烏の足跡



2003年4月1日(火)

 配慮しているふりや良識をわきまえたふりをして、正義の味方のふりをして、実のところ、他人を打ち負かして目障りなものを消したいだけ、優越感にひたりたいだけなんだろうな―――。

 と、思うことがある。議論などの最中にね。
 ちょいと前に書いているが、「なにを期待してそう言う(書く)か」ということ。「どう受け取ってほしいと思ってそう言う(書く)か」ということ。内容そのものの裏側の、その内容を言葉にする理由、といった部分。
 それがなんなのかを見ようとすると、けっこう面白い。ただ、やられる側にすると、かなりイヤなことだろう。私も、いちいちそんなことを考えて話を聞いたり読んだりはしていない。だって考えるのも大変だしさ。楽しい話題とか、自己完結的な内容の話については、ツッコミなんか入れるより、ふんふん、と頷いているだけのほうが健康的だ。
 つい裏側を探りたくなるのは、聞く側、読む側をバカにしていたり、傷つけかねないというか、むしろおまえそのつもりで書いて(言って)るだろ、というほど配慮に欠けた……言葉くらいは丁寧でも、実のところ喧嘩腰だという発言。そういうのは格好の材料になり、冒頭のようなことを思ったりするのである。……あんまり性格良くないな、己……(←とっくにバレてるかと

 ところで冒頭のこと。
 某国にもあてはまるような気がしてしまうのは、まずいかねぇ。



2003年4月2日(水)

 結果から判断して、私にとって、やっぱ無双3は面白いなーと思う。
 ここで言う「結果」というのは、売上とか、ましてや出荷数じゃない。
 購入から一ヶ月たってもまだ遊んでる、という「結果」なのだ。
 一通りのストーリーを見て、クリアして、オマケ要素や育成部分はあるものの、そのために行うことは常に同じ「戦闘」。にも関わらず、それを一ヶ月も、ほとんど毎日数時間やりつづけてるってことは、「面白い」ってことだ。

 実を言えば、「Shinobi」は緻密すぎて、負けることを良しとできる時でないとのめりこめない。「くそ、次を見てろ」とリトライすることが苦痛になるような、勝ちたい気分の時にはまず触りたいと思わない。
 「デビルメイクライ」は、かっこいいアクションはあるし、ダンテさんはかっこいいが、そのかっこいいアクション使っても、さして強くないからあんまりかっこよくならない、という……。壁走りしたってほとんどいいことないし、クロス撃ちなんて完璧に自己満足の上、敵が近づいているのが見えなくて、かっこつけるどころじゃないし。
 ざっと遊ぶには充分に楽しかったし、ダンテという男のデザインそのものはかっこいいが、一ヶ月間、毎日遊びたいと思うほどではなかった。

 無双3のどこがそれほどいいのか。……というより、今の私の気分とか好みというものにぴったりと合っているからなんだろうと思う。
 適当に暴れまくって勝つ、というシンプルな爽快感とか、北方氏のせいで爆裂気味にぶり返してしまった三国志熱とか……。
 「あーもー許猪がかわえ〜っ」とか、「仁おじちゃんイカす〜」とか、「忠じーちゃ〜ん♪」とか、一般的に「かっこいい」と言われづらい武将にラブコール送ってんだから末期か。
 そのかわり、きれいどころの兄さんたちは眼中にない(ぉぃ
 キャラ性能としては陸ソンくんとか面白いんだけどね。張コウなんか一風かわってるし。だからそれゆえに使うが、普通に「スマートにかっこいい」そして「強い」子竜氏とかキョーイとか周瑜とか、触ってもいないという……。嫌いでは決してないんだが、食指が働かんというヤツです。むしろキンキン声の馬超のほうが笑いながら使う気になれる。奴はあの声さえなけりゃかっこいいのにな……。三国志の人物としてもかなりイカすし。
 相変わらずマジョリティに反してるか、己。

 余談だが、よくコミックスとかで「100万部突破!」とかうたい文句がついていたりするが、これ、実は「嘘」のことがあるって知ってた?
 「嘘」といっても、「事実」ではある。ただ、読者の勝手な勘違いを利用して、真実とは違うように錯覚させているから、「嘘」とも言えるということ。
 300万部突破、というのは、販売数が、ではないのである。印刷部数が、なのだ。刷った数であって、売れた数じゃない。言っちまえば、2億冊刷って1冊しか売れてなくても「2億部突破!」なのである。
 コーエーも、無双3が一週間で100万本出荷、といってる。これはまだまだカワイイ。「出荷」しただけだよ、と正直に言ってるものね。
 実際は、採算とれなきゃいけないので、総計100万部刷るためには、相応の数売れていないとならない。ただ、80万冊売れて、あと20万部刷って、「100万部突破」と書いたはいいが、その20万部が全く売れないことはありうる。
 この「勝手な錯覚」利用した売り文句に騙されないようにネ。



2003年4月3日(木)

 「本当に本当のこと」であり、かつ、「これからも絶対に忘れたくないこと」だけを書こうと決めた日記帳がある。第一ページ目を書いたのは1993.4.12。今からちょうど十年ほど前だ。
 だが、まだたったの三ページしか書かれていない。
 書き付けて、忘れないようにしたいと思う「本当に本当のこと」がいかに少ないかの証になってしまっている。



2003年4月4日(金)

 いい加減、ストーブは必要ない季節のはずなんだが、まだ時々、夜中は冷えることがある。しかし気温を考えれば余裕で耐えられるはず。ストーブがある、と思うから寒く感じるのかもしれない。
 もう少し温かくなって桜も咲いたら、桜並木をぼへらーっと散歩しようと思っている。メモ帳ポケットに(笑

 昔、江戸関連の資料や書籍をあさっていた時に、なるほどと納得する言葉を見つけた。私の考えたところも含めて要約すると、↓
 この時代の『旅行』というのは、目的地に向かう道のりもそうだった。道中を楽しみ、行き先で楽しみ、帰途を楽しむ。歩きで長い時間がかかり、今のように気軽に出かけられるわけでもなかったから、行くなら全てを楽しもう、という気持ちもあったのかもしれない。だが今は、旅行となると目的地だけが目当てで、道中はただ、特急や車・飛行機といったものに乗っているだけ。どちらが豊かで贅沢かを考えると、今の旅行には疑問が残る。

 何処かへ行く道、でしかないとただ通るか、それを味わいながら通るかでは大きな違いがある。以前ここに、「夜歩き日記」なんてものを書いたが、今度はそれの桜並木ver.でも書こうと思っている。
 ただ……今は昼間に寝てるからなぁ(爆死



2003年4月5日(土)

 たとえば「自分が20歳だった頃」と、今20歳の人を比べてみる。
 自分がガキだったのか、と思うほど落ち着いていてしっかりした人もいれば、ちょっとなんだかなぁという人もいる。
 高校生でだって、しっかりした人はいるし、時には中学生と知って仰天したということもある。いや、大人びて見えたのもあるけれど、言動が落ち着いていてねぇ。
 しかし、20歳の時にしっかりと落ち着いて分別を持っていたからといって、30歳になった時にも、やはり年齢以上に落ち着いているかというと、そうではない。
 人より早く七合目までは登ったが、それに追いついてきた人が少しずつ更に登っていくのを、そこにとどまったまま眺めていることになる人だっている。

 まあ、そんなことは人それぞれで、私にはどうだっていいことなんだが。
 高校生なのに「もう生きるのイヤんなっちゃった、疲れた」とか笑いながらほざいているのを見ると、たぶん、本当にイヤになるくらい散々な目に遭ってきたわけじゃないんだろうなコイツ、と思う。
 ほんの少しの不満や不愉快を我慢できない狭量さと惰弱さゆえに過ぎないだろ、たぶん。それを、さも大変なことがあったように言ったところで、誰も本気になんかしやしない。
 軽々しくでかいこと口にする前に、そんなふうに簡単にイヤになったり疲れたりする人生しか歩んでない自分を恥ずかしいと思ったらどうだ?
 人の何倍も苦労してたのに、それを少しも顔にも口にも出さず、本当に疲れ果てて消えてしまった知人がいる私としては、「タワゴト」として聞き流すにはちょっとアレな言葉である……。



2003年4月6日(日)

 ぐっはぁ……、とのっけから叫んでみる。
 前々から分かってはいたが、アルバイトが足りない現在、私はあちこち借り出されることが多い。今日も今日とてまたジプシー。
 それはいいんだが、一緒にカウンター&フロアにいるメンツが、私以外全員社員ってナニ?TT
 つーか、私が前にバイトしてたところでは、「社員は常にどこへでも駆けつけられるようにしていなければならないから、カウンターで接客は、基本的にはしないようにする」というスタイルだった。
 電話応対、クレーム、トラブル、なにかあった時にさっと対応するためには、面倒なお客さんに捕まってるようなことがあってはならない。だから、どんなに忙しくても、なるべく社員は「捕まらない」仕事。カウンターでお客さん相手に一定時間消費するのはアルバイト・パート。なるほど、と思った。そういうふうに考えることもできるんだな、と。
 これが絶対に正しいかどうかは分からないが、なにかあって急ぎ社員の判断を仰ごうという時、お客さんの相手をされていては話し掛けられないのは事実だ。
 それがなんでまた、店長やマネージャーという店舗の幹部クラスの人がカウンターにいるのがザラなんだよこの店……。

 まあ、いろんなとこでバイトしてきてると、「店ごとに、重要と思う部分は異なっているし、店ごとに、なにをどこまで重視視するかも違う」ということが分かってくる。
 今の店は、金銭的な危機管理が甘すぎ。クレームを恐れてサービス部分が削られてる感もあるし、クレーム対応が客の言いなりになりすぎてて、かえって他のお客さんに失礼な気がすることもある。「そんな言い訳通しちまったら、ちゃんとやって金払ってる人はどうなんだよ」と。
 サイト&掲示板での発言について、のとこでも同じこと書いてるけど、客の言いなりになるのがサービスじゃない。ダメなものはダメ、それを聞き入れてもらえないならもう来店してくれなくて結構、と言い切れるだけの、守るものがあればこそ、サービスも生きてくると思うんだよなぁ。
 クレーム対応ってのは、事実こちらの手落ちでお客さんになにか損なことが起こった場合のことで、客の過失まで押し付けられてへこへこすることじゃない。
 そのあたりのこととか、売上についてとかも「この程度で地域で一番と威張ってるのか?」とか思うたび、競争相手も少なければ、店としてのプライドも意識も低いんだなと思わざるをえない。

 けっこう店長が気さくで、率先して動いて、働きかけてくる店だし、バイトやパート、社員の中での派閥とか確執というのもほとんどない。だから、もっとテンション上げていけば、売上なんか更にのびる気がする。
 アルバイトに任せてうまくできるかどうか分からないことでも、じっくり教えて少しずつやらせてみる。責任のある仕事を任せ、それを自覚させることでバイトも人間として育つし、やる気にもなる。今は、そういった「育てる」働かせ方をする余裕がないのかもしれないけどさ。
 「本屋の売上なんて、開店から五年がピーク、あとは落ちていくだけ」なんて軽く言った社員がいたが、自分たちにできないことだからって、勝手にそんな理屈作って言い訳にしてどうする。それが常識であるとしても、打ち破る気があればなんとかできることだってあるだろうに。
 面白い店なだけに、意識の低さが惜しいと思えるよ。

 ま、だからといって口は出さない。出すぎた真似をして疎ましがられるより、必要に応じて、請われただけの意見を言っていったほうがいいだろう。
 何度も何度も、筆禍・舌禍というものを味わってきて、ちったぁ私も考えるようになりますた。



2003年4月7日(月)

 ネタ的には三国志なんだけど、もしここ読んでいる人で知っている人がいたら教えてほしいことが一つ。
 今の中国がどうかとかは知らないが、あの時代、姓があり名があり、字(あざな)があった。字は、男子が成人してからつける名前だという。
 曹操の場合、曹が姓、操が名。字が孟徳。つまり、「曹操孟徳」は間違いというか、なんかおかしい呼び方で、「曹操」か「曹孟徳」ということになるわけか。

 この名前の呼び方なんだが、今の中国語圏だと、「阿」をつけて名を呼ぶと、「〜〜ちゃん」とかいった、親しみをこめて可愛がる呼び方になるとか? まあ、愛称みたいなもんだね。
 そういう特殊(?)な呼び方はいいんだが、あの時代の中国では、普通に人を呼ぶ時、いつもフルネームで呼んでたんだろうか。「曹操さん」とか。
 しかし親子とかだと「操」とか、名だけで呼ぶことも?
 では字はどういう時に呼ぶものなんだ??

 なんとなく、これまでに書かれた小説なんかをざっと読んでみた分には、「身内と呼べるくらい親しい間柄だと字、本当に身内であれば名。それ以外は姓名ともに」という感じになってる。
 無双の中では「奉先様」とか、字に「様」をつけて呼んでいることもあるが、それはありえたんだろうか。ものすごく身近にいる、親密な相手、というのと、「様」というのは結びついて良かったんだろうか。逆に、「布様」とか、名だけに様をつけたり、姓だけに様をつけたりはしないものなんだろうか。

 別に、そこまで徹底して調べて書くほど大したもの書くわけじゃないし、だから詳細な資料を調べようとは思わないんだけど、もし簡単に分かることであれば、ちゃんとのっとって書きたいなー、と思ってさ……。



2003年4月8日(火)

 アンパンマンの歌を聞く。……なんでそんなもん聞いてんだ、というツッコミに対して説明できることもあるが、まあそれは良いとして。
 「愛と勇気だけが友達さ〜」とか「行け、みんなの夢守るため〜」とか聞いてると、こいつってひょっとして利用されてるだけ!?という気がしないデスカみなさん?
 愛や勇気なんてものは自己に内在するものであって、外に求めるものじゃない。とゆーか、外にあるものなんて信じることができるだけで、あるかないかなんて実際には知れたもんじゃない。そんなものしか友達がいないって、つまり一人ぼっちってことじゃん?
 そのうえ、「行け」なんて命令されて、やってることは他人の夢を守ることだぞ。
 にこにこ笑顔でヒーローを利用する、おそるべし、アンパンマンワールド。



2003年4月9日(水)

 最近になってこの巣に来られたお客さん二人から、メールで同じことを言われた。
 置いてあるオハナシの数も多いが、よくこんなに毎日、書くことがあるもんだね、と……。
 移転に際して、あまりに無意味なものは削ってしまっているが、サイト立ち上げからほぼ二年、毎日分、書いている(去年の1〜3月頃は書くに書けなかったわけだが)。それも、長い。べらぼーに長いこともある(死
 日記のあるサイトさんは少なくないが、たいていのところは本当に日記で、こんなにダラダラ長くない。それを思うと、こんなに長いザレゴトを、それでも読んでくれているかたというのは、なんというか……暇ナンデスカ?(自爆

 なんでそんなに書くことがあるの、思いつくの、と問われれば、答えはけっこう簡単。考えなくても済むことまで考えてるからと、黙ってりゃいいことまで言葉にしてるから。
 ゲームなんて、遊んで「ああ面白い」「ちょっとつまんない」と思っていればいいものを、なんでだとかどこがだとか、いちいち言葉にする。他人の言動なんかほっときゃいいものを、ああだろうとかこうだろうとか当て推量する。自分が喜んでたりうがーっときてたりするのも、黙って隠しておけばいいのに、言葉にして確認しようとする。

 書こうとすれば、書くことなんてのはいくらでもあるものだと思ってる。
 たとえば、今私は朝マック食べながらPCに向かってるんだが、狭い机の上はキーボとPC本体に占領されているから、引出しを引いて、そこがテーブル代わりになっている。引出しの中身というのは、ここは色鉛筆やペン類ばかり。STAEDTLER、FABER-CASTELLといった、そこそこちゃんとしたメーカーのものもあるが、たぶん小学校の低学年の時に買ってもらったんじゃないか、というくらい古いものも混じっている。それも、中身は入れ替えられている。まあ、親が下の兄弟に買ってやった色鉛筆が、実は水彩色鉛筆で、「これじゃまずいかもしれないから」と取り替えることになったんだったりするが……今更気付いたが、じゃあ私は困っても良かったわけか、え?
 しかしその、一番古い色鉛筆。何故かこれもFABER-CASTELLのもの。これのオレンジが、肌を塗る時に一番しっくりくるものだったりするんだが、ちゃんとケースごと持ってるものと、色合いが違う。この愛用のオレンジがなくなったらどうしようかね……。

 とは言うものの、実はここ何年も、気合を入れて色つきの絵を描いたことはない。画材がなんであれ、だ。
 色鉛筆自体は、けっこう持ってる。引出しの中にさえ48本セットのものがニつ、36本セットのものが二つ、24本セットのものが二つ。ペン立てにはバラで買ってきたものが20本程度と、更には「色辞典」なるシリーズが三巻。
 色を実際にチェックするためにシートまで作って、描いていた時はほとんどフルに使っていた。最後に記憶にあるのは、その他のところに展示してるサムスピの服部半蔵くらいか?マトモに「塗った」と言えるのはあれ以降ない気がする。あれも、完全に「彩色し仕上げた」というほどのものでもないし。
 一番最後の「彩色した絵」は、カラオケ店でメニューに使うために描いたものかもしれないなぁ。

 フォトショやペインター、イラストレーターは、基本的なものだけど一応持っているが、ちっともまったく少しも使いこなせてない。
 ベタってどうやってんの? とか、そういうレベルだもの……うふT▽T
 調べればいいんだろうが、調べてまで使う気もないというのが正直なとこなんだけどネ。

 ―――と、たまたま目に入ったものでも、書こうと思えば書けてしまうもの。
 書くだけなら、たぶん誰にでもできる。
 誰にでも、といかないのは、「続ける」ことのほうだろう。
 しかしこれ、少し前に風呂に本持ち込むことで書いているが、最初は意識的に行っていても、やがてなにも考えずにできる習慣になり、最後には癖になる。一日一回、必ずPC立ち上げてなにか書く。それが私の癖になっている、と言っていい。
 もちろん、時間的に無理な時はある。あるいは、他に優先したいことがある場合に後回しになることもある。立ち上げたはいいが書くネタがねぇ、ってことも、当然ある。だが逆に、連鎖的にいろんなことを考えてしまい、十日先まで書いてしまう、ということもある。
 やろうと思えば誰にだってできると私は思ってる。
 ただ、こんなことを「よしやるぞ!」と意気込んでどうする、という気もする。やろうとしなくたって、やりたけりゃやる、それでいいわけで。
 ただ、こうして自分の考えや、思うこと、感じたことを言葉にして書き付けていくことで、今の自分というものを確かめることはできる。

 もっとも、それも落とし穴の存在を知っていれば、の話だと思う。
 書いている内容の裏にある、書いている理由。
 その存在を無視して書いていくと、自分に都合のいい思い込みを助長するだけで、肝心なところが見えなくなることもある。
 自分の言葉に騙されてはいけない。
 そんなこと言いながら、本当はどうしたいのか、どう思ってるのか。読んでどう思ってもらいたいと臨んでいるのか。
 そこまで見て初めて、「自分を見る」ことになるんではなかろーか。

 おお、予想外に堅い話になったぞ!(阿呆



2003年4月10日(木)

 まあ……昨日分からまたちょっと反応があったので。

 人に与えられた時間は等しいが、それをどう効率良く使うかとか、同じ時間内にどれだけのことができるかというのは人それぞれ。
 そして、与えられた時間をなににどれくらい使うか、というのも。
 一日三時間眠れば充分な私には、残りの二十一時間を自由に使えることになる。
 そのうちの十時間くらいは仕事とか必要な雑事に縛られるとして、残りの十一時間は毎日フリーということだ。
 これが、一日に必ず八時間は寝る、という人だと、六時間に減ってしまう。

 べつにテレビなんて一週間で一時間も見ないし、他にしてることって言ったら友達と遊んでるかゲームしてるか本読んでるか、話とか絵書いてるかだからなぁ、私は。
 こういう時間の使い方をすれば、誰にだって「毎日更新」はできる。
 あとは、それをやる気があるかどうかだけどよね、結局。
 そういうわけで、毎日一定量異常のテキストを書いていることになるが、私は特別なことをしているつもりはないのである。
 たぶん、「これを特別だと思わない」ことが、特別なのかもしれないが(滅



2003年4月11日(金)

 夕方七時、散歩に出る。
 行き先は堤防。桜がちょうど満開で、明日からは天気が崩れるというので、今夜しかないと思い出かけた。
 のてのてと歩いていくとと、町屋の真ん中で、どこからか沈丁花らしい香りが。「ああ、春なんだなぁ」などとほんわかする。が、間もなく焼肉の匂いにとってかわられる。ええい、台無し。……いや、美味そうだけど。

 ともかく、予定外にそんな目に遭いながら、堤防に辿り着く。
 この川沿いの桜並木は、実に2.2kmも続くもので、桜の名勝の一つとして認められてるんだったと思う。その一番端っこには、人間の手はのびていない。つまり、土手下の民家の明かりとか自販機程度は輝いているが、ライトアップされたりせず、本当にただ桜が左右に続いているだけなのだ。
 これが、橋から橋の間、続く。

 七時過ぎの道であるし、街灯などない。花の色などほとんど見えないが、夜に比して白い花の姿はちゃんと見える。
 人通りもほとんどないので、悠長に上など向いて歩くと、枝の合間に半月が覗いていた。
 これが満月であれば相当な明るさになるのだが、半月では位置も高いし、そう強く照らしてくるわけでもない。が、見下ろせば自分の影程度は分かる。
 四月の満月というの、あと数日は先のこと。そういう時期に花が満開にならんものかと思う。
 何故ならば。
 人の手が入り人工の光に照らされた桜は、それはそれできれいなのだが、同時に光に群がる羽虫のごとき人間を呼び寄せてしまうからである。

 枝の間にぼんぼりが灯され、根元には投光機が置かれるようになると、そこからはぞろぞろと花見の人間が歩き始める。河原には宴会をやってるグループも増えてくる。
 月は、他の明かりに圧倒されて、ほとんど見えない。

 騒いでるヒトビトに問いたい。
「君らは今宵の月が満月か半月かそれとも三日月か、答えられるか?」
 花見の花とは、これすなわち自然の風物全てをひっくるめてのこと。古来から花見にかこつけて騒ぐのが当たり前になっているが、「うわー、桜が満開だぁ」と思ったきりであとはなにも見てない連中がどれくらいいるかと思うと、ちょっとげんなり。

 しかしまあ、堤防を歩いているうちに、土手下から上がってきた学生らしい女の子が、「すっごいきれいじゃん。うわぁ。ホントすごいよ」とこの地方の方言ではない言葉でしきりに感嘆していた。たぶん、大学に入学するなりしてこちらに来た子なんだろう。
 おかしな観光名所より、町の真ん中にあるこの並木道のほうが、はるかに分かりやすくて感動的かもしれないね。
 ただし、こればっかりは時期を外すとただの堤防の道になってしまうんだけれども。

 歩きながら、行き交う人の話に耳を傾ける。
「去年は今頃、もう青葉だったなぁ」
 と言っている年配の二人連れがいる。どこに自転車を止めようかと相談としている高校生たちがいる。ふと、「おい、ゴミ捨ててくなよ」という若い男の人の声がして見ると、ポイ捨てした人を咎めたものらしい。
 どうなるか、と思って立ち止まり見ていると、相手は色めきたったようだが、多勢に無勢か。諦めておとなしく拾い、歩いていった。
「そんなこと言ってて、俺らも帰る頃にはできあがってて忘れてそう」
 とか話しながら笑っているのは、たぶん大学生くらいか。十人ほどのグループで、なかなかいい場所をとっている。
 なあ。
 帰る頃には出来上がってて忘れてても、私はいいと思うよ。それは酒のせいにしていいよ。酔ってない時、赤の他人のすることに一言注意できる。それだけで、なにも言わず知らん顔してる人よりいいと思うよ。

 人もまあ、捨てたものじゃない。

 暗い川面にヘッドライトやビルの明かりが映り込むのもなかなかにきれいなものだ。
 十年や二十年も前から変わらない、夜店の風情もいい。
 焼きそばとかフランクフルトの屋台が並んでいる端に、人形焼きの店を見つけた。これはたぶん、全国的な食べ物ではないんだったと思うが、どうだったっけ? ま、タイヤキのようなもの。その形がフクスケという人物の形をしている。中のあんこは漉し餡が基本。
 河原に下りていって、「六個ちょーだい」と中のあんちゃんに声をかける。ちょっとヤンキーっぽいあんちゃんは、愛想もなく黙々と焼き立てを袋に入れてくれる。六個で五百円。夜店の食べ物の価格としては、そう高くもない。おつりとともに受け取って、そこからぶらぶらと引き返すことにした。

 人がそぞろ歩きする堤防上は歩きにくいので、土手下の車道を歩く。しかしここも、見上げれば枝が頭上にのびてきているわけで。
 そこを買ったばかりの人形焼きなど食べながら、またものてのてと歩いて行く。
 人工の明かりがなくなったところで堤防上に戻る。今から、明かりのあるほうへと向かっていくグループもある。
 明かりのあるところでなければたしかに花の色はほとんど見えないが、それでもここも、同じように桜の道だ。
 誰にどれほど見られていようと、逆に誰にも見てもらえなくても、桜は同じように咲いているのだろう。
 なんとなく、人のプライドのあるべき姿にも思えたりしてみたり。
 誰かが見ているからとか求めるからとかでなく、そんなこととは無関係に存分に、あるいは無心に。

 なんにせよ、今年の花は今日が盛りで、明日には風雨、間もなく散ってしまう。
 もし来年、満月に近い時に好天であり、更に桜が見頃だったら、真夜中に散歩しようと思う。
 酔狂な人間がいる程度で、余計な演出もないただの花を、草の上に転がって月明かりにだけ眺めたら、きっと贅沢だと思うのだ。



2003年4月12日(土)

 国粋主義者に愛国心はあるのか?
 ……何故かそういう、クソ真面目な話になった。
 たぶん、彼等自身はあると信じているし、あればこその国粋主義なんだろう。
 しかし、本当の愛国心、好きだ、愛しいと思う心というのは、直すべき欠点があればそれをちゃんと指摘するものではないかと思う。
 愛すればこそ、痛烈な批判も可能になる。

 「アホでマヌケなアメリカ白人」というタイトルの本がある。アメリカ人のジャーナリストが書いている本だ。タイトルからしてそうだが、皮肉たっぷりに現代のアメリカ社会と、ブッシュ大統領を批判している。
 けれど読んでいると分かる。
 彼は嫌いだから平気で辛辣なことを言うのではなく、一人のアメリカ人として、国と同朋が好きだから、このままでいいのかよ、と警鐘を鳴らしている。

 人を愛するということは、ともすると、その人のどんな欠点も受け入れて、ひそかに補ってやることなのかもしれない。
 だが国を愛するということは、より良くなってほしい、という思いに通じるのではないかと思う。
 人に対しては、「変われ」というのは、たいていの場合「自分に都合良く」であって、その人への愛情というより自己愛だ。だが国に対しては、「その国自身のため、暮らす人のため」より良くなってほしいというのが愛情なんじゃなかろか。もちろんそれは人に対しても、「こんなんじゃみんなに嫌われてしまうから」、だからここは直したほうがいいよ、と言うならば愛情かな。でもそういうのは大きなお世話と言われて関係にヒビを入れるだけになったりしたり?

 国粋主義というのは、他国に嫌われることを無視してでも自国さえ良ければいいという感じだろう。
 愛国心には、「ボクはこの国が好きだから、みんなにも好きになってもらいたいな」という部分があるのでは?
 結論。
 国粋主義者の心を愛国心と名づけることは可能だが、多くの人が認める「愛国心」は、決して他国を踏みつけるものではない、ということじゃないだろうか。
 ということになってみた。
 それにしてもなんでこんな話をファミレスで四時間もしてるから己ら。



2003年4月13日(日)

 サイトに置いてあるカウンター。
 来客数の目安。その数で「見てくれている」と安堵したいんだろうか。
 そんな気持ちは私にもあるが、リンク張るのをTOPにしてくれというのはいいとして、お気に入り登録などもカウンターのあるページにしてほしい、とか書かれているところを見ると、そんなに回したいのかな、と思ってしまう。
 うちもカウンターは置いているが、リンク張るのは各ジャンルのTOPでもいいと思ってる。
 だって、わざわざ前置きページを作って、そこから何度もクリックしないとお目当てのところに行けない、なんて、ものすごく不親切じゃないか?

 そんな思いがあるから、うちはTOP(index.html)を、いきなりコンテンツありにしている。警告文などを記したページをTOPにするのは、思いがけず来てしまった人を不愉快にさせないというためにはいいと思ってるが、やはり一度余計にクリックしてもらわなければならない、というのは手間だ。
 各ジャンルの中でも、できるだけ行き来したりしなくていいように、と思ってる。だから品物は基本的に別窓。ADSLとか光ファイバー使ってる人はいいけど、私は自分がアナログだから、読み込みに時間がかかる。だから、「戻る」でまた元のページが表示されるのを待つのも、あまり嬉しくない。
 品数が多いんで、どうしても品物置き場のページは長くなってしまうが、できるだけスクロールしなくてもいいように、とも考える。
 手間は、たとえば、「その手間をかけても見たいという人だけ」というような、読者を選ぶ場所以外、できるだけかけさせたくない。
 デザインに凝るのはいいが、やたら重たい画像を貼り付けて、表示に時間をくうのも好きじゃない。特にうちはテキストメインのサイトなんだから。

 それぞれに思うところがあり、考えるところがあり、また、気付くところと気付かないところがあって、管理人の個性としてサイトの姿になる。
 置いてあるものだけじゃなく、そういった部分まで、できれば不備のないサイトにしていきたいものである。



2003年4月14日(月)

 一応イラク戦争もケリがついた模様。
 少し前の新聞で、引き倒されるフセイン像を見た。記事ではなくコラムのところだったと思うが、「こういう光景は過去に何度も繰り返されてきた。ただし、今回は民衆の手によってではなく、アメリカ軍の手によってである」とか書かれていた。
 国の持つ軍事力と、人の持てる武力との差が大きくなったためだろうか、とふと思った。
 そしていつか、民間にも軍なんてものが生まれたりする、サイバーな世界になったりもするんだろうか……?



2003年4月15日(火)

 ここのところ無双三昧だったが、久しぶりにディスクをメガテンに入れ替える。
 アマラ神殿に向かう手前のスペクター戦で連敗したあたりで放置したまんまだ……。
 一応、パーフェクト攻略本は買ってあったのだが、ちっとも開いていなかったのを、やっとこさちゃんと眺めてみる。
 どうやら今回、LV99以降も、更にレベルアップは起こるらしい。LV99のまま、ステータスがのびていくとか。つまり、主人公のステータスMAXとかいう無茶もできないわけではない。……どれくらい時間かかるんだ……。やる気は毛頭ないが。
 なんにせよ、趣味丸出しチームを作り上げるまではやるつもりである。
 破壊神シヴァ、鬼女ラケシス、邪神サマエル、魔王モトあたりを主力に、あとはトールとかロキ、ケルベロスをひたすら鍛えて加えるとか(←このへんが趣味)リリスとかニュクスとかラファエルあたりをストックしたいなぁ。
 ……と、白い神殿までクリアしてみる。

 その後、暇に任せて古本屋へ。目当てのものはことごとくなかったので、ぶらぶらと時間つぶしに、面白そうな本を探したりする。
 講談社専属なんだと思うが、所十三のマンガがけっこう好きだ。といっても、週間少年マガジン一番長く続いていた「特攻の拓」は除外。昔の「仰げば尊し」「名門多古西応援団」がいい。
 「拓」以降、あるいはそれと同時期に書いていたものはほとんどチェックしてなかった。というか、その頃が一番マンガから遠ざかっていたからなぁ。
 というわけで、「JINGI」があったのでぺらぺらと見てみるが、一巻の第一話を我慢して読んで、次が読みたいと思えないので放棄。「G-HARD」を手にとってみる。一度か二度ほど、見たことだけはあるんだが、ちゃんと読んでみるとけっこう面白かった。
 第一部はひたすらバイオレンスなんだが、第二部に入ると、タケミというキャラがギャグメーカーにもなり、路線が変更されている。これが所氏本人の望んだことなのかどうかは分からないが、第一部と第二部は、登場人物は同じだがほとんど別の物語として読めてしまうし、そう見ればどっちも面白い。
 やっぱり「第一話(冒頭)」が勝負。そこで引き込めなければいかんね。

 6巻まではあったので全部立ち読みしてきたんだが、「拉致されて日本人に化けてもぐりこんでもバレないようにするための教育係にさせられる」ということがからんだ話があった。
 これが書かれていたのは、巻末の発行年月日から見るに1998年前後。ネタとして使うにしても、問題意識があればこそなんだろう。
 所十三さんというと、最近では「DINO 2(ディノディノ)」という恐竜マンガを出してる。これもけっこう良かったなぁ。

 多古西をざっと10巻分ほど読み、ジハードを6巻読み、更にこまごまとしたものを覗いたりしていたら、気が付けば5時間すぎてました……。


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