烏の足跡



2003年2月16日(日)

 レンタルビデオというものは、借りてきたその日に見ないとなると、次は返却直前になることが多い己。
 そんなわけでまたもぎりぎりに差し迫り、慌てて見るハメに。
 コロンボとホームズをまず見る。
 コロンボのほうは、「別れのワイン」が一番面白い、という人もいる。私としても、トリックや、それがバレていく端緒などが分かりやすく、まあ嫌いではない作品なんだが、ちょっと分かりやすすぎる気がする。コロンボが天気を気にし始めた時点で、「あ、なるほどね」と分かってしまう。
 なにがどうなっているのか、コロンボのすることが理解できないまま「どうなるんだろう」と見ていくようなスリルはない。
 あと、ラストのほうでの主役(コロンボではなく犯人役)の、身の翻しぶりがどうにもしっくりと感じられないのが残念だ。ワインに起こっているトラブルに気付く前と、気付いた後。秘書に弱みを握られる(正確には「握られたと確信する」だが)前と後。
 結局、心の底から愛しているのはワインだけで、秘書に対する気持ちなど上っ面だけのものでしかなかった、というわけなんだが、それが上手く表現されていない気もしたり。

 ホームズは「バスカヴィル」は原作をほとんど忘れてしまっていたから、比較することなく見た。おおよその筋は覚えているとは言え、熟知している場合とは違って、サスペンスとしても見ることができて楽しい。
 ホームズが、テレビ版よりも「ムカつく奴」になっているのもいい感じ。
 たいていのホームズものは、パスティーシュなど特に、「ワトソンはホームズの才能に心酔している」という部分だけ出されていることが多い。だが実際はバカにされたり嘲られたりして腹を立てながらも、それでも友人である、という形だ。
 テレビ版は品のいいホームズで、あれも気に入っているが、甲高い声でわめいたりする、はたから見ると呆れるような道化じみたホームズもいい。
 あやしげな執事夫婦も雰囲気あったし、ホームズものじゃなかったとしても、それなりに楽しめる一本かもしれない。
 見終わると、つい原作のほうを読み直してみたくなった。
 が、それまで見ていた時計が止まっていることに気付き、「今何時なんだ?」と時計を見た途端、眠気がさしてくる。
 残りの二本は返却日当日に見るとして、返したら次は「ザ・ワン」でも見ようかなぁ……。



2003年2月17日(月)

 ちと先走りして。
 16日の朝にアップした「その他」の話について。

 なんか、自分でもこんなものを書くことがあろうとは思ってなかった。
 もともと私は「ファンタジー」的な、ある程度極端になり特化された人物や心情を書くならともかく、現実的な恋愛話とかは苦手である。それでも、いろいろと試しに書いてみたものをぽいぽいとアップはしてあるが、それでも必ず何処かで逃げに入って、正面から書いたものはない(と思う
 つか、自分で書いててなんだが、「これじゃあ現実的でイヤになるような男と女じゃないよなぁ、ああ、こういう男いるいる、とか、こういう女いるよなぁ、というんじゃないよなぁ」と思ってきたし、その程度のものしか書けないはずだとも思ってきた。
 いや、それでいくと、「書けたんだ、実は」となってしまうから、正確じゃないな。そういう、生々しいような男女は書こうとしたって、どう描いていいのかも分からない状態だったのだ。
 書いてみたけどダメだとかいう以前に、「書こうったってどう書きゃいいノ?」という状態だったのである、うむ。

 それっくらい自分には縁がない。第一そういった小説なんか読まないし。
 そういうドロドロした男女関係なんてのは御免なんで、のらくらとしか生きてきてないし。
 しかしまあ、やはりなんというか、大ヒット出した作家というものは偉いもので、渡辺淳一の「男と女」(講談社文庫)をぺらぺらと見ていたら、なんだかその、「どういうものを書けるか」をもらってしまった感じ。
 これは小説じゃなく、男というもの、女というもの、男女の違いというものを、自作の文章や対談なんかの一部を引用してきて並べたという、まあ恥ずかしいほど手前ミソな一冊。……ファンじゃないだけにひどい言いようだな。ファンのかた、ごめんなさい。
 ともかく、それは見つけてパラパラと見てみたところ、「なるほどなぁ」と思えるとこも多かったので、参考書として勉強するために買ってきた。
 そうして読んでいて、ふと思いついたのが元になって、こんな話になった。

 しかし思いついた肝心のシーンは消えて、別のシーンになってしまってるんだが、書きたい、表したいと思ったことは同じ。
 「男に都合のいい愛情を、計算ずくで与える女」。
 男のプライドを踏みつけたりしないよう、立てて立てて、くすぐってくすぐって、操ってしまう。
 もちろん男にかぎったことじゃないが、まあ、威張らせてくれる相手は心地良かろう。「うわぁ、すごいねー」とか感心してもらえれば楽しかろう。
 一見は、自分をしきりに頼りにしていて、尊敬しているように振舞いながら、そういった姿も計算のうち。
 最初は、主人公の男が「もしかしてこんなのはそういう計算ずくのことだったら?」とはっとして怖くなるような話だったんだが、それはなんだかんだで、上手く書けなかった。

 ここで暴露すれば、「抱きしめていて、と言わんばかりにすがりつき、男には『抱擁してやっている』という気分を味わわせつつ、実のところ慰めるために抱きしめている女。男は、もしかすると俺を慰めるために、けれど俺を子供扱いするような真似はしたくなくて、あえて抱きしめられていてくれているのか、とその心遣いに一瞬は感じ入る。けれどふと、そこまで男のプライドというものを立ててくれるというのは、俺がどうすれば喜ぶかなどすっかり見透かしているからなんじゃないか?とぞっとする」という終わりにしたかったのだ。
 しかし書いているうちに、「慰めてほしい」ような気配が男のほうになくなってしまったので断念。
 本当はここに、「女は涙を武器にできるが、男が泣けば、よほどのことでもないかぎりただの笑い者」というテーマ(なんてたいそうなものじゃないが)も入れたかったんだが、私には無理デシタ。

 なんにせよ、そんなわけで少し毛色の違う話が生まれたのだ。
 しかし、上手く表現できたという気はしない。やはり何処となく他人事のようで、「遠い」のだ。
 まあ、そもそもが渡辺氏の記したことに「なるほどなぁ」と頷いて生まれた二番煎じのようなものだから、とてもとても、充分な力があるはずもない。謙遜でもなんでもなく、自分の身の内から「かきて――、かかせろ――」と出てきたものじゃないから、自分で書いておいてそう感じるんであるよ。
 それでもアップするのは、少しでもなにか、迫るものがここにあるかどうか、もし「あったよ」という人がいれば、これから先書いていく「人間」に、少し厚みを加えられるという自信にもなるかな、というだけさ。



2003年2月18日(火)

 かなりまずいことに、先月末から今月末にかけて、やりたいゲームが目白押しになっている。
 まずは先月の「デビルメイクライ2」だが、これと同時に出ている「ディスガイア」も、久々にSLGやりたいなぁ、という理由があって気にかかってる。ファンシー系の絵柄に反して、戦闘はいろいろと頭の使いどころもあるようだし、アイテムの強化とかもできるし……。
 それから、気になっているだけでいいなら「しばいみち」もちょっと。いや、うちは昼間寝てて夜起きてるんで、とてもじゃないが、ある程度大きな声を出すような音声認識システムのあるゲームはできないんだけどね。
 それから今月20日には、待ちに待っていた「真・女神転生V」。今回は仲魔のレベルアップもあるというし、ということはお気に入りをずっと連れて歩くこともできるということで。あと、戦闘システムも面白そうだしなぁ。これはもう、買ったらしばらくかかりっきり確定。はーりさんもメガテンファンだから、きっと買うのかなぁ、とか思ってたり。
 27日には「真・三国無双3」。呂布の無双モードあるし、武将エディトまでできるし、これはもう買うしかないでしょう。いや、趣味丸出しですがね、関羽の美髭も早く見たいなぁ(目当ては髭かぉぃ)。いや、カコウトン(漢字ド忘れ)もいいなぁ。
 「アーマードコア サイレントライン」もやりたいし、「アヌビス ZOE」もやりたいし、なんで一日が60時間ないんだ!? ……いや、60時間あったところで、それ以前に$が必要だが(自滅

 メガテンは予約したが、他は中古で数が出回って、値落ちしたところで買おうかなぁ。



2003年2月19日(水)

・先日、オンラインゲーム中にちょっと気になることを聞いた。
 どうでもいいことなんだが、意外に知られてないらしいから、話のタネに一つ。

 話は、「もう眠いけどまだやりたい」というところから始まった。それで、「それならコーヒーでも飲んだら?」という定説が出てきた。すると別の人が、「いや、紅茶のほうがカフェイン多く含まれてるんだから、紅茶のほうがいい」と言う。
 紅茶のほうがコーヒーよりカフェインを多く含んでいる、という話。これは聞いたことがある人はけっこういると思うが、これには実は大きな落とし穴がある。
 たしかに、茶葉や豆、等分量あたりのカフェイン含有量は紅茶のほうが高い。ただし、ごく普通に淹れるだけでは、紅茶のほうは、カップ一杯につき、含有カフェイン量の五分の一くらいしか出てこないのである。
 だから、カップ一杯あたりのカフェイン量を比べると、圧倒的にコーヒーのほうが高いのだ。

 カップ一杯分程度を飲むなら、紅茶に含まれているカフェインは、逆にリラックス効果を発揮して眠気を誘ってしまう。
 つづけざまに五杯飲むなら別として、一杯ちょっと飲んでおこう、というなら、間違いなくコーヒーのほうが効く。
 とはいえそれも個人差があるみたいだけどさ。

・この頃、火曜日はバイトを休むようにしている。何故って、「剣客商売」見るからっ(阿呆
 ビデオにとるなら、べつに休みの在り処などどこでもいいんだろうが、「テレビ」として機能しているのは居間と座敷のものだけで、自分の部屋にあるのはモニターだし、ビデオデッキは自分の部屋に置いてあるしで、「どうせ火曜日は人いるしな」と休みで提出しているのである。
 そんなわけで、今日も夕飯を食べつつ伊東家の食卓を見て、チャンネルをかえた。基本的にテレビを見るための時間はもうけない私だが、近頃の火曜日はこれがパターンである。

 タイトルは「赤い糸」で、テレビオリジナルの脚本らしいと思って見ていると、どうやら別の話の筋を引っ張ってきているらしい。縁談相手を勘違いしているのはどの話だったっけな、と思いつつ、なかなか面白く見る。
 今日の放送分はともかく、次回予告を見てちょっと嬉しくなった。次回は、原作の中でも好きな話、「東海道見附宿」らしい。
 ただ、この話、さいとうたかをチームによってコミック化もされているんだが、そこでは、原作中のある一点が完全に意図を捨てられ、意味を失っているのが気にいらなかった。
 というのは、原作において、旅籠の女中がとある人に頼みごとをする時、お礼として、「銭ばかりで二両」差し出している。しかしコミック版では、女中が出しているのは小判二枚だった。
 コミックにした時、現代の人にぱっと見て「あ、二両だな」と理解してもらうためには、こうするしかない。さもないと、渡された人物のほうから「二両はあるな」と思ったりしなければならず、話のテンポが崩れたり、コマが足りなくなったりする。
 が、普通の女中が小判を手にすることなど絶対にないと言って良かった時代だ。相応の給金から少しずつ少しずつ、何年もかかってやっとの思いで貯めてきた二両である、というこが、「銭ばかりで」というところに凝縮されている。商人がポンと出せる二両ではなく、一人の女が必死に貯めてきた二両を、この一大事においてお礼として差し出した、という「必死の思い」が、原作版には強くうかがわれるし、ここがその女中の人柄を表す役も果たしている。

 来週放送されるものは、少し人物の配置もかわって、かなりアレンジされているようだ。主役はあくまでも小兵衛のほうで、大治郎ではないからの処置だろうが、まずはそこが残念でならない。
 そして、このシーンが果たして再現されているのか、そしてもし再現されているとすれば、どうなっているのか、二重に楽しみなのであった。



2003年2月20日(木)

 いかん……楽しすぎる……。

 昨日の、というか日付としてはもう今日になっているんだが、バイトが終わってうちに帰ったのが1時半。いつもならここから朝10時くらいまでは起きていて、それから寝て、夕方に起きてまたたバイト、というパターンなんだが、今日は「メガテンやるぞっ」と思ってるので、さっさと寝ることにした。
 が、普段の生活か生活だから、急にそんな時差調整をかませるわけもなく、寝たのは4時過ぎ、そして7時には起きてるんだから、どうだろ、己?
 もう一度寝ようにも頭はすっきりしているし目蓋も重くないので、そのまま、PSOをぼちらぼちらと進める。RosaとKureha(フォニュエール)にハードをクリアさせ、RosaはそのままVHの森も終わらせる。これでLVも40になったし、いい時間になってきたので、いそいそと買い物へ。
 さすがに開店から30分しかたっていないと、客はいないし、スタッフは掃除中だったりするが、そんなことは知ったことじゃなく、さっさと買い求める。これが、定価のまんまの販売らしい。新作を当日に買う場合にはスタッフの割引特典も適用されないことがあったりするんだが、なんか、10%オフできるところを10円オフにされたような気がしないでもない……。レシートが回収になるので、その場で「あれ?」と思わなかった時点で確認のしようがないのが痛い。明日あたりにさりげなく社員にでも確認してみよぉ。なにせ7800円の10%だと、800円近い差だものなぁ。

 で、さっそくやってみたんだが、まずは視点がふらふらと安定しない移動画面に難儀する。こういう「自キャラを操りにくい視点」を味わうと、PSO式でいいじゃないかという気がする。
 ともかく、しばらくは戦闘もないまま、一人ぼっちで移動とイベント消化。こんなところはどうでもいいとは言うものの、一応、一通りのメッセージは聞いておくことにする。
 それからいよいよ戦闘がスタートするところにまで持ち込んでみた。
 まず。
 最初のダンジョンクリアするまでに4回も主人公が死んでやりなおすハメになったとゆーことを言っておこう。戦闘システムのせいで、こちらに仲間が多ければ多いほど戦闘は楽になり、少ないほど、加速度的な不利っぷりになるのだ。
 だからなんとかピクシーちゃんのところに行き、コダマくんをナンパするまでが大変だった。

 味方が自分を含め3名になると、やっとまともに応戦ができる。おもむろにレベル上げ&戦闘システムの把握に取り掛かる。
 結論から言えば、この「戦闘」がめちゃくちゃ面白い。仲魔にするための交渉はずいぶんシンプルになってしまったような気がするが、悪魔とのコミュニケーションが戦闘中だけでなくなったので、まあ差し引きゼロという感じだ。
 システムを説明すると、敵味方入り乱れて素早い順から、というものではない。SLGで言う「フェイズ」がある。味方側の攻撃があり、それが全て終わると敵側、そしてまた味方側、という進み方だ。それで、普通は一人一回だけしか攻撃できないんだが、敵の弱点をついた攻撃をしたり、クリティカルヒットを出すと、一回だけ攻撃可能回数が増える。最大で四人分の倍、8回行動可能になる。逆に、かわされてしまったり無効である攻撃をしけ語りすると、行動可能回数を一回余計に減らされてしまう。
 これで「戦闘が作業」になるのをある程度防いでくれているし、これまであまり、スクカジャ、スクンダ系の恩恵というものははっきりしてなかったし、「かわすか受け止めても平気な耐性をつけるか」とほとんど差がなかったが、かわせれば相手の行動回数を減らせる以上、スク系、速度のパラメーター、運がかなり大きく影響するようになってきた。
 ……と、ここまでは私も前もって雑誌などで見て把握していたんだが、戦闘を更に戦略的にしてくれるのは、「次へ回す」というコマンド。これだと、自分の行動権利を次の仲魔に譲ることができる。その時、行動回数が普通に減る場合と、減らずに回せる場合とがあり、上手く使えば、敵の弱点をつける仲魔により多く行動させることが可能になる。
 説明しづらいんだが、とにかく、「ここで主人公のターンは飛ばしてもう一回ガキに回してアギ使わせよう」とか、「コダマでザン出してシキガミを飛ばし、ピクシーの羽ばたき使おう」とか、考えることで確実に自分たちに有利な状況を作っていくことができる。かと思えば、アテにしてた攻撃をかわされてフェイズエンドになったり、簡単すぎることもない。

 それから、今回は仲魔もレベルアップしてくれるんだが、そのレベルアップの時に話し掛けてくることがある。「あのね……これボクの宝物だけどあげるよ!」とか言って、アイテムのプレゼントをしてくれたりする。これがまた、どーしよーもなく愛しいのだ。紳士系悪魔の「私には必要ないものだから」とかいう台詞には「おいおい」とかツッコミたくもなるが……もしかして照れ隠し!?(マテ) デビルサマナーの「忠誠度」システムに似た楽しみがある。
 スキル(魔法や攻撃技、特長)を覚えて強くなってくれるし、もちろんパラメーターも少しだが上がる。そして、そうやって身につけたスキルを、今までよりは比較的簡単な法則で合体後の悪魔に引き継がせることもできるから、連れていて強い悪魔でなくても、つい「衝撃耐性覚えるまで育てよう」とか余計なことを考えてしまう。結果、さっさと先に進んでストーリーを見るどころか、うろうろうろうろうろ、ヒートスポットの傍で戦闘し続ける罠。
 そのため、次のダンジョンに入るくらいで変身してくれればいいはずのハイピクシーを、最初のダンジョンのボス前で見てしまう始末に。

 ストーリーの先も気になるが、どーやらこの分では、好みの悪魔作るためにひたすら仲魔集めては戦闘し、無駄に時間をかけそうである。
 メガテン系は「一回目はクリアできればいい、悪魔作りは二回目で」というスタイルでやってきたんだけどなぁ……。理想どおりの悪魔を作るのが、これまでよりも簡単になり、育ってくれることで仲魔に愛着が出てくるのが理由かなぁ。



2003年2月21日(金)

 冬という季節には、私の部屋にはストーブがある。
 しかし、私の好きな紅茶は、ちゃんと淹れようとすると、あらかじめカップやポットにお湯を注いでおいて、あたためておく必要がある。そしてそのお湯を捨てて、紅茶を注ぐことになる。これはティーバッグでもかわりない。
 もちろん、そんな細かいことをしたって、「うむ、これは違う」とか分かるほど敏感な舌じゃないんだが、そこはそれ、自分に分かるか分からないかはともかくとして、少しでも上質なものに触れておきたいではないか(そうか?
 いやまあ、適当に淹れても飲むけどさ。

 その点、インスタントコーヒーは楽だ。
 なにせ、「そういった手間をかけて飲むほうが味が良い」なんて言われていないし、コーヒー党でもないから、適当なカップにお湯だけあればそれでいい。それこそ粉末のお湯に溶かすヤツでもいい。
 そういった手間入らずが良いところで、フィルターとセットになった簡易のものなんかを買ってきてみる。カップのふちにセットして、お湯を注ぐだけ、というヤツだ。
 これだと、ストーブの上にヤカンさえかけておけば、手軽に作れる。
 そんなわけで、普段はめったにコーヒーなんて飲まないんだが、この季節だけ、ふと飲むことがあったりするのである。
 ただし、紅茶と違ってコーヒーはストレートで飲んでもあまり美味いとは感じないので、最低限でもミルクは常備である。



2003年2月22日(土)

 アヴァロンの話。
 たしか一度目に見た時は知人の家で、「押井守のだから絶対面白いって」という、ちょいオタクというかマニア入り気味な奴と一緒だった。
 映画というもの、映画館でならともかく、個人の家、それもホームシアターというわけでもない普通の部屋で見ると、映画を見るより隣の奴の言うことを聞くハメになりやすい。で、その時もいちいち感想を言う彼に付き合い、私の感想は「音楽いいなぁ、これってアーサー王の伝説らしいけど、普通に声楽曲として手に入るのかなぁ、ところで最後のゴースト倒すとそれでコンプリートなの?」という程度だった。
 今度は、オンラインゲームにハマッて、さすがにそろそろ飽きも入ってきた今見るとどうだろう、と思いつつの、リプレイである。

 相変わらず、なにを言わんとするのか、なにを理解してほしいのかよく分からないような漠然とは分かるような映画だ。
 筋とはあまり関係なく入る、景色を映し出した映像。まさにアニメのように使いまわしチックなのは意図的なものなんだろうか? いや、そんなことはどうでもいいか。
 なんにせよ、モニターの前にいる私たちにとって「リアル」「現実的」ととれるのは、最後の最後、SA(スペシャルA。Aランクのエリアで余裕かましてるようなプレイヤーしか行けないゲーム空間)こと「クラス−リアル」の光景であり、主人公アッシュの生活する世界ではない。

 たとえば「マトリックス」は、私たちにとっても現実的な「現実」、主人公が「現実」と信じて暮らしていた世界が、実はヴァーチャルリアリティ、死ぬまで覚めることのない夢であり、ホンモノの現実は終末の後の世界だった。
 これははっきりしている。
 だが「アヴァロン」では、現実的に見えるクラス−リアルの世界でも、殺された相手は、負けたゲームキャラがログオフして消えるように消滅する。つまり、これは現実ではない。
 その直前までいた、通常のクラスAフィールドは言うまでもない。
 では、主人公アッシュが現実と信じている世界はどうなのか? これについての答えが劇中には提示されていない。ただ、見ている私たちにとってはちょっとリアル味の薄い世界だから、「もしかするとあそこも?」という感じは自然に受ける。
 カラーの乏しいセピア調の映像、私たちの知っている現実とは違う、どこかファンタジーめいた景色、動きの乏しい……というか、ほとんど動かない「背景の人物」。時々、主人公の心情を表すのでもなく、時間の移ろいを表すのでもなく挿入された「景色」は、この動きの乏しさ、カキワリ、NPC的な存在を見せるためのものだろうか?
 その中で、ゲームプレイヤーであるアッシュやその知人など、一部の人物だけが自在に動き、喋る。
 ということは、主人公が「現実」だと思って過ごしている世界も、実は何人ものプレイヤーが参加しているオンラインゲーム、ヴァーチャルリアリティを組み込んだゲーム世界に過ぎないのかもしれない。そこに入ると本物の「現実」の記憶は封印され、その世界の人物になりきるようなゲーム世界なのかも……。

 だが、一度書いたように、その答えははっきりとは言及されないままになっている。そこが「マトリックス」とは違う。いや、「マトリックス」も、さらにあれが架空の世界だった、というオチがつけられるが、そう匂わせる展開ではなかった。
 アッシュの暮らしていた世界さえ現実ではないと思わせる、犬の消滅事件もある。それが本物の犬なら、ドアも閉まっていて窓も開いていない部屋からいなくなるわけがない。それが消滅してしまったところは、「閉めたと思ったドアが開いていて出て行ってしまったのか? それともあの犬は『データ』に過ぎず消滅してしまったのか」という疑問が生まれる。
 となると、「どの世界が現実か、さて君に見分けられるか?」というのが、この映画の言いたいことなのかもしれない。
 主人公の信じていた現実すらヴァーチャル空間で、彼女はその空間で更にヴァーチャルリアリティによるゲームをしていた。そしてそのゲームの奥へと進むことは、単に並列した世界を移動しているだけなのか、それとも、「ゲームの中のゲームの中のゲーム」といったような、直列系の世界をどんどん深みへと下りていっているのか。

 ……と、そこまで考えないと面白くない映画だが、考えると、これが面白い。
 独特の映像空間は私好みだし。

 それからふと思いついたタワゴトなんだが、もしこの、私たちが生活している「現実」が、プレイヤーの記憶を封印して、キャラクターになりきらせるというヴァーチャルゲームだったら?
 クリア条件を満たすか、あるいは事故、寿命などでログオフにならないかぎり続くゲームだったら?
 もし「死後の世界」というものがそういうふうにして存在する、もう一つの現実だったら?
 そして、もし今の「あなた」や「わたし」が、自分で選んでプレイしはじめた、このゲームのキャラクターだったら?
 どんな長所も欠点も、全て「本物の現実にいるあなた」が選び、プログラムしたキャラクターだとしたら?
 少なくとも「あなた」や「わたし」は、不自由も制約も多ければ楽しいだけではない人生を、しかし楽しむためにプレイしていることになる。

 さて、これが「ゲーム」だとしたら、そう自覚したプレイヤーにとっては、どんな不幸も災難も、ゲームに生じたイベントに過ぎない。
 そして「ゲーム」とは、なんらかの困難、敵でもいいし障害でもいい、それらをうまく切り抜けて先に進むことを楽しいとする娯楽でもある。
 ……まあ、本気でそう思い始めたらサイコパスとして病院送りにされそうだが、人生の難局に出会ったとき、そういうふうに、目の前の問題を「ゲームに用意されたイベント」としてある程度冷静に、客観的に見ることができるなら、少しは落ち着いて打開できるかもしれないね。



2003年2月23日(日)

・アホですから。
 つい昨日、延々とメガテンやってましたわ、7時間も(死
 それでクリアしたのはダンジョン一つで、ひたすら仲魔を鍛えている私はどうせバカですとも(自慢げ
 エリさん(堕天使エリゴール)作るのに、ほしいスキル並べるために延々と20分くらい粘ったりしたのも原因ですかねぇ。
 次はにょろりん(ナーガ)を作ろうとしてるんですが、すぐにナーガラジャにレベルアップできるよう、高EXP持ってるイケニエ作るためにせっせと戦闘中。
 いったいいつになったら先に進む気か己。

・恩、というもの。
 これははっきり言って、受けないに越したことはない。
 同じように、借りも作らないほうがいいに決まっている。
 何故といえば、これは「返しきる」ということができないからなのだ。
 借りたほう、受けたほうは返したつもりでも、相手にとっては「足りない」ということもある。また、返すほうにしてみると、やはり「まだ足りないんじゃ」という気もしてしまう。
 足りないからまだ返せ、と、少し返されたその時には思わなくても、なにかあった時、「あれだけのことをしてやったのに」という形で表面化する。また、「あれだけのことをしてもらったのに、ここでこんなことしたらまずいかなぁ」とかいう気になってしまったりする。
 特に、進退きわまった時などの恩や借りは、大きいだけに返すことなどできず、踏み倒せるのみだ。
 まあ、よほどにお気楽な人ならば、足りてないかもなどと考えずに「これでいいや」とさっぱりしてしまうものなんだろうが、そうでないなら、自分が危地にいる時ほど、他人の手など借りないほうがいい。さもないと、その時は助かっても、あとあとまで縛られるだけだ。最悪、とんでもない時に「あれだけのことをしてやったのに、この恩知らず」と悪者にされてしまいかねない。まして危地にいるわけでもないのに受ける恩というものは、機敏に察して辞退してしまえ。タダより高いものはない、というヤツだ。

 なんにせよ、恩は着たら着っぱなし、決して脱ぎ捨てることはできないつもりでいたほうがいい。できるのは、「恩知らず」になることだけだ。



2003年2月24日(月)

・メガテンの話。
 またもバイトから帰ってきて延々と7時間ばかりやってしまう阿呆がここに。やってることはやっぱり戦闘。一応、ダンジョン一つくらいはクリアしたが。
 ともかく、なんとかコッパテングを育ててカラステングにしよう、とか考えて、うろうろしては稼ぎ、ダンジョン一つクリアしてはまた次のマップで稼ぎ、気がつけばカラステングどころかディースはヴァルキリーになるし、ナーガはナーガラジャになる始末。ちなみににょろくん(ナーガ)はしっぽの先についている黄色いリボンと鈴がキュートでたまらん。これで頭部分がデビルサマナー系のナーガと同じだったら、ラジャにしないままでとことん育てたろうなぁ……。

 ともあれ、それだけ鍛えてからいったん寝て、夕方頃にごそごそと起きだしてきてまたやりはじめる。なんだか仲魔のストックが一杯で、少しレベルの低いオニあたりが邪魔になりはじめる。精神無効・神経無効のスキルを引き継いで弱点をなくし、魔法に弱めではあるが、クリティカルをもらうことはまずないというありがたいオニさん。しかし戦闘に出すには攻撃力が他の悪魔に劣っているから、すっかりストック状態に。それも使える魔法覚えさせてないから、フィールド上でのフォローにも使えない始末。
 仕方ないので手頃な悪魔をナンパして何度か合体させ、結果、堕天使ベリスを作り出す。攻撃力が高いから前線でガチンコにも使えるが、ストックにおいておいてもエストマ・リベラマを使わせて悪魔の出現度を調整することも可。弱点はあるものの、吸収、無効属性も豊富だからきっと役立ってくれるだろう。
 が、外見を言えばワンランクしたのエリさんのほうが好みだ(←どうでもいい
 そろそろカラステングもクラマテングになってくれそうだし、もう少し育ててからオベリスク登ろうかなぁとか思ってるんだが、ふと気が付けば、ディア系を覚えているのがナーガラジャただ一匹で、それも魔力は低いしディアラマだし、かなり危険な状態になっていた(死
 仕方ない、お金溜めてメディアラマ覚えてるヴァルキリー召還するか……。

 ところで、一番レベルは低いものの、やっとこさ魔神を製造できた。ホルスなんだが、これがまた眩しくてたまらない。それはともかく、合体で作り出す時、敬称させるスキルの中に「誘惑」が頻出して困った。これは、妙齢の女性悪魔が大人・青年くらいの年齢の男性悪魔に使うと、必ず仲魔にできるという会話用スキルである。だがホルスの性格は老爺。トボけたおぢいちゃんである。つまり、引き継いでもNG(普通の会話にすらならない)が起こるだけになりかねない。
 そんなわけで、せっせと誘惑のないスキル状態になるまで、またしても粘る。粘りながら、「男なのに誘惑使うホルスか……」と思ったりして、ふと浮かんできたのはあのホルスだった。槍持った悪魔ってけっこういるんだよなぁ……エリさんとかにょろくんとか、ベリスもそうだなぁ……(阿呆

・ふと思いついたネタ
 アフタヌーンKCの「空談師」の2巻が出た。さっそく買って読んだ。相変わらず説明不足のところがあったりするが、親切な分勢いのない話よりは、やはり好み。
 そうして読んでいるうちに、こういう、ヴァーチャルリアリティタイプのオンラインゲームについて考える。「アヴァロン」とか、自分で書いたPSOものの「At the end of the nightmare」とか、そういうものも思い出して考える。
 ゲーム世界での「死」について考え、「Nightmare」で書いた人間の一面について考える。
 結果、なんだかまたダークなネタが固まってくる。
 できればそう遠くないうちに形にして、オリジナルにアップできたらなぁと思ってる。



2003年2月25日(火)

・最近のカップラーメンは、具にもいろいろ凝っている。一昔前のものと比べれば格段に種類も増えたし、味にもバリエーションが出てきた。その分回転が早くなって、現れてから消えるまでがかなり短いが。
 なんにせよ、レトルトの具が入っているものも多い。
 このレトルト具のチャーシューが、実は好きだ。密封する工程で圧力をかけているのか、いい具合にトロトロしている。
 しかしどうしたことか、その味は、どのメーカーのものでもほとんど違わない。不思議だなぁ……。

・メガテンの経過報告。誰に報告するんだというツッコミはしないように。
 オベリスクの入り口でふらふらと仲魔のレベルを上げつつお金をかせぐ。とりあえず主人公にもメディラマを覚えさせる。とにかく魔力強化でスキルも魔法系、魔法強化系ばかり、どんな敵が出ても弱点をつけるという態勢できたが、いい加減、使う魔法をしぼってもいいだろうと、氷結系を削除してメディラマを覚え、更に、ヴァルキリーを召還することで回復要員を増やす。
 いい加減、1Fでふらふらしていても手に入るEXPが乏しくなってきたので、のこのこと先に進んでみる。なんだか1階からいきなり5階になり、階段をのぼっていると40階がいきなり42階になり、実際の階数とフロア数が全く合致してない。たぶん、「ものすごく高い塔」だけどオマケダンジョンでもないのに本当に100階とか作ったらクレームつきそうだから、ということなんだろう。
 道中、簡単な算数でなんとかなる仕掛けがぽつぽつと表れる。それはともかく、邪神パズスさんのビジュアルはちょっとキケン……。いいのか、いいのか、あれ。
 何箇所かセープポイントもあるんで、ほいほいとのぼって辿り着いた135階だか130階だか、それくらいの高さ。ここで、序盤に顔だけ出したボスクラスの敵がまた出てきたんだが、4ターン以内くらいに倒さないとならないのか、途中で逃げられてしまうし、二度目以降は台詞同じになるし。うーん、それとも月の満ち欠けの仕掛けで、一度も戻らずに三人に会えばいいんだろうか……。

 何度か試してみて、二度ほど殺されて、その辺で攻略は明日に回すことに決定し、もう道も分かったから、といったん町に帰還。アイテムを補充したりして、またのこのことうろつきはじめる。
 本当に、いつになったら真面目にクリアする気なんだろう己。



2003年2月26日(水)

 私はたまに気が向くと、占いなんぞで小銭を稼ぐんだが、そういう形でであれ「人の悩み」「悩んでいる人」に触れることになるのは、カウンセラーなんかと誓いものもあるかもしれない。

 占い、という一種の予言めいたものを求めてやってくる人も、よくよく観察してみると、求めているのは「良い結果(未来)」ですらない。そういったものの可能性を感じることで得られる「現在の安息」だ。
 他の占い師は知らないが、私は、「占いの結果は一つの扉」としか見ていない。私がやるのはカード占い、いわゆるタロット占いというヤツだが、そこに展開した何枚かのカードが、間違いなく過去から未来を表しているとは、私は考えていない。
 だいたい、物事というのは考えよう、受け取りようだ。それに、どんなことも「言われてみればそんな気がする」とか「言われてみればそういうところもある」とい言えてしまうものだ。過去を示す部分に我が儘さを示すカードが出たとして、「貴方は彼に対してちょっと我が儘になりすぎてなかったか?」と問えば、誰だって思い当たることはあってしまう。「たとえば相手が忙しそうなのに会ってほしいとせがんだりとか、予定が入って約束が守れなくなったことに腹を立てたりしなかったか? いつの間にか多くのことを求めるようになっていないか?」と問われれば、「絶対そんなことない」と断言できる人はめったにいない。
 にも関わらず私が占いという手段をとって人の話を聞き、それでそこそこありがたがられているのは、「言われてみればそうかも」の「言われてみれば」のためだと言っていい。
 その人の過去、現在を振り返るためのきっかけを与えていること。言われてみないと気付かないことに気付かせること。これが実は一番大きい。

 カードの並びには神秘などなく、本当にただの偶然、適当でしかなくても、そこになんとか辻褄を合わせて矛盾のない物語を作り上げる。そうして見せられたものは、相談に来た本人が、これまでにじっくりと向き合ったことのないものであることもあるし、少しは考えたものの取り合わずに忘れたものであることもある。あるいは、思ってもみなかったことかもしれない。
 だが、そこに展開された一つの物語をきっかけ、扉にして、これまでとは違う方向へ入っていける。その結果、自分一人で、あるいは見知った友人と考えていたのでは思いつかないような、新鮮なアドバイスが生まれてくることにもなる。
 そして、こういった占いが「当たる」こともあるのは、当然なのだ。
 悩みというのは、その人の「思考・行動パターン」が固定されてしまっていて、そのパターンではにっちもさっちもいかなくなるから生まれる、と言っていい。つまり、固定観念、強迫観念による自縄自縛というヤツ。そこに、本人が考えてもみなかったアドバイスを持ち込み、実行してみれば、新たな局面が開けてくるのも無理はない。そうなると、「すごい、解決した」とか、「おや、状況が変わったぞ」ということになる。

 ところで、少し話は逸れるようだが、人間というのはたいがい、「正論」「正しい意見」よりは「自分の意見への追従」を望むものだ。
 それが第三者のことや会社のプロジェクトなど、「自分」に関係ないことならばいいが、こと自分の主義主張や趣味、価値観、生き方といったことになると、ほしいのは「うんうん、そうだね」という賛同か、さもなければ「なるほどなぁ」という納得であって、決して「それは違うんじゃないか?」という否定ではない。正しいかどうかを尋ねている場合でさえ、求めているのは「それでいいんじゃないか?」という賛同なのだ。つまり、公正に「どちらが良いか」など問題ではなく、「それでいい」という他人の言葉を聞いてほっとしたいだけだと言っていい。
 これは悩みの相談でも同じことで、「どうすればいいでしょう」と言ってきたって、本人の中では「これはしてもいいけどこれはしたくない」と、実は答えがある程度決まってしまっている。だから、「それは貴方が我が儘だからだろう」と思っても、そう言ったところで聞き入れてはもらえないし、ましては反省し修正されることなどあるまい。

 ここで話は戻ってきて、占いのことになる。
 この「反対意見」「否定意見」は、自分と同等、あるいは自分より下等と思う相手から言われたって、まずもってムカつくだけだ。自分が心酔ししていたり、尊敬していたりする上等の相手の言うことでなければ意味はない。
 だが、占いの結果は占い師が作ったものではなく、偶然だ。「カードがこう告げている」というのであって、そこにはまるで人格がない。人格がないほうが、まだしも同等や下等な相手から言われるよりはマシと見える。
 というのは、「自分の誤りを認めて相手の意見に従うと、自分のほうが下等になり、相手のほうが上等になった気がする」から、プライドが許さないという心理も多分に存在しているせいだ。だがカードはただの物体で、どう足掻いたところで自分より上等なものになるはずがないし、それが示しているものだってただの偶然の産物に過ぎないか、さもなければ、人間の理解を超えた神秘の成せるワザということになる。
 つまり、なんの人格もないものが示したものを、占い師は解釈しているだけ。
 ということは、神秘的なものの存在を信じさせるほど迫力のある占い師ならば、その勢いで押し切れば、相談者にとってカードは神秘になり、極端に言えば神の啓示とかそういったレベルのものになってしまい、それに従うことに、プライドが生み出す抵抗は減る。対して、私のような「カードはただの紙、こんなもの当たるかどうかは分からんよ?」と占いをする本人からして信じていないようなタイプの場合、あくまでも「カードは紙、結果は偶然、こんなものは貴方より下等」という印象につながる。私はその印象を壊さないように、「こうかもしれないねぇ」とか曖昧に言っているだけでいい。しかし、そのほうがかえって、相手はカードの結果に対して冷静になり、自分の悩みに対してもリラックスしてくれる。その結果、これまでとは気の持ちようがかわったりして、結果、良い未来を生み出してしまうことにもなっていく。

 さて。
 相談に来る人の心理ってこんなんじゃないか? ……とこう尋ねるとして、深読みすると、「そう言いながらも私が求めているのは『正解』ではなく、『追従』である」ということになる。
 だがまあ、そんなことはどうでもいい。私がどうだろうと貴方には関係ない話だ。
 ただ、なにか悩んでいたりする時、解決するための一つの道は示せたかもしれない。
 一つには、そういった悩みには「いつの間にかそうしてしまっている」という貴方の癖や観念がからんでいたりして、そのせいで解決の糸口が掴めないこともある。とすれば、それを自覚することで打開できるかもしれない。
 そして、打開できなかった時には、身近な友人に相談したって、あまり解決にはならないものだ。貴方を怒らせたり嘆かせたりしたくないと思えば「うんそうだね」「そうだよね」と追従してくるだけだし、「いや、それはあんたのここが悪いんだよ」と言われて、「そうか」と殊勝に聞き入れて改善できるか? カチンときたりムッとしたりせず、心から納得して「ありがたいな、やっぱり持つべきものはいいトモダチだよな」とか思えるか?
 ありがたい言葉ほど耳に逆らうものだとか、良薬は口に苦しとか、昔の人も言っている。つまりそれは、解釈の問題でもあるが、「だから苦い薬でも我慢して飲みなさい」ということではなく、「飲めたもんじゃない苦い薬にしか正解はなく、だからあんたの病は治らない」ということかもしれない。
 それなら、無責任な、あるいは神秘的な「占い」というオブラートに包むのも、一つの手ではないだろうか。



2003年2月27日(木)

・ところでこのザレゴト。
 「日記」のような部分もあるが決して日記ではないから、必ずしも日付どおりの日に書いているわけではない。ネタがあれば、何日分も先に書いておく。そして、日付も問題になる内容の場合だけ、入れ替えたりする。
 ここのところやたらと書くネタを思いつくので、実はこれ、かなり先走って書いていたりして。

 それはともかく、今回は三国志の話。
 三国志の登場人物の中でお気に入りといえば、なんといっても呂布。他の「強者」たちがある程度先を見て行動している知者でもある中で、ほとんど目先の利害しか見分けられずにその場その場で無茶な行動(裏切り)をとるあたりが他の人物に比べても頭悪いし、とにかく俺は暴れてられりゃいいんだ、と単純明快。それならただのバカになりかねないのを、関羽と張飛を相手にして互角に戦うというんだから、凄まじく強い。
 筋肉バカ、と言えば言い切れてしまいかねないが、言い換えれば、自分の目の前にある物事についてこうと信じたら己の欲するまま、薄っぺらイ正義や道徳に縛られることもなく、一途に突っ込んでいくような不器用な潔さの持ち主なんだとも言える。……いや、私としては筋肉バカさ加減が好きなんだから、弁護する気もない。バカでもこれだけ強ければ立派だ、うん(ぉぃ
 なにより、軍師にせよ主にせよ、先見の明があって思慮深く、目先の利に囚われず深謀遠慮、とこうくると、自分からはかけ離れすぎている。たいていの人間、凡人というのは、少しくらい先のことを考えてみてもあまり真剣ではなく、「まあいいか、なんとかなるか」という見切り発車の連続だったりする。それであとで手痛いしっぺ返しなんかを食う。呂布というのはそういう、内面的には凡人に近い単純さだから、そう遠い人物のような気はしない。力が優れているとかいうののほうが、頭が切れるだの徳が高いだのというよりは、まだしも近しい気がするのだ。
 ともあれ、私が持っていた呂布のイメージというのは、こんな感じなんだが、しかし北方版の呂布は、どうも違うらしい。
 そうしてこそこそと彼の出てくる巻を開いてみたら、更に好みのタイプとして書かれているではないか。ああん、どうしよっ?(←どうとでもしてろ
 頭が悪いわけでもないが、とにかく戦好き。俺は戦さえしていられればいい、政治になんか興味ない、と陳宮に語る。なんとなくナイーブさを感じさせる描写もあったりして、赤兎に語りかけるシーンなんかはかなりツボストライク。陳宮も、夢を抱いた一人の男としてかなり鮮烈な印象を持っている。

 脇役にあたる人物がこれなんだから、主役クラスの劉備たちはどうなってるんだろう、とも思う。……いや、興味の持ち方がヒネてるのは自覚してるからほっといてネ。
 しかし文庫でも12巻だからあるということは、下手すると1万円近い。古本屋で全巻揃えるのも簡単そうだが、手元に残して繰り返し読みたいものは、できるだけきれいな状態で手に入れたいし……。いっそボックス入りのセットで買うかなぁ、とか思っているのであった。

・メガテンな話。
 あまりにふらふらしていても仕方あるまいと、やっとこオベリスクをクリアしようと腰を据えて取り掛かる。ボスっぽい三女神の出てくる仕掛けのところまであらためて出向き、さて、規定ターン数以内に倒さなければならないのか、それとも仕掛けが崩れないうちに全員に会えばそれでいいのかと考える。
 うろ覚えだが、相手が逃げてしまうまでのターン数は同じ相手でも違っていたような気がしたので、となると、倒すより、一定のダメージを与えるまでの間、死なないことと、無駄にアイテムやMPを消費しないことが肝心だ。
 そんなわけで、弱点のない仲魔、相手の攻撃を無効・吸収できる仲魔で固めて相手の攻撃回数を減らす方向でバトル。どうやら読みは当たったようで、ほとんどガチンコで三人片付けると、仕掛けが解けた。
 いそいそと先に進み、ゴールにまでいくと、三女神(種族は鬼女だが)全員を同時に相手にすることに。使ってくる魔法なんかは把握しているので、結局、タルカジャ・マカカジャで強化した後、一気攻めで呆気なく撃破。
 物語も大きなターニングポイントに来たらしく、これまでの伏線なんかが一気に凝縮していく感がある。

 それはともかく、自分がどのコトワリに従うかを問われると、マントラ軍の「力こそ正義」は疑問。それは強者にとれば便利だし、戦い好きなら問題ないだろうが、弱者にとればとんでもない。弱者を思いやるというのではなく、自分が弱者に入った場合がイヤだから、御免なのだ。自分が他の連中を力で押さえつけ、そこそこ好き勝手できるならいいんだが(鬼
 ニヒロの掲げる、感情に左右されない「シジマ」のコトワリ。オベリスククリア後に出会った氷川(ニヒロ総帥)の、「人間の欲望は灯火と同じ。小さいうちは温かく良いものだが、大きくなれば破壊の力になる」という台詞なんかを見ていると、たしかにそうだと思えるし、そういった我を捨てて、世界の一部として生きるべきだというのは自然回帰っぽくて嫌いじゃない。怒りや苦しみ、憎しみとかいう感情がなくなるのは嬉しいが、よく考えてみれば、その「嬉しい」という感情までなくなってしまう世界である。それはちょっと面白くない。
 脇役の女がかかげる「ヨスガ」は、「強い者、優れた者だけが生きる世界」を理想とするらしいが、「そりゃつまりおまえ、自分は強く優れた者だと思ってるってことか?」とどうも鼻持ちならん女は嫌いだ。よって却下。だいたい、強い者・優れた者が集まれば、その中にまた「劣った者」が生まれる。結局最後に残るのは一人か、どこかで妥協するしかない。では、妥協するラインはどう決めるのだというと、はたしてあの女、答えられるんだろうか?
 脇役の男の言う「ムスビ」、孤独にして孤高の自分と、どうでもいい他の人間、という世界。何千人という人が一緒にいても、誰も他の人のことなんか気にかけていない世界。ものすごく正直に言えば、これは楽でいい。他人のことに煩わされない世界というのはスバラシイ。が、それはいついかなる時にも自分独りということだ。助けがほしいときにも一人なのだ。誰のことも気にかけなくていいかわりに、だりれからも気にかけてもらえない、という世界。孤独に耐えるために心を閉ざせばやがて心は麻痺するか感覚を失うだろうが、それでは生きているという実感もなさそうである。
 フトミミはマネカタの世界を作るというが、そこには悪魔や人間は共存しているんだろうか? 力を合わせて生きていく、という、一番身近で現実的で、ちょっとクサい世界だが、それがもしマネカタだけの世界であるなら、人間である自分にとっては敵だ。
 ヒロイン(?)らしい女教師は、一人一人が生きる力や理想を持つ世界を臨んでいる。それは理想的だが、願いは必ず叶うわけではない。理想同士がぶつかればどちらかが道を譲ることになる。叶えられない理想を抱きつづけて、怠惰になることも許されずに生きるしかない世界というのはものすごい苦痛じゃなかろうか。

 などなど、なんだかすっかりゲーム世界に巻き込まれて、真面目に考えてしまっているではないか己。
 ともかく、極端に走れば理屈は明快になるが、他のキャラクターが言っているような世界にはあまり住みたくない気がする。
 では、そんな私がコトワリを立てるとしたら、どうするんだろう。
 たぶん、「自らを由として自らが良しとするところを成す」世界を望めば、無難に済みそうだ。ほしいものはほしい、けれど奪って後悔するのは嫌だと思えば譲る。一人になりたい時には一人でいればいい。けれど一人でいなければならないのではない。誰かといたいと思えばそれに従えばいい。
 なんのことない、勝手気侭な世界だ。
 ただ、それでもこれが「コトワリ」であると言えるとすれば、「あんたは本当にそうしたいのか?」と問われて、自分の心を探ってみた時、自信を持って頷けるような行動をしていくことを、自らに課せねばならないところだろう。
 信じた道を行け、ということだ。けれど、迷いなく歩ける道は果たしてあるのだろうか? たぶん、そんな世界も決して楽じゃないだろうな、と思うのであった。
 おお、なんだかすごく真面目だぞ。



2003年2月28日(金)

 珍しくバイトが三連休で、生活リズムがいつにも増してでたらめになっている。一日が12時間しかないかのように、2時間ほど寝ては10時間ほど起きていて、また4時間ほど寝て12時間起きている、という妙な感じだ。
 12時間寝倒すつもりでいたのに失敗して、朝っぱらから起きだする。そしてつらつらと推敲したり誤脱字のチェックをしてたりするうちに、「その他」に突っ込んである『SLEEPING WOLF』のトップページデザインを変更しはじめる。
 ノートちっくにしたものの、ノートに見えるほど丁寧な作りではなく、単にテーブル組みと色でそれっぽくしてるだけで、なんだか貧弱なのが気に食わなかったから。かといって、あのサイズの「ノート」画像を使うと重いだろうし……。
 というわけで、すっぱりきっぱり姿勢をかえて、他のページ同様、単に色分けされているだけのものに。
 それじゃ色気がなかろうと、ストックしてある素材の中から良さげなものを引っ張り出してきて加工する。幸い9K程度の小さいサイズになったので、これならいいかと使うことに。

 で、何故かタイトルまで変更されてしまっている。
 元のタイトルにしまりがないのが理由。なんの味もへったくれもなく、かといっていいものも思いつかなかったので、仮題のつもりでああしておいたのだ。
 新しくつけなおした『SLEEPING MOON』は、思いついたものではなく、もう何年も昔、下手すりゃ10年近く昔から自分の中にある言葉である。
 「眠る月」。なんだか詩的でしょ?(言ってろ
 しかしこの言葉は、実は時代ものとして書いていた主人公のイメージや名前にも使っているので、流用するのもどうかと躊躇っていた。しかしまあ、どうせタダ見OKのwebサイトのことだし、他の話と重なる部分があってもいいだろうと、使用決定。

 あの話と「月」とどう関係があるのかと問われれば、「狼男と月」だから(安直
 もともとサイコの持ってる刀は、別の物語の中からずっと「月の力を秘めたもの」であり続けている。
 そしてなにより、まだ詳しいことは明かさないが、この世界には本当に「眠っている月」が存在し、それが後の物語にもからんでくる予定である。それならまあ、このタイトルで良かろうと。なんでこのタイトルなの、と言うなら副題の「神無き海の物語」もそうだろうが……。
 いずれその辺も明らかになるはずである。……それまで根気欲連載続けばね(滅


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