烏の足跡



2002年11月16日(土)

 感謝を忘れちゃいかんね、と最近思う。
 他人を見てじゃなく、自分を省みて。

 当たり前にそこにいる友達、一緒に遊んでくれたり、話に付き合ってくれたりして、私に楽しい時間をくれる友達。
 いつも共にいるのが当たり前になると、つい甘え過ぎたり横柄な振舞をしてしまったりしてしまう。出会って間もない頃、この人はいいな、付き合っていきたいな、と思い始めた頃の気遣いとか礼儀が、知らず知らずのうちに薄れてくる。
 これじゃいかんな、と思うのである。

 親しき中にも礼儀あり、ではないが、あまり堅苦しくなることはなくても、「自分にとって心地良い人がこうして傍にいてくれる」ということのありがたさ、嬉しさ、喜びを、あって当たり前にしてはいけないと思う。
 「あって当たり前」のことではなく「あり難い」ことなのだと思えば、おのずと自らの態度もあらたまるだろう。

 ……おお、なんだかすごい真面目なこと書いてるぞ己。



2002年11月17日(日)

 うちの両親は、月に一度くらい、決まって小旅行に行く。
 私は当然ながら留守番というかその数に入ってないんだが、そんなことはどうでもいい。見合いで結婚して当たり前の夫婦やってきただけで、「貴方、好きよ〜」「僕もだよ〜」なんていう自然な愛情なんかはあるとも見えない二人だったから、夫婦水入らずで旅行、というところを見てやっと、夫婦らしい、と思うくらいだ。
 だいたい、連いてこいと言われても、私は頷きはしない。
 その理由については面白くないことなので書かないことにしよう。

 なんにせよ、人生の半分を真面目〜に仕事と家族のために使ってきて、楽しみのためにそれらをちょっと後回しにする、ということもしなかった、特に母親にとっては、これがはじめからの計画だったのかもしれないと思う。
 「気侭に遊ぶのは子供が自立してからでいい」というような。
 それまではとにかく仕事仕事、使わなかったお金は貯金、娯楽のためのような無駄な買い物はしない、とまあ、そんな生き方を、やっと50歳も過ぎたところで、もういいわね、と緩めたような。

 これは一つの生き方で、偉いと思う。
 目の前の楽しみにすぐにコロリとまいってしまう私なんぞには、真似しようとしたってできないし、そこまでして社会的に問題なく生きられるというのは、すごいと思う。
 しかし絶対に、真似しようとは思わない。

 あとで、と我慢するのはいいが、その「あと」があるかどうかなんて分からないんだし、「今楽しいと思うこと」とは「今だけ」しか楽しいと思えないものなのかもしれない。
 もちろん「あと」になっても、その時にはその時の楽しみ、楽しいと感じることはあるかもしれないが、「それ」を存分に楽しめるのは、今だけなのかもしれない。
 だいたい、小説にしても絵にしても、「あとで」と保留して書かずにいて、それでも腕が落ちずにむしろ磨かれる人もいるかもしれないが(高橋克彦さんはたしかそんな感じの人)、ブランクがあったら全然ダメになった、ということもある。
 バカな頭でいろいろとバカなこと考えつくのは、バカなことを楽しめるからであって、利口になって小ぢんまりとしてしまったら、もうからっぽなのかもしれない。

 こんな博打は、私はうたない。
 とれるものは、手が届くところにあるうちにとっておく。
 明日になってもまだそこにあるかもしれない、なんてのは愚かだ。それで忘れ果てたり色あせたりしたネタだってあるのに(ぉぃ)。

 しかしまあ、私が両親の旅行を見て、「楽しんできなよ」と思うのは、彼等のおよそ30年ばかりの「家庭」のために費やした時間に敬意を覚えるからだろう。
 今までそういうこともせずに働いてきたんだから、好きなところへ出かけて好きなだけ楽しんでくればいい、と。
 なんの特別なこともなくても、これは一つの「失敗しなかった」という意味では「成功した」人生だと思うしね。



2002年11月18日(月)

 ずーっと知りたかったというか、気になっていたことを、やっと知ることができた。
 それがなにかは、ヒ・ミ・ツ★(ぉぃ

 本人に訊けばいいことなんだけど、なんのとっかかりもなくいきなり「ねえねえ」と尋ねるのもなんだかなー、と、いつかいい機会が来ないかと思っていたのである。
 あー、すっきりすっきり。



2002年11月19日(火)

 何処でどう調べたのやら、わけの分からないところからダイレクトメールが届くことがある。
 これが普通のものなら無視していればいいのだが、「調査員がうかがいます。その時の対応についてご記入の上投函ください」とかいうワケの分からんものだったりするから困る。

 その調査員がうちに来たのが昼間なら、断るにしてもそれ相応の礼儀をもってしてやろうが、よりにもよって飯時。いや、飯くらいどうでもいいんだが、親のいる時間。
 「あんたまたなんか変なもの注文でもしたの」と白い目で睨まれる。
 要するに、そういうところからこっちの住所だのを知って訪ねてきた、と思われるわけで。
 そういう目でしか見とらんのかい、と本気で殴り倒したくなったがそれはこらえておいて、人のよさそうなおばさん調査員には、ドアの隙間から届いていたハガキを放り出しておいて一言もなくドアシャット。

 おばさんが悪いんじゃないんだ。
 あんたがたとえどんなにいい人で、この寒い中あちこちの家を訪問しているんだとしても、胡散臭いハガキを出してくる会社の手足として動いているからいけないんだヨ。
 あと、来た時間が悪かったネ。



2002年11月20日(水)

「こんなもんで本当に幸運に恵まれるなら、みんな大金持ちだよなぁ」
 と知人が呟いた。
 雑誌の裏とかによく載っている、「これを身につけるだけで金運・異性運・仕事運がアップ!」とかいう系統の広告を見てのことである。
 たしかに、いろんな種類のものがあって、そのどれもが「ロトで大当たり」とか「パチンコで負け知らず」とか「こんなステキな彼氏(彼女)ができました」とか書いてある。
 世の中パワーアイテムだらけな感じで、胡散臭いことこの上ない。

 しかし考えようによっては、「みんなが胡散臭いと思って手を出さないから、本当にものすごい力があるのに、幸運に恵まれている人はごく一部なのかもしれない」とも言えるのである。
 あるいは、本物のパワーアイテムではあるが、持ち主のなんらかの要素とかみ合わなければ効果を発揮しない、とか、いろいろと考えようはあるのである。
 だから、「こんなものはインチキだ」と言いきってしまうのもまた、ちょっとあさはかというものだろう。

 実際に試してみて「効果なんて全然なかった」と言う本人の言葉でなければ、「その時点」においての真実ではない。ま、その人もあと三日つけていたら、その三日後になにか起こったかもしれないわけで、やはり絶対的に「インチキ」とは言えないのである。絶対的に「本物」とも言えないように。

 ただ、暗示にかかりやすい人というのがいる。
 そういう人は「これでラッキーになった」と信じ込んだり「これで俺も積極的になれる」と自信を持ったりして、そのおかげでそれまでのその人とは雰囲気などが変わり、急に周囲の見る目が変わってきたとか、仕事がうまくいくようになったとかいうことも起こりうる。
 鰯の頭も信心から、というヤツである。

 そんな話を、その知人にした。
「それならこれ、デザイン気に入ったし、別にこの石が偽物でも台が本物のシルバーならそれでいいと思って、買ってみるかな」
 とのたまう。
 そういう買い方で試してみるのなら、精神衛生上でも悪くはないだろう。
 ……けどさ君、「こんなんインチキに決まってる」とコキ下ろしていた裏にはつまり、「本物だったらいいのに」という思いがあったわけなのね……。



2002年11月21日(木)

 昨日の話にも通じるけれど、少し前のザレの繰り返しにもなるけれど、人の言葉というものは、その内容の他に、「そう言う理由」というものがある。
 言葉面だけを受け止めて、その内容だけを解釈するだけでは分からない、その言葉を言わしめる理由、という本心がある。
 オンラインゲームの公式BBSでの発言というものを、そういった視点でじっくりカンサツしてみると、なんとも滑稽な景色であることよまったく……。



2002年11月22日(金)

 カラオケ行きたい……。

 いつも何人かで外で飲んだりすると、流れ流れて最後にはカラオケボックス、というパターンが多かった。
 一時期の異常なブームも終わり、あちこちの店舗が潰れている現状だが、ブームになんか関係なく、私は歌が好きなのであるからして。
 なにかの作業中には常にCDがかかっていて、「ふんふんふふ〜ん♪」と鼻歌交じりであることも多い。
 なんにせよ、自分の楽しみとして歌うだけだから、カラオケに行っても、流行の歌を覚えて披露しよう、なんてことは毛頭考えていない。同じような「つもり」の友人たちと、自分が好きな歌を歌うためだけに行くのである。
 だから十年も前の流行歌とかもザラに出てくる。
 下手だろうがマイナーな歌だろうが、そんなことを気にするような奴は願い下げである。気持ちよく歌えればそれでいい。公害になるほどヒドイ音痴なんてのもそうはいないし。
 というか、よく一緒に飲んでいた仲間というのは、みんなして歌が上手かったりしたから、けっこういい感じだった。バンドやってた時に知り合った人とかもいたしなぁ。



2002年11月23日(土)

 レジカウンターで接客していると、いろんなお客さんに会う。
 イヤ〜な人もいれば、いい人もいて、時にはこちらの接客に対して非常に喜んでもらえたりして、良い気分になれることもある。
 中には「はて」という妙な人もいる。
 言動がなんだかおかしい人だけではなく、異様に細かいことにこだわる人に会ってみた今日。

 普通、どこかの店で買い物をする時、お金を受ける受け皿があったりすれば、その中に代金を入れる。まあ、カウンターに直接置くこともあれば、レジ係に手渡しすることもあると思うが。
 そのお金の置き方に、その人の気遣いというか、思考レベルが垣間見える。
 小銭を札の下に置く人。これはなんにも考えていない。悪気があるとかないとかは分からないが、それでは小銭の確認がしづらい、ということまで頭が回っていないんだから。
 お札を先に置いて、適当に小銭をばらばらと置く人。これが一番普通だが、気使いにはかけるし、自分の時間の使い方も上手くはないのかもしれない。
 お札の上に小銭を置くとき、レジ係が数えやすいように並べるとか、あるいは係の人が見ているのを確かめて、枚数が分かるように落としていく人。その気遣いが功を奏しているかいないかはともかく、「分かりやすくしよう」というのは、レジを終えるスピードアップにもつながるのだし、なかなか賢い。
 しかしこれも行き過ぎて、「1、2、3……」とカウントしながら置いていくとなると、滑稽だ。丁寧すぎるのもなんだかな、である。

 今日のお客さんは「お札の上に分かりやすく小銭を置く」という一番ありがたいタイプではあった。
 あったのだが、その小銭を、全て数字の書かれている側を上にして並べるのである。
 その場にいた人と、それはさすがに滅多にいないよなぁ、と話したりしていた。



2002年11月24日(日)

 鼻水止まりませんTT
 仕事中に止まらないのがつらい。
 机についての事務作業とかなら、そんなものは構わずにいられるのだが、お客さん相手に喋ったりする仕事だと、非常につらい。
 それも、鼻が詰まる、というのではなく、なんの粘性もないものが垂れてきそうになるから困る(汚い話でごめんよぅ
 仕方ないので、すすりあげて我慢して、隙を見てカウンターの中に屈んで鼻をかみ、また動くという繰り返し。
 しかしお客さん一人分ももたないので、接客がつらいったらもう。
 それでも、こういう時に常連のお客さんが来たりして「おい、大丈夫か?」と一言声をかけてくれると、嬉しくてたまらなくなるのである、うむ。

 今日は、週に二度ほど、必ず雑誌を買いに来るおばさんから、「薬もってるからあげようか?」とまで言われてしまい、ちょっとウキウキである。
 自分の応対がそのお客さんにとって気分のいいものであればこそ、そうやって気にかけてもらえるわけだから。
 接客にはちと自信あるよ、うん。

 ちなみにそんな私の信条は、「マニュアルはあくまでも必要最低限レベル。それに応じていれば悪いことにはならないが、いいことにもならない」である。
 接客用語なんてものは、常識のないバイトくんたちがバカな口のききかたをしないためにあるだけのもので、「申し訳ございません」とさえ言えばいいわけではない。「あ、すんません」という軽い言葉でも、本当にお客さんに対して「悪かったな」と思って言えば、ちゃんと通じる。むしろぶっきらぼうな棒読みの「申し訳ございません」よりはよっぽどいい。それはつまり、自分の言葉で、自分の気持ちで、「ごめんなさい」と謝っているということでもあるのだから。



2002年11月25日(月)

 美味いラーメン屋がない。
 地元に戻ってくる前に住んでいたところは、そこそこ美味い店が近いところにあったほうらしい、あれでも。
 それくらい、美味い店がない。
 インスタントと大差ないようなものを、倍以上の金出して食ったってなぁ。
 ああ……じゃんがららぁめんが懐かしい……。



2002年11月26日(火)

 オトドケモノがあったので、珍しく12時に起きる。
 12時に寝ることならザラにあるが、昼に起きたのは久しぶりである(ぉぃ
 鼻水がぁ、とか日記やメェルでほざいていたら、お薬と一緒にモロモロもらってしまいますた★
 鼻によく効く薬だということで、どんなんだろ、と覗いてみる。
 半分が透明になったカプセル入りの粒状薬なのであるが、その粒粒の色が赤と緑と白。
 ……X'mas……?



2002年11月27日(水)

 ちょっと早く起きたので、巣にあるPSO話をチェックする。
 そしてふと、数を数えてみる。
 小話なんかも一つと数えると、100越えていた。

 男塾のほうでも100本ほどあるし、これにオリジナル、ルーキーズを加えると、250本近いタイトルがあるんじゃないかというこの巣。
 れっきとした「作品」としてそれ一本で楽しませられる、ということを考えれば、その水準に達する話は10本もないかもしれないが、なんにせよ、一年半ばかりでこの数というのはかなりバカだ。
 うむうむ、よかよか♪



2002年11月28日(木)

 酒に強いと薬もききにくい、と聞いたことがあるんだが、本当なんだろうか。
 アルコールにしてもなんにしても、肝臓の機能が強いと、分解されてしまってあまり効果がないのだと。
 どこまで本当かは知らないが、私はあまり薬がきかないらしい。
 薬の効能なんてものも、半分以上は自己催眠なのかもしれないけどさぁ。

 あと、薬のことで本当なのかどうか気になっていることがもう一つ。
 お茶で飲むのはいけない、というのはどうなんだろう?
 お茶の成分が薬の成分と結びつくだか妨害するだか、とにかく効き悪くなるとか。
 お茶はダメでも他の飲み物はいいんだろうか? 紅茶は? コーヒーは? ポカリは? 炭酸飲料は?(←普通そんなもので薬は飲まない



2002年11月29日(金)

 ディズニーラッシュである。
 なにがって、お土産が。
 みんなして出かけているらしく、バイト先でクッキーを食べ、宅配で届いた飴を舐め、たぶん母親あたりがもらってきたと思われるチョコレートを食べ……。
 いいなぁ……遊びに行きたいなぁ……(←まだ言ってる



2002年11月30日(土)

 ちょっとだけいい話。

 カウンターで接客中、7歳くらいの少年が買い物に来る。
 少年が父か母にもらって持ってきたのは450円。しかし代価は499円。
 「あと50円、おうちの人にもらってきてくれるかな?」と言うのだが、なんだかぐずぐずしている上に、「くれないもん……」と呟く始末。
 「そのお金で買えるものを買いなさい」というなら、450円などという半端な数字ではなく、500円渡すだろう。450円はくれてやるが500円はやらない、というのもなんだか妙な親だ。ということは、「くれないもん」は追い詰められた少年のタワゴトに過ぎないだろうと推測される。
 「お父さんかお母さん呼んできてくれる?」と言ってもぐずぐず。
 この辺りで子供嫌いの私の内心は「このガキ蹴り倒してやろうか」となってるんだが、そこは仕事中、表には出さない。
 しかし子供のタワゴトをへらへら聞いていると、そのガキはいつまでたってもバカなままだから、子供にも分かるよう、道理を説明する手に出ようとする。
 450円ではこれは買えないから、おうちの人にあと50円だけもらってくるか、それとも親をつれてきてくれればそれでいい。450円しかなくて一人で店に来ているなら、これを買うことはできない。
 が、そんなことをうだうだガキに説明する間にも、他にも客は来るのである。現に少年の背後には数人の客がいる。
 そしてその時、相棒スタッフは休憩中でそこにいるのは私一人。
 クソこのガキゃあぐずってりゃ通ると思ってんじゃねえ親はなに教育してんだ、と腹の中はそんなもんになっている。

 するとその少年のすぐ後ろにいた、二十代半ばくらいの、ダークブルーのスーツを着た、きっちりしてはいるが今時のサラリーマン風(つまり一昔前の働くお父さん的サラリーマンではなく、ウェーブのかかった茶髪)のお兄ちゃんが、にこやかに笑いながら、「僕が出してあげるよ」と100円をカウンターに置いた。
 偉い。
 もし、たとえ腹の中は私と大差なく、待たされるくらいなら俺が出してやったほうがマシだ、という程度だったのだとしても、不機嫌な顔一つせず、それを実行できることが偉い。
 子供好きなのかもしれないが。

 これが私の店で、私が店長なら、そのお兄ちゃんの買い物から100円引いてあげるくらいのことしてあげたいが、実際はただのバイトである。
 せいぜい「ほら、このお兄ちゃんにありがとう言いなさい」とガキを躾けつつ、可能なかぎり愛想のいい接客をするくらいしかできない。

 それはそれとして、ふと思うのが、少年は結局、使わなかった50円と、おつりの1円、品物を持っていったことになる。
 それをちゃんと親に言うのだろうか。
 足りなかったけれど、知らないお兄さんが出してくれた、と。
 私は、そのことを聞いた父親なり母親なりがカウンターに来て、「その人はどのかたです?」と問われる可能性を想定したが、そんな親は結局こなかった。
 子供はなにもいわず、おつりは自分のポケットに入れたままなのか、それともおつりを渡された親はなにも考えず、「51円あまったのね(つまり399円の買い物だったと判断)」と親切なお兄ちゃんのことなど知りもしないのか。

 子供に買い物、おつかいの真似事をさせようとする父ちゃん母ちゃんというのはそれなりにいる。
 何度も見かけている。
 よくできた親だと、すぐ後ろで見ていて、「そこに並んで。ほら、順番がきたら品物渡しなさい。お金出して。おつりと買ったものと、レシートももらって。ありがとうって言いなさい。おつりとレシートはお母さんにちょうだい。それではじめて、おつかいなのよ」とちゃんと指導する。
 本当に↑こんなふうに教えている若い母親を見た時には、ちょっと驚いたくらいだ。こういう親にしっかりと教えられた子供は、すぐに一人で買い物ができるようになるだろう。
 だが、子供がいくらのものを買ったのか、おつりは間違えてないか、割り込んだりしてないか、そのことを少しも気にかけず、ただお金だけ渡してレジ向かわせるのは、おつかいの練習、ではなく、自分が楽したい(友達と話してるとか他のコーナー見てるとか)だけの怠け親である。

 躾、という名目でむやみに厳しくしているだけの親とか。
 躾、と言いながら自分でするのが面倒だから子供にやらせているとか。
 躾、という理由で自分のストレス解消に子供を怒鳴りつけている親とか。
 精神的に余裕のある人だけが、ゆとりを持って「親」をやっているわけではないのは分かるが、ま、上記で例に出したしっかりしたママみたいな人は、めったにも見かけない。
 それと同じように、嫌な顔一つせず、笑って子供を助けてあげられるような心根の人も、めったにいないことである。
 それだけに、たまに出会うととても良い気分なり。


Made with Shibayan Diary