烏の足跡



2004年9月16日(木)

 四人で2万七千円。
 焼肉と飲み代。
 これで「高くついた」とおごったくれた人が言った。無論、それだも楽しい時間を過ごせたことに文句がないことは書いておくとして。

 日ごろそういった恩恵にばかりあずかっている身で言うべきことでもないが、
(安いなァ)
 …………………。
 二人で十万飲む人間に、まっとうな勘定ができるはずもなし。

 その人が、今月で仕事場からいなくなる。
 嫌う人もいるけれど、私は、とても好きな人だった。
 厳しく、理論的で的確に仕事する人ばかりでは、つまらないのが世の中だから。
 異動になる前になにかプレゼントしたいと思いながら、その人の好みがわからない。
 おいしい日本酒でもあげようかなぁ。ちゃんと、自腹で買って、ね。



2004年9月17日(金)

 家族だから、という理由で省略している「ありがとう」「ごめん」があると思う。
 それが多ければ多いほど、その家族はギスギスしてるのかもしれない。
 他愛ないことでも「ありがとう」と思うためには、「してもらって当然」というおごりがあってはいけないから。
 つまり、他人よりは近いとしても、ちゃんとした距離(礼儀といってもいい)があるほうが、円満にいくんじゃないだろうか。

 親から子でも、子から親へでも、夫婦、兄弟の間でも、なにかしてもらったら気軽に「ありがとう」と言うことが当たり前の家族というもの。
 なにかまずいことをしたら、笑ってごまかしたり、ましてや逆ギレしたり無視したりせずに「ごめん」と一言だけでも謝ること。

 子にそれを言わせるには、親がまず言わないとどうしようもない。
 お母さんからお父さんへ、あるいはお婆ちゃんからお母さんへ、お父さんからお母さんへ。
 そしてまた、「ありがとう」といってもらえるようなことをお互いにしてあげる心がけも、いいかもしれない。
 なにもかもあたりまえにはせず、今日はお父さんがお母さんのかわりに皿洗いしてやろう、お母さんは「ありがとう」。そのかわりちょっと気をきかせて、お風呂上りにビールでも用意しておいてあげれば、今度はお父さんが「ありがとう」。次にお風呂に入るおじいちゃんへでも、新しいバスタオルを「出しておいたからね」と一声かけて、おじいちゃんが「ありがとう」。
 「ありがとう」があふれている家族は、きっといい家族なんじゃないかと思う。

 普段言わないのが当たり前になってしまっているとしても「いまさら」と思わずに、醤油とってもらったら「ありがと」、ちょっとしたタイミングでも、言おうと思っていると、いいかもしれない。



2004年9月18日(土)

 ガーン……。PCのユーザー辞書が壊れた……T□T
 修復はしたけど、登録した無数の単語がすべてパアでございますよ。
 やれやれ。

 で。
 戦国無双猛将伝、やってます。
 詳しいことは無双戯言にて。



2004年9月19日(日)

 「トロといっぱい」のせいで……またダンテ様な変な夢を見た。
 何故にトロでダンテが出てくるのか? 答えは簡単。「ダンテ」と教えたから!
 しかも「ダンテさま」と呼ぶようにしつけた!
 まあ、なんでそんな言葉教えたのかといういきさつはこの際不問に付して。

 トロたちの「ごっこ遊び」の中に、「新種のウィルスか!?」というのがあって、要するにバイオハザードなのである。新種のウィルスのせいで次々に人がゾンビになっていった、という設定で、まだ無事なトロ(こいつがプレイヤーの役(マネ)をする)と、相棒のクロがおはなしする。
 そんなものを見たせいでか、そのまんま、ダンテ様と共に、魔物だのゾンビだのが徘徊する町の中を逃亡する夢を見た。

 夢というものはミョーなのが当たり前だが、前回は黒服相手に、逃げつつもそれなりに戦ってたはずの夢の中の私が、今回はただ怖がってるだけでございました。ダンテ様の腕にしがみついてネ。
 初めてバイオやった時みたいに、いつ出るか、ここ出そうじゃないか、とビクビクしながら進んでる。ダンテ様に本気で「道の真ん中歩こうよ」と訴えてる。何故って、歩道とか歩いてたら路地への曲がり角がすぐ傍にあって、そこから飛び出してきたら逃げられないかもしれないから。いやー、リアル。「こんなものくらい怖がるなよ」と仕方なさそうなダンテ様のあきれた視線が痛かったデス。
 俺は悪魔狩人じゃない民間人なんだっつーの!! と心の中で反論しつつ、そんなこと言ってダンテ様の機嫌損ねて置いてきぼりにされたらたまらないので、我慢我慢。
 ちなみに、「ダンテ様の腕ってけっこう硬いし太いなぁ」とか余計なことも考えているあたり、状況分かってるのか分かってないのか己。ああ、でも掴まり心地はたいそう良ござんした。

 「半分悪魔だと、ウィルスって効かないの?」とか細かいツッコみを無視されたりしつつ、ふと思い出したように「おまえも無事ってことは効いてないんじゃないのか?」と、要するに「おまえも半分悪魔なんじゃないのか」と言われつつ、「俺は100%人間だもーっ」と思いつつ(人修羅ではないらしい)、てくてく歩くうちに、都会風の市街を離れて、ひなびた田舎風景の中に。
 何故かそこに、私の通った小学校があり、そこには無事な人がみんな集まっているということになっていた。
 で、体育館の窓から、「早くこっちに来いよ」と切羽詰って呼ばれるんだけど、私は「なにかあやしい」と感じてしまう。自分たちが無事な以上、他にも無事な人がいるのもおかしくはない、と分かっているけど、ここはゾンビの巣窟、ここに元凶になったヤツがいる、と確信っぽく感じてしまうのだ。で、行こうとするダンテ様の腕にしがみついて、「やばいって」とひたすら止めた。入ったらおしまいだ、と心底思ってて、それくらいなら町の中のほうが安全だ、と。

 ここから少し時間が飛躍するんだけど、ふと気が付くといつの間にかダンテ様とはぐれていた。
 どうやら、なにかをとりに行くと言って別れたっきり、待ち合わせに失敗したらしい。
 普通に道を行くと怖いから、と何故か裏路地の塀の上とか歩くワ・タ・シ。そのほうがよっぽど、襲われても逃げようもないだろうとは思わないあたりが夢。
 というか、気が付けば、ゾンビは地面の上しか歩けない、というルールが存在していた。だから高い塀の上なら安心らしい。
 案の定、足元にわらわらとゾンビが集まってきても、のぼってこれずに手をのばすだけで(そのゾンビの群れの中に、中学時代の知り合いの顔が二つほどあった……)、足を掴んで引きずり下ろそうとしてくるのを、ひたすら蹴りつけて逃げた。
 そして突然。
 「ダンテ様もゾンビになってるんじゃ!?」と閃くというか、思いつくというか、怖い考えになってしまって、ボーゼンとした。こういう時、「そんなことはないはず」と自分に言い聞かせないあたりも不自然だが、まあ気にしない。

 その内、昔の実家の近くにあった地下道に辿り着くんだけど、そこが妙な食肉加工場になっていて、その巨大な加工マシーンの中を通って逃げないといけなくなる。マシーンが置いてある場所は広いから、普通に外を走ってもいいだろうに。
 そのマシーンの中は、加工のために肉を切る刃物とかが襲い掛かってくる一大スペクタクル(?)だけど(しかも真っ赤で、生物の体内みたいに見えるあたりもゲームのしすぎだ己)、100%人間のくせに、ひらりひらりとそれはかわして走れるあたり、己はいったいなんだったんだろう。
 で、走り抜けて外に出ると(そのときには何故か、このマシーンは豆腐製造機ということになってた……)、「ダンテ様が死んじゃった」ということになっているのもまた不思議。しかも、出たところに置いてあった旅行用の大きなバッグがダンテ様のもので、それがそこにあるということは、死んだということ、らしい。(冷静に思い返すとおかしなところ。出た瞬間に「死んだ」と思って、その後でバッグを見つけて、「これがここにあるということは」と思う、逆転の構図なのだ)
 猛烈に悲しくなりつつさらに途方に暮れて、でも後ろから追ってくるゾンビの大群は恐ろしくて走り出したところで、夢は支離滅裂になり、ゾンビなどという概念は消えうせて、何故か待ち合わせていた友達と、遅れたの遅れないので口論するだけになった。待ち合わせていたのはダンテ様のはずが、いつの間にかその友達(ちなみに知らない奴)になってたヨ。

 ところであのバッグの中身、宝石?(←そのオチか!



2004年9月20日(月)

 なんというかまあ……見てられなくなったので、PSOのSSは半分近く撤去した。
 つか、笑えるよね?
 悲劇的な過去だの特殊な性質だのって、扱い方間違えたら単なる喜劇でしかない。
 他人のものを見て、「うわ、こいつ恥ずかしくないのか、こんなコト書いてて」と思った途端に、果てしなくイヤになって消した。
 一度は「クォリティの低い、見せる意義のあまりないもの」という基準で削り、今度は「自キャラの設定なんぞに酔ってるハズカシー代物」を消し、結局、全体では半分くらいの数にまで落ちた。

 パロディならともかく、自分で設定した自キャラは、相当慎重に扱わないと道化になる。
 ある程度突き放して見ることができないと、この罠に落ちる。
 SLEEPING MOONは出し惜しみが膨大な量あるせいで、今のところある程度抑制が効いている。これを維持しなければなるまいよ。

 ありきたりなのは、パロディのオイシサだけでいい。
 オリジナル要素が圧倒的に強いなら、萌えで動かした程度の道化姿で人に見せたくはない。



2004年9月21日(火)

 魚は陸の上を歩く感覚を知らないし、鳥は水の中を泳ぐ感覚を知らない。
 魚にとっては泳ぐことは造作もないことで、鳥にとっては飛ぶことは生きることそのものと大差ない。

 魚の中にも肺呼吸できるのがいて、いくらかは陸地を歩ける。彼はエラ呼吸しかできない魚を見て、「なんで陸に上がる程度のこともできないんだよ」と思うんだろう。自分を基準にして。



2004年9月22日(水)

 人に好かれようとするのをやめてしまう。

 これをプラスに考えれば、それで初めて自分らしくあれる。自分の言葉で喋れる。
 これをマイナスに考えれば、傍若無人になる。ジコチューになる。

 要するに、問題なのは「過剰に」という部分なのだろうか。
 好きな人にだけ好きになってもらえればいい。
 そう思う反面、大して好きでない人からでも、否定されたり冷たくあしらわれたりすると、傷つくことがあるのが人間。

 私は私。
 その私の欠点を「おい〜」と思いつつ、いいところもあるからそれでいいよ、というのが心地よい距離。



2004年9月23日(木)

 デジタルデビルサーガ。
 案の定続編かよ!
 ハナっから一本のストーリーにして出せよ!
 入りきらないほどボリュームあるわけでもないくせに!!

 なんつーか、DDSの続きは、完結するのかどうかといったことや、1のデータをコンバートできるかどうか、それはどれくらいかといったところを確認するまで買わないと思われ。

 ところで、ペットボトルやカン、紙パックで売っている「紅茶」なるものは、どうしてあんなにも、なんの味かわからない味をしているんだろう?
 コーヒーなんかは、たしかにコーヒーの味なんだが、紅茶については、どう考えても紅茶の味をしていない。完全に別の飲み物だ。
 謎なり。



2004年9月24日(金)

 先日、BOOK OFFで肉U世のコミックスを何冊か買ってきた。
 その中の一冊に、スリップの半分に切ったヤツが挟まっていた(スリップというのは、本についている短冊のコト)。
 その裏面に、名前と住所、電話番号が書いてあった。

 なんなんだろう?
 なにかメモしただけのものを、うっかりはさんだままにしてしまったのか。
 それとも、こうしておけば物好きな誰かがふと電話したりしてくるかもしれないと、悪戯でもしたのだろうか?

 ともあれ、その字がとてもきれいで、うらやましかった。
 文字はある程度、書き手の性格を出してしまう。
 特に、自分の名前を書いた文字をよく観察すると、ある程度のことは分かる。いや本当に。
 右上がりで勢いのある、枠からはみだしがちな文字で書かれた履歴書を見て、「この人めちゃくちゃ我が強いし短気だよ」となにげなく言ったら大当たりで、ささいなことで脅し文句みたいな啖呵きって出て行ったという事実もあったり。
 こんな整ったきれいな字を書く人なら、それなりに落ち着いた思考の持ち主だろう。字画を省略せず、ハネやトメをきっちり出すには、慌てて殴り書いてはいけないわけだ。それだけの余裕を持って丁寧にペン先を運べる人は、少なくともせっかちではないと言えるわけ。
 なんとなく、コミックスの合間にメモをはさんでしまう、というシチュエーションを作りそうにないと感じる。それよりはむしろ、ふとした悪戯のほうがありそうだ。
 軽い悪戯。でも、その瞬間にはなにか、どうしようもない、ムズムズとうずくような爆発の小さな種でも抱えていたんじゃないか、などと想像してしまう。こんなことしてなんになるんだろう、と思いながら、なんにもならないし、だからどうしたいのかも分からないまま、一画一画、自分の所在や名前を書いて、自嘲気味に笑いながら、もしかするとそのコミックスは自分のものではないのかもしれない。

 とかなんとか。
 真実は知らない。電話でもかけてみれば判明するのかもしれないが、そんなことをする気はない。
 ただ、こんなふうに考えて数分間、普段とは違った思考をさせてくれた、面白い紙切れだった。



2004年9月25日(土)

 あたたかい一方の人はいない。
 つめたい一方の人もいない。
 優しい一方の人はいない。
 厳しい一方の人もいない。

 あたたかい人の中にもつめたい部分はあるし、つめたいたい人の中にぬくもりがないとも限らない。優しい人も時には怒るだろうし、厳しい人もつい甘くなることはある。
 もし一色にしか見えない人がいれば、その人はおそらくかなりの無理をしている。本人に自覚があるかどうかは分からないし、その無理を苦痛と感じているかどうかも分からないが。

 久々に、八つ当たられてもらい泣きしそうになった。

 明るい自分、頼りがいのある自分を、演じつづけることはないじゃないかと、言葉だけなら簡単に言えるが、弱さを見せて侮られるのがイヤだという気持ちも、よく分かる。
 プライドが高く、優秀で、だが少なくとも、私を相手に泣き喚くのだから、それが全ての人じゃない。
 そして、そんな姿を見たことで、私はもっとその人のことが好きになった気がする。



2004年9月26日(日)

 心がゆったり落ち着いていれば、たいていのことは「まあ仕方ないか」とか「うん、いいよ」とか考えられるし、「違うよ」と言うにしても、穏やかに冷静に言える。
 暴言や短気、感情の過激な起伏は、心に余裕がないせいだと、ひどく納得してしまう。私は、だけど。
 物事もあせるばかりで進まなくなるし、見えるものも見えなくなる。

 ご本人の「つもり」は別かもしれないけれど、私はある言葉を読んでそう思ったというわけで。
 ギスギスした発言の多い人なんかは、どんなに大したことないフリしてても、実は自分のことすらろくに見えないくらい、いっぱいいっぱいなんだろうなぁ。
 ……半分は己のこと言ってたり。

 おおらかさ。
 これは性格と性質。
 けれど、「私はそういう性格じゃないから」というのは、単なる怠慢と逃亡。
 今より少しでも、なら誰にだってできること。
 どうすればいいかは、心の中のことだから、簡単にこうすればとは言えないし、見つからないだろうけど。
 ただ、もしかすると、素直に大切に思えるものがあり、それを大切にしている人は、いくらかのやさしさや余裕を、しっかりと持っているのかもしれない。そんな気がする。

 と、あるところの日記を拝見して(今日ではないけれど)、つくづくと思ったのだった。いい言葉書いてありました★



2004年9月27日(月)

 水商売のススメ。

 久々にまたやりたくなった。昔半年ほどだけ、どうしてもお金が必要で勤めていたことがあるのだけれど、今あらためてまたやってみたいと思うのは、金のためではなくて。
 あらゆるサービス業の中で、自分自身を売る(体という意味ではなく、トークや気持ちのこと)唯一の職業と言っていい。
 たとえば小売業などもお客さんに直接接するが、お客さんが買っていくのはあくまでも商品で、接客態度という「私自身」は案外どうでもいい。よほど悪ければ文句言われるだけで、たいていは、店員の態度が多少素っ気無かろうと、身近にあって安ければ利用する。

 水商売は、自分がついた客にとって、自分がなにになれるか、なにであるか、それだけがすべてで、それが稼ぎに反映される。
 気分の良さを売るだけの道化として大金を稼いだのは、過去のこと。
 今やるなら、本当の接客をしたいと思う。
 自分がその人にとって、「ホスト・ホステス」としての範囲でいいから、なにになれるか、なにであれるか。それを試してみたい。

 というのも、今日(24日)久々に、遊びに出かけた先で友人からヘルプ頼まれ、臨時でちょいと働いてきたんだが、ヘルプの気楽さでついつい、この人は何故こう言うのか、どんな返答を求めているのか、本心はどうなのか、本当はどうしたいのか、なにを期待しているのか、本当に求めているのはなにかetc考えつつ、おべっか使う気はなくのらくらあいてしていたら、面白かったから。
 あえて私に「また来る」という一言を言って帰ってくれた人がいた時に、この数時間、私はその人にとって、他では得られなかったなにかになっていたんじゃないかと思うと、妙に感動した。

 お金をもらっているから、仕事だから、私自身のワガママは出さない。
 けれど、媚び売って機嫌とって巻き上げようというつもりもない。
 あえて出さない部分はあっても、嘘や偽りは言わない。誠実さだけを出して(一応あるらしい)あえて親身になって隣にいる。
 仕事で、数時間のことだから、できる。
 日常がこれで、あれが自分の友人だったらストレスたまって仕方ないが。
 たとえそういう制限つきでも、誰かのなにかになれたらしいのは、とてもうれしかったのだ。
 おだてでもいい、見え透いていてもいいから持ち上げてもらいたい、感心されたい、同情されたい。そんなつもりで来る人も、では何故そうなのかまで突っ込んで見てみれば、上っ面で求めているものとは違うなにかが、あるかもしれない。

 毎日やってたら息が詰まる。
 けれどお金をもらっているからと、自分のワガママは全て封印し、とにかく本当に相手のことだけを真剣に、誠実に見つめ、考える、ということ。
 まあ、それをやらせてくれるだけの、意識の高い店でないと意味はないんだが。



2004年9月28日(火)

 自分では「あの人は私に関心を持ってくれている」と思っていても、実はどーでもいいのかもしれないこともある、この世の中。

 かつて仲の良かった人が、今も仲良しのままとは限らない。
 私はたまに、リセットすることにしている。
 たとえばこの巣でいうなら、とりあえず昨日、一昨日くらいにメールくれたりした人はともかくとして、半月も音沙汰がなければ、もう来なくなっている可能性もある、と。
 別に悲観ではない。
 来てくれているかもしれないが、来ているはずだとは決して言えない、というニュートラルな状態である。

 半月前までは仲の良い人がいて、それは本当の好意だったとする。
 だが今は、見せ掛けのものになっているかもしれない。
 半月の間に、私の見せた自覚のないなにかに幻滅し、もう見向きもしていない可能性が、ないとは決して言えない。

 少しも変わらない、と信じ込むのも。
 変わってしまっている、と信じ込むのも。
 どちらもただの思い込みだ。
 変わっていないかもしれないし、変わっているかもしれない。
 まだなにも確かめていないし、確かめたそれが真実とも限らない。
 世の中はいつだって不確定。
 思い込みだけが、世界の輪郭を確定する。

 では答えのない問題。
 不確定なものだと、常にそれを意識しているほうがいいのか。
 思い込みを利用して、都合よく解釈していくのがいいのか。
 解答ではない回答。
 時と場合により、使い分けるのが利口。



2004年9月29日(水)

 まかり間違って夜9時に布団に入り、朝4時に起きてしまったがため、お茶のペットボトルを一本持ち出し、暇つぶしにのらくらと、サイクリングに出かけた。
 無謀にも、10年ほど前に行ったっきりの場所へ、地図も確認せずに「まあ川沿いに行けば見知ったところに出るだろー」くらいで向かう。

 ……やはり無謀だった……。

 しかもあちこち工事されていて、通れなかったりしていて迂回を繰り返し、気が付けば、辿っている川がこれで良かったのかどうかも分からなくなっていく。
 とはいえ、どうせ暇つぶし。
 ふーらふらと河原の道を走ってみる。

 いつもはやたら高いところを飛んでいる記憶しかない鳶が、やけに低空を飛んでいてぎょっとする。君は私になにか言いたいことでもあるのかと言いたくなるくらい、近くに来るのである。頼むから私の周りを回るんじゃない、鳶くん。
 バッタも飛んでいる。跳んでいるのではなく飛んでいる。しかも奴等は、逃げるなら逃げるで真っ直ぐ飛び去ればいいものを、妙に方向転換する。たぶん、この道中で四匹くらいは轢き殺している。
 ちょうちょも飛んでいる。トンボも飛んでいる。
 彼岸花が咲いている。コスモス(?)も咲いている。
 純粋な地平線とはいかないまでも、ほぼそれに等しいほどに開けた平野の中を流れる川である。ゆるいものの向かい風だったので、聞こえるのは耳元の風の音だけ。視界の五分の三くらいは空。

 唯一気になるのは太陽光線。普通の人間なら気にもならない程度の日差しでも、私には充分に有害なのである。シャレ抜きの夜行生物だから。これくらいの日差しなら、と思って出かけたが、予想外にじりじりする。
 とはいえ、日ごろめったに出歩くことのない身。なんとなく胴回りの肉付きが気になってもいたので、ちょうどいいやとお散歩お散歩。
 途中、ちょっと見かけたおばちゃんに「○○○ってどう行けばいいんですか?」と聞いてみると、やたら驚かれる。ここからだと大変遠いということらしい。つまり、てんで見当違いの方向に来ている模様。
 川を上流にさかのぼっていって、或る橋で右に折れる、くらいの記憶で行こうというのが無茶なのだな、うむうむ。

 のらくらと、気が付けば三時間近くもうろついていた……。
 そして、この季節三時間外にいて、日に焼けた肌がビリビリ痛む。
 これくらいの日差しなら、と思ったのがホンニ甘かった。普通の人が真夏の炎天下に四時間ほどいたのと大差ない有様になっているヨ己の腕。



2004年9月30日(木)

 映画「アタックナンバーハーフ」を見た。
 なんでも、実話を元にしたスポーツコメディらしい。タイの男子バレー国体で、オカマちゃんたちのチームが優勝したんだかなんだか。
 「面白いよ」とすすめられてついフラフラと見た後で、「プリシラ」を思い出した。

 ところで。
 足はともかく手首が痛い。
 ほとんどヤケド状態で腕もビリビリするよぅ、ブツブツ出てるよぅ……TT


Made with Shibayan Diary