烏の足跡



2003年9月1日(月)

 トリガー。
 引いたら、もう終わりだ。
 なのに、引くだけなら簡単に引ける。
 よくよく考えて、苦労や手間、抵抗されたりすること、いろんな面倒を考えさえすれば思いとどまることもできるのに、トリガーは、簡単に引ける。引けば、何メートルも離れたところにいる人を、簡単に消せる。
 だから銃はまずいんだろう。
 だから規制が緩いと、バカスカ人が死ぬ。

 銃というものが手元にあったために殺人者になってしまった人、というのは少なくないような気がした。
 手元にそんな武器がなければ、カッときて「殺してやりたい」と見境がなくなっても、実行はせずに済んだ人はけっこういるんじゃないだろか。
 しかしま、今更になって銃規制がどうのといっても、どうしようもないだろう、アメリカ(だけじゃないかもしれないが)。
 核と同じで、使わないうちは「抑止力」「護身」のためのつもりなのだ。存在しないと、自分だけが一方的にワリ食う気がして不安なのだ。
 けれど、カッとなったりプッツンきたりして、使ってしまったらもうお終いだ。
 死んだ人は帰ってこないし、殺人犯というレッテルは、はがれることがない。

 魔法でも使って、この世から一斉に、同時に全ての武器を消去するのでないかぎり、銃も核も、決して減ることはないだろう。そんな気がする。



2003年9月2日(火)

 唐突だが、「結婚」とはなんぞや、ということを、ここんとこよく考えている。
 なにもプロポォズしたとかされたとか、身近にそういう話が出たというのではなく、話のネタ考えていて絡んだだけなのだが。

 大昔から今に到るまで人類が存在している以上は、人はずーっと、生殖を繰り返してきたわけである。しかし、いにしえのそれは、獣の本能に過ぎない行動だったろう。
 それがいつしか「家族」というものに近い認識をするようになる。だが、この時点ではまだ、「結婚」という観念はないと思われる。よーするに、狩りをしたり田畑を耕したり子供を育てたりする「生活共同体」である。
 それが、いったいいつどこで、何故に「結婚」というものになったのか。「夫婦」という観念が生じたのか。

 「結婚」は「愛」の誓約なのか? それは違っていたはず。もともとは、単に生活の効率を良くするために、生活を共にするようになっただけの獣だ。とはいえ人間サマであるから、生活を共にするために、共にすごすことが苦痛にならない相手を選びはしただろうし、それは「好きな相手を選ぶ」ということでもあっただろう。だが、大前提は生活、生命のためなのだ。
 そこまでさかのぼって考えると、「結婚」なんてものに、本来は愛情など介在していないんじゃないか、ということになる。少なくとも、「好きだから一緒に暮らす」のではないような気がしてならない。なにより肝心なのは、「生活を効率よく行うための契約」であるということだ。
 ということは、だ。
 お互いの生活を支えるための責任と義務だけ果たしていれば、浮気しようがどうしようが別に構わんのじゃないか、ということになる。たとえば「夫」は生活を維持するための資金をかせぎ、「妻」は子供の面倒を見る、というスタイルの夫婦があるとして、その仕事だけきっちりこなしていれば、愛情の在り処なんぞ外にあったって構うもんじゃない、ということ。

 だいたい、「結婚」したんだから私だけを愛して、俺だけを相手にしろ、なんてのはどうだかと思ったりもする。
 愛されたいなら、大事にされたいなら、それに相応しい自分でなければならない。「結婚」して「夫婦」になったって、それは変わらない。
 「結婚」という契約をした以上、互いの面倒を見ることは義務だとしても、愛情を与えることは義務ではない。義務にされても、ままになるものじゃない。「結婚」という契約・制度はそのことを前提としてはいない(このように考えると、であるが)。
 ということは、「結婚」したんだから貴方は私のもの、だから私以外の人を好きになってはいけない、なんて言えやしない。愛情の延長で「一緒に暮らしたいね」と「結婚」した場合でも、愛されつづけるためには、相応の努力や忍耐、仮面etcが必要だろう。
 つまりは、「結婚」したことで安心して、相手に好かれる努力も忘れて野放図になりながら、「浮気はダメ」なんてのはなんか違う気がするのである。
 生活の保証や効率が落ちることであれば、それは契約違反というか、「結婚」とはなんのためのものか、という(ここで考えている)根本に背くものだから、「働きなさい」とか「家事をしてくれ」と言うのは契約の遂行を求める言葉として間違ってはいない。だが、「浮気はダメ」「俺以外の奴を好きになるな」というのは、違う。

 「結婚」は、愛情についてはなんの保証にもならない。それはひとえに、愛される自分であるかどうか、にかかっている。
 愛される努力、相手の好きな自分である努力や苦労を忘れてほったらかして、そのくせ「私だけを好きでいるべし」なんてのはなんだかなぁ。
 「結婚」を「人生の墓場」にしてしまうのは、生活効率のための契約でしかない「結婚」を、愛情契約と勘違いするからじゃないかとも思う。いい女でいる努力、いい男として振る舞う努力をしなくなってしまうから、お互いがみすぼらしく見えてくる。味気なく、つまらなくなる。結婚前のほうが良かったと思うし、「他人」と思って視線を意識して振る舞う人に心を動かされたりもする。
 「結婚」してからも仲が良くて、愛し合っていると実感できる「夫婦」というのは、たぶん、自然体でいても相手にとって心地良い存在であるためか、さもなければ、愛される努力、より良い自分であろうとする努力、相手を好意的に解釈しようという努力を怠らないからなんじゃないかな、とか思ったりしてみたり。
 「夫婦」とか「親子」という形に満足して馴れ合ってしまうのではなく、ちゃんと互いを一個の人間として、その視線を意識し、考え方や感じ方を尊重し、認め合っていることが、本当に仲の良い家族というものなんじゃないか、と思ったりする。かなり切実に。

 ここをご覧の「夫婦」という関係を持つミナサマ。相手に「浮気しないで」と思うなら、「結婚」したんだからってダラけちゃいけない。相手の好きな自分でいる・そんな自分になる努力や手間をかけなければ、浮気されたって仕方ない、くらいに思うといい。
 息苦しいほど自分を偽ることはないが、少しだけでもいいから、時々でもいいから、夫・妻の視線を意識して、「好きになってもらえる自分」になろう。いわゆる、新婚当時の気分を思い出してみたとか、結婚前の二人を思い出してみたとかいうあれだ。
 それをしないなら、浮気は許せ。生活に支障が出ないかぎり、好きな相手が自分のほかにいることに文句を言うな。文句を言っていいのは、相手の好む自分である努力をしているのに、願いを叶えているのに、それを無碍に扱われた時だけだ。
 いっそ、「生活さえ滞りなく効率良く行えるなら、恋人が他にいてもいい」と割り切ってしまうと、かえって家庭は華やかで穏やかになるかもね。……ならない確率のほうが高いのが、結婚を愛情契約と勘違いしている現状の現実だろうが(酷



2003年9月3日(水)

 今日(この日付)のことじゃないんだが、相変わらずのビデオ三昧。
 「マイノリティ・リポート」を見た。
 スピルバーグにもトム・クルーズにも特別な思い入れはないが、原作者であるF.K.ディックには思い入れがある。なにせ「ブレード・ランナー」の原作である「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の作者であり、また、私の好きな神林長平氏を語るとき、よく引き合いに出される人でもある。
 無論、マイノリティ・リポートも、見る前に原作を読もうかと思ったが、これはあえて思いとどまった。難解であることが珍しくないディックの作品だから、映画という形で分かりやすく大衆向けに解釈され組み上げられたものを見てからのほうが、読んで分かることも多いと思ったからだ。
 それで、ずーっと保留していた。

 映画「マイノリティ・リポート」は、これは二度見るつもりでいる。
 だがそれは、面白いから、とかいう理由じゃない。二度目に見た時に、より面白くなる映画だからだ。
 私の頭が悪いせいなんだが(身もふたもねぇ)、前半で張られた伏線や、提示された謎、不可解な部分が、後半で解明される時、時間がたっているせいで、いまいちピンとこないことが多いのである。ああそーさ、私の記憶力が情けないだけさっ。
 そーゆー私には、二度目に見た時が面白い映画というのがあったりするのだ。これもその一つ。
 言葉の意味、映像の意味、そういったものを知っていてもう一度見る時、「これはこういうことか」と分かってくる。
 疑問に思い、覚えているべきことを覚えて最後まで見ていれば、一度見るかぎりでいいんだろうが、気付かなかったポイントが肝心だったりすると、クライマックスにノり切れないのが悔しい。
 物語の整合性がしっかりしていて、無駄な部分のないシナリオ運びに、アクションシーン、SF世界、推理ものに似た「トリック」の存在、それが解明される時の快感、とかなり私好みの話だ。

 ただ、仕方ないとは思いつつ残念なのが、あからさまに「解説」のために存在している冒頭。トム・クルーズ演じる「ジョン・アンダートン」がどういう警官なのか、その世界がどういう世界なのかを教えるために、一つの事件が起こっている。これが実際の本編とはなんのかかわりも持たない。完全に、解説のためだけに存在しているということだ。
 今ひとつ芸がない。というか、安直すぎる。ほかの部分がいろいろとつながり、絡み合ってくるだけに、浮き上がってみっともない。巨匠ともいえる監督が作った映画であればこそ、そこまで期待してしまうのだが。

 予知は絶対なのか。土壇場で思いとどまることはないのか。システムによって未然に防がれた犯罪があるだろうことは事実でも、もしかすると、ほっといても思いとどまった人がいたのではないか。そういった疑問に、答えをちゃんと用意している。
 主人公であるジョンは、予知された未来を覆す。そのための仕掛けもちょっと「やられた」という感じで良かった。モロバレなので白→予知に出てきた殺人の瞬間になるまでの、カウントダウンをする腕時計。それが、「あと10秒」とかアップになって出てくる。見ている側は、はたしてどうなるのかとハラハラする。が、この時計、たったこれだけの役割ではなかった。いざその時間というときに、アラームが鳴り出した。それで主人公は我に返る。上手い。これは映画(創作)のテクニックとしても上手いし、主人公の機知としても上手い。ヤラレタ、という感じで爽快なシーンだった。
 大詰めのオチはさすがに書かないでおくが、ミステリーとしても面白く、アクションとしてもそこそこ楽しめて(特筆するほどのものではないが)、テーマもちゃんと語っている。
 人は、選べるのだ。カッとなって人を殺してしまいたくなる瞬間を、乗り越えることもできるはずなのだ。計画殺人はほとんどなくなっても、衝動殺人は時折起こるマイノリティ・リポートの世界に、それが表れている。
 主人公のジョンが所属する犯罪予防機関は、私は存在しつづけても悪くはないと思った。ただし、逮捕したり裁いたりすることはなく、単なる止め役としてならば、衝動的に、起こしたくもない犯罪、やりたくもない殺人を犯してしまう人を、救ってやることはできるのだから。
 とはいえ、殺意が表に出てしまったあとで止められても、その周囲の人間との関係は元には戻らない。また新たな問題も出てくるだろう。それに、殺人という未来ばかり見ることを強要される予知能力者だって、つらいばかりだ。
 などなど、考えることも与えてくれる、私としてはとても良い映画だった。

 あと、この映画を見て、思い浮かべた作品が二つある。
 一つは星新一のショートショート、「生活維持課」(というタイトルだったと思う)。もう一つは都築道夫の「未来警察殺人課」。
 マイノリティ・リポートは、予知能力者である三人のプルコグによって、殺人を犯す未来を予知された人が、まだ誰も殺していないのに逮捕され、投獄される。よって、犯罪は未然に防がれる。
 生活維持課では、殺人を犯す可能性がどうということは問題にされないが、コンピューターによって、間引きされる人間が選ばれてしまう。たぶん、いろいろなデータから、「この人を消せば周りは安定する」と判断されるためだ。
 未来警察では、やはり予知能力(テレパシー)によってこれから犯罪を犯す人間が特定され、あらかじめ矯正・除去される。だからやはり犯罪(殺人)は発生しない。例外は、「殺人課」だ。彼等は普通の手段では止めようのない殺人願望者を殺すための刑事というわけ。殺人をする課、なのである。
 おおざっぱにいえば、三作品とも、「まだなにもしてないのに、大多数の安全と幸福のために、機関によって、自由を剥奪される人間が存在する」という点が同じだ。
 もしマイノリティ・リポートを見ていて、あの映画の問い掛けるものについて考えるところがあるならば、ほかの二作品も、見ても損はしないかもしれない。ただし、「未来警察〜」は、古本屋で探さないと手に入らないかもしれない……。



2003年9月4日(木)

 すさまじいばかりの夜型生活。
 通常、朝10時〜12時に寝て、夕方の5時に起きる。
 しかも、まかり間違って夜中の2時に寝たりしようものならば、朝6時には目が覚める。まるで昼寝でしかないかのように。明け方5時に寝ても、朝8時に目が覚める。そして、昼の11時ころになると、眠くなる。
 最早これは、体が陽光と気温の上昇を感知して眠気を及ぼすようになっているのではないか、というレベル。
 まっとうな社会生活には、当分無縁の模様……。

 そんなわけだから、掃除がしにくい。
 起きている時間=パパリン&ママンが寝ている時間であるし、僅かに重なっている「全員起きていてうちにいる」という時間は(つまり朝7〜9時)、顔を合わせると、この夜型生活を快く思わないおっかちゃんに白い目で睨まれるから、息をひそめ足音を殺し、なんだか自分の部屋に泥棒に入った気分である。簡易ルパン?(←絶対違う
 しかし、本日の昼、ちょいと完全防備で日光対策をして出かけ、おかげでサウナスーツでも着ているような気分で大汗かきながら、某滝のところまでサイクリングしてきた。
 なに? 話の前後に脈絡がない、と。まあ聞きなさい(←ナニこの調子

 大学時代は哲学科に所属し、なぜか心理学科のほうでも卒業可能なほどの単位を集めた物好きであるから(しかも卒業はしていないというダメっぷり)、あれこれと考えるのは好きである。
 好きでなけりゃ、こんなワケの分からんザレゴトなんか書いたりもしないわけで。
 しかし、本当に徹底して考える時間というものは、特に自分自身のことになると、めったにない。つい上っ面で、自分の都合優先で考えているため、根本的なことを感じていながら追い払っていたりもする。
 徹底して自分を見つめるつもりなら、専用の時間と場所が必要だと思う。
 そんなわけで、滝なのだ。某滝は自転車でものんびりサイクリングで2時間もすればたどり着けるし、夏でも涼しい。そのうえ、夏休みも終わった平日なら、まず人はいない。
 こういう場所で、物好きにも瞑想&黙考である。

 「なにこのヒト変人だわ!?」と思った貴方。たぶん、正しい(ぉぃ
 まあ、もし私がそんな人間見かけたら、「なにあの変な人」と思うだろうから、客観的に見ても、私のしていることは変なことだろう、うむ。
 しかし、聞こえるのは鳥の声と滝の音、車ものぼってこないし人間もいない。人工物の立てる音が一切しない場所というのは、とても気分がいい。水の香りも涼やかで風も心地良く、日陰にいれば長袖も脱いでいられる。ほんのりと滝の飛沫が漂うあたりの岩に腰掛けて、ぼへら〜〜〜〜っと……。
 別に滝に打たれてたわけじゃないっスよ!?

 そうして考えれば、先に書いた「顔を合わせると云々」なんてことは、どーだっていいことだと気付く。たぶん、他人から見れば気付くまでもなく当たり前のことなのに、自分のことだから「なんだかヤだよなぁ」とストレスに感じてしまうだけなのだな。
 文句が言いたいなら言わせておけばいいんだし、聞き流せばいい。相手をするから揉め事に発展するのだ、と気付く。
 しかも、その時間に、言われたわけでもなくせっせと掃除をしていれば? きれい好きで、「きちんとしている」ことが大好きな(半ば強迫観念だろうとは思うが)ママンが、怒ることだけはないのである。「なんでこんな時間に……」と思いつつも黙認してくれるだろうし、腹の中でなにを思っていたところで、相手にしないならどうでもいいことだ。
 要するに、今までは「相手の思うこと」にまで神経を尖らしていたから、億劫だったのだ。言うことにならばともかく、腹の中でなに考えていようと、ほっとけばいいのにね、といまさら気付いた。

 そんなふうにして、自分をよくよく見、考え方の癖や方向性を見直してみると、オオゴトだと思っていたことは、実際は些事であることがほとんどだったりしてしまう。しかも、気の持ちよう、考えようを意識的に切り替えられる範囲でもある。「そうしようったってどうしようもない」というほど方向転換が難しいこっちゃないんである。
 というわけで、私はこれから7時間後をめどに、せっせと掃除を開始する予定。

 ところで、なんでそんな物好きなことをしにいったのかというと、なにもささいな家庭内不和、あるいは家庭内別居状態について考えるためでわない。
 本業と言えるものがないままに、書店でバイトし、雑記で小遣いを稼ぎ、更にはまた副業的なポジションで、それでも一応「仕事」として、カウンセラーやるハメになったからである。
 うわぁ、物好き。いや、やるほうじゃなくて、私にこんなことをやらせようっていう人が。
 そして、このザレを読んでいる物好きさんの中には「こんな人に相談しようと考えるほうも物好きだ」と思うかもしれない。人とナリを知っていたら思いとどまれるだろうになぁ、とか。
 ともあれ、そのためには私自身がニュートラルでないとまずいわけで。自分に対しても相手に対しても、悪意もなく好意もない。この状態で相対しないとまずかろう。自分に好意なぞ持っていると、評価されること、嫌われないことを考えてしまい、本当のことから遠ざかる。相手に好意を持っても同じだ。悪意なぞもってのほか。

 それに関連して、明日分では似たようなことを書いてみよお。



2003年9月5日(金)

 たまーに、メールでも相談事を持ちかけられる。
 ザレ読者さんが、今までに片手で数えられるほどであるが、相談メールをくださった。
 しかし、昨日分で書いたとおり、解決の鍵はすぐそこにあることも多い。特別なことなどなにもない。むしろ当たり前のことだし、気分さえ切り替われば、ものすごく簡単にできることだったりもする。なのに、死角に入っているから見つからないことがほとんどなのだ。しかも、その死角というのは、かなり手ごわい。
 話を聞いて、「じゃあこうすれば?」と出てくる解決案というのは、しかも、たいていその死角に存在しているのである。

 そもそも、何故そのことで悩むのか、それが問題になるのかと言えば、解決法は実は分かっているのに、その方法はとりたくないから、なのだと思っている。
 簡単に言うと、「彼が浮気してる。どうにかしてやめさせたい」という相談の場合、こちらの返答はぶっちゃけ、「君に飽きたからでしょ。別れなさい。それがイヤなら、もう一度彼を振り返らせるような自分になりなさい」しかないのである。
 なのにこれを言っても解決しない。
 バカにされたと腹を立てたり、「別れたくないから相談にきているの」と言ったり。しかも、自分に悪いところがあるとは、なかなか認めない。「でも、これが私なんだから、これを変えたら私じゃなくなる」とか言い出す始末。いや、だからさ。「そんな人のことは彼嫌いになったんじゃないの?」ってことなんだけど? みたいな……。
 私は私、このままの私でいたい、という気持ちか、「彼」かを捨てるしか方法はないのに、その方法はとりたくない、という。これじゃ解決するはずがない(無論、他にもいろいろと要因があることが普通だが、ここでは例としてシンプルにしておく)。

 ともあれ、こういう解決策というのは、自然と本人が回避しようとしていることの中にある。死角の中に入れてしまって、感づいてはいるのに見ようとはしないでいる。
 この死角の存在に気付き、しかもその死角の中にあるものを見るためには、自分の顔の向き、つまりスタンスや考え方そのものを変えるしかない。
 ところが、そんなものは言葉だけではどうしようもない、というのが私の実感だ。上の例どおり、どういったところで、突っぱねられてしまうのである。
 こういう時には、見るしかない。
 文字通り、相手を見る。「本当にそう?」とか問いながら、相手の心中を見透かすつもりで、目を、その奥までのぞく心意気で見つめる。ただし、ここから恋は生まれない(←ボケてどうする)。たいてい、こちらの視線に耐え切れなくなって相手から目をそらす。心が不安定になる。
 このスキを逃さず、核心を突くのが、もっとも有効だった(実体験として)。

 メールではこれができない。上っ面の言葉の応酬になる。このザレ程度の深度(むしろ浅度)しか持たない。
 その人のケース、といったものを本当に丁寧に考えて、一つ一つを大事に考えて、後の経過についても責任を負わねばと思えるほどの丁寧にケアはできない。
 ……とまあひそかに、実際に相談受ければ、こんなとこでダラダラほざいているような程度の応対はしないんだよ、と言い訳してみるのであった。



2003年9月6日(土)

 「正当な批判か、それとも個人の内面に対する余計な干渉か。」
 先日買ってきた本に書いてあった。
 タイトルは『グサリとくる一言をはね返す心の護身術』。おまえにゃ必要ないだろう、と言われそうだが、ソンナコトナインダヨ?(←かなり嘘くさい
 まあ、買ってきた理由は、タイトルどおりのことを学びたいからではない。むしろ、「グサリとくる一言を言いやすい」という自覚があるので、そういう自分がどういう時にきっつい言葉を出しているか、知るためには被害者の立場から見たほうがいいというわけで。

 再三書いてきているが、このザレゴトは、昔の巣から引っ越してきた時に、書くこと、書かないこと、スタイルははっきりさせている。
 特定個人への非難とか批判は、それが一般化できないならばしない、ということがその中にある。きっかけは特定個人に対する感想でも、それから発展させて、何故そうなるのかとか、これはどう考えたらいいだろうかとか、そういうふうに一般的な問題や疑問に拡大できないならば出さない、ということだ。
 しかし読み手にとれば、たまたまタイムリーに自分のことに関わることもあるだろう。私にはそのつもりはないし、むしろ「貴方」の毎日などまるで知らないのだが、普段から気にしていたことなどを、手ひどくこき下ろすこともないとは限らない。
 スタイルとして、私はここを「優しい」ものにはしないから、優しい言葉だけ、面白い話だけ求めているならば、立ち入らないほうが無難だ。
 そして、たぶん恒常的に読んでくれている鳥さんたちというのは、正しい読み方をしてくれているんだろうと思う。

 それは、「ここでほざいているのはこいつの勝手な意見」という認識だ。それに共感しようと反感を覚えようと、自由である。
 しかも、どうしなさいと言うつもりはない。
 どうよ?と問い掛けることはあるが、「そんなことはない」と思うならば私の言葉なぞほっとけばいいのだ。「この人と私とは考え方も感じ方も違うのね」と思っておけばいい。そして、もし得したいならば、「こういう考え方をする人も世の中にいるのね」と思考パターンの一つとしてストックすればいい。
 「貴方」に向けて辛らつな言葉を吐くことはない。私信に等しいような内容がたまにあるが、それが批判的であることは、ない。それを書くことは私が私自身に課したルールに思いっきり反するからだ。

 干渉するつもりはない。
 「貴方」がどうしていようと、正直、知ったこっちゃない。
 それが私に関わらないならば尚更だ。
 ただ、それでもあれこれ書くのは、私自身が、自分の言葉を書き付けて頭の中を明確にしたいためと、「問いかけ」のためだ。
 単なる日記なら、管理人自体について興味がないなら読み手はすぐに飽きるし、そんなものを公開するつもりはない。
 小説と同じで、「自分の考え方、感じ方、ものの見方」を書いている。物語になっていないだけだ。
 だから、読む側は面白いストーリーなどは求めないにしても、なんらかの手ごたえは求めてくるだろうし、そういう人たちが読んでいってくれたら嬉しいと思っている。
 ただ、本当に一つだけ誤解しないでほしいのは、第一には、これは全て「今ここにいる私」の考えたことで、明日になれば違うように考えるかもしれないし、誰かから意見をもらったり、あるいは本を読んだりして、訂正することもある。
 ここにあるのは、「今現在」でしかなく、「その物事に対する絶対的な結論」ではない。ましてや、それが「世の中で正しい」わけもない。

 そういうつもりで読まないと、グサグサきたり、あるいは「何様よこいつ」とただ腹立たしい思いをして損するだけになると思うのであーる。
 何様と思うのは勝手だし、そう思われたところで私は痛くも痒くもない。損しているのは、思った本人だ。不愉快になるわけだからね。
 「あ、なんかカタいこと書こうとしてるな」と思ったら、一歩退いて、こんなものはあくまでもこの阿呆の意見なんだ、と少し見下ろすつもりで、読むのが精神衛生上もっともよろしいと思われる。



2003年9月7日(日)

 できないこととか、うまくいかないこと、要領の悪いことなんか、なんでもないわけで。
 特に組織の中にいる場合、どうってことはない。
 組織の中にいればこそ問題なんじゃないか、と言われそうだが、そんなことはない。

 以前にも、某ホームセンターでバイトしていた時のこととして書いた気がするが、やはりどこでもあることらしい、これ。
 自分にできないこどある。
 それができる人がいる。
 自分に欠点がある。
 他人にも欠点がある。
 自分のしたミスを誰かが補うことがあるように、他人のしたミスを自分が補うこともある。
 ミスしない人間なんていない以上、ちょっとのミスや不手際で神経質になる必要はない。そんなことでとやかく言うことには、言ってやればいい。「あんたはミスせぇへんのか、え? あんたのしたことの尻拭いしとる人かておるやろーが」と(←何故関西弁かは謎

 誰にだって長所と短所があり、できることとできないことがある。
 みんな同じように、なにかしらの「できないこと」がある。
 「できないこと」を悔やんだり自責しても仕方ない。だったら、「できること」で「できないこと」の分をカバーしてやればいい。最初から0でなくていい。±0で充分だし、貴方の−5を誰か+5の人が補ってくれるのが、組織だ。そして、貴方の+5で、誰かの−5を補ってあげればいい。
 それを互いに自覚していれば、けっこう互いに尊敬しあい、尊重しあった良い関係になるのではないかと思ったりもする。

 それに関係して、以下まだザレる。
 今の書店には、いろんなタイプの人がいて、得意とすることもそれぞれに違う。全てのことがこなせる超ベテランさんから、要領の良さと調子の良さが取り柄みたいな私とか、万事においてジェントルな人とか、とかく「作業」に徹すれば丁寧で問題がない人とか。
 無論、それぞれに欠点もある。
 欠点部分を鍛えて平均的な能力にするのも、一つの手だし、会社がその手段をとるならば、一アルバイトである私には言うことはなにもない。「はいそーですか」だけしか言いようがない。
 が、ゲームを引き合いに出してなんだが、自分で能力を割り振れる場合、私は長所をのばすほうなのだ。それで欠点を補う。そして、その欠点部分をフォローしてくれる仲間を同伴する。
 たかがRPGのキャラメイクだが、これってけっこう、現実にも適用できるんじゃないか、とか思う。

 のびにくいところを無理にのばそうったって、本人の感じるストレスは大したものだし、労力もいる。
 その人一人しかいないならば弱点を作らないのは有効だが、他に仲間がいるなら、苦手分野を得意とする仲間と組ませればいい。
 モンスターファームなんかやってると、自分の育てる傾向が長所強化型になる。平均的に育てられたモンスターというのは、相手にしても怖くない。こちらの一発がキマれば勝負がついてしまうからだ。地道に攻撃して地道に当てて地道に避けて地道に耐えて、が強いのは持久戦に持ち込まれた時だけだろう。
 そう考えると、五年、六年、あるいは十年、二十年と勤めていくだろう社員には、平均的に全てができることを求めたほうがいい。そう育てていくのに充分な時間もある。しかし、入れ替わりの激しいバイトは、長所同士を上手く組み合わせたほうが、即戦力になると思える。

 できないことがあるなら、できることで埋め合わせればいい。ミスをおかしてしまうなら、プラスのことをして返せばいい。
 こんなものはたかがゲームのセオリーか、それとも現実にも当てはまってしまうのか。さてはて、どんなもんだろうね?



2003年9月8日(月)

 今夜(7〜8日)の月を見ただろうか。
 20時頃、高いところにあった月は、まさに「煌々と」と言いたくなるようなものだった。
 2時に遠くの建物、町の地平線すれすれに見えたものは、赤といっていいような色合いで、迷信深い時代の人であれば、悪いことの前兆ではないかと言い出しそうなものだった。
 これだから、夜、外にいることはやめられない。

 ところで、現在、PS2の「侍」をやってる。「侍道2」が出る前に、少しやってみたくなって、廉価版を買ってしまった。
 私は時代劇好きだし格ゲー好きだからいいが、それ以外の人が万一やろうものなら「クソゲー」というだろうな、という気がひしひしとする。
 システム的な面で改良するべき操作性やメッセージ速度・送りの問題もさることながら、自由度が高いと言いつつ、シナリオは実に数少ない。分岐パターンも少なく、エンディングも六つこっきり。
 刀の種類がいろいろとあり、それをきたえて強くし、また技を編み出していき、今度はそれで連携を組み立てる、という楽しみ方はアクション好きならいいが、そうでない人にはなんの魅力にもならないだろう。
 ま、私は衣装出したりお気に入りの刀作ったりするためにせっせとやってしまっている。一度こっきりなら、時代もの好きのツボをくすぐられるようなシーンも多くて楽しいし。キャラクターもクセがあって魅力的だしな。単純な美形はほとんどいないけど(吉兆とチェル、日向くらいか)。

 「侍道2」では、遊べるゲーム内時間がぐんとのびることになるから、きっとシナリオの自由度は、まさに「自由度」といってさしつかえないものになると期待したい。
 出るまでは「無双3・猛将伝」で遊んでいるんだろうなぁ、己。
 PSO EP1&2 PLUSとやらが出るようだが、これはもういい。旧ver.からでは結局所持品リセットが起こるし、追加されるのは制御塔とか今までのシナリオ。既に移行している人には魅力的かもしれないが、私はいいや。
 旧ver.はチート(コピー)が横行しているが、いい加減、このゲームそのものに飽きてきた私には、「強い武器」「珍しい武器」を使っての、ちょっと変わった遊び方のほうが面白いし……。



2003年9月9日(火)

 個人的なファンレターみたいなものになるような気もするんだが、私がとにかく、「この管理人さんはよっぽど心が広いんだろうな、穏やかな人なんだな」と、尊敬の念さえ覚えるとある管理人さんについて。
 名前は言わないが、とらかくこの巣からリンクしてあるサイトの一つである。
 そこは、さまざまな注意文にしても、言葉遣いが非常に丁寧で好感が持てる。いくら言っていることがもっともでも、「以上、分からん人は来なくていいんで」とか書いてあると、かなり萎えるものね。
 BBSの返答などについても、相手のサイトを見に行った感想や、そこから思い出した出来事やイベントのことなどが一言付け加えられていたりする。BBSは二種類あって、「こういう内容はこちらで」というミステイクな人もいるんだが、それでもちゃんと受け答えをして、最後に、「こういった内容はもう一つのBBSのほうでお願いしますね」ということがついている。

 規約を読んでいないとか、無視しているということに対する腹立ちもあるだろうに、それを抑えて、決して事を荒立てようとはしない。
 いくら正当だろうと相手が間違っていようと自分の嫌いなタイプだろうと、相手に向けるBBSのレスなどで攻撃的な姿勢を見せる人に比べれば雲泥の差だ。
 こういう人には、文字通り頭が下がる。

 私はもともとが語気の荒いタイプで、ザレについては辛辣になることも少なくはない。が、BBSやメールなど、あからさまに「その人」に対して言葉を出す場合には、この管理人さんのようでありたいと思う。
 腹が立とうとなんだろうと、それをぶつけてしまうのは、単に自分の苛立ちを解消しようとするだけのことだ。諭すのに、どうして怒鳴る必要があるんだろう。辛らつな言いようをしなくても、ちゃんと聞いてもらえるならばそれでいいだろうに。
 腹が立ったままの語気の荒さでレスなどつけたりすれば、最初になにかルール違反した人と同じレベルになるとも思うし。

 ともあれ、その管理人さんは、えらいと思うのだ。
 よくもまあここまで丁寧に、気遣いをして、と感心するのをやや通り越してあきれてしまうほどに、温和な態度で接する。疲れないんだろうかと心配になるくらいであるし、また、これが心底からの優しさでなく、いろんなものを我慢したりしての対人の態度であるとすれば、こんなに美しい仮面を作り出せるものなのかと恐ろしくも思う。
 ともあれ、仮面だろうとなんだろうと、人を無闇に傷つけたり攻撃したりするまい、というそのかたのスタイルは、そこにある作品群ともども、とても美しいと思うのであった。



2003年9月10日(水)

 ある日のごはん。
 バイトから帰る途中にラーメン屋に寄ったので、とりあえず食べる気はせず、見ないままに放置しておいた。
 しかし昼夜逆転している私にとって、夜中の0時=昼の12時も同然なわけで、朝の6時くらいに食べるものこそ、世間一般の人の言う「夕飯」である。
 なにがあるんだろうと思ってキッチンのテーブルを見てみると、サーモンのムニエルである。
 食べるか、と思って取り出そうとし、自分の食うものだし、と手で皿を移し変えようとして、ぎょっとする。ものすごくヌメヌメしている。ヌメヌメ
 油とムニエル用の粉の混じったものである。
 そのヌルヌル具合がたまらず、思わず、すでに焼いてあるものを、水洗いしてからレンジに突っ込んだワ・タ・シ……。

 いまだに吐き癖がおさまらんというのに、こんなもの食えるか……。



2003年9月11日(木)

 一本や二本。
 一年や二年。
 面白いもの、いいものを書くなら、誰にだってできる。
 何年にもわたって何本も書きつづける、ということのほうが、誰にでもはできない、と思っている。
 私も、そうありたい。
 かれこれ十年以上、つーかおよそ人生の半分は、話書いて生きている。時には、書くことでなんとかキレずにいられたという、まさに「書くことで生きてきた」時期もあった。私にとっては、自分自身でできる「救い」でもある。
 十年は、長いとは言いたくない。
 今から十年先も二十年先も、考え方や書き方、テーマのとりかたは違っていてもいいし、ペースがダウンしていてもいいから、それでもやっぱり、書いていたい。
 一つのことを長く続けることも才能だ、と誰かが言った。そんな才能が、この方面であるんだと信じたい。



2003年9月12日(金)

 なんだかちゃっかり「侍」三昧。
 クソゲーぽいところもあるといいつつ、実はワタクシ、無難な大作よりはクソゲーと評されかねない部分のあるゲームのほうが好きだったりする。
 システム的にどーしよーもないクソゲーは論外だが、世界観や表現のツボ、システムといったものが独特で、好き嫌いがきっぱりと分かれてしまうがゆえの、嫌いな人にとってはクソゲー以外のナニモノでもなかろう、というゲームが好きなのだ。

 「侍」はいろいろと改良してほしい部分も多いが(特にメッセージ、飛ばせないイベントシーン、歩く速度・走る速度など。テンポダウンの最たる要因である)、美形に頼らない味のある人物はモロ好みである。つーか坪八かっけーよ……(惚)。月代剃ったままの頭でチョンマゲだけカットして短髪にしたよーな頭に、上半身の藍色刺青、左の頭から額に「一発」という刺青。二枚目とはとうてい言えないうえに、単なるゴロツキっぽい男なんだが、なんか憎めない。味方になった時にさりげなく見せてくれる愛嬌や仲間意識がかなり嬉しかったりするワ・タ・シ★
 刀の収集や、クリア後に換算されるポイントを溜めて解放されていくオマケ要素などを考えると、一度のクリアに時間がかからないのも悪くはない。
 しかも、理不尽(爆
 あっちに味方してこっちに味方して、という態度が反映されるのが、極めて大雑把である。
 なにせ一日目の朝・昼と「黒生家」に入れてもらうつもりで働いて、その夜にはその黒生家に泥棒に入り、翌朝ケロリとした顔で、またしても黒生一家の仲間になっている自分がトテモ好きだ!!(←なお、何故こんなことをしているかというと、ポイントかせぎのためである。大金をもってゲーム終了した場合にもらえる称号だと、一気にポイントがかせげるので、お金を手に入れられるシナリオだけを選択すると、泥棒に入ることになる)

 まあ、私の癖として、システムや美味しいところはこのままで、もし私がリニゥアルするならば、ということを考える。
 仕事をこなすことで味方している側の者たちから信頼されたり一目置かれたりしていく、というシステムのために、もっと仕事の数を増やしたいところだ。当然、行動できる時間もバリエーションも増やす。裏でこっそり敵対行動したりすることもできるが、その行動中に仲間に目撃されたりすると、ちゃんと報告されてしまい、マイナスとなる、といった仕組みにする。無論、バレなきゃいい。バレさえしなければ、両方から美味しいところをとれる。もちろん、映画「用心棒」のように、巧みにあっちについたりこっちについたりすることでしか発生しないストーリーもあるのさ。
 「侍」みたいに、味方ザコに切りつけても特にイベントに影響しないようなのは、ちょっと大雑把すぎる。敵・味方双方のザコが混じっているところで、戦闘に持ち込みたいなら、はじめにかける言葉で、味方には攻撃のダメージが出ないとか、双方に発生するとか、変化してもいい。混戦になった時に、味方を巻き込まないように立ち回るというのも私には面白いが、アクションゲームが苦手な人にはイヤなシステムになるからなぁ。

 自由度を売りにするなら、本編のストーリーには関係のない、ランダムで発生する小さな仕事(信頼度を上げたりお金をかせいだりする)を作り、時間の経過は、イベントをこなすことだけではなく、普通に歩いているだけでも発生するようにする。
 これなら、短時間で何度もクリアしたい時には、余計な仕事は引き受けずにイベントだけこなせばいいことになる。お金を稼ぎたいとか、レアなイベントを見たいとなると、いろんな仕事をしなければならなかったりするわけだ。一定以上の信頼度がないと発生しないイベントが出てきたりすればいい。

 また、時間限定で(6〜8時の間に宿屋で起こる、とかいう)発生するイベントのために、宿屋や茶店で「休憩する」という選択ができればいい。これはハドソンの「ウェルトオブ・イストリア」のアイディアなんだが、「一泊する」の他に、「夕方まで休憩する」ということができるようにするわけさ。それでイベントの時間を調整できる。泊まれば2円(体力回復、翌日の朝になる)、休憩はタダ(時間だけが経過する)とかさぁ。「半刻」「一刻(2時間)」「二刻}という区切りで休憩できてもいい。
 それだと必然的に、宿屋的なものも必要になる。旅籠はもちろん、たとえば人助けをして用心棒として商家に住み着いたりできるとか、長屋を一定料金で借りて、自分の家にできるとか。あるいは、シナリオによっては美人なオシショウサンの「間夫(マブ。恋人みたいなもん)」になって、一緒に住めるとか……。うふふ。
 なんにせよ、用心棒になったり間夫になったりすると、その家の主の考え方に従わないと、追い出されてしまったりもするわけよ。
 あとは、味方したヤクザもんの屋敷に寄宿するとか……。

 あと、鍛冶屋だね。ランダムで攻撃力や防御力、体力が上がったり下がったりするのはいいが、同じ金額を支払ってほとんど上がらないことがあるのも鬱陶しい。それなら、たとえば、その上下する数値を、こちらの用意していく品物によって変化させられたりすればいい。その品物は店で買えたり、あるいは死体から強奪したり、落ちているのを拾ったり、イベント成功の報酬だったりして手に入れる。それと一緒に持っていって鍛冶を頼むと、普通なら−3〜+6%の変動のはずが、−1〜+8%になる、とか。
 あと、鍛冶屋が完全に失敗してただ能力が下がっただけになった時に、文句つけたりできないかなぁ。自由度っていうなら、そういうこともしたい。鍛冶屋も一軒だけじゃなくて、性格の違う主がいたりして。相手によっては、文句つければお金を返してくれることもある。戦闘になることもある。どういう反応をするかで、侍度ももちろん変化する。

 最大の変更したい点は、セーブ(中断)。データコピーすれば結局やりなおしがきくんだから、中断データしか作れないような仕組みにする必要もない。持っている刀は死んだらなくなる、というシステムは大事なポイントだと思うから、だったら、コピーできないようにすべきだろう。
 そのうえで、いつでも中断はできるようにしたい。戦闘画面やイベントの途中でないならば、いつでも中断可能、くらいでいい。
 特定のイベントを利用して、見つからないように忍び込む、といったマニアックな遊び方がしたいなら(「侍」の泥棒みたいな)、それだけを切り出したものをミニゲームとし、ポイントで解放されるようにしてもいい。これなら、データがコピーできなくても、簡単にその場面だけを使い、こだわった遊び方ができる。

 そのままにしてほしいな、というのは、刀が成長するというところかもしれない。対戦格闘っぽいコンボや連携といった遊び方ができる。しかも、キャラクター性能というのではなく、刀の種類で使える技が変化するというのは、非常に面白い。
 技を編み出すというシステムも楽しい。アクションが苦手でも、イージーモードでせっせとザコを倒していれば刀自体が強くなってくれる。変に主人公がレベルアップするよりもいいかもしれない。それは、「いつでも弱くなれる」という点で。拾いたての、あるいはまだ強化もしていないし技も編み出していない刀を持てば、簡単に弱くなれる。対戦のハンディにもできるし、弱い刀でクリアする、といった遊び方もできることになる。

 「侍道2」では、プレイ時間はゲーム内で二週間。刀が成長する仕組みは当然引き継いでいるし、ヒーロー的な受け答え以外のことができる、という意味での自由度もある。お店もできたし、医者もいるようだ。
 ゲーム雑誌を見るかぎりでは、「侍」を確実にパワーアップさせている様子で、ものすごく楽しみだ。相変わらず美形に頼らない登場人物もいい。そう、美形なのは主人公とヒロインと、NPCで一人くらいいれば充分だ!! 出てくる奴の大半が美形(男女問わず)なんてゲームこそ、私はノれんぞ!? いや、ギャルゲーやボーイズゲーム(801にかぎらず)はそれでいい。むしろそうでないと意味ないしネ。願わくば「侍」系にも、決して美人じゃないけど愛らしい女の子とか、外見が魅力的なのではなく、性格的に味のある女性というキャラクターが出てきてほしいもんだ……。
 「侍」の人気ナンバー1NPCは坪八。決してストレートな美形なんかじゃない。だったら、女の子でも同じようなこと、できるんじゃないか??



2003年9月13日(土)

 ネットをはじめた最初の年、この巣のメインが男塾だった頃に知り合った、何人かの人がいる。
 頻繁にメール交換していた人の中には、今もやはり交流のある人もいれば、まるで音沙汰しなくなった相手もいる。
 しかし、喧嘩別れしたのでないことを考えると、これでいいんだと思わずにはいられない。

 その人が贈ってくれた紅茶の一つは、私のお気に入りになっている。手軽に手に入るわりに、素人が淹れても加減の良い味になるし、値段も懐に優しい。
 そういうものを傍らの棚に見る時、「ああ、あれから連絡してないな、してこないな。今ごろどうしてんのかな」とは思うし、連絡してみようかとも思ったりする。しかし、このまま終わらせようとも思う。
 そんなふうに思い出せるうちに別れておくほうが、きれいな思い出になってくれるからだ。
 喧嘩別れしたり、気まずいことがあったりして関係が途切れると、きれいだった頃の思い出まで、なんだか癪に障るようになる。いやな出来事まで関連して思い出してしまう。なにか、悔しいような思いをしてしまう。
 そういうことがなくなるほど磨耗してしまった思い出なり感情ならば、別にいいんだが。

 どんな人にも良いところを見出して、決して人を嫌わないということを、自然にできる人がいる。悪いと指摘されれば心から自分が悪かったと思って、素直に謝罪できる人がいる。ただひたすらに人のことを思うだけで、人から思われることには鷹揚な奇特な人もいる。そういう人たちには、どうでもいいことだろう。無縁の感覚だろう。
 だが私はたぶん、この紅茶を贈ってくれたお嬢さんには、二度と連絡をとらないだろう。
 けれど、だから、そのかわり、今も思っている。
 貴方が元気であればいい、と。

 ……と、ものすごくマジメな話の後に。
 そういや昨日ほざいた「侍」システム。ゲームの最初にモードを選べれば一挙に解決なんだなぁ、と気が付いた。よーするに、どちらの味方をしているか、というのが画面上で確認できる仕組みで(双方にいいカオしてると、双方の味方ということになる)、「味方には攻撃が当たらない」「味方にも攻撃は当たるし刀にも負担がかかるが、体力ダメージは発生しない」「敵味方お構いなしに当たる」というモードを選んでプレイできればいい。後になるほど難しいわけで。味方のキャラ(ザコ含む)には、前二つのモードでは、絶対にダメージが出ない。だから、味方キャラの持っている武器を奪うためには、死んでくれるのを待つしかない。三番目はお構いなしに辻斬りができるが、攻撃すればしっかりと信頼度がマイナスされたり、イベントが台無しになったりする。そのかわり、そのモードでないと出てこないレアな刀とか、イベントがあるとか、獲得ポイントが大きいとか。
 ……ゼロ、あるいは1からの発想でものごとを作り出すのは苦手なんだが、粗探しというか、既に「完成」とされたものの改良は、けっこう好きだったりする己であった。



2003年9月14日(日)

 友達であろうとすることでしか、付き合っていけないものは、本当に「友達」なんだろうか。
 そうあろうとして続けていくことで、新たな関係が築かれることもあるかもしれない。
 だが、お互いの気持ちはとっくに冷え切っているのに、友達でなくなる、切れる、ということのきっかけがないがためだけに、無理やり続けていくことに意味なんかあるんだろうか。

 こんなものは結果論で、決定的ななにかが起こらないかぎり、なんともいえない。決定的ななにかが起こってでさえ、実はなんともいえない。
 ただ、乾ききった上っ面のつながりを、ただ曖昧にたもつということは、かなりのストレスだ。いっそ「もう付き合わん」と切り離してしまったほうが、始末のつけようがある。自分の気持ちも、時間の使い方も、態度などといったものも。



2003年9月15日(月)

 なんとなく溜まってしまったので、売りに行く。なにをって、本とかCDとか、そしてゲームとか。
 それにしても、結局一度たりともクリアせずにやる気が完全滅却してしまった「三国志戦記2」……(死
 だってしょせんパズルの繰り返しなんだも……。うかつに前半でいろいろ遊ばずに、一気にストーリーを見てしまえば良かったのだろうになぁ、己。
 ともあれ、50点で9000円超になった。予想外に高額になったのは、ゲームソフトの買取が20%アップ中だったからだろう。

 というわけで、そのままほくほくと帰ればいいものを、つい買ってしまうわけです中古ゲーム。GBAの「キャッスルバニア 暁の円舞曲」。もともとやりたかったヤツなんですヨ、これは。なにせ主人公の使う武器が鞭にかぎらず、ナイフや剣といったものもある、という時点で「月下の夜想曲」に通じるものがあるわけで。
 それにしても……む、ムズ……っ(汗
 初期装備がナイフってぇのがなぁ。幸いにしてすぐにバーゼラルドをゲットに、一気に攻撃力は上がったが、それでもナイフ系。リーチねぇよにーちゃん……。
 ま、ぼちぼちとうろついておこう。

 「侍」はオマケ要素を全て解放し、刀の育成に取り掛かる。イージーモードで、ザコがほぼ無限に出てくる(100人斬るごとにいったん途切れるが)ところで、せっせと切りまくって育てる。
 衣装も刀に合わせて、片手構えならド派手な模様入りの水色〜、とか、忍び構えならやっぱ忍び装束だろ〜、とか。
 いろいろやってて気に入ったのは、たぶん「完全版」で追加されたんだと思うが、「失楽園」という名前の……なんつーか、「無双でいえばギエンの武器」、PSOでいえば「迅雷」という感じのもの。脇構えではあるものの、たぶんオリジナル技と思われる、刀(?)をくるくる風車みたいに回転させる奴が使いよい。ダメージはカスだが(滅
 そして今なんとなく、外道侍の道中日記でも書いてみようかと思っていたり。


Made with Shibayan Diary