烏の足跡



2003年11月1日(土)

 幽霊の話になった。
 そういうものはいるのかどうか、という話だ。
 これは、簡単にはどうとも言えない。
 なにせ人間は、「脳」によってものを見、聞いている。この脳が正常に機能しなくなれば、ありもしないものが見えたり聞こえたり、逆に、あるものが見えなくなったりもする。
 そんな人間の認識では、「幽霊」というものを見たとしても、それが本当にそこにいたのか、それとも脳の錯覚か、確かめることなどできない。
 大勢の人間が、同時に見た一つのものについて、共通の証言をするのでないかぎり、とても「存在している」と社会的に認めることはできない仕組み。

 では、霊が見える、と言っている人は、本当に見ているのか、単なる錯覚か、それとも嘘か。
 そのこともやはり、分かることじゃない。
 嘘であれば、それを見破ることはできるだろう。
 けれど脳内に起こる錯覚なのか、あるいは本当に存在して見えているのかは、誰にも確かめられない。

 まだしも超常現象であれば、物理的な「結果」が万人の目に分かる形で出現するから、まだしも解明しやすい。
 しかしそれも、本当に奇妙な力によるものなのか、トリックなのかは決めようがない。
 トリックで可能だからといって、本当にトリックなのかどうかは、それを仕掛けた証拠が見つからないかぎり、なんとも言えない仕掛けだ。

 こんなものは「神」と同じだ。
 信じる者には存在する。
 脳の中、心の中に。
 信じない者の中には、存在しない。
 だが誰も、真実に存在するのかどうかは、証明のしようがない。
 それができてしまったら、その人は、その証明を見る(受ける)ことができた人は、既に人間ではなく、神の領域に入っているんだと考えることもできる。
 神は、神の領域でしか認識できないのだと考える私であった。

 ……なんつーか、ものすごい謎な話題だね、これ(汗



2003年11月2日(日)

 神さんついでに。
 信仰は貴い。
 けれど宗教は、胡散臭い。
 きっぱりと、そう思う。

 キリスト教だろうがイスラム教だろうがイワシの頭だろうが、それを崇め、大切にし、信仰するだけならばいい。
 けれど宗教になった途端、それは組織であり、維持と運営のためには資金が必要になり、人が集まることによって、利害が生じる。

 私は「神」は信じない。
 だが、「神」はいないと思うのでもない。
 単に、見たことも感じたこともないから、信じようがないだけだ。
 私は、説法にすがるほどは切羽詰っていない。

 宗教戦争が起こるたび、考えることがある。
 それは、「アンタの神さんはアンタに、異教徒は殺せと直接言ったのか?」ということだ。
 一神教では、他の「神」を「悪魔」とし、それに従う者を滅ぼすことを正義とする。
 だが、「神」はアンタにその許可を与えたのか、と思うのである。
 人間は誤る。
 間違い、迷う。
 そういう生き物だ。
 だから「神」という絶対の正義、絶対の摂理がそれを導くべきであり、おろかな人間はそれに従うべきなのだろう。
 だが、戦争をしようと思うのも、なにかを許しがたいと思うのも、その愚か者の人間の判断だ。
 「神」の号令もなく勝手に善悪を決めていいのか、と思ったりする。
 おろかで間違いを犯すバカ者に、「神」は他人の命を奪うというオオゴトについての判断を、委ねたのか?

 そもそも宗教の「教典」すら、その愚か者の人間が作ったもので、「神」からじきじきに賜ったものではない。その時点でもう、「神」の意思を正しく伝えているとは言えなくなる。
 「神」はアンタになんか言ったのか?
 そう思う。
 そして、バカに人間でしかないアンタは、「神」と「悪魔」を間違わず見分けることができるのか?

 結局は今の「神」は宗教が作り上げた虚像だ。教典は「作品」だ。
 ダイレクトに神と通じる(と主張する)人間に、相応の説得力を持つ者もない。
 「神」さえいなければ争わずに済む有り様を見るかぎり、漫画家の魔夜峰央さんが、「アスタロト」の中で語ったことはもっともだと思ってしまう。
 「神」がいなければ人がこんなにも争うことはなかった。
 何万人という人間を殺す、そんなものは本当に愛深き「神」なのか。

 一神教に洗脳されず、宗教なんて有名無実の日本に生まれ育ったことを、私は幸福と思う。



2003年11月3日(月)

 バカな話でも一つ。女性向な内容なので白。

 塾更新ついでにあちこち見直していて気が付いたんだが、けっこうな数はあるくせに、センクウと伊達がちゃんが「いたしてる」話って、実は一本もない!?
 いやいや、マジですよ奥サン!(←誰
 そーゆー関係らしい、っていう話はやっても、現場書いてることは一回もないっぽいんですよ!!
 塾で「いたしてる」のって、死天王ばっかです。
 うわー、なんでこんな軽いの、居酒屋。
 その反動みたいに裏のバーはどぎついのあるけど。

 新・発・見! でした。

 それはそれとして。
 冷静に考えると、「アンタは日々なにして暮らしとんだ?」という気配が漂う最近の更新。
 毎日更新するためには、毎日それだけの時間がなければならない。
 だいたい、SS一本書ききってファイル化し、チェックするなどの時間も含めて3時間〜4時間程度だ。
 まあ、これだけなら一日のうちの貴重な時間を費やしている、という、まだしもマトモなレベル。
 しかし、塾書いてhtml講座書いてそこから更にまたよー分からん無双もの作って、となると、経過時間は既に7時間
 バイト終わって帰ってきて、PCの前に座って電源を入れてからならば、8時間は経過している有り様である。

 目が疲れるとか肩が凝るとかいう次元はとっくにスルーして、この生活対応に目も肩も鍛えられた模様。
 おかげで借りてきたDVD、まだ見てない。B級的かほり漂いまくる「リベリオン」。買ってきた本も読んでいないし、雑誌も開いていない。
 そして無論、寝る時間はもう確保不可能と化している。
 まあ、「することねぇ、したいことねぇ」なんて言ってる時間に比べれば、数億倍はマシだが。



2003年11月4日(火)

 「リベリオン」見た感想。

 なんてーか、DVDのパッケ裏に記述されていたりする「あらすじ」以上のものはない、と言える。
 ストーリーはそこで紹介されているもので説明されきっているに近い(「感情」の禁止された近未来社会で、一人の感情取締官がその社会に反逆する)。
 その時に使うのが、「ガン=カタ」。

 目玉はこのガンカタの動き、つまりアクションにある。世界設定はあからさまにいかにもなSFで、とりたてて驚くとか目新しいこともない。
 はっきり言えば、演出も凡庸。みんなが同じような色合いの黒っぽい服を着て、世界もモノトーン気味、同じような歩調で淡々と歩いている、という。いや、そんな世界、たいていの人には想造(←誤字ではない)できる。わざわざ見せられなくても、こんな世界になってんだろうな、と作り出せるし、見せられても、納得のいくレベルでしかない。
 しかも冒頭から「本当にこいつら感情抑制されてるのか?」ちっくに、ビミョー。テロリスト(感情抑制の薬を使わない、感情を持ち、感情の発露につながる品(娯楽・芸術品)を持ってる連中)も、そう焦っていたり怒っていたりするようには見えないし、それを殲滅に行く警官のほうは、妙に張り切って銃撃している。
 感情がない=人格がない、ではない。と特典のインタビューで監督が語っていたが、感情がなければ、人格の差異など非常に少なくなるのではないかという気もする。申し訳ないとか可哀想とか、痛ましいとか、そういうことを感じない(薬のせいで、感じていても認識できない)のであれば、撃たれて死んだ仲間の死体を、移動の邪魔になる障害物、としか感じず、場合によっては平気で踏みつけて乗り越えるとか、盾にするくらいのことはするんじゃないだろうか。道徳とか倫理として、「それはしてはならない残酷な行為」と教えられてはいても、そのことを「ひどい」と感じるから守るわけではないのだから。
 そういった意味では、あまり鮮烈な世界創造ではなかった。

 ガン=カタも、理屈はわかるが必然性がない。
 そんなポーズとりながら撃つことの意味あるのか、みたいな。どこか滑稽だ。なんか予想し、期待していたのと違うよなぁ、という気がしてならなかった。

 と、ここまではコキ下ろしておいて、だが、面白くなかったかといえば、そうではない。
 モナリザを焼いてしまう冒頭から始まり、取締り官であるにも関わらず、没収したイェーツの詩集を読んでいるパートナー。それを撃ち殺す主人公。
 ベタながら、物語はちゃんと存在し、進んでいく。
 そのうちに、一人の女性と出会い「あなたの生きる目的は?」という疑問をぶつけられたあたりから、主人公は揺らぎ始める。
 かつて妻を「感情違反」で処刑されている過去のある主人公は、そこからやがて、感情を抑える薬をとらなくなっていく。
 そうして、体制側の主人公が、反体制側へと移っていき、こんな感情のない世界はおかしい、と反旗を翻すことになる。
 主人公の息子役の子供も感情抑制薬を摂取しているわけなんだが、まるで淡々と、自分の父親と接する。ちっとも子供らしくない子供と父親と、とても「家庭」とは思えない空間の表現はとても分かりやすく、かつ、子供の演技のおかげで、真に迫るものがあった。
 フィルターの向こうに隠されていた、雨の日の摩天楼の朝焼けのシーンの強烈さや、感情を取り戻しはじめた主人公が、テロリストの秘密の部屋でベートーベンを聞くシーンもいい。なにより、手袋を外して、金属の手すりの感触を味わおうとするシーンは、秀逸だ。たかがそんなものだが、感情があるのとないのとでは、違うわけだ。これは上手い。
 それから、テロリストたちを逃がそうとするシーン。結局相棒のせいでテロリストたちは掴まってしまい、「うまくやってくれた、これがチームワークだ」と言われてしまう。この時、テロリストのリーダー格らしい男と主人公は、目だけで意思のやりとりをする。「やっぱりあんた……」と言われているようなところから、「本当に逃げてほしかったんだ」「そうか、信じる、ありがとう」というような気配が漂う流れが、無言の役者の、目の演技で伝わってくる。

 そして、私の見たかった「ガン=カタ」が、最後の最後で見れた。これだよ、これが見たかったんだよ、こんなの想像してたんだよ、という。
 至近距離で、片手に銃を持ったまま、隙あらば撃つための、拳法みたいな攻防。銃をつきつける一瞬のために、互いの手を叩き落したりして争う。「……そのまま殴ったら?」と思わないでもないが、その一瞬に引き金を引かれてしまえばこちらの負けだ。
 ただ、惜しいかな、そのアクションそのものを最大限に「魅せる」ようなカメラではなかった。やはりなんかこう、香港製の昔ながらのアクション映画とか、マトリックスのような超現代型には劣る。どうも、どう見せればこのアクションシーンが派手に、あるいは力強いものになるか、を把握してないっぽい。たぶん、緩急・静と動のメリハリがないせいだろう。
 役者のアクションそのものも、徹底して訓練されたものではないのが見え見えだし。
 しかしこれは、予算とか役者そのものの身体能力の関係もあるから(マトリは前者、カンフーものは後者に恵まれている)、仕方のない部分でもあるだろう。

 ともあれ、どんでん返しもあったし、陳腐なところもあるものの、楽しんでちゃんと全部見た。飛ばしたりはせずに。
 そういう意味では、あちこち粗はあるが、十分面白かったということさ。



2003年11月5日(水)

 また数日前の話題で。

 在るからといって、感じられなければ意味はない、とも思う。
 たとえ目の前に、見れば至福の美しいものがあるとしても、それを脳が認識できない、つまり見ることができなければ、その人は感動することができない。
 在るだけでは、どうしようもない。
 感じてもらわなければ、意味はない。

 心も、同じだ。
 どれほど思っていても、それが伝わらなければないも同然。
 また、言葉も同じだ。
 口から出てそこに在っても、それをその意図どおりに受け止められるかどうか、すなわち感じられるかどうかは、別になる。
 優しい言葉を求めている人には、優しい言葉はすんなりに入る。
 詰られたい人には詰る言葉が。
 そして、求めていない人には素通りするか、さもなくば跳ね除けられるか、解釈を意図的に捻じ曲げられてしまう。



2003年11月6日(木)

 という昨日のことから更に続いて、ちょっとした相談内容がらみで。

 正直な話、相談しにくる人が本当に、「現状を打開したい」と思っているかは謎だ。
 相談する、というアクションを起こすことで、「打開するふり」をして、努力しているつもりになって、それで満足して終わっている人も見受ける。しかも、勘違いしてそこで終わらせてしまっているのではなく、本当はなにもしたくないから、なんとかするふりだけして、あっさり諦めて「やっぱりできなかった」と結論づけて、それで良しとしようというかなり意図的な放棄の仕方だ。

 なにせ、現状というのはいろいろな過去から生じている。
 それは分厚い壁だ。
 壊すのにはえらい苦労が要るし、つらいこともあるし、かわりに失うものもあるかもしれない。決して楽ではない。
 だから、嫌だ嫌だという裏側に、そんな努力をするくらいなら今のまま愚痴ってたほうがいい、という思惑があったりすることもある。

 「できっこない」と決め付けるのも同じだ。
 できないかどうかなど、やる前に分かることじゃない。他人にはできなかったことでも、自分にはできてしまうかもしれない。以前の自分にはできなかったことでも、今の自分にはできるかもしれない。
 だから、やる前から「できないと分かってる」なんてことは、絶対にない。
 あるのは、やってみて「できなかった」という結果だけだ。しかもそれも、今できなかったからといって、次の時にできないとも限らない。
 なのに、どうせ無駄だ、どうせできない、とやる前からやめてしまう。
 やらなきゃ楽だから。
 苦労もしなくて済む。
 少なくとも、今あるだけの安楽だけは存続するだろうと、変化させることを嫌う。
 そんなんでなにかが解決したら苦労しない。

 自分自身も同じだ。
 私はこう、と決め付けてしまうのは、たいてい、なにかができること、できたことについてではなく、できなかったことへの言い訳だ。
 私には才能がないとか、こういう性分だとか、本当に嫌なら死ぬ気になって努力すればいいものを、そこまで嫌じゃないから、言い逃れしてる。
 10年努力して駄目なことが、20年目に実るかもしれない。
 だが、そんな長期間、不安と戦って努力しつづけるなんてとんでもないから、さっさとやめる。
 やめたならそれを受け入れて、堂々としていればまだしも、どうせどうせと卑屈なことを言う。
 「私はこれができなかった。これをやる気にはなれない。ほしいとは思うが、努力する気なんてないナマケモノだから」といっそ堂々としていればいい。堂々と、人に嘲られていればいい。いや、たいがいの人は似たようなもんだから、「この人は分かってる人だ」とは思ってもらえて、傷を舐めあう仲間にはなれるだろう。

 本気でなんとかしたいと思うなら、ぐだぐだいう前に、どうなれたらいいかを具体的に描いて、どうすればそこに近づけるが、なにがあるから今の自分が駄目なのか、本気で考えて取り組めばいい。
 それもしないくせに、性分とか性格とか言い訳にして愛想笑いで誤魔化すのは、一番弱い。
 もちろん、強くあらねばならないわけじゃない。
 弱いままでいいなら、好きにすればいい。
 ただ、本当に本当に本気でなんとかしたいと思うなら、もう少しマシな自分になりたいと思うなら、がたがたぬかさずいっぺんくらいは本気で、自分の本心と向き合うしかない。

 ……なんて書くと、まるでそういう軟弱者の相手をしたように思われそうだが、実は逆だ。
 以前はそういうことを言っていた人が、今度は本気になって、どうにかしたいと言ってきた。
 私は完璧に聞き役で、今までの自分はどうだった、こうしているのはきっとこうだからだ、という独白を聞いていた。ほとんど懺悔室の気分だったが、この人はたぶん大丈夫だろうと思った。
 そして、なんだかんだ言いつつも、現状を打破できないで愚痴ってるのは、本人の本気が足りないだけなんじゃないかと思った次第。

 私は時々、空を飛ぶ夢を見る。
 少しおっかなびっくりなところがかえってリアルだ。
 翼があることもある。超能力のように飛んでいる時もある。
 概して、気分がいい。
 高く上がりすぎて、ここで落ちたら、とは不安になるが、今こうして飛んでいるのだから、そんなことはないと自分を信じる。
 現実に飛べるかと言われたら、まあ、無理だろう。
 だがこれすら、「できない」ことではない。
 実際に試して「できなかった」としか言えないことだ。
 だから高くて景色のいいところへ行くと、実は飛び降りてみたくなるという悪癖を持っている。もしかしたらとベルんじゃないか、と思うのではないが、漠然と、気持ちいいだろうな、とおもってしまうのである。危険すぎる。
 一応理性はあるから、そんな馬鹿はやらない。
 試すならそんな高いところじゃなく、落ちても怪我をしない低いところでやればいい。それで「どうやら今はできなかったな」と分かればいい。
 だが、それですら「できない」とは思わないあたりが、自分でもアホかと思う。

 昔ダディと、「きっと父さんとおまえは悪運が強い」という話をしたことがある。その時ダディは、「乗っている飛行機が落ちても、助かる人がいるだろ。もしそうなったら、なんとなく自分は助かるような気がするんだ」と言っていた。
 それが本当になるかどうかは、実際に起こってみないと分からない。起こってもらわれては困ることでもある。助かってくれたとしても、無傷ともいくまいから。
 だが、私はもし、自分の乗っている飛行機が落ちるようなことがあったら、空を飛べるか試してみようと思ってる。
 意外と、飛翔することはできなくても、なんとかなってしまうかもしれない。諸共に落ちて爆発に巻き込まれればかなり危ういが、ともするとうまく風にさらわれるかなにかして、助かってしまうかもしれない。
 飛べてしまうかもしれない。
 人間、土壇場でなにができるかなんて分かったもんじゃないのだから。
 だから、「空は飛ぶこと」さえ、「人間には誰にも、できない」とは言えないと思ってる。

 ……そこ! 精神科医は紹介いらないから!
 それでまぁ、私だって「嫌だなぁ」と思いつつも、変える努力するくらいなら現状のままでいいから、とほったらかしてることはしっかりある。
 それをこんなビシバシと書くのは、未来の私自身へ残すためだ。
 思うだけじゃなく、言葉にしてこうして残しておく。
 そして、いつか本当に「変えないといけない・変わらないといけない」時が来たら、今、という「昔の自分」に、ボケてんなと喝入れてもらおうかと。
 そしてそれをここに書くのは、きっと誰にも、こういう部分があるだろうと思うから。
 今はいいけれど、もし変わろうと思うことがあった時に、ビシッと一本、しばくことはできるかな、と。



2003年11月7日(金)

 更に続きで。

 だから、好きなものに打ち込む人は強いんだと思う。
 10年でも20年でも、続けてしまうから。
 5年で諦めていれば実らなかったものが、10年続けたから実る。そんな感じに、なにかが手に入ってしまう。
 そして、それをしていること自体が苦しくてもつらくても楽しいから、やめようなんて思わない。
 20年でも続けている。
 下手すると生涯、50年とか続けてしまう。
 それだけ長い時間続けていれば、どんなに少しずつでもスキルアップする。ゆがんでいるならゆがんでいるなりに、ちゃんと育って新たなものが加わってくる。
 松の木のように、それが思いがけずに美しいこともあるだろう。

 結果に固執しないから、続けられる。
 していること自体が楽しいから、やめようとも思わない。
 つらいことが勝れば弱気にはなるだろうが、それで一時期遠ざかろうと、結局まだ好きだからと戻ってきてしまえば本物だ。

 飛行機を作った人たちは、飛べるはずなんだから「飛ばなければならない」「飛べなければならない」なんて考えていなかったと思う。そんなふうに考えていた人たちは、結局挫折していったような気もする。伝記とか読むとね。
 ライト兄弟にせよ、たとえば電気のパパ・エジソンとかにせよ、こうなるはずだ、という見通しはそのまま希望で、夢でもあったと思う。「こうなったらいいよなぁ」「こんなのいいよなぁ」「こうしたいなぁ」という。
 そして、ひたすらそれに向かった。
 できなければならない、なんて考えていないから、かかった時間についても考えない。
 これだけやってできなかったんだから駄目だ、なんて思わなかったと思う。弱気にはなっても、「いや、きっとできるんだ」とまた向かったからこそ、人類の常識覆すような大発明ができたんだと思う。

 ゴールが見えなくても、辿り着こうとさえ思わずに、ただ一途に歩きつづけることができる。
 それが、その道が好きだ、ということだ。
 そして気が付くと、なにかを達成してしまっている。

 むしろ私は、達成してしまった後のほうが恐ろしいんじゃないかと思う。
 ゴールの先は?
 次の道は?
 次の道も見えないのにゴールしてしまうことが一番恐ろしい。
 得するのは周囲の人間だけで、本人は歩みたい道を見失ってしまう。
 そして抜け殻になるくらいなら、結果なんてどうせ他人を喜ばせるためのものだ。自分の喜びのためには、ゴールには延々と辿り着けないほうがしあわせなのかもしれない。
 無論、次の道を思う描いているならば別だが。



2003年11月8日(土)

 九割まで、もういらない。
 けれど残りの一割のために、どうしても捨てられない。
 そういうものが、あったりする。



2003年11月9日(日)

 漫画文庫で刊行されている、魔夜峰央さんの「アスタロト」。
 もともとのコミックスも、本編も外伝も途中で止まったままになっている。
 切実に、続きが読みたい私。

 ところで全然関係のない、最近のマイブーム@コンビニ。
 某系列店の「ねぎ塩カルビ」。
 あっ。
 しかもまた全然カンケーないけど、今モーレツに刺身食べたひ……。

 なんか今月入ってから、カタいことばっかり書く率が高かったので、今日はものすごくどうでもいい話なのであった。



2003年11月10日(月)

 なにを思ったか、唐突にルキズエリアの構成改訂を行ってみる。
 フレームでコンテンツ残すようにして、無双エリアと同じような仕掛けに。
 あとは男塾とPSOか……。

 久々にまた己のルキズものを読み返してみると、続きが書きたいものがしっかりと残っていてほっとする。
 私は女性向のものは書いても、ただ801であればいいとは思ってないので(自分が書くものについては)なんらかの必然性を求める。801が嫌いな人、苦手な人には大差ないんだとしても。
 だから、思いついたシチュエーションによっては、無双では書けないとか塾では書けないとか、使用するエリアが必然的に決定してしまうことにもなる。
 結果、ルキズでしか書けないもの、というのがある。……いや、なにも女性限定のものしかないわけじゃないけどネ!?

 PSOでも書きたいものがありつつ、オリジナルもアレの続きが書きたいし、無双も細かいネタがいろいろあるし、はぁ、いったいどーしましょ。



2003年11月11日(火)

 バイト中に中学時代の同級生に会った。
 仲は良く、よく話もしたが、特に親しくしていたわけではない。
 しかし、名前はちゃんと覚えていた。
 もっとよく付き合った人について名前を忘れていることもあるのに、妙な話だ。

 名前はいえば、担任教師の名前。
 実は、小学校の時の担任は全員パッと思い出せるのだが、中学、高校になるとかなり曖昧になる。
 これはつまり、小学校時代のほうが、それだけ先生と心理的な距離が近かったということなんだろう。
 思えば、特に低学年、高学年に受け持ってもらった二人の先生は、今でもとても大好きだ。恩師、というには躊躇いがあるが、やはりとてもお世話になったと思う。
 それに比べると、中学校・高校の先生たちの中には、精神的な部分でお世話になったと思える相手はいない。
 単に私の年齢の違いなのか、それとも、教育と生徒に対する教師たちの思いの違いなのか。
 小学校低学年の時の担任の先生は、もうずっと沙汰していなかったにも関わらず、大学に合格し、今はI県にいる、と報告した時、わざわざプレゼントを送ってきてくれた。
 「良かったね」という言葉だけでもいいところを、形にしてくれたところに、真心のようなものを感じるのは、気のせいなんだろうか?



2003年11月12日(水)

 昨日の「小学校の低学年時の担任」の先生について、ふと。

 K先生は我々の小学校卒業を待たずに定年になってしまい、それを残念に思っておられたという。我々の学年を受け持ち、我々と一緒に学年を繰り上がっていき、できればそのまま、最後に受け持った生徒たちの晴れ姿を見届けたかったと。
 中学時代だったか、そんなK先生を招いて、小学校1、2年生の同級生と同窓会をしたことがある。
 みんながお金を出し合って先生になにかプレゼントしようとしたんだったか、そうしたら、「それは貴方たちのお父さん、お母さんのお金でしょう。それで私のためになにか買うことはない」とおっしゃった。当時のことゆえそういった「経済観念」についてはアホばっかりだが、それでも、そんな子供と侮らず、こんな言葉を言ってくれたんだと思う。私もアホ中のアホではあれどなんとなく、「そうか、先生はどうせなら、私たちが自分でちゃんと稼いだお金でもらうほうがいいんだな」とは思った。それならば、本当に喜び、ありがとうと言って受け取ってくれるんだろう、と。

 ところで、五年生の時だったか、「いじめ」という自覚もなく数人で一人の少年をからかったことがある。完璧、自分たちには「いじめ」などという気はなく、嫌いで気に食わないからしているのではなく、はやしたてることが面白いからしていただけのようなもの。
 それでも、相手がそれをどう思うかを考えられないのが、子供の子供たるところなんだろう。
 悪意なんかまったくなくても、嫌いではない、むしろ友達と思っている子が相手でも、雰囲気や勢いでは「いじめ」にあたるようなことができてしまう。
 それはそれとして、授業中に呼び出されて、当時はもう担任ではなかったK先生と一緒にどこかの教室(これは覚えていない)に向かいながら「貴方がこんなことするなんて信じられない。悪気があってやったんじゃないと先生は信じてるから、もうしては駄目よ」と諭されたことを、いまだに覚えている。
 この時は、相手の子に悪いとかいうことではなく、せっかく自分を信じてくれ、いい子だと思ってくれているK先生をがっかりさせたことが、なんだかつらかった。

 大学に合格した後、二度、三度程度、手紙のやりとりをした。
 プレゼントをいただいたのもその時だ。一年前に家庭教師に行っていたとある家庭のお母様は、合格祝いとしてバッグをくれたが、それとまったく同じものを1000円のバーゲン品置き場で見かけた時の気分ったら(笑
 大したものじゃないだろう、と分かりきっていたものの、苦笑するしかなかった。
 しかしK先生がわざわざ送ってくれたのは、ティーカップのセット。
 ソーサー・カップ・スプーンが揃ったもので、「これでお茶でも飲んでね」と書き添えてあった。
 どんなに安くても、こういうセットは1000円でどうにかなることはない。なるとすれば、たいていは3980とか4980くらいで、少し凝っていれば桁が一つ増える。
 触るどころか見ただけで「安物」と分かるバッグとは大違いだ。
 私が紅茶にはまったのは、実はこのティーセットで、れっきとした「紅茶」といもうのを飲んでみたいと思ったからかもしれない。ティーバッグではなく、ちょっと格好つけてリーフでね。

 私が小学校卒業前くらいに定年を迎えておられるのだから、今はもういいお年だ。
 実は、それが怖くて連絡ができないでいる。
 相変わらずお元気であれば、お宅にお邪魔させてもらって、昔話や今のことなど、K先生としたい話はいくらでもある。親には見せたいとも思わない己の小説だが、K先生にならば、こんなの書いたりしてるんですよ、と、無論オリジナルに置いているようなものだが見てもらいたいとも思う。
 けれど、もしもう亡くなっていたらとか、痴呆にかかってしまっていたらと思うと、どうしても連絡ができない。
 少しころころした体格の、おしゃれな細いフレームの眼鏡の、厳しいけれど優しい先生だった。そんな先生が、がりがりに痩せていたりするところは見たくないと思ってしまう。
 お変わりないのであればいいが……。
 もし連絡してお会いできるならば、今度こそ、自分で稼いだお金で、プレゼントの一つでもさせてもらいたい。なにが喜ばれるのか分からないが、ティーセットのお返しなら、茶碗と湯飲み、箸のセットなんかがいいかもしれない。



2003年11月13日(木)

 なんとなく、中古CDでマイケル・ジャクソンの「HISTORY」を買ってくる。
 私よりもう少し上の世代はビートルズなんだろうが、私はやはり彼だろう。洋楽というものを身近にしてくれたのは。
 しかし、近年に出たアルバムはちっとも売れていない気が。
 やっぱり一昔前のスキャンダルが、まだ尾を引いているのか。
 それとも、時代が求める音楽がポップスからは離れていったのか。
 私はスキャンダルなぞは有名人ならではの厄介事、一般民間人であればちょっと眉をひそめられる程度だろうに、とちっともどーでも気にしていない。しかし、やはりスリラーやバッドの頃と比べると、インパクトがあって耳に残り、つい鼻歌ってしまうような曲はなくなったと思う。
 ヒール・ザ・ワールドが最後かなぁ、私は。



2003年11月14日(金)

 結局、あちこち見て回って作ってしまった一言メール場。
 設置は、今のところ更新の激しい無双地区のみであるが。

 あくまでもフォーム作成支援で、できたページにリンクを張れっていうのは却下。広告出るのも却下。送った後の送信確認画面や戻り先がこちらで指定できないのも却下。
 そこまで詳しく説明されているところがなかったため、「とにかく登録して使ってみてダメならアカウント削除か放置」という荒業。

 結局、一番使いやすそうで、戻り先指定も自由にできるところを選んで登録させてもらった。
 自分でCGI設定とかできればいいんだけど、そこまで知識ないにょ……TT

 ちなみに、この時のネックは「メールアドレス記入必須」というポイント。
 そんなもん入れさせたら意味ないわボケ〜!と、やっていいのかどうか確証はないままに、どうせこんなもの、通過させるための形式みたいなもんで、軍団の願書に使ってるトコ(元・無謀企画のリクエストフォーム)なんて、aa@aa.aaで良かったわけだし、と、メアド記入欄はaa@aa.aaを固定入力したまま、hidden指定で隠してしまった。
 これって別に、レンタル元の利害にもからまないわけだし、問題ないんだよなぁ……?(汗
 それはまずいっしょ、と分かるかたがいたら教えてネ……。

 問題がないようなら、このフォームの作り方をhtml講座で紹介してもいいかと思っていたりする。
 「ここに行ってユーザー登録して、ここをCGI借りたところごとにこういうのに書き換えて、あとはこことここ変えて貼り付けるだけ」というところまでお手軽に。
 そうやって紹介してしまうとすれば、ここがいいかも、とおすすめするCGI屋さんに、メアドを消す指定をしてもいいのかどうかなど、きっちり問い合わせなければなるまい。おそらくいいだろう、でやってしまうのも良くはないが、まずいことを伝播させてしまうほど深刻ではなかろうと。……こういういい加減さが地球を蝕むんだネ(謎



2003年11月15日(土)

 つい出来心で、「マトリックス」のDVDも買ってしまった。1500円の新プライス版。
 そうして久々に見てみると、初見では分からなかったものが分かるから、ずいぶん理解しやすくなった。
 撃たれたネオがそれでも死ななかったのは、マトリックス内で、心が自分の死を「ンなわけない」ときっぱり否定したからなのかなぁ、とか思いつつ。
 スミスってこういう壊れ方したんだったなぁ、とかすっかりド忘れていたことも思い出してみた。

 レボリューション見に行きたいなー……。
 行った人に「どうだった?」と尋ねるとみんな首を傾げる。レボだけで一本の映画として評すると「駄作」と言い切ったマトリックス・ファンもいる。
 しかし、マトリックスという世界、現実世界との関わりを説明しつつ展開していく元祖マトリ、ひたすらアクションの連続になるリロ、ときていることを思えば、また別の見方もできるわけで。それに、レボだけ単体で見る人なんていないだろ。

 ラスト・サムライも見に行きたいなぁ。12月の頭頃に公開だっけ……。


Made with Shibayan Diary