2004年10月16日(土)
久々に赤川次郎を読んだ。
つくづく、この人はすごいと思う。
なにせべらぼーな数書いている。
無論、中には似通ったものも少なくないし、主人公が女子高生くらいの場合、たいてい似たような発想をしたりもしてるが、それにしても、まるでおんなじでただの焼き直しってのはない。
似たタイプの登場人物でも、組み合わせが違えば味も違ってくるし。
ものすごく心に響き、一生忘れがたい読書体験になる、といった「ゴツいもの」はないかもしれないが、それでもやっぱりこの人は、とんでもない才能の持ち主で、素晴らしい小説家だなと思うのであったよ。
2004年10月17日(日)
今日はまたFF話。
まずは、風のダンジョンをクリアしてきた。
最後はアレか、デスゲイル。
オメガとかほど強く感じなかったのは、こっちのレベルが上がっていたせいもあるのだろーか。LV62。
いや、全体攻撃をしてこないせいだよな、やっぱ。白魔がいないパーティだから、全体回復の手段が武器・防具の特殊効果を利用するしかないもんだから……。
その後、ようやくメインシナリオのほうをクリアしてきた。
アルテマウェポンを手に入れた後では、マサムネもかなり地味。
カオス戦は、案の定全体攻撃にヒヤヒヤさせられるものの、攻撃担当一人、残り三人で回復という、マサムネ装備したナイトが回復役というなんだか哀しい戦闘に。
主力はスーパーモンク……。余力があったらアルテマウェポン持たせた忍者にも攻撃させた。アルテマウェポンはナイトに装備させたほうが良かったな。道中の戦力を考えて忍者にしておいたんだが。
FF2。
やっとまだパラメキア城クリア。
主人公sのHPはのきなみ5500を越え、うかつにレイスだかと戦うと、一発で3000くらい吸われるという素敵なことになっている。まあ、ああいう敵が終盤でバカに多くなるならともかく、どうせごく一部だから……。
リチャードもHP2500、MP200までこぎつけた。
全員の武器の熟練度も、ほぼ9、一部が1という感じに。
SOR対策に、リチャードには最強装備をくれてやってたりする。
ミンウとヨーゼフを剥いてるので(死
まあ、ミンウは素手がLV8だから……。HPも2000近くあるし、なんとかなるだろう。ブリンク・プロテスあたりもLV9くらいにはしてあるし。
2004年10月18日(月)
とにかく優しい人。
とにかくいい人。
とにかくおおらかな人。
実は苦手だ。
だんだん居たたまれなくなるから。
いい人はいい人を集めて自然にいい人が多い集まりになり、私はますますいづらくなっていく。
そこに集う人は気にもしないのだが、「許されてそこにいる」なんてのは御免だから。
そして結局、私は出て行く。
その後に気付く。
いい人ぶってまででも、付き合い続けたい相手なんてそこにはいなかったんだな、と。
ダメな人のほうがいい。
それで平気で人に迷惑かけまくって、平然としてるようなとことんダメなのは却下だが、どうしてもワガママをおさえられなかったり、すごく些細なことなのにスルーできなかったり、そうして人を傷つけたかもしれないことに、自分も傷つく程度の心はちゃんと持ってるダメな人。
ダメな人のほうが好きです。
ダメな自分でがんばってる人のほうが好きです。
自分を「ダメだなぁ」と時々イヤになるようなこともありつつ、前向きなれたらいいと思ってるくらいの人が一番好きです。
2004年10月19日(火)
「大好きだ」と言えるものがあるのは幸せだ。
と、思ってきたし言ってきたような記憶がそこはかとない漠然さと共に曖昧な感じに存在するような気が(←いい加減くどい
少し訂正したい気がした。
ただ「好きだ」では案外なんにもなってないよな、と思ったのである。
単なる逃避先として「とても好きだ、大切だ」という極めて後ろ向きな「好き」もあるから。
少し言い換えるなら、「それのためならつらくても苦しくてもがんばれるものがあるなら幸せでもある」になるかなと思う。
嫌いなものと対極にあるからの好きではなく。
嫌いなものが同居してても構わずに掴み取ってしまうような好き。
七月の半ばにメールをくださった或るかたは、一種の逃げ場としても、創作というものを大切にしておられると感じた。
ただ、それと同時に、より上達するように独学でも勉強しておられるとのことで、こうなると単なる逃げ込み先ではなく、進む道ということになる。
いつか、「その後いかがですか。いつか貴方の絵を見せてもらえませんか。なにかの雑誌に載ったとか、表紙に使われたというならば最上級だけれど、そうでないとしても、満足のゆく仕上がりになったものを、web上ででもいいから」と、いきなりメールでも差し上げようと目論んでいる。
あなたの絵を見たいと思っている人間が一人、ここにいるんですよと伝えてあげたくて。そして、それは単に、つい最近やりとりしたからではないんだという証に、少し時が過ぎてから、と。
ただ、その頃にはメールのアドレスが変わっていないかが心配なのだが。
つらいこと、苦しいことが増えた途端に、「ただの趣味だから」と投げ出してしまえるような、そんな程度でも、熱病にうかされるように「大好きだ」と吼えられるだろう。
そうではなく、困難や苦痛があったところで、「これだけは捨てられない」と泣いてでもしがみつけるほど大好きで大切なもの。
無論、時が流れれば変化してもいい。永遠不変の気持ちまでは言わないけれど、「今この時」、どうしても、他のなにを捨てても捨てられないもの。
自問してみた物好きさん。
あなたの「それ」、やらなくては生きてる甲斐も意味もありませんか?
人から否定されたり貶められたりバカだと言われたり邪魔だと言われたり白い目で見られても、それでも「文句あるかよバカヤロー!」と泣きながら走り去った後には一人深夜に部屋の中藁人形でも作りたくなるくらい、捨てられませんか?
そこまではちょっと……、と言うならばきっとあなたの「それ」は、あなたと切っても切り離せないほど大切で大好きなのではなく、単にイヤなことからの逃避であり、楽な場所と事なだけと言わざるを得ません。
もちろん、自分が安らげる場所・事を知っていて持っているというのも重要なことなので、それでも決しておろそかにしてはならないと思います。
ただ、ちょっと胸は張れやしませんね。
しかしこんなことは、本当に最大級の困難が目の前に立ちふさがりでもしないかぎり、判別はつきません。
まあそれならそんな困難が出てくるまで(出ないに越したことはないかもしれませんが)、楽しまないよりは楽しんだほうが得には違いありません。
そう言やぁ、戦国武将で誰だかが「我に七難八苦を与えたまえ」とか言ったはずですが、あれは、なんだかこういう意味だった気が。そういう環境にないと自分の真価なんてものはちっとも分からないもんだからとかね。
ともあれ私は、小説に限らず文章を書くということについて、そこまで断言できるほどの自信はない。
すくなくとも私にはそんな確信はないので、不安になったあなたと私はオ・ト・モ・ダ・チ(←迷惑
ただ、以前に書いたかどうかさすがに三年もこんなザレ書いてると記憶も定かでないのだが、面白い夢を見たことはある。あくまで夢。夢の中で本音が出るか、それともフィクション性が強く出るかはその時次第。
大地震で家が傾いて、今すぐ逃げねばならないという時。私は、傾いて下がってしまったほうへと、テーブルごとすべっていってしまったフロッピィディスクを、とろうかどうしようか迷うという夢を見たことがある。
迷った。今そっちへ行ったら、それがショックになって家が崩れるかもしれない、と思って。
とりに行ったのかどうかは、実は記憶が定かでない。とりに行ったような覚えはあるのだが、断言はできない感じだ。それでも確かなのは、迷ったこと。すぐさま逃げることはできず、自分の命の危機と天秤にかけてはかる程度には、ちゃんと重要だったことは間違いない。
そう言やぁ、大学生になって一人暮らしのために引っ越す時、うちのおとんが運転するレンタルトラックの中、荷物として積み込むのがイヤで、ワープロのフロッピィディスク、カバンの中に入れて抱えていたなぁ、なんてほほえましいんだかバカなんだかよく分からない事実もある。
そしてこの夏の豪雨。
我が家は浸水寸前だった。
川から溢れた水が茶色く街路を流れる中、バミューダ履いてそれでも仕事に出かけた私もどうかと思うが、ともあれ、このまま増水すれば床上いっちゃうぞというところだった。
我が部屋にあるのはほとんど娯楽品だが、買いなおせるものは惜しくない。単に損害が出るというだけのこと。
ただ、ネタメモや書きかけのSSを突っ込んだフロッピィディスクと、手書きのメモや昔の絵の中でもとっておいたもの(一度は羞恥という試練をくぐって選抜されたもの)は、失ったらもう思い出せないかもしれないっつーかまず思い出せないだろう。
高額の電気製品(ゲームハードやCDプレイヤー、各種ソフトなど)はベッドの上に置き、そこで悩んだ。
流れるなら流れてしまえ、なくなるのもいいかと、これに関しては考えた。
意味も価値もないからではない。ただ、未来の自分にとって、過去のこういったものがプラスに働かず、マイナスに働くこともあると考えると、書きかけて止まってしまっているような勢いのないものは、さっぱり消してしまうのもいいかと思ったのだ。
命同様、自分でなくすほどの気迫も覚悟も必要性も差し迫ってはいないから、天の采配に任せるかと。
今の私にとって書くこと、書いたもの、書いていくものは、この程度には重大な事件ならしい。
2004年10月20日(水)
先日の新聞のコラムでちょっと疑問に思ったこと。
またしても、ネットで仲間を集めてのものと思われる集団自殺があった。
そのことについて書かれていたのだけど。
死のうかと、漠然とでも心底思ってダークな気分になったことのない人にとれば、自殺なんてバカで愚かで無駄で無意味で情けない上に恥ずかしい真似なんだろう。ただそれだけなんだろう。
と思わずにいられないような内容だったが、まあ、そのこと自体はいい。新聞に載せるからにはまかり間違ってもほんのわずかでも自殺を煽るようなことはまずいのだから、どうしても完全否定することしか書けまい。本人には「分かるところもあるんだけれど」という気持ちもあるのかもしれない。
ただ、そのコラムの中で、臓器移植を待ちながら死んでいく人がいるのに、と書いていた。
それ、なんか関係あるのか?
全ッ然関係ないと思うのは己だけ?
生きたい人間がいることと、死にたい人間がいること、なんか関係あるのか?
死にたい人間が自分の命を消滅させることと、生きたい人間が死んでいくこととなんか関係あるのか?
生きたいのにこのままでは生きられない人間にとれば、なんて勿体ないことするんだよ、だろう。
けれどそれは、生きたい人間には生きたい理由があるからでしかない。これからも否応無く生きていかなければならない人間の抱える不安や失望、なんとない絶望感なんてものに縁をなくしたから感じることだろう。
いざ命を永らえたとして、その命にずっと感謝して生きる人もいるだろう。けれどいざ困難や苦境に陥った途端、死にたいと思わないと誰が言えるのか。
死にたいから死ぬ。
死ぬ理由があるから死ぬ。
死ぬ理由を、他人が「そんなことで」と否定するような状況だから死んだのかもしれない。
死ぬしかないというほど切羽詰りもしないだけに、一人では死ねなくて、みんなで死んだのかもしれない。
他人から見れば些細でどうでも良くて、だから真剣に悩んでもつらくても苦しくても、甘えてないでと言われてしまう。
甘えなんだろうがなんだろうが、その人が生き苦しくて仕方ないのは事実なのに。
生きていれば正しいのか。
命は本当に無条件に大切にするべきなのか。
自殺は間違いなのか。
本当に「他に道はあっただろうに」なのか。
些細なことが理由で苦しむのはバカなのか。
どうして自分の命の使い道に、他人に文句つけられないといけないのか。
私は、そう思う。
正しいかどうかではなく、自殺という行為を肯定も否定もしないというスタンスで、ただ、世間の常識に違和感を感じるのである。
これ以上は語るまいよ。「自殺」という行為について言いたいことは腐るほどあるが、それはまあ書かずにおこう。
ともあれ、否定も肯定もしない立場で、ただ真実を知るために、自殺サークルみたいなものの人と話してみたいとは思ってる私である。
知ってどうするのか? さて、知るだけだ。それが人物造形なんかに使われることもあるだろうが、それは流れた先であって目的ではない。
無責任だの不埒だの言うなら言いなさい。そりゃたいそうご立派な倫理観ですねアンタはナニサマですかとツバ吐きかけてさしあげましょう。
私は知りたい。本音を。何故死にたいのかの徹底的根本的な苦痛の在り処を。
簡単な否定も簡単な肯定もしない。私は、他人の命についてあれこれ言える存在ではない。神様とは違うのだ。人の命は人のもの、私にはなにをする権利もない。その程度のことはわきまえている。
ただ知りたいだけだ。その人が苦痛と思うこと、人間の本性みたいなものを。それを生み出した過程と環境を。
その結果、逃げ道を見つけてやれるかもしれない。
誰だって、死ぬことが楽しいわけはない。ただ、生きているのがつらいから逆方向へ走るだけだ。生きることは、生きていてすることの中には、楽しいこともある。それなら、できるなら生きていたほうがいいだろう。
だが本当のことを知らなければ、どの道へ行けばいいのか、本当のアドバイスはできないんだよ。一般論なんかじゃ、誰も救われやしないのだ。
2004年10月21日(木)
FF話。
そういやザレで書いたことがなかったけれど、うちのFF1パーティは「戦士・ただかつ」「モンク・けいじ」「シーフ・はんぞう」「赤魔・ゆきむら」である(死
ええ、まとまりありませんとも!!(←全力で私信
いつも一人全力で真面目に戦ってる戦士と。
てきとーに敵殴り倒してけろっとしてるモンクと。
戦闘にあまり貢献することもなくただついてきているシーフと。
どれもこれも中途半端な能力でせいぜいがんばる赤魔。
「何故それがしが回復係なのだ!?」
「えー? だってオレが一番強いだろ?」
「ええい、そのアルテマウェポンをそれがしに寄越せ!」
「…………」(←お気に入りなのでイヤらしい)
「ほらー、はんぞうさんイヤだって言ってるし」
「ヘイスト・ストライ係に武器なぞ必要あるまいが!!」
「でもほら、余裕あったら攻撃してるし、アイテム使うにしてもただかつさんのが効果高いんだから」
「ぐぬぅ。そもそもいなを白魔で連れてきておればこんなことはなかったろうに……」(←と誰かさんを見る)
「ああ、それはあるねぇ」(←と誰かさんを見る)
「…………」(←と誰かさんを見る)
「なっ、なんだ!? 私が悪いのか!?」
「おぬしの役立っているところなどケアルダだけではないか」
「ライトセーバー装備してもただかつさんより弱いしねぇ」
「…………」
「そのケアルダにどれほど救われているか考えたらどうだ!? プロテアだって毎回……」
「えー? だって、なあ」
「うむ。戦闘中は単体回復より全体回復、移動中なら金が有り余ってカンストした今、全てアイテムでまかなえる」
「…………」
「なんでこういう時だけ一致団結するんだあんたたちは〜ッ!?」
のけ者になる幸村くんでありましたとさ。
で、カオス倒した後はただかつとけいじの頂上決戦なわけだな、うん(←違う
2004年10月22日(金)
警察小説が最近熱い。
『犯人に告ぐ』と『藁の楯』がオススメだ。
どっちも、人間の本音に肉薄しつつエンターテイメントとして成り立ってる。
後者は「その事が」とか「無い」とか、漢字が無駄に多い気はするし、文章自体はそれほど上手いとも思わないが(書き手としてこれ言ったらエラそーにと一蹴されそうだが、これは読み手として言ってるので見逃してください)、設定がいいね。人間のダークサイドをこれでもかと掘り出す仕掛けで。
前者はいろんなメディアでも取り上げられるだろうから、さらっと説明しとくと。
連続児童殺害犯がいる。そいつを捕まえるのに、ニュースで情報提供を呼びかける。それが柱になっている。
これだけだと対して面白そうでもないんだけど、この小説は人物描写というか、作り方、表現仕方が上手いからたまらない。
「被害者より家族のほうが大事」って、これは誰しもの本音だろうと思う。なんの関係もなければ、「まあ可哀想」って言ってられるけど、「じゃああんたんとこの息子人質にくれたら、この人質返すよ」とか言われたら、誰だって「冗談じゃない!」って言うでしょ、たぶん。
ただね、この台詞を刑事が、公衆の面前で言うのはまずかろう。被害者の家族の心情と、自分の職務上の立場考えたら、少なくとも無言でやめておくのが妥当だろう。
だが、主人公の巻島刑事は言っちゃったんである。
こういう人間を、前面に立たせるのである。矢面に立たせるって言ってもいいか。
過去の失敗を抱えた男を中心にして、警察の組織としての建前と本音、メディアの暴力や虚構、人間の裏と表、とにかくそういったものが丁寧に書かれている。
今年のミステリー大賞とるんじゃないか、って言われてるから、これはお墨付き。
『藁の楯』はもっとエゲツない。私好みにエゲツない。
小学二年生の女の子を、暴行した上に殺すような男がいる。しかもそいつは、七年前にも同じようなことをして、先日仮出所したばかりなのである。
孫を殺された富豪のじいさまが、その犯人に懸賞金をかけるのである。このあたりは無茶な話だが、まあそこはファンタジーとして読んでおけばいい。この大胆なファンタジーゆえに、ようやく暴きだせる人間の本性ってものもある。そういう意味では、リアリティのために必要なファンタジーなのだ。
ちなみに、ここで妙な男がからんでくるから、ちょっとサスペンスフルでドキドキもできるぞ。
ともあれ、じいさまは新聞に「この男を殺してくれたら十億円やる」と出したのである。
クズである。まあ、死刑にしていいと思えるようなどーしよーもない奴である。自分のしたことに苦悩してたりしてても、執行猶予なしの無期懲役くらいは食らわせておきたい犯人である。
でも、勝手に殺していいわけもない。
そんなわけで、こいつを守らなければならなくなる警察官たちがいる。
本音はみんな、「なんでこんなやつを」なのだ。
で、犯人を狙う奴らも、エゴ剥き出しになる。
ゾワゾワする。
『犯人に告ぐ』はゾクゾクしたが、こっちのはゾワゾワだ。悪寒に近い。
前者が人間性と社会の暗部を書いたものなら、後者は人間そのものの暗部を書いたようなドス黒さと陰湿さがあって、大変よろしい。
2004年10月23日(土)
ウボァー!!(死
……なんていうかねー、PS版の無意味に美形な皇帝知ってると、この台詞だけで爆笑できるんですけどねー。
と、いうわけで、FF2本編はクリアした。
なんか……笑える台詞がことごとく変更されてるのが、それで正しいはずなんだけど、なんか勿体無い。
だって最後のレオンハルトの台詞、「俺たちは多くを知りすぎてしまった」とかいう感じで、やたらリアリティのないカッコつけた台詞が笑えたんだけどなぁ。
ともあれ、これでやっと、自分のデータでSOR。
案の定タコ殴り白魔ミンウは頼りになる。
防具もなにもないんで打たれ弱さにも定評ありまくりだったけど。
ヨーゼフはどうやら、装備外さなかったらしくて、「おうごんのよろい」とかつけてた。おかげでHP500くらいでもなんとか前衛。
まぁ……HP4000近くまであげたリチャードが、ブラッドソード(右手)とサンダースピア(左手)持って参入したら、他の連中の出番が失せたけど……。
にしてもあのマップって、それぞれジェイドとパンデモニウムの左右逆なんだねぇ、宝箱の位置まで。
さーて、あとはここから、ALL16目指すんだが……。
成長が停止する条件っちゅーか、攻撃しても(使用しても)熟練度加算されなくなる条件っちゅーか、この存在が鬱陶しい。
2004年10月24日(日)
ジョス・ストーンの新譜を買った。
これはもう、視聴機で聞いて、ハスキーボイスの一目(?)惚れ。
一曲目の出だしだけ聞いて、「買いだ!」と。
17歳らしいけど、情感のある歌い方もあってかなり好みだ。カバーアルバムも前に出てるらしいから、そっちも買おうかにょーとか画策中。
更にラプソディとアングラの新譜も入手。
見つけて、ずっと確保していたのをやっと買ってきた
なんでこー、あたしのヒイキばっかり立て続けに出るかなぁ。
ブラックモアズ・ナイトもほしかったけど、ベスト盤はビミョー。
ラプソディは相変わらずオーケストラ突っ込みまくりの、物語をそのまま歌にしてアルバムにしたコンセプチュアルなつくりで荘厳。でも、少しロック、メタル的攻撃性は薄れたかなという気がして少し残念だ。
アングラは……なんか「おお!」と思える曲がなかったな……。ち。
特に洋楽信奉者ってわけでもないのに、ここのところ日本人のCD買った記憶がない。
最後が、柴咲の「蜜」か?
2004年10月25日(月)
自分を悪いほうにとらえるのは簡単だ。
まあ、悪いほうに考えておけば、そこから発生しかねないトラブルも想定できるし、人から見ても、分かってるだけまだマシだとか、「えー、そんなことないよー」くらいだから。
ただ、自分をいいほうに考えるのは、難しい。
自分の価値といったものを、的確にとらえるのは至難の技。
私はSSを書いている。
もちろん、読んでくれている人がいるのは知っている。
「上手いですね」と言ってもらえれば、それを100%のお世辞だとは思わない。
うん、自分でもそれなりに上手いとは思ってる。さもなきゃ人に見せない。
ストーリーテリングとか構成に関してはともかく、ごくまれに着眼点、そして文章力そのものだけなら、ちょっとしたプロにも負けていないと思ってる。
だが、「これは自惚れだよなぁ」と思っておくことにしている。
だって、そんな判断は自分の思い込みであって、世間からの多数決的な評価ではないから。
たとえ世間的な評価でそう言われたとしても、世間、大衆というものはまやかしにだまされやすいものだから。
そんな私でも、このサイトに来てくれている人が、どれくらい私の話を読みたいと思っているかについては、自戒の意味でも、かなり低く見積もるようにしている。
空振りしてたら恥ずかしいからだ!
だが思った。
ある程度は空振り覚悟で自惚れてもおいたほうがいいこともあるらしい、と。
2004年10月26日(火)
家庭じゃ絶対無理なレベルに美味しい、
「刺身食べたいー」
「天麩羅食べたいー」
「エビフライ食べたいー」
と、駄々こねてたら。
「じゃ、食いに行こう。この間の競馬でボロもうけしたから★」
と、そこにいた友人に言われた。
そしてあっちへこっちへと、一日中食べ歩きツアー♪
たまには自腹で食えと言われそうな寄生虫人生。まあいいや(←よくないだろう
まずはお昼までに名古屋へ。えんびふりゃーを食べる。
しかも、無闇にでかい。
更には、本当にエビフライを食べるのであって、定食などではない。
さすがに揚げ物だけをもしゃもしゃと食べるのは大変なので、グレープフルーツを脇役にした。
ただ、私の生活サイクルだとこれが「朝食」にあたるので、いきなりえびふりゃーはつらいものがある……と思うのは大間違い。バイトがなくて家にいればおきてすぐ、家人は夕飯。夕飯を起きて1時間もしない内に食べるのも日常的な私に、えびちゃんの二匹くらいは造作もないことである。
そのまま夕方から夜にかけて京都へ。てんぷらを食べる。
さっくさくのふっわふわだ!
あっさりと薄い出汁で素材の味をいかしたうんたらかんたら私には説明不能。
魚介節足類系は昼に食べているので、ここではもっぱら野菜ときのこに入る。
あー……れんこん美味かった……。
そーして深夜にかけては我が地元に引き返した後多少北上、とある港町へ。
が、ここでとりあえず一泊してしまう。
だが寝ない。寝てたまるものか。
そーして朝、私にとってはやや遅めの「夜」に相当するこの時間、たった今とれたてのものを含むさしみのフルコースだ!!
ぷるぷるつやつやですよ。
それはそれとして、朝一番から、普通なら夜にしか出さないようなコースを造るハメになった料理人さんたちにはいい迷惑だったかもしれないが、気にしないことにする。何故ならそこは、このツアーに連れて行ってくれた友人の実家で、包丁をとったのはその友人なのだから★
ちなみに厨房脇の、職員の一服する間で食べますた。
はー……。
車の中でも食い物の話しかしていなかった記憶がある。
あそこのあれが美味いだの、これはああするといいだのと。
うちの毎度の飯も……。
いや、そんな愚痴というか笑い話は明日分にしよう。
2004年10月27日(水)
うちのおかんという人は、カレーにしめじ入れるよく分からない人である。
「なにかおかしいの?」
と思ったあなたは少し問題であるぞ。
よろしいか? カレーなんていう強烈な個性の中では、きのこの風味なんてものは消し飛んでしまうのであるよ。つまり、よっぽどの職人さんがいろいろと工夫するのでもないかぎり、「きのこの味」なんてしやしなくなる。つまり、入れる意味がない。単なる水増し材料で、だったら寒天入れたって大差ない。
五十年は生きていて三十年くらいは台所でほぼ毎日食事の支度をしながら、「料理は応用」と言いながら、「食えるもの」は作れるし知ってても、「美味いもの」についてはなんにも分かってないのうちのおかん。
あんたの「応用」は、あまりものを適当にぶちこむことかい!?
毎日毎日作るんだから、料理が大好き!とか、美味しいと言ってもらえることが私の生活の中の唯一の潤いよ!というんでないかぎり、食えるものでさえあればいい、となるのは仕方ない。
それにしても、それにしても……。
油汚れのひどい皿を今一緒にここに突っ込んだら、さして汚れてない茶碗まで油まみれだろうがよ!?と言いたくなるようなことも頻繁に。流してからいれてくれ、せめて。なんで洗う手間を増やすんだよ……。
なんどうも、炊事というものについて偏ったテクニックしか持たない人である。
簡単に作れるおかずとか、100円レシピとか、本も出ている。
いや、そんなものを買う必要すらない。
本屋勤めだから、雑誌なんかの付録にそういうものがあれば、もらうことができるのだ。
いつも使っている食材と同じものを使ってできるほかの料理を試し、レパートリーを増やせば、毎度の食事の献立を考えるのだって楽になるだろう。
作家の池波正太郎先生は、その日食べたものだけを記した日記をずっとつけていたという。で、奥さんが献立に迷ったら、それを見る。そうすると、ここのところどういうものを食べていたかとか、以前にどんなもの作ったかとかが一目で分かる。しかも池波さん(旦那)の一言があるのだから、「これは好評だった」ということまで思い出せるだろう。
とりあえず、珍しい材料を使わなくてもできるものを作ってみて、美味しければレパートリーに入れればいい。そうして増やしていって、同時に簡単な「夕飯の献立日記」みたいなのでもカレンダーに書いておけば……。
楽になるのはあんたじゃないのか、え、おかんよ?
毎度食事を作りつづけてくれたことには感謝している。が、うちのおかんのしていることは、「食事の用意」ではあるが、「料理」ではないと思う。
単に苦労が増えるだけのことなら、してくれとはとても言えないが、自分だって楽になるんだからさぁ……。
新しい料理に興味持とうよT□T
そーして逆に私は、実験の結果失敗したざっぱんをもそもそ食べるのであった。
……なにしでかしたかって?
刺身のタコが余っていたんで(これはおかんがスーパーで買ってきたヤツ)、細かく切って炒めてごはんに混ぜたんだが、味付けをミスったのであるよ。素直にショウユにしておけばよかった……ッ。
……でもまあたぶん、わざとショウユを少し焦がしながら炒めて(要するに強火にかけたフライパンの上に流す。材料の上にかけるのではない)砂糖でも少し加えて調味したものを、おかか&あさつきと一緒にごはんに混ぜ込む、くらいなら美味いんじゃないかと思われる。味が足りなかったらショウユかければいいはず。少し変わった味がいいならマヨネーズもいけるはずである(ただしこっちは絶対にかけすぎないように。小皿に出しておいて、少しつけてから口に入れるくらいのほうが間違いなく安全。味付け海苔で巻いて食べるのもいいかもなー)。
2004年10月28日(木)
必死に必死に、自分で吐き出した霧の中へ浮かべた蜃気楼にしがみついている。
追従だろうが媚びだろうか、自分をたたえてくれるものには卑屈なほど寛容で、疑うことをせず丸呑みにして自分を慰撫し安堵させる。
他人も、いちいちそんなヤツの相手をするのが面倒だから、適当に褒めて適当に相槌を打っておく。そうすれば自分にとって害にはならないから。
そうしてますます肥大した妄想の中に閉じこもり、尊大で脆弱な自意識と添い寝して過ごす。
こういうタイプの人物には、
「おまえのやってること言ってること、めちやくちゃくだらねぇしつまらねぇよ。バカじゃねぇの?」
と、白けた目と共に言葉の石一つぶつけてやれば、呆気なく崩壊するのが関の山。
そう言われても信じることのできる自分自身が、はたしてあるか否か。
哀しいから怖いから捨てるのか。
哀しくても怖くても持ち続けるのか。
私は、くだらない小石に揺るがないほど大切なものを持ちたい。
人が認めてくれるかどうかには関わりなく大切なものを。
人になんと言われても、大切に抱えていられるものを。
そのためには、自信を持つだけのことをしていないと駄目なんだろうなと思う。
ありていに言えば、努力だ。
上手くないかもしれない。でも、少しでも上手くなろうとして頑張ってきた。
今は駄目かもしれないけど、今駄目だからってやめたくない。駄目なら、マシになるまで頑張る。
そういう、「そのことを大切にする気持ち」は自然に努力につながるだろう。
努力を美徳として行う苦しいのを我慢するだけの「努力」ではなく、好きだから当たり前に頑張ってるという、ただそれだけのコト。「努力」なぞと汗臭い言葉にしたくはないのだが、適当な言葉が思いつかないから勘弁だ。
んーむ、野ばらさん流に言うなら、「恋」なのかもしれないなぁ、それは。
(注:「野ばらさん」とは作家の嶽本のばら氏である。ロリータ大好きな男性で(更に注:ロリコンではない。ロリータファッションが好きなのだ)、独自の美学に基づいて、いくつかの小説・エッセイを出している。「下妻物語」はつい最近、映画になったろ。私はロリータファッションどころかファッションやブランドにもほとんど興味ないが、「自分の存在意義」というより「私が私であるために必要なもの」に対する果てしなくエゴイスティックで一途な物思いは、分かるところがある。好きなものに対してどこまでも従順で強欲で誇り高くあれ、というヲトメの姿勢には、アコガレを覚えてしまうけっこう好きな作家さんだったりする。まあ、最近のはどうも、昔のものより毒も華も薄くなった気がするけれど。)
2004年10月29日(金)
今年は(というにはまだ終わっていないが)、あちこちで大き目の災害が相次いでいる。台風もこれでもかというくらいに上陸しまくってくれた。
自分トコも夏に水害に遭ってるんだが、幸い我が家は、あと2センチくらいのところで浸水しなかった。しかしバイトの仲間では一人、モロに床上きた人もいたりしたし、新潟出身の学生くんもいたり……。
まあ……テキトーなことは言わないでおきたい。
家も壊れて途方に暮れているような人に、遠くから言うだけの言葉なんて、いい加減にしか響くまいという気もするし、実際いい加減だろうし。っつーか、本気で「かわいそうに」とか思うなら、ボランティアで復興手伝って来いというわけでね。
ただ、よりにもよって冬に向けてかよ、とはホントに思う。
あとは、立ち直るかどうかは、本人次第でしかないんだろうなと。神戸の人たちも、それ以前に大きな震災にあった人たちも(自分の地元も大震災で一度壊滅してるのだ。私が生まれるよりはるか昔だけど)、立ち直って今までやってきて、ここにいる。きっつい言い方すれば、言い訳なんてできないのだ。こうなっちまったんだし、先人たちは立ち直ってきたんだから。
だから、「なんでわしらがこんな目に!」という怒りとかでもいいから奮い立って、コンチクショーと災難に負けない人がいたら、きっと心強いと思う。
自分の不幸を嘆く人ばかりでは、きっとやってらんないだろうから。
……どうもニュースとか見てると、放心するのも不安なのも分かるけど、そういう人しか映らなくて、そのことが気に入らない。そんな弱い人しかいないわけじゃないだろうに。
こういう時、外部の人間には迂闊なことは言えない。だから、被災者の中から、「このくらいがなんだよ」と言ってしゃかりきになれる人が出れば、それこそが本当に心強い希望なんじゃないかと思うのだ。だって、「このくらい」と言うためには、絶対に自分が動いていないとならない。「このくらい」と言ってもおかしくないくらい熱心に、精力的に、活動していなければならない。そんな人の姿は、なにより励みになるだろう?
「助けてください」な雰囲気全開でどんよりしてるより、「やってやるぜ!」と困難に立ち向かわんとしてる人の姿のほうが、より部外者の心には響く気がするのは、私だけか?
私なら、でしかないが、茫然と座り込んでのろのろ流されてるだけの人は、ほっとく。てめぇの人生てめぇでケツ持たんでどうする、と思うから。けど、空元気でもいいから乗り越えようとしている人には、手を貸したい。そういう人の背こそ、支えてあげたいと思う。
そんなわけで、半泣きで「でもなんとかなるから!」と笑った声を出した友人のため、しばし新潟行ってきます。
2004年10月30日(土)
意外かもしれないしそうでないかもしれないけれど。
私は基本的に、ヤオイはダメである。
パロディ限定でOKなだけで、本編からしてそのテのものは、受け付けない。
昔BASARAを読んでて、アゲハが身代わりになったシーンが「うげぇ」ときて、それっきり売り払った経験がある。
マジでダメなのだ。オリジナルの、本編からしてそういう設定になってるモノ、そういうシーンのあるモノは。
本物のゲイ雑誌とかの本物のゲイ小説とかマンガなら面白いんだが。ああいうのとは根本的に、決定的に違うんだよねヲトメのヤオイは。
安直にそういう環境に陥らせて順応できると思ってるご都合主義に我慢ができん。
たとえば。
あのなぁ、オカマちゃんだって、いきなり掘られりゃ激怒したりひどく傷ついたりして、立ち直るのには大変な苦痛が伴うのに、普通の男がそんなもんに順応できるわけがねぇだろうがよ。
と、思ってしまうのであるよ。
パロディという、「ありえない話」「本当はこうではない話」限定でしか我慢できないし受け入れられないし楽しめない。
いろんなジャンルであれこれ書きながら、実はこういう絶対的な枷があったりするのである。
パロディか否かってだけでそんなにスタンスが変わるものなのか、と自分でも意外に思ってるんで、そこはツッコまないように。感覚的に生理的に、こうなのが事実なのだ。
面白いと思って読む人、面白いと思って書く人、それはそれで私には関係ないし、そのこと自体をどうこう思いはしない。「ああ書いてるのね」「ああ読むのね」「ああ好きなのね」なだけだ。ただ、私は面白いとは思わないのだから、そういうものは勧めないでいただきたい。市販のものも含めて。
2004年10月31日(日)
あーまーどこあ。
買ってきたですよ「ナインブレイカー」。
でもそんなことより!
ジルオールのインフィニットが2005春発売決定!!
絶対、買う。
それだけ。