烏の足跡



2002年10月1日(火)

 現在、仕事が夕方から深夜にかけてのものであるため、私だけ家族とは食事のタイミングがズレることになっている。
 たいていは15〜17時に起き出し、そのまま仕事に行き、23〜1時頃に帰ってくることになる。なにかあれば残業して小金を稼ぐので、時には2時、3時、はては7時ということさえある。

 それはともかく、帰ってきてから「さて、ごはんだ」となる。
 夕飯の残りがテーブルに用意してあるのが常だ。
 そんなわけで、今日は天丼。
 しかし、もう見るからにサックリ感もパリッと感もない、ビニールかゴムみたいな衣。うちで揚げたのなら、油でしんなりしていることはあっても、こんなぷるるんとした妙な衣にはならない以上、何処ぞのスーパーの出来合い品だろう。
 それでも、腹は減っている。
 仕方ないので温めて、ご飯にかけて食べてみる。

 ……薬品くさい(TT

 我慢して食べてはみたが、こんなものは二口も食えば腹が膨れてきて、なにも食いたくなくなる。
 ダイエットしたいなら、まず第一には食事の量はほとんどそのままで体を動かす量を増やすのが一番だが、どうしても食事制限でやりたいなら、カロリー計算するより、自分が大っ嫌いなものとか、不味いものを選んで食べるようにしたらどうか、と思わないでもない不味さだった―――。



2002年10月2日(水)

 「リングに登録しないんですか?」という質問をたまに受ける。

 まづ、面倒(爆
 それに、私は自分がアナログ接続民であるせいで、表示されるまでに時間のかかる画像をベタベタと貼り付けるのは好きじゃないんである。そのせいで、壁紙さえ使っているところは少ない。
 つまり、リング登録したらこのバナーをトップに置いてネ、とかいうのがイヤなわけ。
 うちはイラストサイトじゃなく小説サイトだし、それなのにいくつもの画像ぶちこんで重くして表示までに時間かけさせる、なんてのは御免だ。イラストサイトなら、絵というのはそれそのものがデザインである部分も含んでいるから、レイアウトや色彩、そして肝心のイラストなんかで「きれいに見せる」ことにはものすごい意義がある。画像は文字より重いし、見る側だってある程度覚悟して見るしね。
 この巣は、必要のない画像はできるかぎり入れない、という方針(ってほど立派なモンでもないが)なんである。

 もちろん、小説サイトはデザインなんか気にしなくていい、ってことではない。
 けれど、たとえデザインは野暮ったくても(うちの「その他」の展示物一覧なんて鬼のようにシンプルだし……うっうっTT)「見やすい」「探しやすい」ことを優先したっていいと思う。
 表示は速攻でされたとしても、絵よりも時間をかけてみてもらうことになるんだし。
 変にデザインに凝って、それがちっとも洗練されてなくて(自分で言ってて痛いが)、そのうえどこになにがあるのか、どこからどう行けば目当てのものに辿り着けるのかも分からないようなページより、味も素っ気もないかわり、どれがなにかパッと見て分かる実用性重視のほうがマシじゃーなかろうか。
 と思うんで、デザインセンスがカケラもない私は、余計な画像を付け加えようなんて気にはならないのである。文字だけのバージョンでも、それをうまく設置するのが難しいんでイヤなんである。

 それから、たとえば「男塾にハマったゾ」となると、まずはそのキーワードで検索し、大手のサイトへ行き、そこのリンクを辿るなり、あるいはリングを発見するなりして、あちこち探すことになるだろう。
 リング登録しておけば、そういったかたがもっと見つけてくれるのは分かってる。分かっちゃいるし、もっと多くの人に見てもらいたい、という思いはあるが、反面、「見つけてごらん」と隅っこに隠れていたい気もするのである。
 私は、「裏路地で見つけた意外にいい店」でありたいのさ。
 リングってのが、メインストリートの地図だとすると、その地図にない脇道に入って、ちょっと人通りも少なくなったところで、「あれ、こんなとこもあるんだ」と見つけた店。有名でもなんでもないけど、「なかなかのモン置いてんじゃん」という思いがけない喜びを感じるよーなね。
 そういうポジションに位置してたいな、と酔ってんだと思ってください(阿呆だな



2002年10月3日(木)

 日記について。

 このザレゴトも半ば日記みたいなものだが、私はこれは「取るに足りないようなどうでもいい小ネタ話」か、「読み物(エッセイ)として読めるもの」「笑い話」、さもなきゃ「なんらかの役に立ててもらえるようなこと」を書こう、と決めている。
 書いてあるのは私の私見、勝手な意見でも、そこから「私はどうだろうな」と考えてもらえたらいいな、と思ってるし、そう思ってもらえるように公正な立場で書こうと意識している。「なるほど、こういうことか」と納得してもらうだけじゃなく、むしろ、「私の場合はこうだな」とか「俺はこうだったぞ」とか、とにかくなにか、読んだ人に「得るものがあった」と思ってもらえるようなことを、書きたいと。
 それに到らない、個人の負の感情の吐露や咆哮でしか過ぎないものは、書きたくない。
 もちろん、我知らずそういったものになってしまっていることもあるだろうが、少なくとも私の意識の上では、「こうありたい」と望んでいる。
 それが私の、このザレゴトに対する姿勢だ。

 管理人の日記があるサイトは、少なくない。
 私もいくつかのサイトの日記を読ませてもらっている。
 それは単純に、その管理人さんに興味があってのことか、あるいはなにか、私にとって得るものがある、と思えるからだ。
 だが、「今日はここに行った、あんなことした」という程度の、本当にただの日記になると、管理人さんと友達になりたい、とか、友達なんだ、というのでないと、楽しめはしない。
 もっときっぱり言うと、私の好きな人のことなら、「今日はあの人なにしてたのかな〜。元気かな〜」とか気になるから、日記という形で教えてくれるというなら、ぜひ教えてもらおう、という気にもなるが、好きでもない他人の私生活覗き見て楽しいとは思えんのである。

 なんにせよ、「日記」という体裁をとった読み物にもいろいろあるのは確かだ。
 日記兼更新履歴、というようなところもあるし、本当にただの日記で、読み物にもなっておらず、「これを読んでどうしろってんだ?」というようなものもある(注:そういう「日記」らしい日記は、その管理人さんを好きな人にとれば、面白い読み物だ
 中に、頻繁に世間や周囲への文句を書き付けたものもある。
 もちろん、どんなものを書こうとアップしようと管理人の勝手だし、それを楽しんでいる人もいるが、私は好きじゃない。
 読んだ人が、なにかを考える以前に不愉快になったり不安になったりするようなものは、たとえなにかの批評や提案という形をとっていても、結局は本人の感情の爆発でしかない気がする。

 それが悪いとは言わない。そんなことを言う権利など私にはない。
 そういう自己表現なんだろうし、私好みではないだけで、それを面白いと思う人もいるし、私にどう見えようと、本人にとっては心底べつの「つもり」があるのかもしれない。
 なにより、人の好みはそれぞれで、そういうものを「バカじゃんこいつ」と楽しむ人もいれば、真っ向から受け止めて「うんうん」と頷ける人もいる。私のこのザレゴトのような、やたら説教くさいというか押し付けがましいというか、「べつにそんなこと知りたくもねーよ」なことを延々と書いたものは、見ていてムカつく、という人だって当然いるだろう。
 だから私にできるのは、「あ、ここの日記は私には合わない」と判断する程度のことだけだ。
 そして、私はどうするか、をあらためて確認するだけ。

 「誰かが不安になろうと不愉快になろうと知ったことか」という態度では、アップしない。
 思いがけず人を傷つけてしまったり、不愉快にさせてしまうことがあるのは仕方ないが、少なくとも、「そうならないよな」と思えるもの、あるいは、いくらかは不安や不愉快といったものに通じるだろうが、それでも正面から問い掛けてみたいんだ、と思うことしか出さない。
 それは私に毒がないというのではないし、私が結構な人間だってんじゃない。
 ネットの海を毒の出しどころにはしない、というだけのことだ。毒を吐くなら、上手く飲めばその人の体の中で薬にしてもらえるものだと信じられるものだけにする。

 自分のサイト、作品、作品外の読み物、それをどう扱うか。
 私は、こんなふうに意識的に自分を枠にはめていかないと、もともとがグータラでいい加減で「ついノリと勢いで」阿呆なことするタチだから、なにをしでかすか分からん。それで後になって責められるのは嫌だし、せっかくの友達なくすの嫌だから、こうしてる。
 もっと自然に人の心に優しい温和な人だったら、こんなこといちいち考えもせず、極当たり前に優しく温かい雰囲気のサイトを作ってるだろう。
 デザインはシャープでビビッドなのに、BBSの雰囲気やコメント、ちょっとした日記みたいなものがとても穏やかで優しいため、ものすごく居心地のいい空間のサイトさんもいくつか知っている。
 ま、サイトをよくよく味わってみれば、管理人の人となりってほとんど分かる気がするよね、実際……。

 おーコワ(汗



2002年10月4日(金)

 なんだか真面目なことというか、かたい話題が続いているこのザレゴト。
 今回も真面目だヨ。

 私が今何歳か、についてはサイト上では公開しない方針だが、言動からある程度の推察はできると思う。なんにせよ、「壮年」と呼ばれる年ではないし、「少年」に入るほど幼くもない。
 少し前のザレゴトに書いているが、90歳になったって「出来た人間」にはまだまだ到らないとすれば、私が言ってることなんてどれほど上っ面のことかもしれない。
 「ガキのタワゴトに価値なんかない」と言うことさえできるくらい軽いものかもしれないのだが、私はそうは思わない。

 「これが世の中の真理だ!!」などと言うとなればともかく、私のあれこれ考えてることや決めてること、こうでないかなと思ってることは、全て「今の」「私が」そうだと思うこと、だ。
 これから先、なにかあれば変わるかもしれないし、真実かどうか分からない(こうだろう、と解釈しただけで実は違うかもしれない)し、人によっては全然違うことを実感していたりもするだろう。

 「これはこうだ」と言いきれば、若造の(というか人間の、か?)断言にはなんの重みもないかもしれないが、「これはこう思う」と言えば、「今のその人にとってはそうなんだ」という重みが、ちゃんとそこにある。
 10歳で、20歳で、30歳で、40歳で、一人の人であっても考えることも思うことも、感じることも変わるとしても、だから当然、他の人ともなればまったく違う意見や主張を持つこともあるとしても、「その時々の自分」として、その時々に信じたなにかに従って生きていれば(大袈裟な)、それでいいよな別に、と。
 「あー、あの頃はそんなふうに考えてたんだよなぁ。今思うとバカだけど、それはそれで一生懸命だったよなぁ」と、なにか納得するものとして思い返すことができれば、上々。
 いくら年くったってなにをどれだけ経験してきたって「これはこうだ」と断言することに比べれば、「私はこう思う」というほうが、ある意味、正しくものを見ていることにもなりかねない。

 ……分かりづらいって?(汗
 まーね、あるかたから「90歳になるまで一心に生きても完成しないのが人間なら、たかだか20歳程度の私の思うことや考えることなんて、全部間違いで意味もないことになりそうで、怖い」とメールをいただきまして。
 私は「そりゃ違うんじゃないかな」と思ったわけで。
 そこからつらつらと考えて出てきたのが、今回のザレゴトです。

 なんらかの絶対的存在に対する信仰をもたない以上、その人には「真実に正しいこと」は存在しない。いわばなにもかもが「間違いかもしれない」。
 その、「間違いばっかり」の人間がどう生きるべきか、について考える時、たとえば「神様の教えに従いましょうね」と宗教が生まれたり信仰心が生じたりもするわけでしょう、たぶん。
 でも、じゃあ間違ってたら意味もないのか、というと、それは違うと思うのである。
 間違いたくない、と思えば神なるものにすがるしかなく、来世がどうのとか最後の審判でどうのという話にもなってくるが、間違っているなりにその時々に精一杯、自分にとっての正しいことを探してみる、とすれば、まだ神様は必要ない。
 だいたい、「神」という「真実なるもの」を信じることさえ、間違いだらけで正しいことなんか一つも知らない人間のしてることなんだから、矛盾してるよね。「神」と信じたそれが真実に神なのかどうかなんて、やっぱり分からないことなのに。やっぱり人間のしてることだから間違ってる(神でないものを神と思い込んでる)かもしれないのに。

 うぉう、なんか違う方向に話が。
 宗教関係は迂闊に触れると怖いんで、この辺でとっとと逃げ出しマス。

 まあ、私は、「他の人から見たら、あるいは未来の自分から見たらオバカなことになるのかもしれないけど、今この時に、『きっとこうだろうな』と思ったり考えたりして頑張ってみる、そのこと自体がけっこう大したことだよな」と思うわけですよ。
 それに、年とればそれだけ「正しいこと」に近づいたとも言えない。
 逆に遠ざかってることだってある。
 だから、「その時々の自分が一生懸命に考えたこと、やったこと」や「閃き」には、ちゃんと価値も意味もあると、私は信じます、はい。



2002年10月5日(土)

 コンビニにもいろいろあるが、私は、馴染んだだけなのかもしれないが、セブンイレブンが一番好きだ。弁当の味なんかも、好みに近い。
 大学時代からしばらく暮らしていたところは、大学まで歩いて5分足らずのところだったから、無論ながらその立地条件を見逃すはずもなく、コンビニがあった。
 セブン、ローソンがすぐ傍にあり、少し行けばホットスパー。やがてローソンが潰れて、ミニストップができた(場所は違う。なんとセブンの正面)。
 バイトに出かける道中にはセイコーマートもあったし、サンクスもファミリーマートもあった。

 一時期大ハマりしていたのが、ファミマに売ってた「桜マン」。これと「桜緑茶」という、頭悪いくらいに春っぽいものばかりオヤツにしてたこともある。
 サラダは、ドレッシング別売りのセブン。うちで食べるためなら、サラダだけ買って帰って、うちにあるドレッシングを使えばいい、というのもグゥだし、鮮度も良かった。
 セブンはパスタ系もなかなか。弁当の米もマトモ。
 どこのとは言わないが、不味くてたまらんご飯もあったしなぁ。

 現在は、うちから一番近いし、バイト先からも近いということで、ファミマを利用することが多い。だが、ローソンもなくてはならない。なにせ、ウェブマネーカード売ってる店が近くにないもんだから(死
 ロッピー使うためだけに月に一度とか足を運んださ。
 それが、とうとう潰れてしまった。
 もう一軒、離れたところにあるのは知っているが、面倒になったもんだ。



2002年10月6日(日)

 本にもいろいろあるが、中に「これで分かる○○」とかいうものも多い。
 これが純粋に技術的なことを解説しているなら、それは「丁寧に分かりやすく書いてあるかどうか」だけだからいいが、「商売繁盛の秘訣」とか「成功術」とかになると、読み手の意識が問題になってくる。

 「これで私は成功した」とかいう本があって、「じゃあ私もそれを読んで実践してみよう」と思ったって、成功の秘訣はそれぞれで、真似をすればうまくいくとはかぎらない。
 そのことをちゃんと分かっていて読むなら、それはあくまでも「一つのケースとして学べることがないか」というスタンスだから有益だ。
 けれどそこに書いてあったことを鵜呑みにして真似をするだけでは、まずなんにもならない。というか、そんな本に書いてあることをそのまま真似してみればいいかも、とか考えることそのものをやめることが肝心じゃないか、とツッコミたくなる。
 それぞれの人に、その人にあったやり方というものがある。そんなことは言うまでもない。強気の人もいれば弱気の人もいて、弁舌巧みな人もいれば、口下手な人もいる。得意なことだって違うだろう。

 ……とまあ、見かけや喋り方からして物静かなサラリーマンが、あまり彼に似合わないタイトルのそういった本を買っていくのを見て、ふと思ったことである。
 得意でない技能を要される職業についていて苦労しているのかもしれない。しかし仕事をかわるというのは、この不況の中、難しいものがあるし、いろいろと事情もあるだろう。
 その中にも、彼には彼にあったやり方があって、それを見つけていくことで少しは楽になったり成績が良くなったりするんでないかなー、と思うわけである。
 彼がなんのつもりで本を買っていったのかによっては、読む前より読んだ後のほうが、困ったことになりそうだ。
 まあ、赤の他人のことなのでどうでもいいんだけれどね。



2002年10月7日(月)

 えらい雨に降られた。
 仕事を終えて店を出た時には小雨だったものが、十歩もいかないうちにものすごい雨に。
 引き返して傘を借りれば良かったんだろうが「どうせ帰るだけだ」とそのままてくてくと歩き出したら、瞬く間にずぶ濡れ。
 もういいや、とてくてく歩いていたら、通り過ぎようとした車が止まり、見知らぬ女の子が三人。「乗ってきますかー?」と言う。
 それが純然たる好意のたまものにせよ、なにか考えるところがあるにせよ、こんなのを乗せたらシートは水浸しである。
 それを理由に丁重に断ったが、いったいどういうつもりだったのかが非常に気になる……。



2002年10月8日(火)

 ネットゲーでオンライン生活が本格化した途端、他のことが一切後回しになっている。
 その上、仕事がちと立てこんで自由時間がそれほどないに加え、小説なんかをごっそりと買い込んでしまったものだから、このザレゴトも滞り気味である。
 書きたい話が実はけっこうあったりするし、明日、明後日くらいはゲームはしないで、そっちを書こうかと思っている。
 PSOのシリアス四本にオリジナルにある「SLEEPING WOLF」の続き、それから塾ものの「BEAST TALE」……。

 私にとってなにか話を書くことは、食うことや寝ることより上位にくるほど自然なことなんだが、それを放り出してまでついゲーム、というのは、実はかなり珍しいことだったりする。
 冷静に、なにが楽しくてそうも繰り返しやってるのか、と考えると、たぶん「楽に進めるようになっていく」という成長と、「目新しいアイテム入手」なんだろうなと思う。
 どちらも「変化」だ。

 一方、オンラインには「コミュニケーション」という、決して一定することのない変化の連続があるが、この「変化」はまるで予測がつかないだけに、歓迎できる時とできない時がある。
 オフラインの「自分一人のゲーム世界」という分かりきった世界に比べて、そこが面白くもあり、また煩わしくもあり。
 その煩わしさをうまくさばけない人には、この妙味は楽しめない、とも言えるが。

 ちなみにここ数日で読んだ本↓
・藤本ひとみ 「鑑定医・シャルル」シリーズ三冊
・神林長平 「ライトジーンの遺産」上下
・京極夏彦 「どすこい(安)」
 とりあえず、私にとっては「ハズレ」はなかった。「うおおおおお」と面白いのもなかったけど。



2002年10月9日(水)

 とかなんとか前日に書きつつ、さっそく居眠り狼さんの続きをアップ。

 この話の舞台は、私がはるか10年近くも昔に手をつけ、書き始めたファンタジー小説と同じである。
 同じ世界を舞台にした、違う時代の物語なのだ。
 だから私の頭の中には、「現在」の地図のみならず、過去の地図、過去の国まであるし、ちらりと出てくる「ラフィーラス」とかいう神様は、ずっと昔の世界でだって登場する。

 この世界を舞台にした物語は、オリジナルとも言える最初の一本の他、このSLEEPING WOLFの他にもう一本あったりする。
 もしかすると、SWの連載が一区切りつくか終わるかしたら、そっちもリライトしてアップするかもしれない。



2002年10月10日(木)

 「あの人苦手だな」とか「好きじゃないんだよね」と言うなら、私はなにも言わない。誰にだってそういう人はいるだろうし、いて当たり前、いないという人のほうが私には信じられない。
 だが、たとえ腹の中の本音であろうと、「あの人嫌いだ」と言う人には、にっこり笑ってさらりと言ってあげることにしている。「うん、たぶん相手も同じこと思ってるよ」と。

 「嫌いだ」という言葉には、卑下のニュアンスがある。「あいつには悪いところがある、だから嫌いだ」というように、なにか相手を責めて嘲っている気配が漂う。「嫌いだ」と言っても(言われても)当然の奴だ、という雰囲気がある。
 そんな言葉を口にできるほど、本人は大した人物なんだろうか?
 そんなことを平然と口にする人間が、大した人物であるとは、私にはとうてい思えないけどさ。



2002年10月11日(金)

 小説の書き方もどき。

 小説家というのは、料理人と同じだと思う。
 つまり、素材なんてものはいくらでも転がっていて、簡単に手に入れられる。
 だが良い料理人は、素材を選ぶ目を持っている。そしてなにより、その素材から美味しい料理を作る。
 小説も同じで、題材やテーマ、ネタなんかはいくらでも落ちてる。誰にでも拾える。最も肝心なこと、つまり、書いた小説が面白いかどうか、ということは、「その素材をどう扱うか」という料理の腕前にかかっている。
 その腕次第では、ありきたりな、誰もがスーパーで手に入れられる程度の食材を使ってでさえ、信じられないほど美味な料理を作れるのである。

 その腕をどうやって磨くか、となると、人それぞれに適した磨き方があるが、一つだけ確実に言えるとしたら、「繰り返し何度も挑戦しないといけない」ということかもしれない。
 要するに、上手い下手なんかどうでもいいから、とにかくいろんな話を書きつづけること、だ。
 それと同時に、自分が「上手いなぁ」と感じる本をたくさん読み、できうるなら、それのどこがどう上手いのか、どうなっているからいいと思ったのかを分析すること。
 たとえば、あそこでの伏線がここで実を結んだのか、とか、この一言で周囲の情景が想像できる、とか、自分なりに「上手い」と思った理由について検討してみることだ。
 繰り返しやればいい、といったって、なんにも考えないまま、ただ卵を一つ割ってかき混ぜて、フライパンに流して焼きつつたたむ、というだけでは、いつもまったく同じ卵焼きにしかならない。せいぜいで焦がさないための火加減一つ覚える程度で、それ以上の進歩はない。
 胡椒がきいているのかな、とか、チーズが入っているんだな、とか、ソースが違うんだな、とか、半熟くらいでたたんだほうがいいみたいだな、とか、美味い料理を食って、それを自分なりに研究してみて実験する、というのと同じだ。ただ漫然と「美味い美味い」と食ってるだけじゃなんにもならないし、より美味いものの味も知らず、自分の作ってるもので満足してても意味がない。

 自分が「いい」と思った作品を手本にすればいいと思う。もしそれが誰か一人のものだと、その人のコピーと化していく可能性が高いが、何人もの作家の何冊もの本の中に、いいと思う個所を見つけて研究していけば、「こんなところをいいと感じる」という本人の感性に従った、一つのスタイルになっていくだろう。



2002年10月12日(土)

 昨日分と少し重なるけれど、ファミ通で連載している、柴田亜美さんの「どきばぐ」に、昔、セガ・ソニックチームチの中ユウジ(名前の漢字うろ覚えなので……)さんだったか、それとも他の誰だったか忘れたが、インタビューした時のことが描かれていた。
 そのかたの言葉として、「面白いゲームをやると、そのゲームを純粋に楽しむよりむしろ、『この面白さはどこからくるのか、何故なのか』と考えてしまう」というようなことが書いてあった。
 面白い、と思ったものに出会った時、その面白さの成り立ちや原因を追究する、ということ。そしてそれを自分なりに発見、解釈し、自分のものとすること。それは上っ面の題材なんかではなく、それを組み立てる腕前をサポートする知識となる。

 巷には「RPGつくーる」というゲームソフトがあって、私はそれがけっこう好きだったりする。PSで出たものは、できることが多すぎてかえって動かしづらく、途中で放棄しているんだが、ゲームボーイ版では、「あとは調整」というところまでなんとか作ってみたりした。
 自分でイベントを考え、組み立て、設置していくことで、当たり前にこなしていたRPGのイベントの仕組み……つまり、「あ、ここでアイテムAを手に入れたことでスイッチが入って、ここの台詞が変化したんだな」とかいうことが見えるようになり、市販のRPGから見てとれるものが増えた。
 逆に、自分がいざ作るという時になると、「どうすれば面白いと思ってもらえるか」を考えざるをえず、イベントの配置、起こすまでの手間、ただのおつかい(あっちいってこれとって、こっちの人に渡して……と指示どおりに動くだけのことを「おつかい」という)になってないかどうか、ただのおつかいに過ぎないものをそう感じさせないためにはどうすればいいのか、市販のゲームでは、どうすることによっておつかいを誤魔化しているのか、そんなことにも考えがいくようになった。

 敵のパラメーター設定とか、主人公たちの成長設定、エフェクト選択など、作業的な部分になるとこれは根気との勝負だが、「イベントをつなげて物語にする」という一事に関しては、小説にも応用できるいろんな発見が詰まっていて、面白かったのである。
 GB版は、容量の問題で「型」があらかじめ設定されている部分も多く、自由度は少ないが、その分だけ、イベントの配置、設定に専念できて良かったともいえる。
 グラフィックも、ハナからGBだと思ってるからそんなに精巧なものは期待しないし。むしろPS版のつくーる4で、半端にきれいだけれど自然じゃないドット絵なんかをおいているときのほうが、ちゃちな気がしたくらいだ。

 なにが言いたいのかというと、……発見はどこにでもあるんだよ、ということ……?(ぉぃ
 私にはけっこういろいろと見せてくれたソフトだったなぁ、ということで、べつに「やってみたら?」というわけでもなく。
 あとはまあ、GBアドバンスでまた「RPGつくーる」出るらしいから、出たら買うぞ、というだけです、はい。



2002年10月13日(日)

 相手に対する好悪感に左右されるのが人間てぇものである。
 気に入っている相手のことなら、欠点には目をつぶって「まあいいか」と寛大に許すし、美点には無論のこと、ちゃんと気付く。仕事の同僚となると、失敗を許すのはもちろんとして、その人が行っていることを見て「ちゃんとやっている」と評価する。
 逆に気に入らない相手のことだと、いいところがあってもそんなものは嫌なところで帳消しで、欠点ばかりが目につく。仕事仲間だと、ちゃんとやっている部分は目にも入らずに、やっていないことばかりが見えてきて、それをとりあげて文句をつけるようになる。

 まあ……現在の職場でも、なんだかそんなところはある。
 あからさまに逆贔屓されている憐れな人なんかは、他の人だと絶対に言われないことばかり言われている。
 その人にはそう言われても仕方のない部分もある、というのが事実だとしても、あまりにもお手軽に嫌悪しているのを見ると、「なんだか頭悪いなぁ」と思わずにはいられない。嫌いになるのも気に入らないのも、それは極自然にあることだからいいが、小学生のイジメじゃないんだから……。
 幸いなのは、本人に「大多数から嫌われている」という自覚がなく、「自分一人だけこんな扱いだ」ということに気付いてないところだろうけどさ。



2002年10月14日(月)

 医者へ行けと言われそうだが、花粉症なんかとは別に、恒常的に目が痒い。
 薬として、というより清涼剤として、目薬は常に手放せない。愛用はロートのZ:である(←そんなことはどうでもいい
 一日のうちに一度も目薬を使わない日、というのはあまりない。
 どうしようもなく痒い時なんかは、どうやら目の内側(鼻寄りのほう、という意味)の筋肉部分が少し腫れているらしい。
 埃とか、なんらかの物質に対する一種のアレルギーかねぇ……。

 ところで、目薬の中には鼻を通って口に味が降りてくるものってあるよネ?



2002年10月15日(火)

 ふと思ったこと。
 ただし、えらく大きなことなんで、あくまでもどこまでも、「ふと思った」にすぎないんだと前もって牽制しておいて。

 世の中にはいろんな人がいて、自分にとって好ましい性格の人もいれば、どうにもムカつく人もいる。
 なんでこんな態度とるんだろう、とか不愉快な思いをしたりすることも少なくない。
 「なんで」、という問い。
 「その人が少しでも心地良く生きるために必要だから」、が答えじゃないかな、と思った。

 偉そうにしてることも、傲慢な素振りも、無神経さも、その人が生まれて育っていく中で、そうしなければうまく進めないことが多かったから、そんな性格になったのかもしれない。
 逆に、謙虚な人、弱い人、素直な人、損な役回りばっかり押し付けられる人。そういっ他人たちも、その人たち自身がうまく生きていくために、そうなっていったのかもしれない。

 ここからは少し物語的な発想だが、たとえば人に対して横柄で、尊大で傲慢な態度をとる人は、そうやって自分の「強さ」をアピールせずには、実は自分に自信が持てない弱虫なのかもしれない。
 そんな弱虫くんがナメられずに生きていくために、たとえば暴力をふるうことを覚えてみたり、謙虚な振舞を軽んじたりしているのかもしれない。
 それとは逆に、いつもにこにこして、人から笑われても、それを自分も気軽に笑い飛ばせるような人は、もしかすると必死でそんな自分を演じているのかもしれないが、もしかすると自分にしっかりとした自信があるから、他人の評価なんか気にせずにいられるのかもしれない。

 表面に出て見える言動の「裏」をこうして想像すると、私の頭の中はとても楽しいワンダーランド★(←あぶないぞ己
 強面の、まるでヤクザか、というおっちゃんが、実はものすごく気弱で、うちに帰ると奥さんの尻に敷かれっぱなしで、毎日胃痛に悩まされていて、昔はいじめられっ子で、当時の同級生からは今でもバカにされていて、だから、そんな自分を知らない場所、知らない相手に、その強面の外見を利用して偉そうに振舞い、ストレスを発散しているだけかもしれない。それが今のところうまくいっていて調子に乗っているだけで、だから「実は弱虫」に見えないだけで、もしこっちが「ンだてめえ?」とか言い返して胸倉とか掴んだら、真っ青になって泣き出しちゃったりしてネ♪


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