますか?
それは誰の敷いたレールですか?
通過する駅、途中寄る駅は見えていますか?
貴方の求める、とりあえずの終着駅がありますか?
時に遠回りしてしまうことはあっても、駅に少しずつ近づいていますか?