2003年6月1日(日)
何故か先月は美輪明宏さんの「愛の話 幸福の話」がよく売れた。発刊は半年くらい前で、その時にはあまり動かなかったタイトルだ。私は彼になにか惹かれるものがあるので、さりげなく流し読んだりしていたし、売れるかどうかも注目していたが、初版入荷分は、最初に入ってきた分すら売れず、返品した記憶がある。
何故それが今になって再入荷し、またコンスタントに売れるのか。
テレビかなにかで紹介したのかな、とか思ってるんだが、そんなことはともかく。
お客さんで少し親しくなった人が、「面白いですか」と訊くので、「学べることは多いですよ」と答える。
この再入荷にあたって私も一冊買い、一度くらいは丁寧に読んでいるから、きっぱりとそう言える。
たまたまその日は仕事が閉店までではなかったというのもあって、その人と少し喋って帰ることになったのだが。
やはりこういう系統の本を読む人は、勘違いしていることが多い。
ここに書いてあることがどれほど素敵で、納得のいくことでも、それをそのまま真似するだけでは、まるで意味がない。
「貴方なりの美しい生き方、貴方らしい生き方、美意識というものを高めなさい」と言っているのだから、美輪さんと同じものを見て同じような感想を持ったって意味はないし、彼の美意識が良しと認めるものを全て受け入れるのもおかしな話だ。
美輪さんは、自分の経験や美意識を洗練させて、「私にはこれが最高」というものを見つけ、持っているわけで。
真似するなら、そこまで掘り下げて「自分なりに最高と感じられるものを見つけ出す、その努力を惜しまない」というところを真似しないと意味がない。むしろそれすら無視して、美輪さんの前で「俺は俺」と堂々と胸を張れるならそれもありだろう。
人の言葉を鵜呑みにするだけで考えないなら、どんな訓示も意味がない。もっともらしく書かれているだけで頷いていては、たわごとに惑わされてしまうことになる。
人の言葉や生き方といったものは、あくまでも参考資料であって、吟味する必要がある。吟味して取捨選択してこそ、意味がある。
私がここでうだうだ書き付けることには、賛成してくれれば心強いが、それが正しいとは思わない。「私はこうだなぁ」と考えて、その人なりの答えを考える手助けになることが最良の形だ。
2003年6月2日(月)
掲示板の高木様カキコと、高木様のサイトでの日記から、ちょいと学校教育というものについてほざいてみる。
まず、5/31分の私のザレについては、言葉足らずというか一人合点な書き方になっていたので、ここでもあらためて補足すると、「論語(にせよなんにせよ)を詳しく(あるいは丁寧に)教えろ」ってことじゃないのである。
教えたらどうだよ、と思うのは、「自分で考えること」そのものだ。
上っ面の解釈だけ記憶させるのではなく、考えること。
そういうことを教えられんものかと思うのである。
まあ、結論から言えば、無理だ。
じっくりと考えさせるような時間をとること自体ができない、ぎりぎりのタイムテーブルになっているのが第一。
第二に、実際に大学に行って教師になろうとしている人間と共に過ごせば嫌でも分かる。大半の人にとって「教職」は、就職に失敗した時の保険に過ぎないのが現状だ。
はっきり言えば、昔と今では教師も学校も全く別物なんだろう。
昔は大学に行くこと自体が稀で、そこは間違いなく「専門知識を自ら取り込む場所」であり、それだけの意欲のない人間は、そんなところに金を費やさずとも、ちゃんと社会に出て行けた。
それが今は、楽に行ける。行って当たり前、行っていないとワンランク下に見られる有り様だ。
で、どれくらい熱心に学ぶ?
単位とってるだけだろう。テストはぎりぎりでノートコピーか。
そんな人間が、保険程度で教師になってるんだから、熱意も理想もなにもない。理想を抱いていたのが、現実と食い違ってどうの、という悩みなんざめったにあるものじゃない。
「思ってたよりガキがウゼェ」「仕事がきつい」、教師の悩みなんてそんなもんだろう。
教師、という職業になにかを感じてその道へ進もうとしている人は、本当に少ない。
それプラス、学校の授業は知識の暗記にとどまって、塾と大差ない。
教師も無駄話してる余裕がないから、まさに単語年代数式法則、教えるだけ詰め込むだけ。
たとえ、自分なりの熱意とか理想を抱いて教師になったとしても、そういった「枠」に阻まれて、教材もなにもかも決められていて、余分な時間なんか作ることもできないくらいギリギリで、なにもできないのじゃないだろうか。……っつか、「できん」と嘆いている教師が同級生にいるんだが。
面白いものにしたい、と思っても実現できない教育世界。ヤンナッチャウネ。
それが今の「教育」か。
こんなものが「教育」になってんだとすれば、どうしようもない。
なんだか、小学校入学の年齢を、5〜7才にするとかなんとかいう話を新聞で読んだが、そんなことの前に、実のある教育ができるよう、中身そのものを変えないと意味はないと思うのであった。
2003年6月3日(火)
アップロードできるファイルの限界に到達するという、アホな状況になっているうちの巣。……まあ、SSだけで300本。それが、長いものはいくつかのファイルに分けて置いてあるのにプラスして、メニューページとかまであるんだから、無理もないっちゃ無理もない。
仕方ないので、他に一箇所くらいサバを借りて、二手に分けてアップしていこうかと考えたりもする。
……が、それって見る人にとって、鬱陶しくはないのかという心配もある。
でも「アップできなくなったからって、更新されてないとこ削るのはイヤだよ」と言ってくれた人もいる。それに、いくら今更新がされていないといっても、塾にせよPSOにせよ、ふらっと来てくれた人が、「あ、たくさんある〜♪」と喜んでくれるかもしれないなら、減らしたくはない。
というわけで、二つのサーバーそれぞれを利用することを考えている。
今度は広告がポップアップ式のところがいいな、と思う。それならフレームがんがん使っていけるし。
フレーム分割してのデザインなんてのは、かなり初歩的なものなんだろうとくらいは思う。なにより、私の考えている「できるだけスクロールしたり行ったり来たりする手間がかからない構成にしたい」というものがあるから、その点、フレームには優秀なところがある。
今、bbsは全ジャンル共通にしているから、「ホーム」を使うと総合TOPに戻るようにしてある。よって、総合TOPから以外は、別窓で開くようにしてあるが、これをフレームに組み込んでしまえば、コンテンツのほうの操作ですぐに戻れるようになるわけで。
それ以前に、「まだ半年あるし」とほったらかしていたフォトハイウェイの画像置き場。真大さんに教えていただくまで、まるっきりド忘れていた。大慌てで振込み準備していたり。
ファイル数の削減のためにも、その他と無双のイラストもいずれ、書と画に分けてあっちにアップしておくかな。
……ここからはリアルタイム私事ネタ。
私の生活はものの見事に半日逆転。仕事は夕方から深夜である。
そのバイト先の営業時間変更に伴い、更に帰宅が遅くなるハメに。まあ、構わないんだけどさ。たださ、U氏とPSOる時間が取りにくくなるなぁ、と……。
2003年6月4日(水)
・まさに深夜、バイトを終えて帰宅すると、ダイニングのテーブル上には夕飯が置いてある。
今夜はハンバーグ。
ママンの手作りである。
大皿にはきのこのソテーもついている。
ご飯と一緒にレンジであたため、さあて、とハンバーグソースを見てみれば。
賞味期限 02.10.4。
半年も前デスカ……。
さすがに使う気がしなかったので、代わりに使えるものはないかと探し、お好み焼き用と焼きそば用を見つける。
結局、焼きそば用のソースにごまドレッシングを混ぜて使っているのであった……。
・大手のフリサバをちょいと覗いてみたが、やはり容量があって広告がPU式というと、COOLがいいっぽいから、そうしてみる。
しかしアップしようとすると、毎度のPC不調に泣かされるハメに。
途中で凍ること数度。例の不適切な〜というエラーメッセージと共に中断されること数度。
イヤんなったので、まだ今はゲオのほうに余裕作ってあるし、とせめて告知して半月後くらいの移転でいいか、と考え中。……またど忘れてしまいそうだが(死
2003年6月5日(木)
大学時代の縁で、とある討論会に行ってきた。
こういう場所では私は、特に意見を求められた時以外、なにも言わないことにしている。
というのは、声に出して喋るとなると、その場の勢いで、よく考えてもいないことを言ってしまうことが少なくないと、自覚があるから。
あと、正直に言えば、雰囲気によっては「こいつらと同じになりたくない」と思うからである。
議題を一つ決めて、それぞれに思うことを言い合う。
目的は、結論を出すことより、それぞれの見聞を広めたり考えを深めたりすることなのだが、それが上手くいくことはほとんどない。
しかし、まったく成功しないということはなく、稀にものすごく実があって、帰りにはみんないい気分になっていることが、顔を見れば分かるようなこともある。
その違いを考えてみる。
私自身のこのザレゴトを読み返してもみた。
あちこちで日記を拝見していて思うことも合わせてみる。
人が熱く意見を語る時というのには、やはり大きく分けて二通りの理由があるのだろうと思う。
良いというか、うまくいく討論会のような、面白くかつ実のあるものというのは、簡単に言えば、理性的なのだ。
そして逆に、討論会がそうなっているとたまらないというのは、感情が優先な時だろうと思う。
私自身についても言えることだが、「これはこうじゃないのか?」と疑問とか問題を提示している時、よく己を振り返ってみると、単に「気に食わないから文句をつけている」というだけのことがある。「気に食わない」という感情が先にあるんだな。それで、そこにいろいろともっともらしい理屈をつけて、正当化する。
討論会でこれをみんなしてやりはじめると、喧嘩同然だ。
理屈っぽいだけに正当化合戦のようで、気分が悪い。本当にただ、己が正しいと他人に認めさせて、優越感に浸りたいだけなんだろうと思えてくる。
今日の討論会というのは、まさにこれだった。
もうこうなると、一言も口を挟みたくない。
こういう、日記じみた場所で意見を述べる場合、それは「個人の主張」であって、読んだほうは「あっそう」と受け流してしまえばそれでいい。今日の討論会のように、認めろ、と圧力はかけられていないから、無視もたやすい。
もし、「ムカつく」とか、そういう気分を吐き出したいだけなら、それでいいと思う。私はここをそういう場所にしたくはないと思っているが、どういう理由でなにを書くかは個人の自由だ。人に「こうしなさい」なんて別に思いもしない。むしろ、迂闊に周囲の人には言えないことだから、ここで鬱憤晴らし、というのもありだと思ってる。
ただ、もしそれで「なかなかいいこと言うなぁ」とか「もの考えてる人だな」とか思われたいなら、自分の書いていることが、自分の感情の正当化に過ぎないものになっていないかどうかは、振り返ったほうがいい。
他人の意見についても等しく受け入れる用意のある討論、というのは、決して「締め付けない」もののような気がする。
これはこうだ、これが正しいんだ、これは間違いなんだ、と言い切らない。
「こう思うんだけど、どうだろう?」と、みんなが他人の意見を求める。自分の意見を押し通さない。
自分の意見を話し、他人の意見を聞きあう中で、研磨していく、と言えばイメージが伝わりやすいだろうか。「自分は今までこう思っていたけど、こういう立場から見るとこうなんだな」とか、「そういう考え方をする人もいるのか」とか、他人からもたらされる知識、意見、そういったものを使って、どんどん自分の意見を洗練させていく。
これがうまくいくと、実に気持ちのいい時間になる。
はっきり言って、自分が正しいと信じた意見が通るより、ずっと気持ちいい。
こういうメンツが揃って、いい時間が持てると、自然にその後には「飯食ってかないか?」という話にもなる。
しかし、今日のはもう完璧に駄目だった。
「そんなのおまえがもの知らないだけだろ」とかいう発言まで飛び出したんだから、どんなに険悪な雰囲気だったかは、言うまでもない。
こういう中にいると、自分は一言も口きかなくても、胃が痛くなってくる。
それでもまあ、否定する、肯定する、ということを抜きに、人の考え方というものを覗くのは面白いので、のこのこと参加しているんだけどね。
2003年6月6日(金)
ものすごーく切ないネタ(?)を提供してみよう。
暇な人は実行してみてくらさい。
「貴方が今、『好き』と思える人の名前を書き出してください」
ただこれだけである。
古くからの友達、最近知り合った人、よく知らないけど一緒に喋ってると楽しい人、家族や親戚、同僚、遠目に憧れているだけの片思いの相手。
どんな人でもいいから「好き」と思う人を書く。
あらためて問われると、一つの名前も書けないことに気付き、いきなり切なくなった人もいるかもしれない。
けっこうたくさんの名前が並んで、そんなふうに人を好きになれる自分にちょっぴりと幸せなんか感じたりして、心地良い切なさにじーんとできる人もいるかもしれない。
次に、書いた紙を封筒に入れて、間違って捨てないように、何が入っているかだけは分かるようにして、封印してください。
そして、何処かへ仕舞ってください。
一年、二年、あるいは三年でも五年でもいい。引出しの中を片付けようとしてとか、あるいは引越しのための整頓をしていてとか、なにかあって、その封筒を見つけることがあったら、それを出して、名前を見てください。
今も変わらず好きな人。
あの時はあんなに好きだったのに、今では嫌いな人。
嫌いどころかどうでもよくなっている人。
また、今ならこの人も書くと追加できる人。
消える名前、増える名前、残る名前。
切ないのは、そうやって移り変わる心についてなのか、それとも、「好き」という思いの脆さや強さについてなのか。
2003年6月7日(土)
移転移転、移転しちゃったヨ★
というわけで、移転してみたが、たぶんあちこち、特に画像部分では、移動させていないものがあるかもしれない。烏屋のバナーが抜けてることに気付いてみたりしてるし!(←最低
もし皆様がどこかで変なモノを見つけたら、どうか教えてくださいませ。
画像が表示されていないとか、ループになってるとか、ゲオのほうに飛んでるよとか。
お願いイタシマス。
なお、カウンターは丁度45000を少し越えたところのようだったので、端数切捨てでここから始めることにいたしますた。
2003年6月8日(日)
ここには、実は数日前から書いてあることがあった。
しかし書いている途中、書いた後、そしてふとした時に思い出して考え、「私はなにを期待してこれを書いたのか」と思うにつけ、人様に読んでいただくことを前提とするものには相応しくないと思い、あっさり削除。
書いてしまったから勿体無い、などとその程度でアップするより、消滅。
人に問い掛けたいことはある。
けれど、無闇に不安にさせたり、動揺させたりするものは、私が読まされたら嬉しくない。
読んだ人がどう思うか。
BBSなどでは書かないと決めている「これはちょっと好きじゃない」とかいうことも書く場所ではあるが、「読み手が必要以上に不愉快になる」ものにはしたくない。
読んでもらうためでもあるし、やっぱりイヤだわさ、「なにこいつ」って思われるのはさ。
無闇に人を煽るようなネタ、価値観を押し付けているに過ぎないネタは、今後もアップ前に気付いて削除していきたいのである。うむうむ。
2003年6月9日(月)
パロディなどというものは、「この人が好き」という読者様の愛情に乗っけてもらって、読んでいただいているに過ぎない。
はっきり言って、名前をオリジナルのものにかえてしまえば、見向きもされないものかもしれないのだ。それを、名前が「あの人」「この人」であるために、読んでもらえているに過ぎない面があるように思う。
本当にその人の書く「物語」そのものが面白いのかどうかは、オリジナルや、あるいはたとえパロディでも、自分の知らなかった分野のものを読んでこそ分かる。
試してみれば分かるが、たいていの場合、読み進むのに苦労するぞ。
はっきり言って私は、文にせよ絵にせよ、パロディ作品に対する褒め言葉は、七割から八割まで、「既存のキャラクターに対する愛情によるもの」だと思っている。
こんなことを書いてなにが言いたいのかと言えば、褒められて調子に乗ってもいいことはないよ、ということだったりする。
そのために、褒め言葉の裏側、実態というものの一つを、書いているのだ。
心からの賛辞であることもあるだろうが、世辞であることもあれば、パロ作品だから読んでもらえて、面白いと思ってもらえているに過ぎないこともある。
そのことを踏まえた上で、自分ってものに少しくらいは厳しくあったほうがいい。
絵を描くなり、小説を書くなりする人は、程度の差はあれ、「もっと上手くなりたい」とか、「もっと面白いと思ってもらいたい」とか思っているだろう。
そのためには、ほどほどの自負、というものが大切なんでないかと思う。
自信・自負がまるでなければ、やる気も今ひとつ出なくなる。押しも腰も弱い、どこか「てけとー」なものしか生まれてこなくなる。「やったってどうせこの程度のものしかできないんだから」という卑屈な気持ちが、やる気を削減してしまうのじゃないかと思う。
逆に自負を持ちすぎると、慢心につながって独り善がりになりかねない。
気持ちを奮い立たせるため、自信の源にするため、ある程度の褒め言葉は必要だろう。だが、それに乗っかったら危険だ。
また、褒めるほうも、相手のことを本当に考えるなら、嘘に等しいような行き過ぎた誇張や大騒ぎは、やめたほうがいい。本当に褒められるところを、誠実に丁寧に褒める。そのほうがよっぽどいいと思うのである。
なお、最後に一つだけ、誤解が生まれないように注意を。
「褒める」と、「喜ぶ」「楽しむ」はまったく別である。
すごく面白かったよ、楽しかったよ、というのは褒め言葉にもなるが、それは褒める以前に、自分自身の高揚を表現しただけのものだ。
迂闊に褒めるくらいなら、感じた喜びや楽しさなんかだけを率直に語ったほうがよっぽどきれいだと思うし、また、そういう言葉を届けられた側は、「面白かったよ」ということと「上手いね」ということは別なのだと心得て、精進したほうが己のためであると思うなり。
2003年6月10日(火)
引き続き真面目に、カキモノについて考える。
久しぶりに、十年より更に昔に書いた、自分の文章、小説らしきものを読み返してみる。
……展開がお約束すぎるとかありがちだとか、いかにも夢に酔ってるとか、そういった内容部分の不備もともかくとして、なにより目についたことが一つ。
文そのものをやたらと飾り立てている、ということ。
今の私は、文章そのものにはあまり凝らないようにしている。技巧に走らない、とも言える。日常の会話やこういうところで使っている程度の平易な文で書くことと、一文が長くなりすぎないことを第一にしている。
その中に、雰囲気作りのために、あまりなじみのない熟語などを組み込んだり、倒置、体言止、繰り返し、あえて文法を無視した言葉のつながりかた、といったものを、ちょっぴり混ぜる。
あくまで、ワンポイントとしてにとどめようと思っている。
あちこちが飾り立てられていると、言いたいことがなんなのか、という肝心なところがボヤけてしまう。厚化粧すぎて素顔がてんで分からないのと同じだ。あるいは、着込みすぎてせっかくのスタイルが台無しということ。逆に言えば、体形誤魔化すための厚着?とも言える(←鬼か
文を長くしない理由は簡単。人間がさっと読んで即座に理解できるためには、複雑であってはならないから。これはセールスマンなど、勧誘、あるいは説明する人の基礎テクニックでもある。「なにが言いたいか、言われたこと、書かれていることを思い返さないと分からないのではならない」のである。
たとえば店頭のセールス告知などで、「これはこうするとこういうことがあって、更にこういう場合にはこういうこともあって、けれどこういうリスクはあるものの、こういうこともあるからお得ですよ」などと説明すれば、客は途中でイヤになる。「これはお得ですよ。こういう時にはこうできます。こういうことだとこうなります。ただ、このことだけは気をつけてください」という説明の仕方のほうがいいのだ。「得だ」と先に聞かされているから、聞いてみようという気になてくれる。一文ごとに頭を休めて、「ふんふん」「ふんふん」と頷ける。
小説もまったく同じで、最初に「お?」と興味を引き付けておかないと続きを読んでもらえない。そして、長い説明になるなら、中心に据えて理解してもらいたいことは、先にポンと、端的に述べてしまったほうがいい。そして、できるだけ簡潔に書くことで、理解することにノーミソを使わなくて済むようにする。
私が見てもらいたいのは、文章の技巧じゃない。内容を見て、同じように楽しんでもらったり、なにか感じてもらえたりしたらなぁ、と思ってる。そのためには、格好つける前にちゃんと、なにを言いたいのか分かってもらわないといけない。
それが、昔のものは惨憺たる有り様だ。気取った言葉が並んでるだけでまず鬱陶しい。更にはなんのオリジナリティもない修飾や表現が、派手なだけに情けない。「。」が出現するまでに三行(このサイトのテキストスタイルだと四行〜五行にあたると思われる)とか経過するのがザラで、自分で書いておきながら読み返さないとワケが分からんところまである。
特殊な修辞方法などは、ポイントをおさえて使うからそこが強調され、引き立つのだ。それが頻出しては、効果は半減してしまう。どころか、嫌味にさえ感じる。
世に「耽美」と呼ばれるような「美麗に飾られた文」はある。内容よりも、その美辞麗句の雰囲気や香そのものに酔ってもらいたいというなら、それでもいい。
けれど、見せたいのが粉飾を凝らした外見でなく中身であるなら、アクセントとしての化粧と、アクセサリだけでいい。
もしそれが絶世の美女でスタイル抜群だったら、服なんか必要ないものね。
今の私は、そう思う。
ガキだったんだろなぁ、と思う。
「それっぽく見せること」「高級そうに見せること」に苦心して、気取った言葉とか、わざとらしい言い回しばかり使ってる。一生懸命、「すごいね」と見られたがってる。
そういう「力の入った」ものより、自分の思うところを無節操に書き付けただけのもののほうが、書いた時期は同じでも、今読み返すと「いいなぁ」と思う。自分が当時思っていたことや考えていたことが、そのまま分かるのだね。率直すぎて「小説」と呼ぶにはお粗末でも、そのシーンや台詞を通してなにを訴えたいかがちゃんと分かる。結局、それが「物語」だろう。
……とまあ、昔の自分をこき下ろしてみるものの、今の自分はどうなんだと言われれば、それは今の私の目には見えない。いずれ、未来の自分に言わせることにしよう。
2003年6月11日(水)
バイトしてると、たまに、社員がイライラしていることがある。それを隠せなくなっている時がある。
「んー、別に己はなにも失敗してないし、もしなんかミスあったんなら、謝るしかないしなぁ」とかのんきに構えることを覚えたので、あんまりビクビクはしない。
しかし、二十歳になるかならないかという、バイト暦も短く、またこのバイト先にもなじみの薄い人は、怒られたらどうしよう、自分のせいだったらどうしよう、とかビビりまくる。
イライラするのは仕方ないとは思う。バイトより責任のある仕事が多く、尻拭いだってしなきゃならない。今、私は担当コーナーの後輩指導係を任されているのだが、一人や二人の指導でさえ、ちょっと気に食わないと「イラっ」とくる。
もちろん、そこでその「イラっ」を出せば自分にも相手にもいいことにならないのは明白。特に、こういうところであれこれと理屈を語るだけに、それをあっさり無視して、勝手気侭になるのもみっともない。
というわけで、我慢する。「まあ、仕方ないよな」とか、「これから覚えていくわけだし」とか、「俺が二十歳くらいの時って、もっともの知らなかったかもなぁ」とか「自分にはできる、というところではなく、こういうのを立派に育てたところで威張れ!」とか思って、冷静になることにしている。
一つや二つの「イラっ」ならこうして解消できても、社員となると、下に抱えているバイトはもっと多いし、彼等のしたことに責任も持たなきゃならない。仕事も単純な作業ではなく、構成とか管理といった頭脳労働も加わってくる。
注意を受けても謝らずに言い訳するバイト、客からのクレーム、うまくいかない計画、幹部からいきなり申し付けられる注意や改善点。「ウキ〜〜〜ッ」とならないほうがどうかしてる。
……と、更にここでも、そんなふうに考えておいて、「なにイラついてんだよ」とか思うのはやめにしてる。
ちなみに、「立派ダロ」とかいうんじゃない。単に、腹立てたりイライラしてるのって、他人以前に自分が気分悪いし、つまんないから、こうしてるだけ。「うん、まあ仕方ないね」とのほほんとしてたほうが楽だも。
ともあれ、そんなイライラと格闘しなければならない最たる人ってのが、店長である。社長を兼ねた店長ならともかく、社員の一人に過ぎない店長。
中間管理職でありつつ、店舗責任者。
新しいことを始めようとすれば、不安もあるし、うまくいかなかったら後始末もしなきゃならないし、どんなトラブル出てくるかも分からないし、とテンパって当然だ。
それを上手くコントロールして、人当たり良く構えていられるとしたら、そりゃものすごい大人物である。
私は、なんでイライラすんだろうね、ということを考える。
イライラするのは、思うようにいかないことが多かったり、思いがけない悪いトラブルが起こってくるからだろう。思うようにならないから、イライラする。
そこでふと思うのだが、「うまくいかないこと」は、突きつけられてプレッシャーやストレスになってくる。気にとまる。
しかし逆の、「うまくいってること」は? 気にとまらず、見過ごしてるんじゃないかと思う。
順調に進んで当然という感じで、「よしよし、うまくいってるぞ」とか思ってないんじゃないだろうか。
あれこれと問題とか仕事が重なって、「うまくいかないことばかりだ」と思う時、本当になに一つとして、うまくいってることはないんだろうか。
「うまくいかないことばっかりだ」なんてことは、実際にはないんだと思う。うまくいってること、つまり、順調に進んでいる流れの中で、ところどころ引っかかっているだけなんじゃないだろうか。
それに、うまくいってることというのは、気がつきにくくもある。客のクレームをバイトが見事に処理して、お客さんはにこにこと帰っていったとしよう。そんなことはいちいち報告しない。「ああ良かった」と胸を撫で下ろし、ちょっぴり自信を身につけて、それでおしまいだ。
「上」への報告なんて、問題だけなのだ。処理できてしまえば、報告せずに済ませてしまう。
自分が責任者という立場である以上、聞かされる話が困った内容ばかりであることは、当然なのだ。バイトにせよ部下にせよ、自分で解決できればすがりついてこないものね。
問題の数が多いことにイライラすることもあるだろうが、それは多分、それだけ多くのことが起こっている、ということだ。トラブルの割合を見れば、いつの時も誰の場合も、そう大差はない。
違いは、出来事全体の数(量・質)と、そのトラブルをどう感じるかという自分の心持ちにあるのではなかろーか。
そして更に、「では、全てが期待どおりにうまくいくことがあると思うか?」と自問する。
あるわけない。
つまり、思い通りにならないことは、あって当たり前だということだ。むしろトラブルのないほうがなにかおかしい、不気味なことと言える。
そうそう思い通りには進まないだろう、という見通しを持って事に当たるのが、精神衛生上、良いかもなと思う。
そうすれば、「うまくいったこと」「期待どおりにしてくれたこと」を、「おお!」と驚き、喜べる。なのに人は、どこかで「期待どおりにしてくれて当たり前」と思うから、期待に背かれるとちょっとしたことで勝手に怒り出すことが多い。「勝手に期待して勝手に裏切られて、勝手に腹を立てる」というヤツだ。
これは人に対してだけじゃない。
自分のすること、目指すもの。そういったものも、同じだろう。
全力でやったって、失敗することはある。「絶対にうまくいくに決まってること」なんてのはない。どんなトラブルが降ってわくかもしれないんだから。
多くを、あるいは完璧であることを望めば、失望の数もイライラの数も増える。
完璧であることなんて無理なんだから、そんな無茶そのものを願うことをやめれば、たぶんイライラはずっと少なくなるような気がするのであった。
2003年6月12日(木)
久々に、寝ようとして「少しだけ」と読み始めた小説で、余計に4時間起きていることになった。
バイト帰りに買ってきた「金閣寺に密室」(鯨統一郎)と、「だましゑ歌麿」(高橋克彦)の二冊を立て続けに読んでしまった。
前者は、買って損はしなかったな、という感じでまず満足のいくもの。密室殺人の謎を、小坊主の一休が解明する推理もので、足利義満や世阿弥、新右衛門といった人物も登場する。
何冊も推理ものを読んでくると、たいていは話の途中で、登場人物の扱い方から犯人が分かってしまう。「わざと言及していない」とか、いかにも関わりが薄そうでありながら、少し考えるとつながりが見えてしまうとか。
これもそのパターンに洩れず、怪しいと言及されない者が一番怪しい、という感はあった。言及しないにしても、なにか不自然なものを感じる、ということだ。
まあ、こんなものは推理ものの正統な犯人当てとは違うのだが、言ってみれば「作者の供述から嘘やごまかしを見抜く」ということでもある。
しかしそんなことは差し引いても、「何故」「どうやって」ということが説明されるクライマックスは、なるほどと頷けるものだった。なにより、シーンごとにちゃんと妙味が与えられているから、読んでいて飽きがこない。
「歌麿」のほうは、のっけからある部分の予測はついてしまうものの、誰が敵で誰が味方か、本当に信用のできるのは誰か、と混迷していくのに巻き込まれ、つい真相を知りたくて読み進んでしまった。
ストーリーテリングの妙をいえば、こちらのほうが圧倒的に上だと感じる。
更にはそこに、寛政の改革についての知識が織り込まれ、定信、歌麿や蔦屋、後の北斎といった人物に加えて、長谷川平蔵(鬼平)までが絡んでくる。これはもう、時代もの好きにとってはたまらない。
趣味・好みの問題ではあるが、ようやく、腹一杯読んだ気になった。
そしてつくづく思ったのは、解説と描写は違う、ということ。
景色や心情を、描写すれば面白くなる。解説するとつまらなくなる。
どう違うかは言葉にできないが、そうなんだろうな、と思ったのであった。
2003年6月13日(金)
PCが絶不調で、一文打つのもままならズ、本気でモニターに拳叩き込みたくなる今日この頃……。騙し騙し書いてはいるが、フリーズのために電源ぶった切った数は数え切れず、まともに文字が表示されなくなって再起動した数も知れず。
更には、書きかけの話が、txtファイルとしてデスクトップに並んでいる私のPC。
いちいちフォルダを開くのが嫌なので、近日中にまた開きそうなものは全てここなのである。
……そろそろ、余白がなくなってきた(爆
なんかもう、末期?
それはそれとして。
「あらしのよるに」という絵本(シリーズもの)を読んだ。
ぱらぱらとめくっただけで、ちゃんと文字を追ったのは最終話「ふぶきのあとで」だとかいう一冊の、半ばから最後だけ。……「読んだ」というのもおこがましいか。
しかし、ちょいと感想なぞ述べてみようと思う。
まずはあらすじから。
ものすごい嵐の夜に、ガブという名の狼と、メイという名の山羊が出会う。二匹は互いが「食う側」と「食われる側」であることを知らず、友達になる。これが一冊目。
二冊目から四冊目くらいまでで、いろいろな軋轢や葛藤が記されているようだ。自分が山羊を食う側の存在であることに気付く狼とか、いろいろ。
それでも変わらずに二匹は友達でありつづけ、どうやら最後の一冊にて、「他の仲間なんか知らない、自分たちが友達として暮らせるところへ行こう」ということになったらしい。
そのために、冬の山越えを決行する。
私が読んだのはこの途中からだ。
吹雪にあってしまい、狼よりも寒さに弱い山羊は、参りそうになってしまう。それを狼が必死に暖めて助けてやる。そうして洞穴のようなところで山羊は意識を取り戻す。それでほっとしてのも束の間。狼のガブは自分の弁当をなくしてしまっていることに気付く。
山羊のメイは草食だし、その辺の雪掘って芽でもなんでも食べればいいのかもしれないが、ガブにとっては問題だ。腹が減ると、本能が強く表に出てきてしまい、メイを「美味そう」だと感じてしまう。
それを悟られまいとするガブに、メイは言う。「私を食べたいと思ったでしょう?」と。「私は寒さに弱いし、このままではきっと山を越える前に死んでしまう。だったら食べればいい。そうすればあなたは無事に山を越えられる」。
ガブはそれを拒んで、吹雪のやむのを待ち、また二匹で山の向こうにあるという森を目指して出発する。
ところがそこに、ガブの元仲間なんだろうと思うが、狼の群れが追ってくる。追いつかれれば、間違いなくメイは食べられてしまう。ガブはメイを先に行かせ、単身、群れに向かって駆け戻っていく。もちろん、追い散らすためだ。
一対多で、勝ち目はない。しかし、ガブが斜面を駆け下りていくと、彼を追うようにして雪崩が生まれる。その雪崩に巻き込まれ、飲み込まれて、狼の群れはいなくなってしまう。無論、ガブの安否も分からない。
山を越えたメイが森を見つけ、「森があったよ」とガブに呼びかけ続けるところで、物語は終わってしまう。ガブがどうなったのかは 言及されないままだ。
結末は読者に委ねられているから好きに作ることはできるが、単純に、あたたかくも哀しい話だとは思う。
たとえば、メイは森に辿り着いたものの、ガブが来たら一緒にお祝いをするんだと心に決めて、それまではご馳走(草)を食べないと決め、いつまでもやってこないガブ(死亡済)を待ちながら餓死してしまう、とかすれば、悲惨になる。
逆に、辛抱強く待っているメイのところへ、ずいぶん弱ってはしまったもののガブがやってきて、二匹で森に落ち着き、幸せに暮らしましたとすればハッピーエンドだ。
この絵本に込められているメッセージそのものは、「種族がなんだというのか。自分の心を大事にしなさい。目先の欲望に負けたりせず、友達を大事にしなさい」ということなんだろうが、それだけにしてしまうのも勿体無い。
子供に読ませるなら、親は「このあとどうなったろうね」と尋ねてやるといいと思う。
心に感じたものから、その先へと思いを巡らせることの一助になるだろう。
……というのが、一般的なというか、表層的な感想。
こういうことも思うし、じーんともするんだが、私は「ちと待てよ」と思う。
根がひねくれているからなんだろうが、意地悪なツッコミを入れたくなったのである。
それは、
「メイもガブも、自分の命を捧げることで相手を助けようとしているが、それは友達を守りたいからなのか、友達を守ることで自分の誇りを守りたいからなのか」
ということだ。
吹雪の最中、洞穴の中で、ガブの空腹と本能を感じて、「もしかして食われるのでは?」と相手を疑うことで生じる、友を信じきれない自分の弱さ。もし食われそうになった時に感じる恐怖や、生存本能、それによって生じる抵抗や、嫌悪。自らが結局は、友達なんぞより自分が可愛い、と考えてしまうことを恐れて、覚悟を先に決め、自分を納得させようとしている面はないのか。「私は命を捨ててまで友達を助けようとしている」と自己陶酔はないのか。
またガブ側は、本能に負けそうになる自分というものとの戦いがある。メイと同じく、いざとなれば自分が可愛い、ということに気付きたくなく認めたくないから、自己犠牲に陶酔するままに特攻を仕掛けている部分はないのか。
命を捨ててまで相手を助けようとする、というのは、本当に友情一色なのか。そうやって差し出してしまえる程度の「我」に根ざした心情など、実はずいぶんと軽薄なものではないのか。そしてなにより、そんなふうにして与えられた、他人の命、罪悪感を背負ってまで生きることは苦痛ではないのか。
絵本に対して相応しい感想ではないのは確かだ。なんのために書かれたかを考えれば、表層的な感想が正しいだろう。「ガブがひとりでもどっていくところにじーんとしました」とかさ。
だが、人間心理(狼も山羊も擬人化されているのでこの言葉で間違いないだろう)を踏まえれば、「美談だ」などとあっさり涙しているのも芸がない(←芸の問題じゃありません
なんにせよ、メイはガブに食べられないことで、命を保持した。だが誇りは確かめられないままになった。ガブがもし死んだなら、彼は誇りを得、メイに罪悪感という置き土産を残したことになる。
メイは次第にガブのことを忘れ、生きていくだろう。それとも罪悪感と共に心中できるか。あるいは、どちらも感じずにいるために心を切り離してしまうか。それとも、心の中の友達に語りかけながら、君のくれた命だと、強く顔を上げていられるだろうか。
2003年6月14日(土)
また久々に、役に立つのかどうかも不明な我流小説練習法。今回はちょっとハイレベル編。
考えてもらうためには、「答え」を教えてはいけない。答えを教えると、他の答えもあるかもしれないとは考えず、「ああ、そうなのか」と納得してしまう。
「1+1=」?
「2」と答えればああそうかとしか思わない。「田」と答えれば古びたナゾナゾだとしか思われない。他の答えを見つけよう、作ってみようとは、しなくなる。
小説も同じこと。
「なにか」を感じてほしいなら、全てを説明してはいけない。
それは、「こう感じろ」と押し付けることでしかない。
あるいは、「これはこう」と決め付けることでしかない。
白い紙の上に白い円を描けと言われたら、どうする?
線で○を書く?
でもそれは、縁のある円であって、白い円ではない。
正解は、白い円でない部分を別の色で塗りつぶす、だ。
「なにか」もそれと同じ。
白く塗るのではなく、安直に囲うのでもなく、周囲を埋めることで白く浮かび上がらせる。
そして、「ああ、ここに白い円がある」と気付いてもらうのが、ベストなんだと思う。
具体的に言えば「○○はその時とても哀しかった」と書くのは簡単で、芸がないということだ。「哀しかったのね」とは分かっても、その気持ちがしみじみと読者に伝わることは難しい。涙なんてのもお手軽すぎる小道具だ。
「○○はその時とても哀しかった」ということを「なにか」として伝えるために、他の部分があると思えばいい。そして、「こんなことがあったら私は」と読者に考えてもらい、肝心な部分に到る。そして肝心なそこでは、「○○は俯けた顔を上げる力もなかった」などとする。
そこまでで周囲がなんとなく塗りつぶされていれば、それをトドメにして白い円、悲しみの輪郭に気付いてもらえるだろう。
そして更に、そのときの様子や言葉、沈黙などによって更に周囲を塗りつぶすことで、悲しみの程や様というものをサポートする。つまり、悲しみを直接形容するのではなく、悲しみから生じた言動で表現するのだ。「胸が張り裂けそうなほど哀しかった」ではなく、「叫ばずにはいられなかった」とするとか。
哀しい、という言葉、それに類した言葉、涙などという代名詞的な小道具を使わず、「哀しい」ということを表現し、伝える。
これを心がけると、物語の雰囲気はちょっと変わってくると思う。
2003年6月15日(日)
喜ばせようと思うことと、楽しませようと思うことは違う。
つくづくとそう思ってみる。
PSOの小説群は、それぞれのキャラのプレイヤーさんを喜ばせるために書いていた面が強い。
そのせいで、どうも質はイマイチだと感じる。
どう違うのかと言えば、「喜ばせよう」は奴隷なのだ。おもねているのだ。
「楽しませよう」は芸人なのだ。自らの芸を追及することなのだ。
奴隷は主が怒りさえしなければいい、そこそこ笑ってくれればそれだけでいいから、適当なところまでしかやらない。気に入ってくれると思われることをやるんだから、適当でもそこそこ頷いてもらえる。
芸人は、自分が納得いかなければ、誰が笑ってようと関係ない。求められるものを用意して差し出すより、自らの持つもので笑わせるのだ。
純粋にどちらか一方になることはまずない。この二つが混じり合っているのが普通だと思う。
けれど「喜ばせよう」のほうに比重がいくと、下衆になる。
今私は、PSO-rの本編を時空の狭間に叩き落として、まったく新たに作りたいと思っている。
前々から思っていたが、最近またふと、強く思った。
ゲームとは切り離し、プレイヤーとも切り離し、純粋に、一つのキャラクターとして、できるだけ研ぎ澄ます。
これまでも、プレイヤー様の意思を無視して私が勝手に作り上げたところは大きかったが、プレイヤー様のRPやお話などを参考に、もう人物像は固まった。
そろそろプレイヤー様の手も私の手も離れて、それぞれの人生を歩くように動いてもらってもいい頃だ。私はそれを想像しつつ、追うのみ。
想定しているのは、オムニバス形式。
今「外伝」のコーナーにあるものが、そのまま増えていくと思ってもらうと一番いい。
いろんな時間の、それぞれの事件や出来事を、相応しい人物を主軸に書く。一つの話に一つ、なにか私の伝えたいものを込める。それが重なり合い、またつながりあい、連続することで大きな物語になるような、なにかそんなもの。
PSOというゲームを知らなくても、独特の用語さえ飲み込んでもらえれば、オリジナル小説としてでも読んでもらえるようなものにしたい。
……なお、こうシリアスに考える一方で、先日メールでそそのかされて、「B×Gか……」とか思ってる私である(←殴レ、いや蹴レ、むしろ撃テ
シリアスなこと考えたからといって、それ以外のものがなくなってるわけじゃないし、それ以外のものを否定するわけではないのであるよ。
なお、ご要望のBGアダルトは、書きかけでストップしている『Hurtfull Heart』の本編が終わった後、蛇足オマケ異次元へ一名様ご案内〜、として書こうと思ってさしあげます。