烏の足跡



2005年2月1日(火)

 相変わらずDDS2中、そして、大沢ルパンの情報ゲット。

 興味ある人の多いルパン話から。
 知っている人はとうに知っていると思うけれど、双葉社から新書サイズ(普通のコミックスと同じサイズ)のアンソロジーとして出る。大沢氏以外にも何人かの作家が作品を提供したアンソロジーだ。
 やっほい!
 はるかにレベルの高いルパンが読めるぞ!!
 昔からのルパンファンの私は、昔(それこそ20年近く昔)出た小説も持っているが、やはりクォリティを問われると、微妙。面白くないわけでは決してないし、いいストーリーだと思うし文章も決して悪いものではなく、クォリティも低くはないと思うんだけど、名シーンみたいなものは一つもなかったのだ。いかにもルパン、これぞルパン一家、というようなシーンは。かつ、総合で見ればやはり娯楽小説としてのワクワク感やドキドキ感は乏しかった。題材はいい、キャラクターたちは元がいい、でも、それをいかしきる構成力とか迫力がない、みたい。
 大沢ルパンはものすごく楽しみなのだ。
 まだ具体的な日付は分からないけれど、2月に双葉社。これが現在、私の手に入れたネタ。

 DDS2話。
 ラストダンジョンでレベル上げ&マントラ埋め。
 まー好きですからね、こういう地味な作業。
 しばらくフラフラしてた後、ランクの低いマントラはみんな覚えさせたから、そろそろ次に進むかととことこ歩き出したら、楽すぎる……。
 LV60なら余裕でクリアできるはずだもんなぁ(汗
 で、プレイしている人にこっそり攻略ネタなので白。

 状態変化のマントラを、シエロに覚えさせておくのが絶対に吉。
 別にシエロでなくてもいいけど、最終的に手に入るBSデストロイアがあれば、シエロには弱点がなくなるので。
 ちなみに、習得過程で手に入る「ニューロクランチ」とかの、攻撃+バッドステータス技がとにかく後半で役に立つのだ。
 ラスダンに出てくるクーフーリンは、いろんな攻撃がききづらく、物理攻撃には高確率でカウンターを返してくる強敵。
 なんだけど、ニューロクランチがあれば余裕になる。ちなみにニューロはBS+攻撃技としては最初に覚えられる技なのでマントラのお値段も安め。
 うちはアルジラに覚えさせているので、ニューロ2発で倒せる。クーフーリン×2、パラスアテナというパーティがよく出てくるんだが、「アルジラ・ニューロ→セラフ・狩る(アテナを)→ゲイル・チャクラ金剛丹(アルジラに)→アルジラ・ニューロ」で倒しつつ回復させている。おかげでMP回復なしで延々とうろついていられる。ありがたや。
 ちなみに回復にお金使うのもったいないんで、最初の二人でチャクラ金剛丹とかクラヴァンの像を使い、最後の一人には逃走アクセラをセットしておいて逃亡することで回復している。……セコいゆーなそこ!

 隠しボスをすっ飛ばしてラスダンに入ってしまったので(引き返せない)、2周目のために現在、弱点属性克服スキルを覚えさせるため、せっせとマントラ習得中。



2005年2月4日(金)

 DDS2クリア。
 ……ボス弱すぎやしないか?
 デカジャ・デクンダを使ってこないもんだから、補助MAXがけで余裕で突破できる5連戦。
 って感じで2周目に突入〜。

 ちなみに小ネタ。
 ラスボス前に、余っているお金で買えるだけ全てのマントラを買ってしまおう!
 2周目の前半でお金のない時から、強力なマントラに切り替えることだけはできるので、「手持ちのお金で習得できるマントラがない〜」ということはなくなりまつ。



2005年2月5日(土)

 気が付けば二月。
 気が付けば接続料金が切れていてこの数日はネットしてません。
 そんなわけで私は元気です。



2005年2月6日(日)

 「ラジアータストーリー」を借りてる。……ゲームしかしとらんのかと思われそうですが、そのとおりです。
 個人的にストーリーを読み進めるのがメインのRPGはあまり好かん。というわけでこれもあまり好かん。面白くないわけではないけれど、見せられる一方の部分が大きすぎてイマイチ。
 特にこのゲームは時刻ごとに有効な行動が変化するのに、特定時間をまとめて進めることができないのが一番どうしようもない。DQ8でいえば「やすむ」というような、夜にするとか、あるいは6時間経過させる、といった措置がまったくなく、待つしかないのがなんともかんとも。
 実はこれもその待ち時間を利用して打っている罠。



2005年2月8日(火)

 優しい言葉は、他人のためじゃなく自分のために言うことがほとんどだ。
 だって、優しい言葉は他人を傷つけないから、自分に痛みをリターンされることもない。
 だから優しい言葉をかけておくほうが得なのだ。
 嫌われてもいい、辛辣な言葉でもいい、本当の相手のためを思って、自分が嫌われたり傷つけられたりする損を覚悟で、言うべきことを言うことなんて、まずしないだろう。
 触れて心地好い優しさは、臆病さや自己愛の裏返しという面も、大いに持っている。

 それが悪いというわけではないけどねー。
 だって、たとえ自分のためになったって、厳しい言葉にはやはり傷ついて痛い思いをする。痛い思いはしたくない。
 ただ、私は時々、自分がそういう「無難な言葉」を吐く時に思うのだ。
 これは自分のためでしかないな、と。



2005年2月9日(水)

 「上手い小説を書く才能」と「小説を書く才能」は違うんだと、最近の結論。
 「上手い」がつくとそこには技術やセンスといったものも含まれてしまい、どうすればそんな才能を育てられるか、発現できるかは私なんぞの知るところじゃ完全になくなる。
 しかも、上手いか下手か以前に、ただ「書く」ことそのものに才能の有無が関係していると思う今日この頃。
 それは、自分の思いついたテーマ(もっと単純に「告げたいこと」ともいえる。このキャラかっこいいよね!というのもリッパな「告げたいこと」だ)で、ちゃんと話を一本、作りきれるかどうかということ。
 名台詞、名シーンは思いついても、そこだけは拙くても言葉にして表現できても、その前後が作れないなら、「書く才能」自体が乏しいとしか言いようがない。
 どんなに下手でもまずくても拙くても、上手い人から見れば箇条書きの連続のようなものにしか見えなくても、短くても、物語のスタートからエンドマークがつくまで、できるかぎりちゃんと書き込んで一つの話にしていけるなら、その人には「書く才能」はあると言える。

 そしてその「書く才能」だけなら、日記を毎日つけていてもちゃんと育つと思う。
 何故なら、webサイトなどでほぼ毎日、ある程度の長さの雑記・日記をアップしている人の文章は、読みづらいとか下手くそだということが、まず、ないから。
 小説を書かせて上手いかどうかとは別問題だが、少なくとも「自分の思ったこと、感じたことを人にアピールするための文章力」自体は、そういった管理人さんたちのほとんどの人が持っているような気がするのだ。



2005年2月10日(木)

 昨日分後半リメイク。
 もう少し、言葉を増やして的確に。

 「上手い小説」を書くためには「小説」を書く必要がある。
 「小説」を書くためには「文章」を書く必要がある。
 だが、「上手い小説」に「上手い文章」は必須ではない。必要なのは「分かる文章」であることのみだ。
 また、なにも書かないままでは、どんな理屈をこねたところで、絶対に「上手い小説」など書けない。それこそ天賦の才能でもないかぎり。
 そして貴方も私もおそらく、そんな天賦の才能なんてモノはまったく所持していない。
 だから「上手い小説」を書こうと望み、かつそれを叶えることができるのは一部の人間だけということになる。
 それなら、いきなり「上手い小説」を書こうとするのがいかにバカなことか分かるだろう。
 そんなことは気にせず、まずは「小説」を書くことから始めるのがいい。
 「小説」を書けるようになりたいなら、二日に一度くらいは必ず、十行程度の「文章」を書くくらいのことはしなければならない。とにかく自分の思いや気持ち、行動を言葉で表現してみるというトレーニングの先にしか、「小説」は存在していない。

 どんなに努力しても時間をかけても、「上手い小説」「上手い文章」は誰にでも書けるものでは決してない。書けない人には絶対に書けない。
 けれど、人は「上手い小説」しか良いと思わないのでは決してない。
 そして、「良い小説」ならば、誰にでも書ける可能性がある。
 「良い小説」とはなにかと問うなら、私はこう答える。どんなに拙くても、作者(登場人物)の気持ち(喜び・悲しみ・楽しさ、なんでもいい)が分かって自分の心が動くものだ、と。
 人の心を動かすために必要なのは、頭で考えて頭で分かっていることではなく、自分の心が動くことと、その動きをちゃんと感じられることだと私は思う。
 そして、「上手い小説」でなくとも「上手い文章」でなくとも、「分かる文章」で書かれた「良い小説」ならば、誰かを励ますことも支えることも、あるかもしれない。

 そして最後に。
 「上手い文章」で書かれた小説が、「つまらない小説」にしかなってないこともいくらでもある、と言いたい。
 体裁ばかり気にして「上手い文章」「上手く見える小説」を目指すより、貴方の本当に伝えたいことを恥ずかしがらずに正直に語った「小説」を書くことが、人の心を動かす秘訣だと私は思う。
 拙くても、自分の心を表すために的確な言葉を一生懸命に探すことが肝心なのだ。
 そうして綴った一本の物語は半ば自伝にしかならないが、上っ面の、頭でだけ考えた格好だけ整えた物語なんかよりは、はるかに人の心を打つだろう。

 もし。
 もし私の書くものが「上手い」と見えるなら、もしかすると私には「上手い小説を書く才能」というものが多少はあるのかもしれない。
 が、それは、「小説」を膨大な量と時間、書きつづけてきたから表に出てきたものだと私は思う。私が「小説」すら書くことなく、こんなどーしよーもないようなザレを何年も書き続けることがなく……それよりさかのぼって、とにかく十年以上もの間、なんだかんだと語りつづけてきたことがなければ、才能は、持っているだけで発現はされなかった。間違いない。
 そしてもし、私の書いたものが誰かにとって「良い小説」であることもあるとしたら、それは、まずはたまたま貴方の求めるものがその中にあった、というだけのことでしかない。そしてただ、それを「分かる文章」で書いてあったというだけのことでしかない。そしてただ、「私はそれを書いて表しアップした」というだけのことでしかないのだと思う。
 貴方と私の違いは、ともすると、「書いて、発表したか」「してないか」の差でしかないのだ。

 もし私に特別な能力があるとすれば、それは、文章能力だのなんだのではなく、十年以上もの間、ひたすらに書きつづけて倦まないでいるという、このことだろうと思う。
 だからもしかすると私は、人から「上手い」「面白い」と言ってもらえるたけのものが、書けているのかもしれない。
 だとすると誰でも、十年間あれこれ語り続ければ(自分相手の独り言でもいい。ただし、ちゃんと反芻できるよう書き付けることが肝心)、それなりに「上手い小説」くらい書けるだろうと、私は思う。
 そして、十年間も書きつづけることができないから、「上手い小説」を書ける人は、少ないんだろうとも思うのだった。



2005年2月11日(金)

 風邪ひき中。
 基本的にナマケモノな生物が一週間もゲホガホやりつづけると、本格的になにもする気がなくなる。
 少なくとも、自らなにか生み出すのはしんどーてたまらん。
 そういうわけでここんとこ、ザレもサボり中。
 こういう時はアンテナも弱めだから、日常の中からなにかを見つけることも少なくなるのだ、たぶんおそらく。

 なお、一言で返信するほどのこともなさげなのでこちらで。
 9日分の二重書き、修正いたしました。てーんで気付いておりませんでした。教えてくださってありがとうございます〜。ふんまにもー誤脱字どころじゃないのか己わ。てへ★



2005年2月12日(土)

 追い風の時にしか書けない話がある。
 向かい風の時にしかかけない話もある。

 ただ、私は追い風も向かい風もないと、なかなか書けないらしい。



2005年2月13日(日)

 「ラジアータ」中。
 序盤はストーリーにそって無理やり歩かされているだけのようでイヤでたまりませんでしたが、現在は楽しんでいます。
 ストーカー中です。

 「ウェルトオブ・イストリア」とゆーゲームが昔ありました。
 フリーシナリオRPGの初期も初期に出たもので、主人公の身長、体重を変えると体格も変化したり、髪形や服装も変えられたりしたのは、あれが初なのではないかと。
 ただ、ものすっごいショボいんですけどね。
 でも、この話には「メインっぽいストーリー」はあっても、それはあくまでも王道であるだけでした。
 魔王を倒す、という王道の他、魔王になりかわるというエンディング程度は当然用意されていました。
 変わっていたのは、職業を極めたところでもエンディングになる、というところ。魔導師なら魔導師、盗賊なら盗賊のギルドの中で地位を上げ(クエストをこなしイベントをこなしていく)、トップに立つとそこで終わり。たとえ世の中は魔王の脅威にさらされていようとも、そんなこと知らんわいと、あるいは気付かないままで、終わる物語にもなったのです。
 魔王ではなく竜と戦うことがエンディングになることもあります。
 さらには、好きな異性(といって名前が違うだけで、台詞も外見も、ほとんどのキャラはなんにも差がないわけなんですが)と仲良くなり、プロポーズすることでもエンディングに。この場合、球根するために必要な指輪を手に入れることと、仕事をこなして一定の名声を得ることが必要でした。
 また、どのエンディングにも向かわずにのらくらと日々を過ごした場合のエンディングさえ用意されていました。

 ラジアータくらいにNPCに個性があり、RPGとしてのシステムもそれなりに面白いゲームに、これくらいの自由度があったらなと思ったりします。
 ……ゼータクはこれくらいにして、まあボチボチとストーカーしつづけています。



2005年2月14日(月)

 他愛ないことの積み重ねが、やがて予想外に大きな結果を生むのかもしれない気がした。
 良いことでも、悪いことでも。

 かつ言えば、人間とゆーものは、これを「良いこと」で想像するのは苦手だが、「悪いこと」で想像するのは得意だ。
 たとば日常の中で、触れ合う人々とのほんの小さな他愛ない軋轢や苛立ちなんかが、やがて溜まりに溜まって大爆発することは容易く想像できるだろう。
 けれど同じ日常の中で、人に向けたいくらかの思いやりや愛情が、やがて大きくなって自分のところに返ってくることを想像するのは、かなり難しい。よほどの楽観主義者というか、ノーテンキな憑き物を持っている人でないかぎり。
 突き詰めれば、そこにあるのは「我欲ゆえ」という答えだろーか。



2005年2月15日(火)

 あるいじめられっ子のことを思い出してみる。

 いじめについて云々語れば膨大な量になるので割愛。
 ただ、思い出したのは「同窓会があっても絶対に出るものか、永遠に許せない」と言っていた言葉。
 まあ許せないのはいい。どうでもいいとも言える。負の感情を自分から背負い込み続けることを望むならそうすればいいし、そんな重荷は下ろしたくても下ろせないなら、私にできることなどおそらくなにもない。
 ただ、聞かされた当時は「同窓会にも出たくない」という言葉にはそのまま納得したのだが、今思うと少し違う気がしたのだ。

 幸い、私らの年代というのは今の子供ほど教育が杜撰だったわけではないから、「いじめ」は悪いことだということは、誰でも理解しているだろう。「だからなに?」という反応をするような大人になっているような奴は、いなかったように思う。
 とするとだ。
 かつて自分をいじめていた者たちを見るのは当然不愉快だろうが、かつて自分たちがいじめていた相手を見るのもまた、至極嫌な気分のはずだと思ったのだ。
 自分のバカさと愚かさの象徴がそこにいる。大人になってある程度の分別もついていれば、痛いのはいじめられていた側よりいじめていた側ではないのかと。

 かつて自分をいじめていた奴等とは口をきくこともないが、奴等にささやかな罰を与えるために、同窓会に顔を出してやりゃあいいのに、と思う。
 みんながみんないじめていたわけではなく、友達として普通に付き合っていた子も少数だがいた。
 その中には、私のような打算ではなくもっと自然に友達でいた子もいるように感じている。
 「あんたたちのことなんか知らない」という態度で、その姿だけ見せてやるのが、今更になってできる一つの報復なのかもしれない。
 まあ、そうすればいいとかするべきだとは思わないが。

 ちなみに、私は私自身のためにいしめには荷担せず、その子とは友達のように付き合った。
 だが今になって冷静に振り返れば、そんなものは全て打算でしかないと言える。
 「いじめられっ子の友達になる」という役割に自分を当てはめて自己満足いただけだ。
 それでも、いじめなかっただけはまだマシなんだろうが。


Made with Shibayan Diary