烏の足跡



2002年10月16日(水)

 人が必要としているのは、真理を表す言葉でもなければ正しいことでもなく、その時々の自分を慰め、あるいは奮い立たせてくれる言葉でしかない。
 けれど、それでなんとか立ち直ったり、安心したり、あるいはやる気になったりして明日がより良く過ごせるなら、それでいいんじゃないかと思う。



2002年10月17日(木)

 11日の日記に少し通じること。
 私の大好きな池波正太郎さんの、食べ物と映画に関するエッセイのようなものの中に、「なるほどなぁ」と思った言葉がいくつかある。
 その中の一つに、「たまには女房と母親を外食に連れて行き、美味いものを食わせてやる。そうしないと美味いものは作れないからだ」みたいな部分がある。
 家族サービスとかいうんじゃなく、美味いものの味を教えて、美味いものを作らせる、というところが面白い考え方だ。
 美味いものを食えば美味いものが作れるか、というと疑問だが、少なくとも、美味いものの味を知っていれば、自分の作ったものが「美味くない」ことに気付くこともあるだろう。



2002年10月18日(金)

 文庫コミックスの「死神くん」を買う。
 作者のえんどコイチ氏は、たしか週間ジャンプで「ついでにとんちんかん」というギャグを連載されていたが、月間のほうか、あるいは違うのだったか忘れたが、この「死神くん」というヒューマニスティックな話も書かれていた。
 ギャグとの落差が激しい、シリアスであたたかい話が多く、当時は驚いたことを覚えている。「同じ人がこんなに違うものをかくのか」と。

 最近のマンガ、絵はたしかに上手い人が多くなったが、こういう素朴で地味、しかし味のある短編はまるで見なくなってきた。
 派手でドラマティックでカッコイイ話、腐女子の皆さんが萌えるようなお話はそこらじゅうにあるが、絵は素朴で主人公は脇役、かつダイナミズムをありありと感じさせることはないけれど、心に残る、という名作は減ったな、と思う。
 派手で分かりやすくしているから読む人を感動させられるのであって、地味なままではきちんと伝えられる技量がない、ということなのかもしれん。

 しかしこれは、作者がどうの、というのではなく、編集者の問題だろう。
 プロというものはいい作品を次々と出しているように見えるが、実は、担当の編集者のほうに物語を作る才能がある、という一面もある。
 漫画家に必要とされるのは画力が大半で、ストーリーなんかは編集者が納得しないと通らない。結局、曲げられていく。で、それが売れてしまう。
 売れるものを、売れるものを、と流行に迎合してきた「商業」の結果が、今のコミックス世界なんだろう。
 編集者を自分の下に従えて、思う存分に「自分」を発揮している漫画家、小説家なんて、今どれくらいいるのかね……。



2002年10月19日(土)

 北朝鮮の拉致問題があれこれと騒がれている。
 そろそろ「宣戦布告」という邦画も公開される頃かと思う。これは北朝鮮の工作員が日本に上陸して〜、という話で、小泉さんの外交次第では、コラテラル・ダメージのように公開延期とかとりやめになりかねない映画だった。
 どうにも胡散臭い部分が山ほどあるが、とりあえず首相は生きているし、「拉致したよ」と認める言葉は出され、生きていた人たちは一時帰国したりして、新聞やニュースはそればかり。

 まさかだーれも考えてないのか?
 工作員に日本語を教える教師にするために拉致ったというなら……。

 そんな思いつきを、今、一本の話にしようとしてる。
 誰でも思いつくことだろう、と私は思っているんだが、ネタの話をした友人は「そんなこと考えもしなかった」と言いおるし……。
 実名使うには、私には現実に対する知識が足りないことはなはだしいので、架空の世界、架空の国を使って書く。
 いずれ、オリジナルのほうにアップしたい。



2002年10月20日(日)

 今朝の新聞で、相変わらず拉致がらみのネタ。
 小説にするまで黙っていようと思ってるから、今はまだなにも書かないが。

 まさか、誰も疑ってないわけではないだろうな?
 疑ったところで、タブーだから公共機関(新聞社とかテレビ局、政府)は言葉にしないだけで、考えてくらいいるんだろうな?
 とある可能性について……。



2002年10月21日(月)

 つい財布の中に$があると、買わなくていいものを買ってしまう。だからお金が貯まらない己。
 少しくらいは貯金というものを持っているべきなんだろうが、その必要性を骨身に染みて感じないかぎり、たぶんずーっとこのまんまなんだろう。
 しかし衝動買いに近いとはいえ、「これは良さそうだ」とアタリをつけて買ってきたものが本当に好みのものだったりすると、非常に嬉しい。
 吟味に吟味を重ねて、本当にほしいものを買う、というのが贅沢でかつ高尚な買い物の仕方なのかもしれない。
 が、そこまで吟味しないと買った後で後悔する、というのは、感受性がかなり一方方向に固定されているか、あるいは鈍いかのどちらかじゃーないのか、って気もする。

 どうしても欲しいものがあって、それが非常に高価で、でも欲しくて、目先のほしいものを我慢する、というのなら私にも分かるんだが、とにかく出し惜しみしてなかなかものを買わない人の感覚というのは、私にはちと分からんものである。
 で、そこまで吟味して買って、それに執着するあまり、他人に触らせないとかうっかり壊した時に激怒するとか、そんな狭量なとこ大暴露するのもどうだかなーと思うのである。
 本当に贅沢で高尚で優雅かつ美意識に満ちた買い物というのは、失った時の振る舞いまで含めて考えてほしいもんだね。

 いや、私がそんなふうに怒られたことはないんだが、ちと友達からそんな話聞いたものでね……。



2002年10月22日(火)

 誰かとなんでもいいから話をしようとする時、私は、つい自分のことを話してしまう傾向が強い。
 上手く聞き役に回ることができなくて、それじゃあいかんと思うんだが、話すほうになってしまったりする。

 なんの自己主張もしない、という感じで話さない人は困りものだが、楽しく会話するためには、相手も自分も均等に、話したいという気分を満足させるほうがいいと思ってる。
 だから、なんでもかんでも「俺だったら」とか「私は前に」とか、自分の話に引きずり込むような真似だけは、絶対にしたくないなー、と思う。
 思うんだがねぇ……はぅ。

 私とうまくやっていける人、というのは、大概が「聞き上手」な気がしたりもする。
 こっちの話にうまく付き合ってくれている。
 中には、「話すより聞くほうが楽しいから、どんどん話してほしい」というタイプの人もいるけれど、中には、我慢しながら付き合っている人もいるんじゃないかと思う。いや、きっといるはずだ。
 私がその人のことを好きで、だから友達でいたい、と思っているのなら、その人にそんな我慢はさせたくない。
 つくづく、もっと聞き上手になりたいなー、と思うのである……。



2002年10月23日(水)

 先日オンラインの世界である人に話したんだが、無言電話の撃退法について。
 といっても、携帯が主流になってきた今、無言電話よりスパムなんかのほうが迷惑だろうし、無言電話に困ってる人なんて今時いるのかという気もするが、まあ、笑い話だと思って読んでおくれよ。

 無言電話というのは、嫌がらせである。自腹きって金かけてまでしている嫌がらせである。
 何故そこまでしてやるのかというと、そうすることで相手が迷惑したりするのが楽しいとか、あるいはそれが狙いだからである。「そんなことしてなにが楽しいの」とか「人に迷惑かけてなにが面白いの」としか思えない人には分からないだろうが、ザマァミロとか、俺もムカついてんだからおまえもムカさけよバーカ、とか、そういうキモチなんだと思えばよろしい。
 ということは、である。
 嫌がられなければ、全く意味がないのが無言電話なのである。

 だから、「楽しんでしまえ」というのが根本的な解決になる。
 楽しむにはどうすればいいか、そこが問題だ。
 私が知っていて、実行したり、あるいは人にやらせてみたりしたのは、「相手が黙っていようと自分は喋る」ということだ。
 それも、「なんで黙ってるのよ」とか「こんなことして面白いのかよ」とか、怒ったり苛立ったり、嘆いたりしてはいけない。それが相手の狙いなんだから。
 喋る内容は、ものすごくどうでもいいことでいいのだ。
 たとえば、その日にあったこと。相手になーんの関係もなくていい。身近な人間からの電話かもしれないなら、嘘でもいい。とにかく、「あ、そうだ。おまえ丁度いいからちょっと聞いてくれよ。今日さ、Hの野郎……って、俺の担任な。あのハゲ野郎がいきなり呼び出しかけやがってよ」と愚痴に走るとか、「ねーねー、聞いてよ。今日さー、あたし彼氏いるんだけどー、その彼氏がさー、真顔でこんなこと言ってきたのー」とかノロケに走るとか、あることないことでっちあげて、親しげに話し掛けてしまうのである。
 返事なんかなくていいから、とにかく好きなだけ喋るのだ。
 やがてそんなことしている自分がバカに思えてきて、それがおかしくなることもあれば、声が笑い出す。こうなるともう、完全に相手をバカにした状態だ。
 喋るだけ喋ったら、「じゃあね」と切ってしまう。切った後には、留守電に切り替えるなり、家族と住んでいるなら別の人にとらせるなりして、出ないのもコツだ。
 次にまた出るのは、日が変わってからでいい。毎日何度もかかってくるなら、一日一回だけは、ちゃんと相手をするのである。もちろん、話すネタがいくつもあるなら、何度とったっていいんが……。

 受話器をおいてしまっている相手でないなら、相手はまずぎょっとする。バカかこいつはと思うが、自分がからかわれ、遊ばれていることにも気付く。楽しまれてしまっているのでは、嫌がらせにならない。電話代払って、相手を遊ばせているのではバカバカしい。
 あるいは気味が悪くなるだろう。
 もし相手が身近にいる人なら「こんな奴なのか」と思われることになるが、それはあくまでも「無言電話なんてバカに対応するにはバカになるしかないわさ」というだけのことだ。鼻で笑い返してやればいい。

 ちなみに、そんなにあれこれ喋れないよー、という人が大半だろう。
 そういう人は、無理に愚痴だのノロケだのを話すことはない。手近にある文章を読み上げましょう。
 新聞でもいいし、教科書でもいい。小説なんかでもいい。ある程度読んだら、「はい、今日はここでおしまい。じゃあね」と切る。またかかってきたら、「なに? そんなに続き聞きたいの? じゃあもうちょっとだけね」と続きを読む。またかかってきたら「もしかして私のファンになっちゃった? やだなぁ、もう。じゃあサービスで後少しだけネ★」とか懲りずに話す。
 しかし、たいていそこまでいく前に、合いの手ほうから不気味がって、切ってくれるのである。
 なお、小説とか物語を読むなら、小さいおこちゃまに読み聞かせているように、ナメきってバカにしきった声で読むのが効果的だ。
 相手をそこまでバカにすれば、こんなことしている自分がおかしくなってきて、笑わずに読むのが大変だろう。大変だろうが、可笑しくてたまらない、というのが伝われば、効果は倍増である。

 目には目を、歯には歯を、イヤがらせにはイヤがらせを。
 相手が鬱憤晴らすなりして「楽しもう」としてるなら、こっちはそれを逆手にとっ手笑わせてもらえばいい。
 これが、相手がこっちの反応を聞いてほくそえんでいる無言電話への、面白可笑しい対処法である。
 だし、ネタ切れになるまで粘ってやれ、とか逆に燃えられてしまうことがないとも言えないので、何度かそうして楽しんだら、あとはなんらかの根本的な対処をするのがいいことは言うまでもない。
 まあ、私の実際に立ち会ってケースでは、それっきりかかってこなくなったけれどね。

 悪戯電話の本人の心を入れ替えさせる、というほど根本的な解決にはならないが、少なくともこの「笑っちまえ」撃退法は、「こいつにかけても無駄だ」と思わせられる可能性が高く、なかなかに有効なのである。
 ……まあ、「イヤだなー」というローな気分から、ハイテンションへと自分を変化させることができなければ、使えない方法なんだが。
 それは、もし毎日かかってくるような電話なら、その時間帯に友達を呼び集めることでなんとかなるかもしれない。みんなでかわるがわる、そんないろんな話をしてやると最高である。
 だいたい、かかってきた無言電話に対して「それじゃあ今日は、赤頭巾ちゃんを読むね。むかしむかしあるところに、とても可愛い女の子がいました。女の子はいつも、真っ赤な頭巾をかぶっていたので、赤頭巾ちゃんと呼ばれていました」とか語り掛けているのを聞いていれば、なんだかバカバカしく可笑しくなりやすいものである。
 後ろで酒でも飲んでりして、完全に「肴」にしてしまえ。自分を嘲笑っているのが何人もいるのだとはっきりと分かるのは、かなりいたたまれない気分になるだろう。



2002年10月24日(木)

 さすがに……さすがに、一生懸命やっても仕事の能率が上がらないタチの人が、自分にできるかぎり頑張っているなら笑って許せるが、走ればいいものを走りもせずにタラタラとやってて遅い奴の尻拭いを、笑ってできるほど私は人間できてない。
 昨日はハリーポッターの第四巻発売ということで、どこの書店でもカウンターは忙しかったことと思うが、日常の業務だってしっかりある。
 こういう時はさすがに「あー、ここにいるのがAさんだったら、もっとさっさと片付くだろうにな」と思わずにはいられなかった。
 ズレこんで遅れた仕事は、23時だかに上がるヤツではなく、ラストまでいる人間がやるハメになる。私だけじゃなく、他のフロアのスタッフも、自分のところが片付いたら手伝いに動くのだから、全員に迷惑がかかる。

 しかしまあ、「ここにいるのがAさんだったら」と思うということは、そのAさんがいる時には自分の仕事が少ないということで、それはつまり、Aさんがその分の仕事を片付けているということ。
 仕事の能率が、とか、迷惑が、とかいうよりむしろ、「自分が楽だから」そう思うというだけなのかもしれない。
 ということは、誰と組まされても余裕だというくらい、自分の能力を上げることを考えたほうが建設的、かつ利口なのかもなぁ、とか思ってみたのであった。
 手抜きで遅いヤツというのは、「やれ」と言ったってムクれるだけで、やる気にはならんものだしね。



2002年10月25日(金)

 ここのところ創作時間が少ない。ゲームばっかりやってるのが原因である。
 ええ加減、シフトせねばならんなー、と思ってはいる。書きたい気持ちは山盛りあるんだしなぁ。



2002年10月26日(土)

 気が付けば十一月目前。
 あと一ヶ月もすれば、私が移転して一年ばかりがたつことになる。あらためて振り返ると、もう一年かい!? と驚きを禁じえない。
 楽しかったし、いろいろとやってはいたが、今一つ、無為と感じる部分がないでもない。それはたぶん、気楽に抜いている時間が多かったということだろう。
 理想の死に方が「好きなことしてて過労死」という私としては、あまり褒められない一年だったかもしれなひ……。



2002年10月27日(日)

 アフタヌーンCKで、篠房六郎という人の「短編集」と「空談師」を買った。
 絵柄に惹かれての博打買いである。
 短編集のほうから読んでみて、「うーん、ハズレかなぁ」とは思ったが、コナれてて読みやすいだけのマンガより、なにか独特の雰囲気というか気配があって、嫌いではなかった。
 読み進めていくと、前後編のやや長編、もう一冊のものの元になったという話が入っていて、これもまた、分かりやすいとか見やすいとかいうことを問題にすれば話にならないが、作者独自の世界観というか、テーマが面白く、気に入った。

 短編の「空談師」も、シリーズとして連載している同タイトル作品も、物語はオンラインゲームの内部を舞台に展開している。
 「ゲームマスター」の管理する「ボード」と呼ばれるゲーム世界の中へ、プレイヤーは自分の分身を送り込む。それはモニターの前に座って、指や手だけを動かしてのことではなく、ヴァーチャルリアリティとしてその世界に入り込む、というレベルでのゲームだ。
 だがそこの世界では「皮膚が無く 嗅覚が無く 味覚が無く 痛覚が無い」。
 ゲーム中でキャラクターが傷ついてもプレイヤーが痛みを覚えることはない。キャラクターが「死」ねばプレイヤーはログアウトするだけだが、キャラクターのレベルやステータスが下がる、ということになっている。

 そんな「ゲーム」や作品内容の説明などは、これ以上しても仕方がない。
 私はこれを読みながら、自分でもネットゲーにハマっているわけだから、何かがダブるような、それでいてどうしても感情移入はできないような、微妙な気分を味わった。
 それは、PSOという私の触れているネットゲームでは、私はあくまでもこの部屋にいて、ラグオル(舞台となる世界)にはいない、からだろう。
 プレイヤーの存在するゲーム、を描いているようではなく、なんらかのファンタジー世界のようでありながら、はっきりと打ち出されてくる「これはゲームでありリアルではない」という要素。ここに私の覚える心地良い不安感のような「揺らぎ」があるんだろう。

 PSOを題材に書いた小説の中で、唯一私が「これは誰にでも見せられる」と自信を持っている「At the end of the nightmare」は、プレイヤーが完全に、ゲーム中のキャラクターに入り込んでしまい、痛覚もなにもかも、全てリアル同然に感じることのできる「ゲーム世界」を歩くことになっている。
 これは、非現実のファンタジーだ。
 だが「空談師」の世界は、そんなヴァーチャルリアリティーを実際にゲームとして完成させた世界での話であり、まぎれもない「リアル」を舞台にしている。
 その微妙なズレ、隙間に、魅力を感じる。
 とりあえずネトゲやってる人は、読んでみると面白いかもしれないよ、空談師。



2002年10月28日(月)

 CDを買ってくる。なんだか二日連続して買い物の話をすると、ものすごい無駄遣いしているように見られそうだが、そのとおりである(自滅
 私にとってはどれほど有意義な買い物であろうと、倹約家サンたちから見れば、こんなものはバカげた浪費に過ぎないことくらい承知してるんだいてやんでぃ!!

 諏訪内晶子のアルバムが一枚と、ラフマニノフの協奏曲集。
 うーん、前者はツィゴイネルワイゼンが暗い程度だが、後者は果てしなく暗いワ★
 まあ「短調」という言葉チェックして買ってきてるんだから、それはハナから期待していたとおりで、どんよりどよどよと、雨の音もまじえてBGMにしてみますた。



2002年10月29日(火)

 ここ二日ほど、えらく寒い。
 昨日は12月上旬なみの気温だったとか。
 暑さ寒さには強いんだが、夏は蚊、冬は指先の鈍化が嫌いだ。
 指の動きが鈍るとただでさえ多い誤脱字は増えるし、スピードは落ちるし……。



2002年10月30日(水)

 ごく当たり前のことだが、自分が相手のことを友達だと思ってるからといって、相手も自分のことをそう思っているとは限らない。
 友達ヅラして寄ってこられたって本当は鬱陶しくて仕方ないのに、「うぜぇから来んな」とは言えないから、仕方なく付き合っている、というだけでしかないとか。

 知人のAくんとBくんは、見事にそんな感じ。
 AくんのほうはBくんのことを「なんでも話せる友達だ」と信頼しているようなんだが、Bくんいわく「あいつはムカつく」。
 ハタから見ていれば、実に当り障りなく、波風だけはたてずにおこう、というくらいそっけなく振る舞っているBくんなんだが、Aくん本人は気付かない。

 私にもそんな相手はいるなぁ、と思う。
 私の場合、形ばっかりのオツキアイしかしたくない相手には世話焼こうとしないんで一発で分かる、と言われたが、まさにそのとおり。
 こっちから「どうした?」と気にかけてやることなどまずないし、相談されて助言することも慰めることもない。「そりゃあ大変だね、しっかりな」となーんの解決にもならんことだけ言っている。
 逆の立場のこともあるんだろうなー、と思うと、「友達なんだから」という先入観はいったんおいといて、本当に友達だと互いに思っているのかどうか、一度じっくり見つめなおしてみたほうがいいかと思ったりした今日この頃である。



2002年10月31日(木)

 どんな文章にも、その文自体の内容以外に、もう一つの意味がある。
 それは、「それを読ませることでどうしようというのか」という書き手の意図だ。
 小説などなら、楽しませたいとか自己表現とかいうだけではなく、自分の才能を見せ付けたいとかいう重いがこもる人もいるだろうし、仲間を探そうとか、いろいろある。
 小説ではない日記なども同じだ。
 書いてある内容そのもの以上に、「そう書くことで読者にどう思われたいのか」は面白い。
 要するに「うがった読み方」というヤツだ。

 もっとも、自分の書いたものにもそれは当てはまるわけで、第三者の視点から自分の書いたものを見ると、たまに「おいおいおいおいおい」と果てしなくツッコミ入れたくなることも、あったりする己であった。


Made with Shibayan Diary