烏の足跡



2003年3月16日(日)

 たまにBOOK OFFとか行くと、ついつい中古CDを買ってくる。
 死ぬほど今更だが、シャズナの「GOLDEN SUN & SILVER MOON」が50円で叩き売られていたので、買ってしまった。
 別にファンってわけでもないんだが、聞いていてイヤな声や曲じゃないんで、売れていた束の間の一時期、それなりに聞いていたのである。まあ、詩はどれもどれで大差ないし、クるものもないが。
 思えば、「女か男か分からんメンバー」というのは昔からそれなりにいたが(第一次バンドブームまで遡れば、カッツェのギタリストがキレイだった)、このIZAMが群を抜いて「女にしか見えん」かったような気がする。
 彼がああまで「女」に見えるのは、輪郭が柔らかく曲線で構成されていることと、大きくぱっちりした目のせいだろう。そのせいで、太ったら余計に女っぽくなったような覚えがあるなぁ。

 一つのバンド(あるいは個人)に限らず気に入っている曲というのはいろいろあるが、音楽的な素養が全くない私が、にも関わらず一度聞いただけで覚えてしまい(正確にではないが)、気に入った曲というのは少ない。
 最初は、リチャード=クレイダーマンのピアノ曲、「双子座」。NHKかなにかで一瞬聞いただけだったのにひどく心に残り、ホントにかすかなうろ覚えで「たしか、星座なんとかっていう曲」と覚えていただけ。誰が弾いていたのかすら覚えていない。にも関わらず、テープ(CDですらない)でそれっぽいタイトルを見つけ、耳にした瞬間に「あ、これだ!」と分かった。
 次はぐっと最近(?)になって、BLUEの「SHELLY」。これも深夜の音楽番組で一度だけ聞いて気に入り、サビを覚えてしまった。その当時のバイトがTSUTAYA系列だったんで、邦楽に詳しい友人に聞いて、シングルが出てると判明。
 それから、CMだかなんだか(バンドのライブ広告か)で一瞬流れたRAPHAELの「秋の狂想曲」(だっけか)。これはず――っとCDを探していても見つからず、ボーカルの死亡とかでバンドは空中分解するし、もしかして発売予定シングルだったのにお流れになったのか、と思っていたくらい。それが、たまたま友人の友人があの系のバンド好きで、CDを焼いてもらい、やっとゲット。

 意外に、ずーっとハマってるバンドとかチェックしているアーティストの曲では、一発で覚えて気に入った、という曲はない。もちろん、アルバムを買えばその中に「これはいい!」と繰り返し聞く曲が見つかることはあるが、もしその曲をテレビで一瞬聞いただけだったらどうか、というと、覚えなかったかもしれないものがほとんどだ。
 こういう「一発必中」型のハマり曲もあれば、じわじわと自分の中で意味を持ってくる曲もある。
 その時々の自分に重なる曲であることもあれば、目指すものに近いことを歌っていることもある。
 で、束の間話は逸れて、ちっと前にも書いているが、「たった一枚残して他全てのCDを処分しなければならないとしたらどれを残すか」ということを考える。CDRに焼いて自分のベストを作る、という選択肢を潰し、純粋に、購入したままの状態で一枚だけ選ぶとすれば、私はきっとアレだろう。
 一度聞いて気に入り、覚えてしまったというより刻み込まれてしまった曲よりも、やはり自分の中の何かを動かしてくれる内容の歌のほうが、最終的には重要な位置をしめているんだなぁ、と思うのであった。



2003年3月17日(月)

 久々にPSO。
 オンもオフもあえてやりたいとも思わなくなったので、めっきり触ってなかったが、U氏からのお誘いがあったので出かける。
 まあ、少し前まではつないでいたが、誰も検索引っかからないから、行っても意味なくなったのだ。調整版へも行った人はそっちがメインになってるだろうし。チ品がらみのこともあるんで、「楽しく遊べるなら別に気にしない」とはっきり言ってくれた人以外にはあえて連絡とりたいとも思わないしねぇ。
 ともあれ、久しぶりにつないでみると、新しいクエストが配信されていた。ホワイトデーネタで、17日までというから、試してみることにする。
 「総督の贈り物」という二人プレイ専用のクエストがあったので、一緒にやってみると、完全に合流することはできないまま(同じ部屋にいてもフェンスがあるとか)ずっと進み、途中、タイミングよく二人がスイッチを入れないと解除されないフェンスとかがあるくらいで、さして面白いものでもない。
 しかしタイムリミットのせいで、ULTのクリアがなかなか難しかった。

 それはそれとして、つないでからしばらく、1と2シップを見て回ってみたが、接続している人数はかなり減っている。
 今回のクエストでも、クリア後に話し掛けるとアイリーンが「総督府で開発していた武器が」とかなんとか言うんだが、物でつってプレイさせようとしているなら、もう終わってるぞ、このゲーム。
 かなりやる気減退。
 既にU氏と会ってふらふらするためのツールになりつつあるPSOである……。



2003年3月18日(火)

 三国無双話ではあるが、ちっと「ゲーム」全体についても語ってるので、こっちへ。

 三国無双について、ここがもっとこうだったら、とか、こんなシステムがあれば、とか考えてみる。
 まず、やはり処理落ちで重くなるのをなんとかしてほしい、というのがある。あれだけの数を動かす以上必然的な欠陥ではあるが、それを「仕方ない」で済ませておくかどうかが企業努力というものだ。すぐにとは言わないから、もし4や5と続いていくなら、いずれより快適になっていくことを願う。
 それから、護衛兵の戦術をもう少し増やしてほしかった。なにせ、こっちが武勲や武器経験値ほしい時に横からトドメさされたり、無闇に突撃してガードされ続け、どんどん相手を押してだけいったり、鬱陶しすぎる。突撃(ひたすら攻撃)、バランス、ガード優先、ガードのみ、待機(バランス)、くらいの段階がほしかった。あまりにも頭くるので、護衛兵育てるのと武将育てるのはまったく別にして、普段はせいぜい二人程度の護衛しか連れて行かないようにしてるのが現状。
 スペックの関係もあるだろうから無理は言わないが、2&猛将伝のように、ムービーイベントを増やしてほしいというのもある。三国志は国と国、男と男の戦いというだけでなく、それが誰であるかというキャラもものすごく立った話なんだから。
 アペンドディスクとして、それぞれの武将に由来するような追加シナリオ出してほしいなーとか。2の甘寧と海賊とか(「ひょっとして鈴の!?」と海賊に恐れられるのは甘寧ならではだ)、ああいうのはかなり美味しい。猛獲で、かあちゃんのために極上の獲物をとってこよう、とか、やってみたいなぁ……。総大将がかあちゃん。で、玉ジ争奪戦みたいに、他の武将とアイテムの取り合い。ただ、クリアするために手に入れる必要のあるアイテムは一つに決まってなくて、「貴重品」箱に入っているアイテムは、とった時点で「これにしますか?」と問われる。かあちゃんのとこに持って帰る、までがシナリオでもいい。決めて持って帰ると敵武将がわらわらと追いかけてくるとか、伏兵として出てきて道を遮るとか。で、手に入れたものによってかあちゃんの反応が違う。あと、周泰で「宣城防衛戦・孫権を守れ」ってのは基本でしょう(見え見え) 曹操のエン城みたいに、連れて逃がさないと駄目なのだ。最後にはムービーほしいなぁ。身を盾にして守る、というところの。……本当にこんなんできたら、何度やるかなぁ(死

 システムでいうと、スペック的に無理かもしれないからあくまでも妄想だが、自軍の味方武将それぞれに、ある程度の戦術指示を出せるようになったら面白いと思う(命令しないと、基本戦術に沿って動く)。
 総大将であれば、自在に命令できる。他の敵は無視してもいいから総大将を追え、手近な敵を撃破しつつ総大将に向かえ、その場にとどまって近づく敵を打ち払え、あそこまで行ってそこにとどまり敵を迎え撃て、身辺にいて護衛せよ、とかいう具合に。で、初期状態では、階級(三国志にもとづいた上下関係)が上から下の武将へは命令しやすい。総大将ほど細かくではなくても、最初から「攻撃しろ」「守りをかためろ」くらいのことは言える。
 んで、ここに友好度が関わってきて、仲が良ければいろんなことを頼めるのだ。関羽から張飛へとかだと、最初から仲がいいし、義兄から義弟へになるからどんなことを命じても「よし、任せてくれ」とか言ってしたがってくれる。友好度によって台詞が変化すれば、どれくらい仲良くなってるかの目安にもなるし。
 だから、司馬懿で呉軍に混じってるような時は、最初はなにも言えない。少し仲良くなってくると攻撃・防衛くらいは言えるが、「あんたの指図は受けない」と跳ね除けられることもある。基本戦術と一致した命令でも「いちいち口を出すな」とか言われて、決して命令を聞いてもらえてるわけじゃない。それが少し仲良くなってくると、基本戦術に沿っていれば「俺もそうしようと思ってたんだ」と、一応命令が届いた形になる。反していても「仕方ないな」と聞いてもらえる。もっと仲良くなると命令できることも細かくなっていって、「俺のことよく分かってるじゃないか」とか「あんたがそう言うならそうしてみよう」と認められるようになって、更に仲良くなると、「あんたもそう思ってるなら安心だ」「あんたの言うことなら聞こう」とか、「我が軍の軍師としてこれからも共に戦ってくれれば良いのだが」とか、いろいろと……。
 で、命令出しておいておいた武将が敵武将撃破したりすると、「指示が良かった」ということになって友好度が上がる。これだと、自分一人あちこちで戦って鍛えるだけでなく、わざと削り役になって、倒しやすくしておいてあげる、とかいう遊び方もできる。
 命令を出していなければ勝手なことなんで関係ないが、命令を出していて敗走すると友好度は下がる。仲が良ければ「あんたにも間違いはある」と少しだけだが、仲が元からあまり良くないと激減。逆に、助けに駆けつけたとき、仲が良いほど友好度はあがりやすく、悪いと少ししか上がらない。
 このノリでいくと、敵として出会ったときの台詞も変化するだろう。友好度が高ければ負かしてもなにも変化せず、「さすがだ」とか言われるだけだが、友好度低いと更に低くなるとか。単にいつでも一定数値ずつ増減、じゃちょっと手間かかってなさすぎだろう。
 士気も変化すれば面白い。100人斬るごとに、仲のいい武将の軍の士気も少しあがってくれる、とかさ。台詞もいつも同じじゃなく、普通の時のものも仲がいいときのものがあるといい。
 こういうシステムがもしあれば、自然と武将と仲良くするための方法というのも攻略されていく。「友好度低いうちは基本戦術にそった命令を出す」とか、「突撃を命じるなら自分が先鋒になって削っておいてやる」とか。
 この辺はタクティカルアクション、というゲーム性ではなく、三国志をキャラクターストーリーとしても楽しんでいる人向けのサービスということになる。より熱中するのは女性になりそうだが、私としても、本来は仲の良くない軍師どもを仲良くさせてみるとか、遊びたい部分はけっこうあったりして。

 こういった「できること」を増やすのが一概にいいとは言えないが、「やるかやらないかは自由」であるかぎり、それはあくまでもサービスだ。「やらなければ進めない」となると強制であり、それができるかどうかによって、ユーザーの好みは大きくかわってしまうだろうが。
 このゲームは自分の肌に合わない、ということは誰にでもある。メーカー側の立場に立てば、できるだけ「いい」と思ってもらえるようにしよう、という努力は必要だ。となると、やってもやらなくてもいい、という要素を増やすのは悪い選択ではない。面倒だと思ったらやらなくてもクリアできる。だがやりさえすれば、もっと簡単にクリアできたり、あるいは別の遊び方ができる。
 RPGなんかで、強制的に挿入されるミニゲームは大っ嫌いな私だが(どんなにつまらなくてもやらなきゃ進めないから)、やってもやらなくてもいい、という形で入ってくる要素なら歓迎する。FF8のカードゲームとかがそう。ゲーム自体の評価は低いが、カード集めるのもカードゲームするのも自由、というのはいい。やりたくないなら無視すればいいし、やろうと思ったらカード集めのために頑張ってもいい。

 PSOから延々と思っていることに通じるが、「ゲームをどう遊ぶかはプレイヤー次第」なわけだ。ハードモードで味方武将を敗走させないように戦う、といった、極めてシビアなアクションゲームとしての攻略をしたり、萌えキャラ・カップリングを一緒に戦わせて楽しんでみたり、アイテム集めに走ったり、全てのキャラを最強にすべき鍛えたり……。
 三国無双にもある程度の懐の深さはあるし、それに加え、アクションが苦手でも、適当にボタン押してるだけで大勢をなぎ倒して進める、という気持ちよさもある。それプラス、題材にした三国志というものの持つ魅力もある。
 オメガフォースのインタビューでは、「常にこれで最後というつもりで作ってる」と、「次回作でなんとかすればいいや」といった甘さのないことが語られていた。無双3も、それにのっとって、私には隙のない、いいゲームに仕上がっていると思う。2に比べて物足りない部分もないでもないが、3で生まれた良さもあるし。
 もし「4」を企画し、制作することになった時、次はどんな方向へと強化されるのか、興味がある。もし私が上に書いたようなネタをコーエーに送ったとして、それを利用してもいいと思い、そういった「キャラもの」の要素が付加されるのか、それとも、「それはそれで面白いけど、うちの狙うものとは違うな」とアクションやシナリオといった点でのみ変化していくのか。
 幸い、「元からいたキャラクターを削ってまで新しいキャラクターを出したくない」という思いのあるチームのようであるから、新キャラが増えても、旧キャラが減ることはないだろう、と安心していられる。あとは、ゲーム性は当然として、なにを鍛えていくのか、変化させていくのか。
 私個人としては、3の「LV10武器だけはとらないとならないが、そこまでは武器経験値で育てられる」というのはかなり嬉しかった。これで最後まで育ってしまうとつまらないし、いちいち武器見つけないとならないのも面倒。チャージ攻撃がキャラ特有になったのもいい。
 ただ、声優はもう少しマシにしてくださいとつくづく思う……。棒読み、キンキン声、可愛いというより力の抜ける頭悪そうな口調……。ホンっっっっっっっっっっトに、馬超の声と喬小の「うちとっちゃった」は聞きたくもない。更に言えばナレーションも今ひとつだし、孫策は相変わらず棒読み気味、関羽は重々しく喋りすぎて変に芝居がかって不自然だし……。2の設定資料には声のイメージも書いてあったが、なるほどと思えるのはあまりない。なんか、本当にこれでいいと思ってあててるのかどうか、疑問だぞ?



2003年3月19日(水)

 もっともらしい言い訳はいくらでも言えるし聞けるが、そんなものはどんなにもっともらしく聞こえても、結局のところ、自分をいかに正当化して心理的な負担をなくすか、によっているにすぎない。つまり、本当の理屈で説明される言い訳ではなく、自分に都合の良いものだということだ。

 と、こきおろしてみるが、これはなにも他人について思うだけじゃなく、自分が今までしてきた幾多の言い訳を振り返って思うこと。
 それを思うと、なにか間違いや失敗、思うようにいかなかったことがあっても、どんなに冷静なつもりでも、「このせいだ」とか言うのはやめたほうがいいな、と思う。
 そんな言い訳をして「仕方ないね」と適当な慰めを得るよりは、「このせいかもしれない」と自分で反省するだけにして、次の機会へいかすべく、自分の中に刻めばい。
 結局、言い訳が多い人というのは、いかに自分を甘やかし楽をするか、そのことに苦心している人、ということでもある。また、自分に自信がないから、少しの失敗で自分の「その言動」を責められることでさえ怖い。そんなもので自分のなにが揺るぐものか、と図太いか、あるいは、自信のもとになる成功の経験があれば、失敗は失敗として人にどう言われていても、かえってそれをバネにできるだろう。

 私にはそこそこ友人と呼べる人もいるが、肝心なことを言葉にして語ろうとする人とは、たぶん、いつ終わってもおかしくない友人関係だと思ってる。言葉でまるめこもうという意思がそこに少なからずあるから。
 助けてあげ、助けられ、うまく付き合っていくことはできても、ただそれだけだ。自分に不都合になった途端、簡単に切るし、切られる。
 では、損得とか利害(精神的なものも含む)を無視して、「なにもしてくれなくてもいい、なにかしてやりたい」と思える友人が果たしているのかとなると、難しい。なにせ自分自身が、そういった友人を得るに相応しい生物じゃないからなぁ。
 まあ、理想は理想として、適当に自分を慰めてくれる友人は、別に悪くない。むしろ気楽でいい。邪魔になったら切り捨てればいいし、「あいつになにかあったら大変だ」などと我が事のように案じたりしなくてもいいから。

 ちょいと耳にした、「親友ってヤツ?」という言葉から、思ってみるのであった。



2003年3月20日(木)

 あああああ、寝てねぇ(爆
 「書きたい」と思うものが降りてくると(←怪しい)、とりあえず眠気が消え去る。
 「キャラ」よりも「人間」の一面を表したいという思いが強くなると、かっこよけりゃそれでいい、からは離れていく。
 そんなわけで、どうしようもない話になってる本日の無双もの。

 なんだかものすごく妙な解釈してることになるが、無双の、私の設定した第一パターンの周泰だと、たぶんこんなんだよ……。
 だいたいさ、主筋にあたる人を命がけで救った、って簡単に言うけど、「そこまでの忠義ってのはどうやって生まれたわけ?」とか疑問が生ずる。もともと水賊なんかやってたくらいだから、「忠義=美徳」と洗脳されて生きてきたわけじゃないっぽいし。
 賞賛されるほどの忠義が何故生まれたか、そこを無理やりこじつけるより、実は忠義ゆえの行動ではなかった、としたほうが、私の描く「人間」らしい。
 原動力は奇麗事じゃないが、結局、その更に底にあるものまで探ると、そこにその人の人間性がある、というか。

 だいたい……孫権ファンには悪いが、彼って主としてはあんまり魅力ないんだよネ……。周瑜が生きている間はともかく、死んだ後は天下なんて見なくなって、ひたすら「呉が豊かならいい」になっていく。そのために汚い手も使うようになる。もちろん、政治の駆け引きできれいも汚いもないし、自分には天下を争う力はない、と見極めて、自分の国の民のために自国を護り、より豊かにしようとしたなら立派だ。その才能はあって、たしか70くらいまで生きてもいるし、呉も繁栄した。だが、烈火のごとき父・兄とは違う。有能かもしれないし、実際にいてもらうとしたら彼のほうがありがたい存在だが、カリスマ性に欠ける。
 だから、もし少年時代の孫権を救ったなら、いきなり「この人のためになら命をかけられる」と感じたというより、それはどこまでも義務や責任感からだとしか思えない。なにせ「主君(この時は孫策)の実弟」なんだから。
 それに、更に少し考えると、城というのはある程度守りを考慮して作られているのに、まともに戦うどころじゃないくらいの混乱が起きるほど急な襲撃を受けている。これは物見の兵にせよ警備兵にせよ、油断して気が抜けてたからだろう。そこを引き締めるのが孫権の役目だろうが、なにせ14か15くらいの少年。とすると、指揮をとる人物は別にいるか、孫権を補佐する参謀役が必ずいたはず。それが無能(孫権自身のことならば、少年であるから無理もない)だったために、大混乱にまでなったわけだろうが、臣下という立場にある者も、主の過ちを諌めることは美徳とされている。「その人となりを愛して、孫策から自分の配下にもらった」という孫権なら、当然そのように周泰のことを扱っていただろう。それなら、「兵に気を緩めぬように言ってはいかがか」と提案するくらいのことはできる雰囲気だったと思われる。
 とまで考えると、ああなるわけで。

 ああ、でもまた久々に、自分なりに手ごたえのあるネタ扱って、満足満足。「作品」としてはどうか、となると、まだまだ手を入れてしかるべきだと思うが。



2003年3月21日(金)

19日のザレゴトについて、追記:

 あれは、「言い訳すんな」ってことではない。私自身が、つい自分を正当化し、良く見せるためにあれこれと言い訳してしまうことが多く、その後で、「言い訳すんなよみっともねぇ」と思われてたらイヤだなぁ、とか思うこともまた、多いのだ。
 それを私はイヤだな、と思う。19日に書いたのは、こうありたい、という理想である。そうだ、とはっきり言わなかったために、かなり辛辣に感じられるのは否定しない。申し訳ない。
 つい言い訳してしまう、ということになると、心当たりのある人はけっこういると思ってる。中にはこんなものなど読み流せる人もいるだろうし、中には傷つく人もいるかもしれない。
 ただ、もしこれを読んで自分の言葉を振り返り、「ああ、言い訳してる時って実はそうかも」と思ったら、ではどうしたいか、を考えてほしい。
 言い訳しないで毅然としてるなんてできない、というなら言い訳すればいい。つらいのを我慢してストレスになって壊れるくらいなら、言い訳のほうがよっぽど健康的できれいだ。ただ、あまり言い訳しまくっていると、見る人によっては「なんだこいつ、言い訳ばっかして」と思うこともある。株も下がるだろう。それは覚悟するか、あるいは、言い訳・泣き言・愚痴、それを聞いてくれる相手をちゃんと見つけることだ。甘えていい相手を。その人にだけは身勝手な言い訳もするし愚痴も言う。そのかわり、他の人の前ではみっともないことしない、とかさ。
 「見る人によっては、言い訳の裏側見抜かれてるのかもしれないな、それはイヤだな」と強く思うなら、できるだけ言い訳はしないようにしていけばいい。そういうふうに自分を律することのできる大した人もきっといるだろう。
 理想に近づこうとするかどうかは本人の自由である。理想どおりでなければならない、なんてわけはない。理想どおりでなくたって魅力的になれるのが人間ってヤツじゃなかろうか。

 心当たりがあるにせよないにせよ、私の言葉から自分を振り返ってもらえたら、それがなにより。そしてもしこのザレを読んで不安になったりストレスを感じたりしたら、誰かに相談すればいい。語れる相手がいないなら、書いた張本人である私を相手にしてもいい。
 ただ、私は誰かを責めたり、追い詰めるために書いているわけではない。結果的にそうなることはあるだろうが、意図してそうしているわけではないから、怒られたって困るが。
 まあ、「何様のつもりだ」とか腹が立ったなら、読んでくれなくてもいい。このザレは延々こんな調子だろうし。ただ、痛いトコつかれてグサッときて落ち込んでるなら、教えてくれればいいと思う。言葉が足りなかったところをこうして補ったり、あるいは個人相手になにか答えられることもあるかもしれないから。

 あと、はっきりと書いておくが、私はこのザレゴトのこういった内容を、特定個人に向けてのメッセージとして書くことはない。
 誰かの発言、意見などがきっかけとなり、その意見に同意したり、あるいは反対したりして書くことは往々にしてあるが、それは発言元、あるいは特定個人へのメッセージではない。読んでくれているいくらかの人みんなに「どうだろう」と尋ねたいことだ。
 発想の端緒となった人に対して否定的な意見であるとしても、それは当然、あることだ。同意しかしない、肯定しかしない、同調しかしない、快いことしか書かない、都合の良いことしか書かない、そんな「人に優しい」ものを書きたいとは思わない。私が書きたいのは、今の私が思うこと、感じること、考えること、だ。それは人に優しい意見であることもあれば、厳しい意見になることもあるだろう。
 否定したり反対したりすることはある。そうなると、「自分が端緒かな?」とか思う人にとってはアテツケに見えたりもするだろうが、そんなことはしていない。そこは私を信じてもらう他ないし、信じられないならそれでもいい。それは読者の自由だから。

 サイト上にアップする言葉、というものについては、無責任な言いたい放題ではいけないんだ、ということを一昨年学ばせてもらった。苦い思い出で、思い出すとはっきり言って腹も立つが、それは自分の非を素直に認めることができない私の狭量ゆえ。あのことがなければ、暴走していただろう、というのはよく分かってる。
 だから、愚痴めいたもの、周囲の誰かに対する感想なども、私の我が儘というものがそこにどれくらい混じっているかくらいは考えて、できるだけ公平な立場から、一般的な話として書こうとしている。楽しい話なら私の趣味・感性全開で良くても、否定的、あるいは非難めいた意見ならば、それが個人を悪し様に言うことにならないか、できるかぎり気をつけようとしている。成功しているかどうかは自信がないが、少なくとも、それを懸念するだけの配慮はしてる、ということだ。
 だから、私のこのザレゴトを読んで、「ひょっとして私への嫌味?」とか思わないでほしい。それは一人に向けたメッセージではなく、たまたま私のメッセージがその人にとって「心当たりがあることになった」ということだ。たとえ端緒になっていたとしても、もしそれがその人一人に限ったことであるなら、ザレには書かない。一般論として書けるだけの材料が集まり、「みんなそういうとこあるんじゃないか?」と思わないかぎり、提示はしないつもりでいる。

 無論、この話をそのまま適用すると、この追記を書くことになった端緒のかたはいる。だが、その人はたまたま不安を覚え、メールなどもやりとりする間柄だから私にそれらしきことを告げてきたが、他にもグサッと来てる人はいるかもしれない、と思えばこそ、付記することにした。更に言えば、具体的に「19日のザレ読んで」とは書いてなかったので違うかもしれないんだが……(ぉぃ) ただ、不安を述べられてみれば、私には思い当たることもあり、それが19日のザレだった、ということ。だとすれば、余計な誤解を招かないように補足しておくべきだろう。
 ……適当に書き流してるように見えるかもしれないし、ややこしい話とかまとまりなかったりもするが、こんなザレでも、それほどテケトーに書いてるわけじゃないんだよ。



2003年3月22日(土)

 う

 ぎゃー―――――ッ!?
 と思ってしまった。
 いや、思いがけもしない相手から、書いたものについてのお褒めの言葉をいただいてしまったのですヨ……。
 悪戯か、と今でも疑わないでもないが、インスパイアされた、と添付してくれたものは、ご本人のものと思われる文体とクォリティだし。
 ああああああ、シアワシ……。



2003年3月23日(日)

 コーエーの「GAME CITY」から、無双3の公式サイトへ飛んでみる。掲示板にカキコできるのがコーエーファンクラブの会員だけというせいで、公式サイトのくせにちっとも情報が充実していない。掲示板での情報交換くらい、誰にでもさせたほうが盛り上がるのに。
 それはさておき、ちょっと「おいおい」なカキコを見つけた。

 三国無双3の「ファン」サイトである場所の掲示板に、まるでファンらしからぬ発言を書いていた。どうやら無双ではなくなんらかの「三国志」のファンで、内容は、「許猪があんな間の抜けたデブだったりして腹が立つ。陸ソンがあんな小僧のはずがない」というようなことだった。他にも一つ二つの名前を挙げて、自分のイメージと違うから許せない、と言うのだ。
 そして、ただそれだけ。
 たとえば、「そういった史実(?)をもっと考慮して設定してくれたほうが、三国志ファンとしては嬉しかった」ということが主題で、自分のイメージとはかけ離れていてショックだった、というならいい。だが、単に「腹が立った、ムカついた」という文句だけ。
 ファンサイトの掲示板がなんのためにあるのかを全く考慮してない。

 良いことばかりを書けというのではない。ただ、批判するにしても、その底には「好きだから、あえて言いたい」という思いがあるべきだ。そうでないなら、「無双3好きなんだ」という人が集う掲示板に書くべきではない。
 ただの文句なら、無双ファンの場所ではないどこかで書けばいい。同じように思っている三国志ファンがサイト作ってればそこに似たような日記とかあるかもしれないし、だったらその人の掲示板に書くなどすべきだろう。

 本質を見抜く、とまで言うと大袈裟だが、「なんのためのものか」ということを考えなければならない。
 はっきり言って、お互いに嫌な思いするためにサイト運営している奴はいない。楽しみたいからだろう。見てもらい、見に行き、共感できる人と楽しみを共有する。それがファンサイトだ。であれば、公式だろうがなんだろうが、「つまらなかった」とか「こんなのは違う」といった意見は、思うのはいいが言うべきではない。
 個人の管理するファンサイトなどだと、作品や姿勢に対する文句はもちろんとして、実際には、批評さえ歓迎されないだろう。プロになりたいわけでもなく、自分では「これを見て楽しんでくれる人がいると思う」と思えばこそ作品を展示する。くだらない、つまらない、面白くない、フザケンナ、と思ったら、そんなことをいちいち告げたりせず、二度と見なければいいだけだし、「もっとこうしたら」という提案も、大きなお世話だ、何様だ、と感じられるのが関の山だ。

 建前はどうあれ、先に挙げた無双3の掲示板もそうで、楽しみに水をさすような発言は、するべきではないのではないかと思う。「三国志の許猪をもっと精悍に想像していたので、ああいう姿で茫然とした」って人はきっといる。虎痴と呼ばれて(「痴」というのは「ぼんやりさん」「ぼーっとしてる奴」というくらいの、云いようにっては蔑称。云いようによっては愛称)いるが、曹操の信頼も厚く、武勇にも優れ、魏にあっては、実際の戦で戦うとなれば夏侯惇などより遥かに強いと思われる。そういうイメージを先に持っていたなら、あのコロコロした許猪は「なんじゃこりゃあ!?」だろう。よく分かる。
 思い入れがあれば、ムカつくのも分かる。おう、周泰が許猪みたいなデザインだったら大ダメージ受けたぞ、私も。たぶん無双3なんて買ってないぞ。だが、だからといって無双好きな人の集まる掲示板でそんな思いを書こうとは思わない。三国志の周泰ファンサイトかどっかで、「無双3というゲームではこんなんだった。ショック」とか書くだろう。
 上記のような発言は、その掲示板の運営意図に合致していないのではないか、という気がする。「これも一つの意見として受け止めます」ということで記事削除しないのか、それとも、読む側が不愉快な思いをするかもしれない、ということを重要視しないのか。
 こればかりは、利用者が制限されていることで、救われているという気もする。PSOのように、投稿keyさえ手に入れれば誰でも書き込める仕組みだったら、今頃どうなっているか、少し恐ろしいものがある……。
 つか、レス入れてた人が、「そういう気持ちもありますね。でもこれはこういう設定のゲームなんだから、仕方ないと思うよ」とものすごく温和に対応していたことに対して、あんたは偉い、と思っちまったよ……。PSOの公式掲示板だったら、まず間違いなく削除だろうねぇ。



2003年3月24日(月)

 自分はこんな人間だ、と誰でもある程度分かっているつもりでいると思う。実際にそうなのか、それとも「今の自分」がそうであるだけで、時がたてば変化するのか、それは分からない。分からないのに、一生涯付き合わなければならない「自分」のように言うことはない。
 「今の自分」がどうしようもないほどに「そう」であるなら、それが実は融通のきくものであっても「そう」と思い込んでしまっている以上、縛られるのは仕方ない。もしそんな思い込みがなければ、もっと自在に生きられるはずだ。観念から自由になれば、人は変わることができる、とは「BE HERE NOW」の台詞だったか。
 しかし、「今」と「この先」まで一緒くたにするのはやめたほうがいい。「今」の自分がどうしようもないほどあることに固執していても、未来の自分までそうであるかは、決してわからない。「きっとこれは私の動かしがたい基本的な性格」と思っていたところで、そんなものはただの思い込みにすぎないかもしれないわけで。
 まあ、そういう思い込みが変化の可能性を潰してしまい、変われるのに変わらず終いになることはあるだろう。だがそれは、決して「不変のものだった」というのではなく、「変化の機会を自らふいにした」ということだ。

 「今の自分にとって」とか「今の自分が」と私はよく書くが、それは、いつ私が変化し、意見もまた変化するかもしれない、と思うから。変化した後で、「こんなこと書いてるじゃねぇか」とつっこまれたくないんだヨ……。



2003年3月25日(火)

・春の雨、という感じのする雨が降った。
 春っぽい日差しの日は既にあったが、その後も寒さがぶりかえすことしばしば。しかし、これでようやく、本当に春になったんでないかと思う。

・戦争の話。
 大統領だの首相だのという人が本当にマトモかどうかについては、疑ったらキリがない。政治家というものは悪党でも善政に見えることができるものだと思うし、ものすごい善人なのに、開戦したりするハメになることだってあると思うから。言動だけで「人」までは見抜けないのが政治家という職業のような気がする今日この頃。
 なんにせよ、自国の領土と国民の利益になるような判断をするしかない。小泉さんがアメリカを支持するのは、北朝鮮を見据えればやむをえないことだろう。もし北とやりあうことになったら、迎撃しかできない日本にとって、攻撃してくれるだろうアメリカはありがたいはずなのだ。だから、今ここで不興をかうわけにはいかない、というような理由もあるんじゃないだろうか。まぁ、私には分からんことだけどさ。
 どちらにせよ言えるのは、自国民のことを考えてする判断と、人間のことを考えてする判断とは、同じ人物のものでも違うことがあるだろう、ということだ。戦争なんかしたくない、無関係な人を巻き込むなんてひどいことだ、と思う心があったとしても、攻撃する。自国のために。

 日本にしても、対岸の火事とばかりは思っていられないことだ。北朝鮮の動きが不穏になれば、なにが怒っても不思議じゃない。それこそ、轟音がして目が覚めたら隣の町に爆弾が落ちていた、なんてことがあったっておかしくない。
 宣戦布告をきっちり行ってから攻撃するのが戦争のルールというもので、それを破ったがために(実際は、ちゃんと通告したのだがアメリカ内部での連絡が遅れたと言われている。が、さらには、反日の感情を高めるためにあえて通告があったことを伏せていたという見方も珍しくはない)、いまだに「リメンバー・パールハーバー」なわけだ。
 だが北朝鮮のガキじみた外交姿勢を見ていると、そんなものはあっさり破りかねない気がするのであるよ。



2003年3月26日(水)

 本日(25日だが)、この巣の掲示板を大きく二つにまとめてしまった。

 もともと、BBSや日記をジャンルに分けていたのは、「特定ジャンルの話題ばかりが出てくると、それに興味のない人が入りづらくなる」ということから。
 しかし現在、それまで最も激しかったPSOが落ち着いてしまったこともあり、それほど偏ったものはなくなっている。
 今度は無双が突出しそうではあるが、マニアックな話題はツリー形式でタイトルだけが出てくる「ネタバレ掲示板」へ、という形にすることで、少しは間口を広げておけると思っている。
 あと、正直に言えば、感想はほしいのよ、やっぱり。
 それがないと、面白かったかどうか以前に、読んでもらえているのかどうかも分からないし。しかしネタバレになるから書きにくい、かといってメールにするほどのこともない、ということはあると思うので、バレ掲示板設置。
 時間や手間の問題もあるし、面白いと思わないから感想も言えないということもあるから、無理に書いてくれとは言わないが、同じように「これいいよねー」とか盛り上がれれば楽しいだろうと思ってる。

 これまでのPSO、ルーキーズ掲示板はまだそのまま残してあるが、いずれ撤去するだろう。
 これまでに書き込んでくださったかた、本当にありがとうございました。まさに、皆さんの声があればこそ、私も調子に乗っ……もとい、やる気になった部分が少なくないのですよ。



2003年3月27日(木)

 自縄自縛……もとい。自業自得……これももとい。いや、どっちもまんざら外れてないことになるだろうが、自画自賛気味な話をば。

 この巣にあるSSの数がどれほどあるか、数えたかたは……いるわけがないな。作者も数えてないくらいなんだから。
 書きかけのものは除外しておおまかに数えると、PSO……115、男塾……95、ROOKIES……27、三国無双……9、その他……30、となっている(3/25調べ
 総計276本。これプラス、イラストなんかも一枚一点と数えていくと、実はこの巣には350を楽に越える品物があることになるのである。これだけの物品を詰め込んだサイトというのはなかなかあるもんじゃないと、この数だけは自慢できるか。ただし、一つ一つが短かったりするので、練りに練った長編などをじっくりと書いている小説サイトなどと比べると、全体の文章量は大したことはないかもしれない。……いゃ、大したことあるかもしれないなここまでいくと……。
 平均すると、未だに二日に一本程度のSSがアップされている、という恐ろしい更新状態。一日に一本以上、という一時期がイカれてるのはともかくとして、これでもまだ異様なハイペースだと思う。

 しかし、これだけの数があるものの、「ぜひ読んでもらいたい」と言えるモノになると、1割もなかったりする。……ダメじゃん、それって(死
 ふと思ったことから考えて、このサイトにはアップしていないものも含め、私が「とりあえず自信をもって見せられる出来だ」と言えるものは、1999年か1998年頃に書いたサムスピもの「雨夜」(サイト未発表)、PSO「At the end of the nightmare」、三国無双「宣城の戦い」、この三本しかなかったりする。……少なすぎるぞぉぃ。それもサイト未発表品あるし。
 少し妥協すると、PSO「TWO HANDS」「タイラントの一番長い一日」「絆」からはじまる黒ロボ兄弟シリーズ、「Steel Rain」(サイト未発表)、男塾「旅立ち」「将来設計」、「心の花」「桜下宣誓」「甘い毒」、ROOKIES「写真の男」、その他の「Please give me your smile 1」、これくらいが追加される。
 特異なものでも良ければ、やはりいくらか妥協して、男塾「悦虐」「Party Party」も、読めるかたが限られてしまうとはいえ、私の中では手ごたえのあるものになる。……両方ともアレでナニなヤツだってのがなんだかなって気もするが(滅
 こうやって挙げられる品に共通して言えることは一つ。「キャラに頼っていないから原作を知らずに読んでも伝わるものがある」ということ。なにか、表したいものがはっきりとあり、それを自分なりに上手く出せたものだともいえる。

 風呂の中で無双「宣城の戦い」を読み返してチェック入れてて、「そういやこれだけちゃんとしたものって久々だよなぁ」と思っのが、こんなこと書こうと思ったきっかけで。
 「真・三国無双」というゲームを知らない人、三国志そのものもあまり読んだことのない人が読んでも、なにか伝わるもの、見てもらえるものはある、と思ってる。これだけ自画自賛できるものってのは、やっぱりめったにないのであるよ。
 孫権という少年の成長、変化というものを、自然に出せたと感じてる。
 テーマというか、「こうだよね? こうじゃない?」と自分が思うことを、さりげなく織り込めたと思ってる。つか、自分で読み返してて気付いたり(死) ……あああ、やっぱり書いてる最中は勢いか己……。
 虎の皮をかぶった狐は、「あんた狐でしょ」と言われると腹を立てるが、狐の皮が背にかかってるせいで「あんた狐なの?」と言われても、自分が虎であることを知っている本物の虎は、まるで意に介さないだろう。
 弱い者ほど、自分を強く見せたがり、強く見られたがるということ。強さがあれば、決して無茶な強がりなどしない、ということ。なんだかそんなことを、いつの間にか組み込んでいたらしい。それを書こうとしたというより、孫権くんを書いていたらそうなった、という感じ。偉大なるはインスピレィションの悪魔なりね(←考えて書かんかい

 というわけで、ここをご覧になってるかた。お暇でしたら見てやってください。今の私の「程度」ってもんがバレてしまうかもしれませんが、今の私にとっては、近年来で一番の出来になったと思ってます。

 ここからは更に身の程知らズになるので白字。
 女性向の男塾サイト、同人サークルでも、センクウ×伊達なんぞ、やってた人はまずいなかったと思う。普通こんな組み合わせにはならんだろ、というくらい関連がないから。それが、うちに来て、「これもありかな」と思ってくれたり、「ひそかにハマってしまった」というかたがいてくださる。
 無双でも、やっぱり茨道なカプになってしまってるんだが、「いいかもしれないと思い始めてる」とおっしゃってくださるかたがいらっしゃる。
 それが、あまり関連のない二人、あるいはちょっと普通考えつかない攻守、というものを、不自然ではなく、納得してもらえるように書けているがためだとしたら、私の筆力も捨てたもんじゃないな、と思う。正直なところね。
 あらかじめ期待されているものを書いて、最低限の期待だけは満たしているから満足してもらえる、というのじゃなく、思いがけないものを書きながら、にも関わらず納得してもらえる、というものを書いていきたい、書いていけたらな、と思う。
 読者様のカラーに合わせたものではなく、読者様の指先なりとも、私色に染めてしまえ、と(またんか
 そういうものを作り出したい、という思いで、これからもいろんなものを書いていきます。本当に納得のいく品物がいかに少ないかは書いたとおりですが、狙って書けるものじゃない以上、玉石混交(自分にとってね)になってしまうのはやむをえません。ま、たとえ不服な点はあれど、「せめて趣味を同じくする人にだけでも見てもらいたい」と思えるだけの出来があればこそアップしてます。自分にとってさえどーでもいいものをアップするほど礼儀知らずではありませんので……。



2003年3月28日(金)

 掲示板の刷新にあたって、注意書きページを入れている。
 もっと端的に、必要最低限のことだけを書いたほうがいいんだろうが、「読む人はちゃんと読む、読まない人はどっちにしたって読まない」もの。それに、いくらか長文であっても、読みやすければさっと読んでもらえて、面倒だった、という思いを抱かせることはないはず。文を書くのがメインの己なのだから、ちっとくらい長くても読めるものにしてみろよコラ、と自分を叱りつつのアレ。

 あらためて、掲示板での発言、サイトでの発言、ということについて考えることにもなった。
 どちらでの発言にせよ、責任を持てない発言は控えるべき、というのはある。それはホストであれゲストであれ同じことだ。
 ただ、サイトの日記や展示物というのは自室の内装と同じで、どんなものでも勝手と言える。入ってくる人をどれくらい考慮するかは管理人の勝手なのだ。ものすごくアットホームにほんわかさせようと、壁まで黒く塗って髑髏飾ろうと腐乱死体放置しようと、勝手。はっきり言って、来た人が全員不愉快になろうと勝手。
 ただし、そんなところは部屋主が自分一人閉じこもり、「うへへへへ」と内装して喜んでるだけの場所である。
 「なにがあって人が入ってくるかもしれないんだから、そんなのはダメだ」というのもまた勝手。ぶっちゃけ、裁判に持ち込むつもりでもないかぎり、お互いが身勝手な主張をしているにすぎないのは、同じだとさえ言える。
 他人からどう思われたっていいし、嫌がらせするのが楽しいという人だっている。そういう人が、嫌がらせの目的でサイト作ってることだってありうる。展示物がムカつくだけならまだしも、ウィルスひそんでるとこもあるし。
 極端な話に入ってしまったが、要するに、内装をどうするかは管理人の自由なわけ。そこにどれくらい配慮を加え、どれくらい自分の趣味を通すか、その判断、ラインも自由。
 私の場合、ザレでは否定的な意見も書いているから、「お客様最優先」では決してない。大きなチェーン店ふうではなく、個人的な趣味の店の、ここは売り場ではなく、店主の自室。お客さんが覗くことは禁じていないから、まさか腐乱死体は置かない。だが私の趣味でお香を焚いていて煙いことはあるだろうし、時々、座布団やクッションが行方知れずになっていることもある。たまにはなんかよくワケの分からないペットらしきイキモノとかが隅っこで蹲ってたりもするかもしれない。なかなか肝の座った、かつ冷静で度量のあるかたにとれば、あるいは幽霊大ッ嫌いなのにホラー映画はつい見ちゃう、というマゾヒスティックなかたにとれば、それなりに面白い部屋。
 ここは決して「お客様最優先」「いらっしゃいませこんばんわ〜、お探しのものはございましたか〜?」「店員の髪は黒オンリー、マニキュア・ピアスは却下」な場所ではないし、そんな店にしようとは思ってない。

 しかし掲示板になると、注意書きにもあるように、「つまらなかった」とかいう発言をするくらいなら黙っていてほしい、と思ってる。「ここはちょっとアレだったけど面白かった」というならいいが、文句しかないなら黙っとけ、と。たぶん誰だって、自分が好きなもの、気に入ってるものを「くだらねぇ」「つまらねぇ」と言われたら嫌だろう。
 私は、掲示板については「自分のカラーは出しつつ、できるだけ多くのお客様に快く過ごしてもらえる」という、チェーン店系の姿勢を取り入れている。注意書きにあるとおり、「楽しかった」という思いを共有するための場所にしたいからだ。
 「喫茶室」あるいは「サロン」として、楽しいことをのみ話題にしたい。
 もちろん、真面目に語り合うのもいいが、それは真剣に語り合うことを楽しいと思えれば、であるし、衝立の向こうにいる人にも聞こえてしまう以上、言いたい放題になってしまってはいけない。
 誰か聞いているのかいないのかも分からない自室の中での独り言はともかく、掲示板の場合、誰かに聞いてもらうということが前提になる。人に向かって話す言葉なのだから、独り言と同じでいいとは思わない。

 他の管理人様には、それぞれに線引きの基準があるだろう。どれが正しいか、なんてことは、はたして誰に分かるだろうか。物事には限度がある、といったって、その限度をどこに感じるかにさえ個人差がある。
 いくらかのサイトを見て回るとすぐに分かる。裏ページに入れるものの基準にせよ、その裏ページへの壁をどれくらいのものにするかということにせよ、掲示板で守ってほしいルールにせよ、また、管理人からゲストへの警告・依頼文の調子にせよ、様々である。
 好ましいと感じるサイト、よくここまで配慮してあるとつい感心してしまうサイト、折り目正しいのもここまでいくとすごいと頭が下がるというサイト、礼儀正しいのも行き過ぎて「これじゃちょっとしたことで無礼と咎められそうだな」と居心地が悪いサイト、……もう、ホントに様々だ。
 で、今挙げたように、腰が低ければいいというものでもないし、配慮も行き過ぎれば敷居の高さになってしまう。不愉快な思いをさせまいとして設けるルールなのに、そのルールそのものが不愉快なくらいに窮屈だ、という本末転倒。常識、良識、ただ振りかざしたっていけないわけだ。

 全部ひっくるめて、管理人の個性と言えるだろう。
 個性といって許せる範囲かどうかは、受け取った側の裁量による。
 となると、「責任と覚悟をもって決め、提示する」。これが管理人として最低限のマナーということになるのかもしれない。
 もちろん、一度引いた線に固執することはない。今まではこうしてきたけれど、今はこう感じるようになったからこうしよう、と変化していくものでいい。
 そういったものも全て含めて、「その人のサイト」なわけだから。

 ホストにはホストの自信がほしい。ゲストの言いなりになるだけの店というのは、サービスというものを勘違いしているに過ぎない。
 自信満々である必要はないけれど、おそらく、「良い店」というものにはプライドがあるのだ。ゲスーへの配慮やサービスと共に、「わたくしどもは信念をもってこうしております」という、プライド。
 それを長く続け、根本的な部分を守り通すと、ブランドになるんだろう。

 ……さーて、偉そうに書いてきたが、この巣はどうかと問われると、まだまだ至らない部分が多い。これからも、ハウスルールは変化していくと思われるし、ゲストのかたへの配慮については、とても足りているとは思えない。「これが己のカラーだから」と断言できる部分もあるが、「もう少し考えなきゃな」というところもしっかり残ってる。
 そういうところまで気を配れるようになるのは、果たしていつの日か。
 だが、慌ててそこに辿り着こうとは思っていない。二年前に聞いた時には「ふーん、あ、そう」と頭の中に入っただけのことを、今は自分がしみじみと思う、ということもある。自分のものになってないなにかは、簡単に崩れてしまうし、維持するのも難しい。それよりは、至らない部分もある、ということを許してくれるゲストの胸を借りつつ、自然に、少しずつ補えるようになっていければな、と思うのである。



2003年3月29日(土)

 何年前になるか。えーと……7年ほど前か。
 わけあって、年配のかた数名と食事に行ったことがある。
 そこで、「塩とろうか?」と言われた時、「あ、すんません、お願いします」と答えた途端に、「君はものを頼むときには声が低くなるんだね」と思いがけないことを言われたことがある。
 聞いた時には、「そんな粗探しみたいなことを、こんな時にまでしてるのかよ」と思い、その調子でなにをどこまで見抜かれているのかと、ちょっとイヤな気分になったものだ。
 そういう経験をネタにしてストックして、「どこまで見抜かれてるんだろう」と不安に思ったりするキャラが出てくるわけなんだが、それはそれとして。

 今にして思うと、粗探ししているつもりはなくても、ふと見えてしまうものなのかもしれないな、という気がする。
 このザレ見れば、自分だって「発言内容の裏」とかを考えていたり、かなりイヤソな感じだが、それは粗探しのつもりでじっくりねっとり見ていてやってるわけではない。
 いくつもの事例を見てくると、一度どこかで考え、こうじゃないかな、と思ったことについては、パッと目につくようになってしまうのだ。私より20〜30は年上の、それも考えることを仕事にしているような人たちであれば、探すつもりなどなくても、見抜こうという意思がなくても、見えてしまうのかもしれない。

 人の言動の裏を、心理学的に説明しようという本はけっこうある。心理学の本から、コミュニケーションのための雑学書めいたものなどなど。
 けれど本当の問題は、裏を見抜くことそのものではなく、見抜いてどうするか、ということだと思う。
 見抜いた、と思ったそれが当たっているにせよいないにせよ、「ではどうするか」を間違えてしまえば意味はない。
 相手の心理さえ分かれば人付き合いは楽になる、なんてことは、まずありえない。むしろ、そんな余計なことを考えずに付き合っているほうが楽だろう。あれこれと相手の裏だの本音だのを探り始めたら、行き着くところは自意識過剰な疑心暗鬼だ。

 いろんなことが見えていながら淡々と過ごす、というのは、おそらく難しいことなんだろうなと思う。上に記した年配のかたがたというのは、酒の席でも愚痴や説教に行くことなく、常に聞き役、返答役に回っていた。たぶん、見えてしまうもの、気付くこと、思うこと、考えることは多くても、それに振り回されないだけの経験もまた、積んできた人たちだったんだろうな、と思うのであった。



2003年3月30日(日)

 私はいつも、勢いで話しているほうだし、書くことにしてさえ勢いによるところがある。そのため、思うこと、考えたこと、感じたことなどを言葉にする回数とその量は、決して少ないほうではない。つまり、とにかくやかましいはずである。
 そんな私も含めて、口(言葉)にしてることで、自分の心に照らし合わせて吟味した時、これは決して偽りではない、間違い(自分にとっての)ではない、と言えることがどれほどあるんだろう。
 正直、私の場合には一割もないと思う。
 完全な嘘、というのはなくても、やはりどこかに建前や誤魔化しが混じっていたりして、真実ではない。

 メガテンの話で「コトワリ」について書いたが、私ならこうするだろう、という「コトワリ」でさえ、私自身が実行しているわけではない。
 自分の真実などを突き詰めて、それのみを言葉にし、実行していくとすると、やはりとてつもなくハードなことのようだ。
 自分に正直に生きる、などとサラリと言えるほど、その実態は軽くないんだろうね、やっぱり。



2003年3月31日(月)

 毎日、イラク戦争ネタが新聞を賑わせている。
 正直に言えば、実際に戦争というものを味わったことのない私は、「なんてひどいことを」とか「カワイソウ」とか、まるで思わない。極論すれば、新聞も一種のメディアであり、小説となんら変わることのない、文字による情報伝達手段だ。全てが嘘であったとしても、おかしくはない。
 私の場合、といっておくが、抜き差しならない感情なんてものは、自分がその現実に直面しなければ生まれてこない。
 それは冷淡で捩れたありようなのかもしれないが、「カワイソウと思うべき」という観念に騙されて、そう思っているつもりになっている人と、どれほど違うのかという気もする。
 たとえば、実際に被災者の悲惨な有り様を目にしたことがあるとか、戦争に巻き込まれたことがあるならば、「うわ」と思う気持ちももっとリアルだろう。だが、全てを遠い異国の出来事、あるいは過去の出来事としてしか知らない者に、切迫した感情が生まれるということが、私にはどうも分からない。
 そんなことはあるはずがない、とは言わないが、少なくとも、私からはあまりにかけ離れたありようで、共感はできない、ということだ。

 そんな私の目には、昨今の新聞はネタの宝庫にしか見えなかったりする。
 兵器技術力で上回っているはずの米英軍を阻む砂嵐、なんて、そのまんまネタじゃん? 神風か。それを利用して士気を上げるか。市場への誤爆というが、そもそも本当に誤爆なのか。そしてまた、本当に米英軍のものなのか。反米英感情をあおるためにイラク軍自身がやったということは考えられないのか。その事実の如何に関わらず、証拠なんかをでっち上げて利用することはあるかetc...
 実際に戦場にいる兵士たち。その家族や関係者、国のためだからと戦争で死ぬことを恐れずにいるならともかく、死ぬのは嫌だ、怖いと思うイラクの民たち。
 彼等にとれば「フザケンナ」と言われて当然だろうが、上っ面の同情よりは「理解はできても共感はできない」という真実のほうが、実際にはマシかもしれないよ? 上っ面の同情なんてものは、いざという時に簡単に剥がれ落ちて期待を裏切るものだから。

 しかし、日本もあまりのんきなことは言っていられない。歴史の授業で習う「日米安保条約」なんてものが、また差し迫ってきた。
 それがどう役立つにせよ裏切られるにせよ、何処の国とであれ、戦争にならないとは言えないわけで。
 しかしその危機感も、まだ「ひしひしと」感じるというのではなく、頭の中で想定するだけのことだ。
 それが実現してしまったら、私もこんなのんきなことは言っていられなくなるだろう。が、その反面、渦中にあってさえ「ネタになる」と思って、それを利用して話を作り続けていたいと思っていたりする。他人事でなく、我が事になってまで貫ければ、それは本物だろうから。
 しかしまあ、「リアリティを出すために体験してみたい」なんてバカで無謀なことはまでは言わない。何事も生きていればこそ、こうしてなにかを書く時間や、物質・精神、両面での余裕があればこそだ。いざという時にも動じずにこうしていられるならいいが、泡食ってそれどころじゃなくなる可能性のほうが高いし。だったら、平和が一番だよな、やっぱり。

 ……うーむ。イラクの「普通の人」たちに対して思うことで言えることがあるとすると、「戦争なんてやりたい奴だけでやっとけ、やりたくない人を巻き込むな」ってことくらいかな。好きなことをしていたい、という私だから、好きなことがろくにできなくなるような、危険な状況にいる人は可哀想だと思う。
 命がどうの、なんてことじゃなく、そういったことを考えると、戦争に巻き込まれていく一般市民たちは、とんだ災難だと思うし、これ以上兵士以外の人が死ぬことなく、早く片付いてくれればいいのにな、と思えるね。


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